Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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慣れと成長
やることがたくさんあって疲れることとか、嫌気が差す人は結構いると思うのだけれど、こういった「大変さ」というのは常に相対的なものだ。実のところ、絶対的に大変なことというのははそう多くはない。例えば、今の僕の生活は相応に予定が詰まっていて、ここ2ヶ月くらい一日も休日がないのだけれど(仕事と執筆とNPOを合わせたらコンスタントに週に100時間以上は働いている)、多分アメリカの大統領とかが僕の代わりをしたら退屈するくらい楽だろうと思う。

何が「大変さ」を感じさせるかというと、それは現在の経験が習慣から外れているかどうかによる。自分の習慣の外にあるものを人は辛いと思うし、その中にあるものは大してつらいとは思わない。他の見方をすると、こういった「慣れ」の範囲を拡げることが、人の成長と言えるのだろう。

慣れの幅は、意外と簡単に広がる。ドストエフスキーは、自身の収容所での体験を語った「死の家の記録」で人は何にでも慣れる存在だと喝破した。収容所の生活でも、戦場での生活でも、なんでも、個人差はあるがすぐに慣れる。

何かに慣れると、今まで大変だと思っていたことがそうでもなくなって、息継ぎができるようになる。そのタイミングでまた自分の慣れの外に身を置くように何か新しいことを始めて、またその状況にも慣れるように取り組む。

千日回峰行という、往復48kmの山を1000回連続で上り下りする修行がある。一度でも失敗したら自殺しなければいけない、大変な修行だ。これをやり遂げた塩沼亮潤大阿闍梨は、苦しい時には「これが自分にとっての日常なのだ」と自分に言い聞かせていたという。これは個人的にはとても納得のいく説明だ。辛いことを日常と思うというのは、すなわち、現在の経験を「慣れ」の枠内に入れてしまうことを意味するから。


このように書いてみても、これがどれくらい伝わるかは分からない。最近つくづく思うのだけれど、人が生きていく上で一番大切な知恵は体験を通じて身に付けるものであって、その体験は意識的に色々なものにチャレンジをしていかないとなかなか巡り合えない。このことを痛感したのは二年前に200kmを走ったときで、あの時の気分はやってみないと多分伝わらないんだと思う。アホみたいに仕事をしたり、全く走ったこともないような距離を走ってみたりしてこそ見えるもの、分かることっていうのは、確かに存在するのだろう。そうして僕達が経験したことをベースにした知恵が、世の中を大なり小なり変えていくのだと思う。




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誓いをたてることの意義
少し前から、年末年始にかけてその年の振り返りと新年の抱負を、色々な人に送ることにしている。

1年365日に特別の優劣はないはずなのだが、めぐる季節に基づいた人々の生活・慣習のリズムはずっと存在しているわけだし、1年を周期として物事を考えることに一定の意味合いはあるのだと思う。そして、時間軸が長いことに関する思考は忙しい時期にはしにくいので、1年のうちで最もゆったりと過ごせる年末年始に計画を立てることにも、一定の合理性を認めることは可能だろう。

さて、上述の理由から年初に計画を立てたとして、それを人前で宣言することに意味があるのか、より具体的に言えば、そのような「誓いをたてること」に何か肯定的な側面があるのか、ということを考えたい。

誓いを口にすることに否定的な意見もある。ある研究によると、目指していることを口に出すと、脳があたかもそれを達成したかのように感じ、その実現のための努力が減ってしまうということがあるらしい(参考:Wang & Aamodt, “Welcome to Your Brain”)。また、誓約をたてることで、何らかの柔軟性が失われ、結果として非効率的になってしまう可能性も否定できない。


しかし、個人的には何かを人前で宣言することにはメリットがあると思う。

上杉鷹山は米沢藩の藩主になる前に神前で誓約をしたし、ガンジーも誓いを立てることの価値を認めている。常人よりも強靭な精神力を持つと考えられる彼らが誓いを立てた理由は、人間の弱さ、自分の弱さを認めているからだ。だからこそ、敢えて自分が逃れようのない状況を作り、自身を目的成就に駆り立てる。お世話になっている人や仲の良い友人たちに目標を宣言することで、自分自身を律することができるようになる。もちろん、超人的な精神力を持っている人だったら、そういう誓約すら不要かもしれないが、僕も含めて多くの人はそうではないだろう。

