Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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15年目のごめんなさい。
 久々の思い出話。 記憶が風化する前に書いておきます。
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我が家の家庭内教育。
 色々な方から、僕が子供の頃親からどのように育てられたのかという質問をいただくのですが、思い出せる限りで書いてみようと思います。 子育てをされる方々の参考になれば幸いです。

 
欠けた前歯の思い出:下
(第一話)
(第二話)



 そうして僕は、6年前の春、欠けた前歯とともに、言いようのないけだるさを感じていた。

欠けた前歯の思い出:中。
 
 
 最近仲良くなった人は、僕に、「きっと裕福な家で素直な子に育てられたのだろうね」、といった事をよく言う。 事実は、まったくと言っていいほど正反対だ。 家は決して裕福ではなかったし、僕はすごく性格が捻じ曲がった人間だった。

 周りの子供たちが皆持っているおもちゃも持っていなかった。 それで話題についていけなかったことも嫌な思い出だったけれど、それ以外にも、もっと根本的な、今もあまり言えない様な出来事が色々とあって、それらが僕に与えた影響は大きい。 人間、環境を乗り越える存在だというけれど、子供に関しては、それはあまりにも希望的な観測だと思う。

 人が他人についてどういった態度を取るか、という事は、その人の心のありようの鏡だと思う。 僕は他人を馬鹿にして、他人を信じない、そんな子供だった。 どこか、世の中に対して斜に構えたところがあって、常に何かに不満を持っていた。
 
 そんな僕が人を信じるきっかけとなったのは、高校の頃だった。 生徒会長として学校の悪習をなくすための行動は、ひどい仕打ちをした先輩達への全くの反骨心を動機としていたのだけれど、その過程で人を信じることと他人と力を合わせて物事を解決していくことの大切さを、文字通り身をもって学んだ。 

 人間が一人で出来ることには限りがあって、何かを成し遂げるためには、他人と力を合わせないといけない。 その団結の力を強くするためには、当然だけれど、自分以外の人を信頼しないといけない。 僕は信頼の大切さを、アイパー頭でやくざみたいな服装をして、煙草をふかしてパチンコをしながら、僕を援けてくれた多くの同級生達から学んだ。 人を信頼するという事は、僕にとってもう揺らぎの無いものになったかと、そのときは思っていた。

 だけど、大学の頃に、またこの思いは揺さぶられた。 


 前置きがすごく長くなってしまった。 前の話の続きをしよう。

欠けた前歯の思い出:上。
 (久しぶりの思い出ネタ。)


 僕の前歯は欠けていて、人口の歯と接着剤でくっつけられている。 
 あれが2001年の事だと思うと信じられない。 六年前の僕は、言いようの無いけだるさを感じていた。 それは決して、つけたての接着剤の気色悪さのせいだけではない。
 
 
白黒の石と9年間。
 ある日のこと。 
 父が、当時小学一年生だった僕を呼びます。
 

 なにやら、升目のある木の板と、黒白の丸い石がありました。
  
 その石を使ってものを囲んだりする事を教えた後、僕にこう尋ねました。

 「てじゅん、おもしろいか?」

 「うん、おもしろい(何に対してもこう言う少年でした)。」


 そして、翌週。 気がついたら僕は囲碁の道場にいました。 9年間にわたる緑星囲碁学園での日々のスタートです。

 
 緑星囲碁学園は、菊池康郎先生が始めた囲碁の道場で、当時でも100人弱の子供から青年たちが碁を修めていました。 当時からプロだった人は数名しかいなかったのですが、いまや、学園出身のプロは20人弱くらいになるのでしょうか。 


 学園の目標は、「碁を通じての人間性の涵養」にあって、プロの養成はその次にありました。 しかし、プロを目指す子供たちが多く集まるため、プロ養成所としての性格も持っていたと思います。 中学を卒業した後に高校に行かずにプロになるために道場通いの日々を送る人も少なくありません。 
 ちなみに、緑星学園は、ヒカルの碁にも出てきます。 似たような名前の団体がありますよね。 あれです。 (僕はその漫画をあまりよく知らないので記憶があやふやですが。。)

