Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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努力と環境
僕は夏野さんや竹中さんが普段話していることについて同意すること・尊敬するところが多いと思っている。だけど、それは決して彼らの全ての言論に同意することを意味はしない。

先日のTwitterで夏野剛さんがこう書いていた。

「@tnatsu: 僕は富裕層でもないが、お金に困ってない人に共通することが一つだけある。自分の現状を人のせいにしない。この件で絡んでくるやつのほとんどが、社会のせい、政治のせい、人のせい。自分の力不足なんだよ。」



竹中平蔵さんは、東洋経済オンラインで次のように述べている(だいたい、こういう取材記事は時々脚色されるものだけど、ご本人がレビューしたと仮定する)。

「私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。」



【追記@2012/12/09 14時03分:FBやTwitter、コメント欄で指摘頂いたように、確かに引用した文面だけで「自己責任論」と言い切るのは無理があると思いました。よって、以下は一般に流布している言説への反対意見としてお読みください】


こういう自己責任論っぽいものはいつの時代にも人気があるし、フェアに見えるかもしれない。でも、僕はこういった主張には同意できない。

というのも、この手の主張においては、(1)結果は環境でなく努力にある程度結びついている、(2)努力するしないの意思決定は個人の自由意志に委ねられている、といった前提があるように思えるが、その前提の正しさは疑わしいからだ。

特に僕が同意できないのは、努力できるかどうかは環境と切り離されているかのような考え方だ。努力できる強い心は親をはじめとした多くの人との出会い、環境が作る。たまたまそれに恵まれている人は、自分の今の地位は自分の努力で勝ち取ったものだと思っているけれど、多分、人が築きあげた地位のうち、自己決定の賜物による部分なんてあまりないんだろう。

子どもの貧困を目の当たりにしたり、「働きながら社会を変える」を書くために児童養護施設に関する調べ物をしているうちに、その確信は強くなっている。たぶん、努力できるかどうか、ということそのものが、かなりの程度、客観的要因に左右されている。そして、そういった強い心が育てられる環境に生まれるかは、(家が裕福であるか否かにかかわらず)残念ながら今のところは完全に運次第で、この意味における機会の不平等は多分解消されにくいのだろう。自分の苦境を環境のせいにしないのは難しいし、努力しないで貧しくなる自由なんて実際のところはあまりないと僕は思う。

自分の自由意志を完全に否定するわけではない。でも、それは相当に限定されたもので、僕たちは周りの環境によって左右される生き物であることを理解してはどうか。実際に、心理学の分野では随分前から主張されていることで(例えば、Albert Banduraの “Social Learning Theory”)、脳科学でも同様らしい(池谷裕二さんの本で論文が紹介されていた)。

そうすると、マザーテレサが「私は神の手の中にある鉛筆のように感じる」と言ったことや、西郷隆盛の「天道を為す」という言葉は、より心にストンと落ちてくるのだろう。
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チャンスメーカー300人突破
児童養護施設の課題を解決するために始めた寄付プログラム、チャンスメーカー。7月末に加入者数が300人を超えた。毎月の寄付金は50万円を超え、累積の寄付金額(手数料控除前)は550万円になった。寄付者のみなさま、本当に有難うございます。
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改めて、この寄付プログラムが何を目指しているものなのかを整理してみたい。


1.児童養護施設について

親と暮らすのが子どもの一番の幸せなのに、そうすることができない子どもは全国に3万人以上いる。親と暮らせない理由は、虐待、貧困、親の病気、など。その子どもたちの多くは全国に約590ある児童養護施設にいる。

僕たちは、児童養護施設で沢山のことを知った。一番のことは、「努力できる能力」というのは、自分の人生を肯定する感情に由来していて、心の傷を有している人々にとっては、努力することそのものが難しいということ。生きる意味を見つけられなかったら、努力はできない。だから、「日本では努力すればいい暮らしができる」というのは事実だとしても、それは形式的な機会の平等にしかなっていない。

子どもの自己肯定感の欠如は、数字にも如実に表れている。大学進学率が50%を越えた今日の日本において、児童養護施設の子どもの大学進学率は10%程度にしかならない。今も5分の1の子どもが高校を卒業しない。その先には、低所得労働であったり、違法な仕事が待っている場合もある。

こういう、人が機会の平等から疎外されて絶望せざるを得ない社会は、決して平和な社会になりえないと思うし、僕たちは、この現状を少しでも変えたいと思っている。


2.児童養護施設の抱える課題

僕たちの見立てでは、児童養護施設の主要課題は3つだ。

・ケア職員数が圧倒的に不足していること:
子どもの親代わりのケア職員は、勤務時間中に平均10人の子どもの対応をしている。これだと、職員さんが仕事に忙殺されてしまって、子どもの心のケアにあたることができない。
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・子どもの養育環境が家庭に近いものになっていないこと:
全国施設の7割は、大舎といって、20人くらいの子どもたちが集団生活する仕組みになっている。虐待を受けた子どもは集団生活が苦手なので、この状況は子どもの心の回復を難しいものにしている。
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・社会全体の認知が足りていないこと:
そもそも児童養護施設という言葉そのものが認知されていないし、子どもたちは圧倒的なマイノリティでもある。だから、通常の民主主義のプロセスでは問題は解決されず、問題は放ったらかしにされてきた。