次に、誓いによって柔軟性が低下するという意見について。これについても、認識において仮説が果たす役割について考えることで、誓約することの価値を認めることはできるのではないだろうか。誓約とは、一種の仮説であると考えることができる。具体的にいうと、「誓約している事項が正しいものである」という仮説だ。僕の2012年目標の例でいうと、「Googleの選んだ名著100冊を読むことは、他の時間の使い方と比較しても良いことだ」と僕は考えているわけだ。

仮説の効能のひとつは、それを持つことで、大量の情報を、優先順位づけをして取得できるようになることだ。特に仮説も持たずにただただ日々を流れるままにしていることと、何らかの仮説を持って日々を過ごすのでは、気付きの量が違う。場合によっては仮説(すなわち、誓約事項)は棄却されてもよい、すなわち、「やってみたけど、意味が無いことがわかった」となってもよい。だけど、それがそもそも無いことと有ることの間には、雲泥の差が生じる。


そういったことを鑑みると、やはり僕は何らかの誓いを人前でたてることに一定の意義を認めているし、それを続けている。多くの人にも試し てみてほしいと思う。
エゴからの解放について1
前のブログでも書いたのだけれど、自分可愛らしさとか、自己顕示欲とか、エゴとかから抜けられると、本当に楽になるし、良いことがたくさんある。

一つ目は、何を言われてもあまり気にならなくなることだ。謂れのない非難を受けても、別にダメージを受けない。というのも、目指すべきものが自己のエゴの防衛でなく、何か他の目的達成(例えば機会の平等の実現とか)であれば、別に非難を受けても、それはどうでもよいものだから。

更に良いことがある(それが最近気づいたこと)。エゴや自己顕示欲から解放されると、侮辱が気にならないだけでなく、物事がより透き通って見えるようになる。なぜなら、世の中をありのままに見られるようになって、自分の都合のよいように解釈しなくなるから。特に「嬉しそうだな」、「意地になってるのかな」、「自信ないのかな」と、人の心の機微を察する力が増す。外れる場合もあるだろうけど、観察眼が曇りにくい分、正解率も高まる。逆は逆で、これも最近気づいたのだけれど、エゴや自己顕示欲の強い人ほど、相手の言うことを曲解して、言っていないことを相手の主張と受け止めやすくなるのかもしれない(もちろん、純粋に忙しくてきちんと読んでいないということもあるのだろうけれど)

あ、そうか。あの人が言ってたのはこういうことだったんだ。彼女は、人間はそういったエゴから抜け出すことができたら、「楽しい学習の道が始まる」と話していた。それを聞いた時は「はて、楽しい学習の道って何のことだろう」と思っていたのだけれど、それはこういうことだったんだと思う。わだかまりなく物事を見ることができて、人の意見に先入観なく耳を傾けられるようになると、学習のスピードは一気に高まる。


ここまで来ると、次のように言えるのかもしれない。

学習や何らかの発見は、クールな知能だけではなく、わだかまりのない心の産物でもあると。アインシュタインはこう言ったことが、やけにより強いリアルさをもつ。

「人間が、他社の考えや経験に刺激を受けずに出来ることは、たとえそれが最高のものであってもつまらなく短調になる」

西郷隆盛が「総じて、人は己に克つをもって成り、自らを愛するをもって敗る」というのは本当にそうだと思う。常に謙虚・素直を心に叩きこんで、エゴから離れること。そうして得られる心の平静と、間違いのない判断、他者理解と思いやりは、人生を多分もっと素晴らしいものにしてくれる。

(エゴから解放されないままビジネスや政治をすることがなぜいけないのか、相手がエゴや自己顕示欲の固まりだったらどうすればよいか、という点に関する考察はまたいつか)

裸になれること
西水美恵子さんが、ちょっと前に「リーダーは裸になれないといけない」と話していた。最近になって、この意味がもう少し深く汲み取れるようになった気がする。

ここでいう「裸になる」というのは相手が自分のことをどう見ているのか気にせず、自分がコンプレックスを感じていることも含めて、ありのままをさらけだすことなのだろう。人間は生まれた時点では裸で、服を着るのは相手の目を意識してのことだろうから。