 
 規律がしっかりと立っていて、たるんでいる人間は帰らされます。 ふざけが過ぎる人間も、また同様。 僕は食事の時間に友達にちょっかいを出したりしてよく帰らされました^^;

 碁を打つ時間も長い。 年とは関係なく、上級になればなるほど(集中力が長時間持続すると認められるほど)、道場にいられる時間が長くなります。 たとえば、日曜日は朝9時から夜8時まで(さらに上級になると10時まで)ずっと囲碁。 遊びたい盛りの僕にはかなりの苦痛でした。。 途中で抜け出したりしたこともありました。
 
 
 ここまで見ればわかるように、僕は碁をあまり好きではありませんでした。 後から来た人に追い抜かれても、たいして悔しさも感じず、土日、友達と遊びにいけない鬱憤の方が大きかった。 さらに、中学生になると、サッカーとの掛け持ちで囲碁をやっているだけで、先輩からヤキを食らう日々。  

 唯一楽しさを感じた時期といえば、上級クラスから落とされて、それに発奮して一生懸命勉強して上級クラスに戻った時でしょうか。 あの時だけは、自分の上達を実感しながら楽しい思いをしていました。

 「やったからには一定の区切りまで続けなさい」という親の言葉に勝てず、だらだらと9年間。 結果は、アマの六段。 一応、形には残りました。 けど、やっぱり、この「おもひでほろほろ」カテゴリー内の他の記事にあるような強烈なものは残っていません。

 
 ですが、今となって思うと、意外と身になっている事が多いのですね。

 記憶力、集中力、全体を読む力、いやでもやりぬく事、休日が無い生活に慣れること、などなど。 特に、高校生のころまで勉強らしい勉強をした覚えが無いので、おそらく僕の知的ベースは囲碁のおかげで培われたのだと思います。 (努力することは身につかなかったのですが、それは幸い、その後のサッカーのおかげで身につきました。) 


 プロ棋士は、写真と戦況が年毎にアップデートされているので、たまに当時の友達の名前をgoogle検索して、僕も負けてられないな、と思うことしばしば。 そのうち、久々の再会を果たしたいものです。
サッカーの試合を見ながら。
 オーストラリア、強いですね。。
 さすがヒディング監督と言うべきか、身体能力を生かしたいいサッカーをしていたと思います。


 サッカーの試合をTVで見たのは、1年ぶり。
 見ながら色々な考えが頭をよぎりました。



 僕は高校の頃はサッカーで完全燃焼しました。

 元々すごくへたっぴだったので、二軍の試合に出れないこともしばしば。 下手を馬鹿にされることもしばしば。 そんな日は、試合が終わった後、泣きながら練習してました。 いやあ、今考えても悔しさがこみ上げてきます。 いま、キーボードを打ちながらめっちゃまばたきしてます。
 毎日朝練に出て、夜は遅くまでボールを追いかけ、いや、キーパーだったから、泥だらけになりながらボールをキャッチし。 基礎体力をつけるために、走って筋トレして、一日五食して。 日曜日も正月も関係無しに、ボールが見えなくなるまで練習していました。 多分、練習量だけなら、同年代の高校サッカー青年の中でもトップだったと思います。

 2年生の頃には、身体能力と運動能力が3段階ずつ上がり、垂直飛びの記録も20cm高くなっていました。

 そんな努力もあってか、一軍の試合に、確か両手でギリギリ数えられるくらい、出ることも出来ました。 今でも忘れられないのは、仙台育英との練習試合のメンバー発表で、僕の名前が呼ばれたときのこと。 嬉しかったですねえ。


 高校3年間でかなりの上達をしたとは思うのですが、努力の割りにここまで上達しなかったのは、サッカーだけでした。 思うに、一番才能がなかったものだったのかもしれません^^; 大学に入っても続けていたら、開花したのかなあ。。 と、悔し紛れに思ってみたり。 今でもお世話になっている恩師の先生からは、「お前はスポーツを間違えた。 格闘技だろう。」と言われ続けていますが。(笑)
  