でも、この境地に至るのはなかなか難しい。

自分の例をあげよう。僕は今のオフィスが皇居に近いこともあって、よく夜に職場から皇居に走りにいくのだけれど、そこでついつい周りの人と張りあって飛ばしてしまう。ここでよく考えるべきだ。僕はなぜ誰かが隣に走っていたら、いつも以上のパフォーマンスを出せて、誰も周りにいなかったら、もっとゆっくり走ってしまうのだろう。横に誰かが走っているからスピードを出せるのは、誰かが先を走っているから、もしくは誰かが見ているからではないだろうか。そういうことで考えると、マラソンで誰かの声援があるエリアでは早く走れるのにも何か共通の根があるような気がする。

少なくない人は、「自分が誰であるか」以上に、「自分が他人からどのように見られているか」を気にしてしまう。このことにはいくつかの弊害があるように思える。

まず、そういう人の成長には限界がある。周りに誰かがいたら頑張れるけれど、一人になったらそうなれないのかもしれない。先を走る人がいたらそれに追いつくために頑張れるけれど、全員を追い越したらそこで成長がストップしてしまうかもしれない。

そして、もっと重たい弊害は、人の心を動かしにくくなることにあるのではないか。他人の目を気にするナルシズムやコンプレックスは、多くの人、特に部下や同僚には多分簡単に見破られてしまう。自己陶酔や見え透いたコンプレックス隠しは見ていてもあまり気持ちのよいものではないし、そういう性質がある人は、他人の心を根底から動かすことは難しいかもしれない。冒頭の話に戻ると、だから西水さんは「リーダーは裸になれないといけない」と言ったのではないだろうか。


人間は、自分が他人からどのように見られているのかを気にしなくなってはじめて、「自分との闘い」を本格的に始められるのかもしれない。自分との闘いは、自分の価値観や目標にしたがって自分自身を律することができるかどうかの闘いだと思う。そして、この闘いでは、他人からの評価を気にする人が自分を駆り立てるエネルギー源として用いる「他人からのプレッシャー」を放棄しないといけない。自分との闘いにおいてエネルギー源となるのは志や想いだろう。

普段から、人前で宣言することによって僕は自分自身を追い込んで努力をしてきた。こういった「ピア・プレッシャー」を利用した努力があったお蔭で今の僕がいるのは事実だけれど、いつかこれも乗り越えなければいけないのだと思う。


自分かわいさを乗り越えて
自分の頭でとことん考えること、それでいて、自説に固執せず相手の言うことが正しいと思ったらそれを謙虚に受け入れることは、意外と難しい。

まず、自分の頭でとことん考えること、というのが出来そうでいて、簡単ではない。メディアや、権威を持った誰かの言うことを鵜呑みにせずに、ちゃんと自分の頭で考え続けられているのか、というと、時々は自分のいうことが誰かの受け売りであったりすることがある。普段から気をつけようとしていても、時間の無さなどを理由にして、どんどん他人の頭でものを考えるようになってしまうことがある。そこに思い込みが入り込むスキがある。

「信じるなよ、男でも、女でも、思想でも。本当によくわかるまで。わかりが遅いってことは恥じゃない、後悔しないためのたった一つの方法だ」と五味川純平は「戦争と人間」で説いた。本当にその通りだと思う。


そして、そうやって自分の頭で可能なかぎり論理的に考えたとしても、人間は無謬ではないので間違える場合がある。人間の身体は細胞レベルでは自己否定を繰り返しながら強くなるが、もしかしたらそれは精神や知能のレベルでも同じかもしれない。人が成長し続けるためには、時々は自己を否定する必要がある。やることは簡単で、自分の誤りを素直に認めて正す。

自分の頭でとことん考えるほど、こういった自己否定は難しくなるかもしれない。というのも、人間はだれしもが「自分かわいさ」をもっているので、自分が一生懸命に考えて至った言説を覆したくはないからだ。また、ある程度自分の考えに自信を持てば持つほど、間違いに気づくまでに多くの言葉を発してしまって、前言を引っ込めるのがどんどん億劫になっていくこともあるかもしれない。場合によってはさらにひどくて、対立意見を持っている人を不当に貶めることで、自分の小さな満足を得ようとしてしまうこともある。でも、成長するためには、自分かわいさを捨てて、自分を否定する必要がある。


自分の頭でとことん考えながら、それでいて、自分かわいさを捨てて、自分を客観視するというのは、自分の頭のコックピットに乗りながら、同時に幽体離脱して自分自身を見つめる感覚に近いように思える。

こういうことを書いているといつも読み返したくなるのが吉川英治の「宮本武蔵」だ。悶々と思い悩みながら悟りに境地に近づいていく武蔵の精神(を描ききった吉川英治の精神)からは、学ぶことが本当に多い。

また、こういうときにいつも思い起こすのは、大学時代の指導教授だった星野先生だ。先生は自分の頭でとことん考えていたので、議論には異常に強くて、僕はいつも負けっぱなしだった。それでいて、自分の間違いに気づいたら、まるで悪いことがばれた子どもみたいに、素直に自分の非を認めて改めていた。このしなやかさが、先生の強さだったのだと思う。


僕は愚かなので29歳にもなってよく失敗する。さすがにもう30歳が見えているこの年で恥ずかしくはあるのだけれど、愚か者なりに前に進むしかないのだと思う。
知覚と現実のあいだ
gucchi_gg9044j-b9h.jpg僕たちは、様々なものを見たり聞いたりして、それが何であるかを理解しようとする。すなわち、知覚を通じて、現実を理解しようとする。時には、知覚が常に現実に等しいと勘違いまでする。

けれど、知覚と現実の関係は、実はかなり危ういものだ。眼に見えているものや、聞こえていることが現実だとは限らない。偽物の金の冠や、録音しているだけの鳥の声を考えてみるといい。また、寝ている間に見る夢も、知覚されているが現実には存在しないものだ。幻覚も同じだ。

こういった人間の直感的な認識があまりあてにならないものだとしたら、どうやって人間は知覚と現実が同じものであることに、より確信を持てるようになるのだろうか。これは、取るに足らない思弁ではなく、多くの人間にとってかなり深刻な問題だ。たとえば、ある人が本当に信じられると確信を得られるためには、どうすればいいだろう、という問いは普遍的なものだと思う。


この知覚と現実の間のギャップを埋める方法は、様々な知覚を整合的に理解することだ。

例えば、目の前にある物体が本当に金の冠であれば、固有の質量を持っているはずだ。もし、目の前にある金の冠が偽物であるにもかかわらず、質量が金と同じであるのであれば(もし質量の法則が正しければ)、世の中にある全ての金細工が偽物かもしれないということになる。すなわち、金の質量に対する知覚がすべて整合的でなくなるわけだ。

一つ一つの知覚が現実と違う可能性は否定できない。しかし、多くの知覚が全て誤りである可能性は、一つ一つの知覚が誤りである可能性よりはるかに低いだろう。ならば、多くの知覚を関連付けて一つの体系にしていくことにより、認識と現実のギャップは少しずつ埋められていくことになる。

ここでの関連付けのルールには論理規則などがある。これは、1+1=2というルールや、A=B,B=CならばA=Cといったルールのことだ。このルールそのものの正しさすら、最初は保証されていない。1+1=2だからといって、98+102=200だとはいえないのかもしれない。このルールの正しさそのものも、様々な事象と整合的であることから保証されることになる。また、このルールが一度確立されると、そのルールに基づいて現在生じている事象を説明できるのみならず、まだ経験されたことがない(=ア・プリオリな)現実までも予測できるようになる。天動説や、人工衛星の発射などがその例だ。

こうして、完全には正しいことが保証されない知覚は、相互に関連付けられることによってその正しさがより強く信じられるようになり、関連付けのルールそのものも、様々な事象と整合的であることにより確信がもてるものになる。自分が何かを知覚しているということ以上に、何も確かなものがない世界においても、人は自らの知覚と現実が一致するであろうということにより強い確信が抱けるようになる。


知覚と現実の一致を確信するための方法は、現実に僕達が直面している諸問題に対しても貴重な示唆を与えてくれる。

知覚される側に対する示唆は、首尾一貫することの大切さだ。全てのアクションが一つの原理原則によって貫徹されていてこそ、相手がそのアクションから受け取る知覚が整合的なものになり、信頼されることになる。

知覚する側に対する示唆は、物事を多面的にとらえることの大切さだ。人や組織の性質は意外と複雑であり、たった一つの事象からその性質を理解しようとすると間違える可能性がある。様々な観点からその人や組織をみて、その結果として確信できることは何か、ということを考えることにより、こういった誤りを回避できる可能性が高まる。