 卒業式は、一番よく一緒に練習した親友と、朝練をやってから参加しました。 それが、僕の高校のメインの思い出。 サブメインが、生徒会長の思い出(これは昔記事を書きました)。


 仮に、いや、多分、僕はサッカーに向いていなかったとして。
 それでも、必死で過ごした3年間は、今までの人生では僕が一番輝いていた時期だったと思います。 努力することの大切さと、そう簡単にはいかないけれどどんな人間でもやればできる、という確信を得られたのは、何にも代え難い、貴重な経験でした。 


 その後、僕は勉強を始めるのですが、その時の経験が生きていると思います。


 正直言うと、まだ、勉強に関しては、サッカーをしていた頃くらいの気違いっぷりを発揮できていません。 高校生の若さのためなのでしょうか、いや、それだけじゃなさそうです。 まだ、あの頃みたいなひたむきな気持ちを持てていないのでしょうね。

 高校生の頃の自分が今の僕を見たら、「何やってんだあんた」とか言いだしそうなので、あの頃のひたむきさを忘れずに、全ての事に全力で打ち込んでいこうと改めて強く思うのでした。


 いつでも、昨日の自分に後ろ指をさされないように、上達していきたいものですね。 負けるもんか。
師想曲 in 朝鮮学校 2
 小学の恩師からは心を。
 中学の恩師からは精神を。
 高校の恩師からは意志を。
 そして、大学の恩師からは智を。

 振り返ってみると、僕は恩師たちから本当に多くの大切なものを受け取っている。 この贈り物を、次の代の人たちに渡せるのだろうか、と、時々考えることがある。 このブログが役に立てば、多幸だと思う。


 僕の専攻は日本国憲法。
 選択した理由の7割くらいは、教授にある。 日本人ではじめて平和的生存権を提唱した人で、齢は70をすでに超えていた。 専攻は憲法と教育法。 細身ながら豪放磊落で、酒とタバコを愛し、「ビールは僕にとっての清涼飲料水」、「君達を煙に巻くためにタバコをすうんだよ」が決まり文句だった。 いまだに、居酒屋などに行けば、ビールをジョッキでどんどん平らげていく。
 彼の学問的成果からすれば、学閥を作ることは十分可能だったのに、そういうことを一切しない人だった。 僕が最も尊敬する知識人の一人だ。 僕の風変わりな卒論を絶賛してくれた人でもある。
 そんな彼の講義はものすごくオープンなもので、学生に話す機会を多く与えてくれた。 内容も、憲法そのものの話と言うよりは、憲法学において重要な「智」について語っているものが多かった。 そういう講義が大好きな僕は、毎回彼に議論を吹っかけていた。 ほぼ毎回コテンパンにやられていたのは言うまでもない。 ごくたまに彼の言葉が詰まろうものなら、鬼の首をとったような気分になっていた。 この過程で、自分がどれだけ知的に成長したか測り知れない。 
 今でもぱっと思い出す彼の語録を挙げてみると:
 ・人は分けることによって分かる。
 ・常に反対の場合を考える。
 ・人は意味を問う生き物。
 ・くそとみそを一緒にするな。
 ・言葉は魂のきれはし。 言葉の持つ力に敏感にならないといけない。
 ・条文解釈で重要なのは、「何が書かれているのか」よりも「何が書かれていないのか」。
 ・ゼミは知の共有の場。 講義を休むのはいいが、ゼミを休むのは義務違反。 一人で議論を独占するのも義務違反。
 ・難しい言葉をしゃべるのは、本当は分かっていないから。


 などなど、平易な言葉のうちに、素晴らしい含蓄がこもっていた。

 憲法が生活単位で組み込まれている人で、日常生活のどんなものを譬えにしても、憲法の議論をすることが出来る人だった。 個人的に何度も飲みにいったりして、戦争に行ったときの話や、その後に自分が平和的生存権を提唱するに至った流れや、家族の事などを色々と聞かせてくれた。