今日のEntryの大部分は、バートランド・ラッセルのThe Problems of Philosophyより。本書は、今年読んだ本のベスト3に入りそうな一冊。


過不足なく主張する能力
84153.jpg今の自分に最も必要な能力のひとつが、過不足なく主張する能力だ。

科学の論文のように、何かの命題を証明するために過不足なく情報を提示するのは比較的容易だ。前提条件と論理的な展開から結論は間違いなく導かれるので、必要な前提条件をまとめたのちに、論証を行えばよい。論証が難しい場合においても、論証のために何をするべきかの見当はつく。

しかし、これが事業を行う上での主張となると、論証の難易度は一気に高まる。難易度の高さの理由は二つある。一つは、事業における主張に相手が耳を傾けてくれる時間は限られているからだ。もう一つは、主張をするうえで必要な判断材料が完全ではなく、かつ、物事に作用する因果関係のすべてを明らかにするのは不可能に近いからだ。

不完全な情報と限られた時間の中で、相手に自分の主張を受け入れてもらうためには、ある主張について過不足なく語る能力が必要となる。相手の意思決定(ここがポイントで、意思決定は自分のものではなくて、相手がすることだ)のための判断材料を、限られた分量で、必要なだけまとめることが重要になってくる。

前職での僕の仕事は「数字を積み上げる」ことだったので、主張のために必要な材料を揃えることは比較的容易だった。今の仕事やNPOの活動をすすめる上では、過不足なく主張する能力の必要性が高まっているのを日々感じる。


過不足なく主張する能力を鍛えるためには、二つのことが重要だと思う。

一つは、状況を理解することだ。どのような人に主張を受け入れてもらう必要があるのか。その分野に対する理解度はどれくらいで、意思決定においてどういう側面を重視する人々なのか。自分に与えられた時間や紙面はどの程度なのか。

もう一つは、物事を分析するに最適な枠組みを判断することだ。ある物事を、もれなく、かぶりなく主張するためには、分析の枠組みが大きな力を発揮しうる。ここでいう枠組みには、何かの学術的な理論や、戦略論で用いられるようなフレームワークなど、様々なものがある。こういった枠組みを理解することも重要だが、問題の内容や状況に応じて主張を論拠付けるのに最も適した枠組みを選びとることのほうがもっと重要だ。

適切な枠組みを選択することができるようになると、相手の主張のどこに問題があるのかだけでなく、相手の主張を論証するのに足りない情報が何かについても見つけられるようになる。「説かれていることの問題点」を見つけることより、「説かれていないことの問題点」を見つけるほうがはるかに困難で、多くの場合価値が高い。また、適切な枠組みを選択しておくと、どんな質問がくるのかも予想できるようになり、先回りができるようになる。


主張を過不足なく語るために必要な、状況を理解する能力や、適切な枠組み選択能力は、勉強と経験によって身につくのだと思う。一日で解決できることではないが、毎日の訓練を積み上げていけば、比較的早く身につけることができるようになるのかもしれない。そのために必要な訓練は、他人の主張を傾聴してよく考えること、発信の場を多く設けて他人からのフィードバックを多く受けられる場をつくることがありそうだ。幸いながら僕はこういった機会に多く恵まれているので、日々その機会を利用できるようにしたい。
「拝啓 全国のタイガーマスク様」の追伸
前回のエントリーにはたくさんのコメントとTwitter上のご意見有難うございました。いくつか、特に指摘された点についてレスします。個別のコメントはもう少しお待ちください。週末にはお返します。

特に話したいことは下記二点です:
・「水を差さないでほしい」・「上から目線だ」という意見について
・自分の所属するNPOの名称と活動内容の説明を削除したことについて



「水を差さないでほしい」・「上から目線だ」という意見について


この二つは関係のあることなのでまとめて書きます。

僕は、「善意は善行を必ずしも保証しない」と思っています。善意が善行につながる可能性を高めるためには、多面的な情報と考え方が必要だと思っています。そのためにも、僕はこれまでも、これからも、自分が正しいと思ったことを自分の名前も明らかにして、ポジションをとって話します。自分が間違っている場合もあるだろうし、その時は謝って直せばよいと思っています。信じることを話すとき、「上から目線」と言われやすいです。僕の未熟さもあるのですが、それは直していけたらと思っています。


・善意は善行を必ずしも保証しない
ヨーロッパには、「地獄への道は善意で舗装されている」という内容のことわざがあるそうです。歴史を振り返ると、善意の名のもとに起こった悲劇はたしかにあるし、現代においても経済学的には明らかに変な規制が善意に訴えかけるかたちで通っている場合があると思います。

「今回のは単なるプレゼントなのだから地獄だなんておかしい」という人がいるかもしれません。ですが、「ああ、自分ってこう思われているんだな(ため息)」と感じるプレゼントを受け取ったことがある人は、プレゼントが常によいものとはいえないことを理解して頂けるのではないかと思います。話を国外に移すと、「開発途上国が成長するためには、援助も必要だけど、その仕方に気を付けないと経済成長に対して逆効果をもたらす」というのは貴重な教訓となっています。モノやカネをあげるにおいても、あげ方は重要なのだと思います。


・善意を善行につなげるために
とはいえ、善意が善行につながる可能性を高めることはできると思います。
しっかりとした対案が提示され、それが吟味された上で、アクションがとられることで、その可能性は高まると思います。この議論のプロセスを経ずに大きくなっていく行動は、いくら善意に基づいていても善行につながらない可能性が高まります。

健全な議論をたたかわせるためには、現状に違和感を覚えた人が、声を大にして話す必要があると僕は思っています。だから、僕は少なくとも高三の頃からは、その意見が通るにしても、通らないにしても、誰に対してでも、自分が信じることを話してきました。


・信じることを語るということ
自分が声を大にして話したことが常に正しかったかというと、答えはノーです。でも、結果として自分が間違っていたとしても、対案が提示されて議論されることの大切さを考えると、僕は自分の信じることを話し続けようと思っています。今回も、さらに意見を受け、自分が間違っていたと思ったらその点については謝って訂正します。

顔と名前を出した上でこうやって語るのは、意外としんどいです。皆が盛り上がっているときに、「でも、これって違うんじゃないかなあ」と水を差すのは、結構面倒なことだしちょっとした勇気も必要なことです。反対意見や煽りについてもちゃんと受け止めてからまた議論するというのは、時々疲れます。でも、僕は自分が信じないことを語ることで後悔したくはないし、これからも信じることは臆面なく話し続けると思います。

信条というのは個人的な確信に基づいています。そういうこともあり、僕が信じることを書くとき、その調子はいつもより断定的になります。断定的な口調で語ると、「上から目線」と言われる場合が経験則としては多い気がします。これは避けがたいところではありますが、一方で、僕の書き方にも気をつける必要があるのだと思います。人の気分を害さずに、しっかりと議論することって、なかなか難易度は高いのですが、これからも努力して続けていこうと思います。



自分の所属するNPOの名称と活動内容の説明を削除したことについて

前のブログでは、私のいるNPOの活動内容について書いていましたが、削除しました。「売名行為乙」とかいわれるまで、売名行為とは思わなかったのですが、多くの人にそういった印象を与えたというのは事実だし、一番伝えたいメッセージがボヤけるのなら不要と考え反省とともに消しました。


・自分たちの活動について書いた理由

自分たちの寄付プログラムについて書いた一番の目的は、ブログを読んだ人に「そんなに言うのなら、あなたがやればいいじゃないか」と感じる人がいると予想して、それに対する答えを用意するためでした。寄付プログラムのプロモーションについては、もちろん知ってもらえたら嬉しいですが、それは副次的な目的でした。


・印象を与えたことについて感じること
とはいえ、印象は論理的なものではなくて、「そう感じた」という人に、論理的にどうこう反論しようというのはあまり正しくないと思います。僕の書きかたも悪かったと思います。それに、売名行為といわれて本題にしたいこと(あるべき支援のしかた)が不明確になるのは本位ではないので、ブログの一部を削除しました。貴重な気付きを有難うございました。

とはいえ、自分たちの活動内容は練って考えたものなので、また別の場所で紹介していきます。もちろんこのブログにも書きますし、いま執筆中の本にも載ります。今すぐ詳細を知りたい方は、taejun.shin[at]gmail.comまでメールください。