 彼が話していた内容を書こう。 (テクニカルな話を可能な限り削除して書いています。) 


「北欧、例えばスェーデンでは、日本人の子供が一人学校に来ると、その一人のためだけに日本語を使える人を学校でつけるんだよね。 そのお金は国が負担するんです。 僕は、これを聞いたときに本当にビックリしたんだよ。 人権先進国と呼ばれる北欧でこういうことをしていることから、僕達は教育とは何かを知ることが出来るんですね。 (興味がある人は、岩波新書赤の「スェーデンの挑戦」という本を読んでみてください)
 教育を受ける権利は、基本的人権であって、政治的な理由で否定されてはいけないものなんです。 こどもの権利条約にも、この事は書かれていますね。  何条?  はい、六法開いて。 

 僕は70年代とかに何回か学者の訪問団として、朝鮮民主主義人民共和国に行ったことがあるんだけれど、『子供は国の王様』って言っているあの国では、教育は大学まで完全に無償なんだね。 これは素晴らしいことなんだよ。 僕は、運よく実家にお金があって帝大(今で言う国立大学)に通えたんだけれど、お金がなくて学べない人がいっぱいいたからね。 
 それと、確かに、人民は金日成さんを崇拝していたね。 でも僕は、あの国で過ごしながら「ああ、これは金日成さんの人民崇拝の裏返しなんだな」という風に理解したんだよ。  (こういったポジティヴな見方は、70年代までは知識人たちの間で結構共通のものだったらしい。)

 日本政府の朝鮮学校に対しての政策は、基本的人権の侵害と言えるのかな? 何度も言っているように、分けることによって分かるんだよ。 侵害には、積極的な意味での侵害と消極的な意味での侵害の二種類がありますね。 今、朝鮮学校に対して、私立学校よりも助成金の額がはるかに少ないことについては、積極的とはいえないまでも、消極的な意味で基本的人権の侵害と言えますね。」 


 教育を受けるということの本質を、基本的人権と見なすのか、国家の政治の手段と見なすのか、これが、朝鮮学校の権利に関して考えるときに重要な焦点となると僕は感じている。 日本は、こどもの権利条約を批准している。 けれど、実際問題においては、スェーデンのような国の例は稀で、大体の場合は、その教育の性質が国家の利害に合致するかどうかによって助成の如何が決められているのが現実だと思う。 ただ、それでも私立学校レベルの助成ならばするべきではないのか、と僕は考えている。 あまり知られていないかもしれないけれど、朝鮮学校のカリキュラムは、日本学校のそれに、ハングルと歴史を付け足す形で組まれている。

 朝鮮学校への助成について議論する際に、「在日コリアン形成の歴史的特殊性」について語られることが多い。 僕は、この議論はもっと発展させるべきだと思っている。  コミュニティで多数の学校を形成するくらい多くの人々が外国に移住しているときには、多くの場合、程度の違いはあれ今も昔も根底には貧困や支配などの問題がある。  もっと深い構造的な問題から議論を出発させるべきではないか、と僕は感じている。

 この頃、日本において人権・権利の問題が語られるときに、人権と権利の区別、事情を鑑みて制限すべきかすべきでないかなどの区別が、非常に曖昧だと感じずにはいられない。 「分けることによって分かる」ことの重要性を改めて感じさせられている今日この頃だ。
師想曲 in 朝鮮学校 1。
 成長した自分を見つめながら、人生を振り返ったときに、目の前に浮かぶ人々がいる。
 その人々は、自分にとって大切な人なのだと思う。
 そして、彼・彼女らを思い浮かべながら、不意に微笑を浮かべる人は、幸せな人なのだと思う。


 回想とともに、朝鮮学校における思い出を書いていこうと思う。
 あらかじめ断っておくけれど、僕が朝鮮学校を代弁できるわけがない。 そんな思い上がった人にはなれない。 これは、僕の個別の経験に過ぎないのであって、「これが朝鮮学校だ」と一般論化することは出来ない。しようとも思わない。 僕はここで、あったことを記憶の許す限り事実として述べる。
 