以上、限られた時間で急いで書いたので、誤解を与える箇所があるかもしれませんが、その際にはまたコメント頂ければ返信します。

まだ未熟なこともありますが、これからもしっかりと頑張ります。

ダイヤの原石のような直感

野中郁次郎教授の講演を聞く機会があった。近著「流れを経営する」によると、「知識とは個人の信念が真実へと正当化されるダイナミックな社会的プロセス」なのだという。


この言葉に出会ったときに「我が意を得たり」という気分になった。

僕は、人間の直感は「(時々はハズレもあるが)ものすごく論理的だけど、まだ言語化されてもいないし、いろんな前提事実が明らかになっていないために、他人にうまく説明できない思考」なのだと思っていた。例えば、僕の知る「すごい女性」3人は、3人とも人と話して5秒で評価を下す。そして、その評価の精度は異常に高い。(ところで、僕がこれをやると顰蹙を買うのだけれど、彼女らの場合はカッコイイとされてなんだか悔しい)

本当はロジカルだけど、まだ明らかになっていない前提条件が多いので、本人もうまく言葉で説明することが出来ない、ダイヤの原石のような思考。野中郁次郎教授らは、このような個人の信念が、体系化された知識となるまでの過程をモデル化した。

暗黙知を形式知にするこのプロセスは、SECIプロセスと呼ばれる。SECIプロセスは、共同化(Socialization)、表出化(Externalization)、連結化(Combination)、内面化(Internalization)の4つの循環プロセスである。

まず、人は自分の信念を他人に話すことから始める(Socialization)。この時点では信念はまだ理路整然としていない、「なんとなく言いたいことは分かる」ような状態だ。それを相手にぶつけることを通じて、少しずつ自分の頭の中にだけある「もやもやしたもの」がカタチになっていく。このように、他人に話すことにより自分の思考がより精緻になる背景にはミラーニューロンの存在があるのかもしれない。

次に、このようにして少しずつ形になってきた暗黙知を形式知化する(Externalization)。考えを言語化するためには、弁証法的なプロセスが最適である。弁証法とは、対立する意見(正と反)をうまく統合(合)し続ける、正反合のスパイラルである。オープンな議論の場で少しずつ議論をしながら、考えが言語化されていく。時々、Twitterをしていると、意見の対立があり、それが少しずつ双方にとって納得のいく結論になっていく。これがExternalizationのプロセスだ。

形式知になった個別の知識群を関連付けて理論化するのが連結化(Combination)の過程だ。ここで、個別の概念は関連付けられ体系化され、理論やモデルとなる。

こうしてできた理論やモデルは、また個人に戻ってくる。個人の「もやもやした考え」から出発して理論になったモデルは、今度はその個人の価値観に影響を与えてくる。これぞ弁証法のプロセスで、疎外論はまさにこの話に近いと思う。だからかもしれないが、考えを普段から言語化する人ほど感情や思考は豊かになる。

SECIモデルの話を聞きながら、ヘーゲルが現代に生きていたらこういうことを説きそうだな、と感じていた。


暗黙知は、最初の段階では生まれたてのひよこみたいなもので、どんな可能性を持っているとしても、言論としては非常に弱いものにならざるを得ない。新しい研究開発のアイディアや、社会変革のための思想は、すでに確立されている理論や考え方と論争するとあっさりと負けてしまう場合が多い。まだ言論の場で勝つためには、明らかにしなければいけない事柄が多すぎるためだ。


この、「暗黙知の言論の場での弱さ」にイノベーションを起こし続ける企業づくりのヒントがあるかもしれない。

多くのイノベーションは、開発者の直感からはじまる。しかし、この直感に、完璧な説明を求めるのは無理な話だ。実際、多くのヒット商品は企画会議ではメッタ打ちにされる。

こういったダイヤの原石のようなアイディアに対して、「リスクは自分がとるから、とりあえずやってみろ」といえる文化があるかどうか。そこに組織の創造力は依存するのだと思う。思えば、日本の企業が元気だった頃には、新しいアイディアに対して「やってみなはれ」と後押ししてくれる経営者は多かった。ちなみに、僕個人のキャリアについても、当初は反対していた親が最後には「お前が正しいかはよく分からないが、とりあえずやってみろ」と言ってくれたことから始まっている。

この話をすると、「近年は市場の規律が厳しくなり、変な企画を通すと、株主への説明責任が果たせなくなる。これがイノベーションを阻害している。」という人がいる。しかし、これは本当なのだろうか。例えば、日本より遥かに株主からのの突き上げがきついアメリカにおいても、アップルでスティーブ・ジョブズは独断と偏見で開発をすすめるし、Googleも株主に対する説明責任を考えながら新企画を通しているとは考えられない。株主への説明責任とは、100%明らかなものを説明することだけではなくて、思考プロセスを可能なかぎり言語化することなのだと思う。

これは、決して全てのアイディアに対して「やってみなはれ」とすることを奨励しているわけではない。そこまでやると、会社が変になってしまうだろうから、ある程度のスクリーニングは必要だとは思う。ただ、マネジメントが全くリスクをとらないようになると、企業のイノベーションは阻害され、それは企業の長期的成長をストップさせる可能性が高い、というのが議論の主眼だ。



また、ここまで話してきた暗黙知と形式知の議論は、組織のみならず個人の生き方についても重要な示唆を与えてくれる。個人的に得た示唆は簡単だ。

信じたことをとにかくやってみる。
自分が本当に正しいのかなんて、誰も分からないし、行動しなかったらずっと分からないままだ。

使命
ある人が自分の人生に何らかの使命を感じるとき、自らのバックグラウンドを無視することはできない。生い立ちや経験に根ざさない使命感は、浮ついたセリフが散りばめられた映画みたいでどことなく空虚だ。

僕は、仕事とNPOの活動両方について、自分なりに使命を感じている。でも、今日は在日コリアンとして感じている使命にしぼって書き残しておこうと思う。

韓国の済州島からやってきた祖母は、ときどき戦後間もないころのことを話してくれる。朝鮮人だというだけで小さな子どもにまで馬鹿にされ、いじめられてきたことや、とてつもなく貧しかったこと。僕の親の世代であっても、コリアンが日本の財閥系の会社に入ることは不可能だった。僕も親によくこう言われていた。「お前は朝鮮人だから、周りの人と同じくらい勉強ができるだけじゃだめだ。とびきりできないと、やっていくことはできないんだよ。」

親の世代の人々には、海外で仕事についたり、起業したり、もしくは資格を取得して独立して仕事をする人が少なくなかった。パッと見ると華々しいけれど、この選択の背景には、そうせざるを得なかった事情がある。普通に勉強して、普通の学校に入って、普通の就職をして、普通の家庭を築く、というような普通の人生(普通、という言葉は多義的なのであまり好きではないのだけれど)を歩くことそのものが困難だったのだ。リスクをとって挑戦して、豊かになった人はすごい金持ちになった。一方で、挑戦に失敗した人はいまもとても貧しく暮らしている。本当に貧しい人は、コリアンとして生きていくことすら難しかった。

言いようのない悲しみのことをコリアンはハンと呼ぶ。漢字にすると「恨」なのだが、決して恨みではない。途方にくれ、悲しみのうちに静かに涙するような感情のことだ。住む家を追われて、川岸に座り込み途方に暮れながら、涙ながらにホウセンカの歌を唄うのが、僕にとってのハンの心象風景だ。

僕は、どうしても、先祖のハンの記憶を頭から消すことができない。祖父母や親の世代の人々が子どもたちに望んでいるのは、コリアンを読み書き話すことができて、コリアンの名を名乗ってそれでいて世間にも恥ずかしくないように立派に生きることなのだと思う。決して報復を望んでいるわけではないはずだ。自己紹介をするときに、在日コリアン三世で朝鮮学校に大学まで通いました、と話す背景にはそういう意識がある気がする。

使命感は逆境にある人を強くしてくれるが、幾許かの危うさをもたらす場合もある。使命ばかりが頭を占領してしまうと、しなやかさが失われてしまう。しなやかでなくなり、創造性が阻害されると、色々なところで、事がうまく運ばなくなる可能性が高まる。ピンチの時や、重大な意思決定に直面したときに、自分の使命を思い出せるくらいがちょうどよいと思う。

8月15日と1月1日は祖父のお墓参りをして、今の自分の状況を報告する。僕が子どものころに亡くなった祖父は、今の僕をみて、喜んでいてくれるのだろうか、もっとちゃんとしなきゃダメだと叱咤してくれているのだろうか。そんなことをいつも考える。

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