 現在、2ちゃんねるなどを見れば分かるように、朝鮮学校に対する議論にはすさまじいものがある。 最も困ったことの一つは、等身大の朝鮮学校があまり知られないまま、議論が議論を生み拡大し続ける状況が作られてしまっていることだ。 サルトルの著書、「ユダヤ人」(岩波新書 緑)を思わずにはいられないような状況になっている。 
 さらに、インターネットの掲示板の性質上、お互いを批判しあうようなネガティヴな議論においては、論者が多い方が主流の地位を占めてしまうことも、困った問題の一つだ。 論理などはお構いなしに、少数派の議論はかき消されてしまう。 日本の人口1億3000万人に対して、朝鮮学校に関係がある人の数は10万人ほどしかいない。 ポストコロニアリズム風にいうと、「翻訳」されつつある状況だ。 
 だから、批判はあるだろうけれど、それでも、語らないといけないと思い、このエントリーを書こうと決めた。


 人生を振り返ったら目の前に浮かぶ師の一人に、中学2,3年の頃の歴史の先生がいる。
 30代半ばで、正義感の強い人だった。 サッカーも上手で、人格的な成熟は申し分なし。 自分の薄い頭を笑いの材料として授業中に頻繁に引き合いに出したり、生徒の間に割り入って自分の学生時代の下ネタを連発したりと、とても気さくな人でもあった。 反抗的な生徒に「殴るのなら私を殴りなさい」といって頬を差し向け、殴らせたりもする、そんな先生の人望はとても厚くて、多くの学生達が彼に進路の相談を持ちかけていた。
 
 一番素晴らしかったのが、その授業。 科目は、朝鮮史、日本史、世界史。
 45分という時間の間にスライドはもちろんの事、ビデオデッキやその他にも授業ごとに様々な小道具を持ってきて、毎回がテレビ番組もしくはそれ以上の授業だった。 僕はその一つ一つの授業を今でも鮮明に覚えている。
 そんな授業をしながらも、「君達が寝てしまうのは、私が授業に対する準備をしっかりやっていないからだ。 だから、寝るなら寝なさい。」と常に話す、謙虚な先生だった。
 授業のコマを4つくらい使って、「戦争で人を殺していいのか悪いのか」を題材にディベートをしたこともあった。 
 世界史の最後に時間には、「現代文化史」と銘打って、ビートルズの授業をしてくれた。 授業中に流れた「Let it be」から僕はビートルズを知り、興味を持ち、歌を聴き、それまで大嫌いだった英語に手をつけることになった。 そのおかげで、中学三年生の時には、高松宮杯という英語の弁論大会で全国大会にも出ることになった。

 彼は、朝鮮民族の歴史について、こんな風に語っていた。


「 私達の民族は、今も昔も、外国に攻め込んだことがない。 これは、素晴らしいことだ。 それを誇って、私達は自らを、穢れの無い白い服を好んで着る、白衣民族と呼んでいる。 
 だが、私達の民族は、同族間の闘いが常に耐えなかった。 「朝鮮人は3人集まると派閥をつくる」と、言うことわざまであるほどだ。 これを派閥争いという。  そして、大きな国、当時では中国に幻想を抱いていた。 逆に小国や進んでいない国を見下していた。 これを事大主義という。
 この派閥争いと事大主義が、私達の国を疲弊させた。 今まで、私達の国が他国に侵略されたとき、常に、国内ではこの派閥争いと事大主義があった。 私達は、日韓併合がされたその日を、「国恥日」と呼んでいる。 その意味をよく考えてみないといけない。
 仲間内で徒党を組んだり、他のものに過度に幻想を抱いたり、他人を見下したりすること、それらは、君達の身にも覚えがあるだろう。 私達は、歴史から学ばないといけない。 君達は、過ちを繰り返してはいけない。

 もちろん、侵略する側が一番悪い。 考えてみるといい。 世の中が大混乱に陥って、家々で強盗が行われているからといって、そして、やらなければやられるからといって、強盗をして良いものだろうか。 良いわけが無い。 相手の家がとても貧しくてみすぼらしいからといって、もしくは、その家の中でみっともない家族喧嘩をしているからといって、そこに無理に押し入って、家を建て直したり喧嘩を止めたりするのが正しいことなのだろうか。 私は正しくないと思う。 私がその家に住んでいたら、いきなりずかずか入ってきた人たちを何とか追い払おうとするだろう。 人には自主性というものがある。 どんなときにでも、問題は、最終的には当人達が解決すべきなのだ。 他人に出来ることは助けることであって、直接その問題を解決してしまうことではないと、私は思う。 
 
 人間にとって、自主性というものは、何よりも大切なものの一つだ。 ルソーという人の本に書いている言葉に、「私は奴隷の平和よりも、自由な死を選ぶ」という一節がある。 これは過激すぎるかもしれないが、それくらい、人にとって、「自分のことは自分で決める」という権利は重要なものなのだ。 この権利を自主権と言う。 
 前に政府は暴力装置だと言った人のことを話したね。 覚えているかな? どんな国にでも、良いところもあるし、悪いところもある。 どんな国にでも善人・悪人がいる。 朝鮮民主主義人民共和国の全てが正しいわけではないかもしれない。 私達はあの国に住んでいないのだから、分からない事も多いだろう。 だが、客観的に国として見たとき、どんな国の圧力にも屈せず、自主を守り続けているあの姿勢は、本当に素晴らしいものだと私は思う。 もちろん、自主を守るためとはいえ、それによって国内の人々に苦痛を強いることが正しいのかどうかは、難しいところだ。 国民が望んでいるにせよ、いないにせよ。 さっきのルソーと言う人の話を思い出してくれるといい。 評価は、歴史が下すだろう。 君達がおじさんとおばさんになったときには、結論が出ているはずだ。
 国を愛すると言うのは、どういうことなのだろう。 愛する人のことを考えてみると良い。 君達は、愛する人に何らかの問題があるときに、それをどう思うだろうか。 自分のことのように痛み、それを何とか変えようと努めるだろう。 本当に愛しているのならば、その欠点を憎みはせず、変えようと考えるものだ。 「同情は愛に近し」という(最近になって、僕はこのpity is akin to loveがキリストの教えであることを知った)。 君達の、同胞社会や国に対する気持ちは、このようなものであるべきだと、私は思っている。」



 「いつか、私の言っている事が分かる日が来ると思う」が、いつもの口癖だった。
 彼の語った内容は、僕の血肉になっている。 人を愛すること、自分の力で考えること、おかしいことにはおかしいと思うことなど、学んだことは数知れない。
 それが、僕の高校時代そして、今へとつながっていると思う。
捨て猫物語4。
 大学の寮に入って間もない頃、不思議な夢を見た。

 キキと出会った、あのガード下を歩き回っている夢だ。
 僕は、彼女の仔である、黒猫を探していた。
 どこに行っても見つからない。 駄菓子屋に行っても、銭湯に行っても、商店街の色々なお店に入っても、それでも見つからない。
 途方に暮れているところで、目が覚めた。

 
 家に帰る。
 母が僕を見るなりこういった。


 「3匹の子猫のうちの、あの黒い猫が見つからないの。」


 犬は生きているうちに飼い主に仕えて、猫は死んだ後に飼い主に恩を返すのだという話を聞いた事があるが、どうやら本当かもしれない。 
 




 その後、キキはどうしてるかって?




 彼女は、子猫たちが育つまで祖母の家で1年くらい過ごした後に飛び出したきり、もう帰ってこなかった。


 その後のことを、僕は知らない。

 いいさ。
 猫は自由に生きるものだ。 
 

 けれど、祖母の家に行ったり、その近くを通り過ぎたりするたびに、今も、あのガード下で、淡い期待とともに足をとめる僕がいる。 相変わらず薄汚れた排水溝を眺め、あの陽射しの眩しかった日に、懐想のまなざしを投げかけるのだ。 
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