3.チャンスメーカーについて
これを解決するために、僕たちは児童養護施設のための寄付プログラム「チャンスメーカー」をつくった。

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4億円の施設を建てるのであれば、施設は7割を補助金で調達して、残りについては自己資金と借入で賄う。この借入は20年満期・無利子なので、児童養護施設は毎年何とかして600万円の寄付金を集めることができればいい。この寄付金部分を、チャンスメーカーの参加者が毎月のカード引き落としの支払いを通じてサポートする。大勢からお金を集めるのは、お金を払うことを通じた認知の輪を拡げていきたいからだ。

新しい施設は、集合住宅のような施設で、子どもたちは今まで以上に落ち着いた環境で暮らすことができる。それに、この形態の施設を作れば、なんとケア職員を4人増やすことができる。

しかも、僕たちLIPはパートタイムのNPOなので、人件費がかからない。集まったから手数料や必要経費を控除したほとんどを、児童養護施設のために使うことができる。



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この度、支援先の児童養護施設に、やっと施設新設の許可が出て、施設の新設が始まった。ここに漕ぎ着けるまで、漫画みたいな紆余曲折があったのだけれど、許可が出て本当に良かった。

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竣工は来年末の予定。これからも、どうぞ宜しくお願いします。
人間の学びに関するメモ
こういったものは、ほとんど英語ブログに寄せているのだけれど、久々に日本語でも書いてみる。人間の学びに関するいくつかのメモだ。


1.人間は追体験によって多くを学ぶ。

人間の学びは、経験と追体験から得られる。もちろん経験が重要なパートを占めるわけだが、人間の学びの多くは追体験から得られる。ここでの追体験というのは比較的広い意味で用いられていて、物語を聞かせてもらうことから始まり、自動車の運転まで様々だ。

人間の学習が経験だけに依らない一つの理由は、経験だけで学ぶことのコストが時に非常に高いからだ。例えば、飛行機の運転を経験だけで学ぼうとしたら、習熟するまでに事故死してしまう可能性が高い。

ナポレオンは歴史を非常に熱心に学んでいた。そのため、彼は指揮官として戦場に立ったとき、ほとんどの状況をパターン認識して的確な指示をだすことができたという。これも一つの追体験を通じた学びの効果を示す事例だろう。


2.人間の学習にはサイクルがあり、それは動機と認識能力(言語能力)に依存する。

学びのサイクルをモデル化すると、それは、情報を受け入れ、覚え、実施し、モチベートされるプロセスから成ると考えられている。抽象化されたモデルを通じた学びはイノベーションのドライバーでもある。

特に動機づけのパートが、このプロセスの回転率を高め、学びを早める要因 になるが、動機づけには三種類がある。経験から得られるもの、追体験から得られるもの、自分自身から得られるもの。最初の二つは外的要因によるものだが、最後の一つは個人が自分に対して設定する基準に依存している。その基準の水準は、親が高い規律を自らに課し、それを重視し、甘やかさず、他人との過度の比較を行わない場合に高くなる。すなわち、簡単に自己満足せず、前に前進し続ける人を育てたければ、親がそういう人間になるしかないというわけだ。

また、このプロセスは人間の認識能力に依存しており、その認識能力は言語に大きく依存する。言語なしには、情報を取得し、再構築し、また評価することは難しい。全ての経験や追体験から得られた情報は、認識能力が無いとすべて通り過ぎてしまう。


3.人間の成長は、本人と外的環境の相互作用によって決定される。

人間の学習は外的環境によって完全に決まるものではない。人間の行動そのものが外的環境を変えうるものであり、相互決定主義が人間の成長における外的環境の影響を記述するのに最も妥当であると考えられている。人間は環境の完全な奴隷ではなく、それそのものを能動的に変えていく可能性に対して開かれている。


Reference:
Albert Bandura,"Social Learning Theory, Prentice Hall; 1st edition (1976/11/1)
血と愛
ある名奉行の逸話がある。内容は正確でないかもしれないけど。

その人がいる奉行所に、若い女が二人、赤ん坊を抱えてやってきた。双方ともに、この赤ん坊は自分の子であるといってきかない。どこまで話し続けても、議論は平行線だった。

奉行は少し考えた後に言った。「そこまで言うのであれば、この赤ん坊は二人の子供に違いない。では、この赤子を引っ張りあって、勝った者の子としよう。」

そして、二人の女は、赤ん坊を引っ張りあった。痛みに赤ん坊は泣き叫ぶ。片方の女は、泣く赤ん坊を見て手を離した。

それをみた奉行はこう言った。「手を話した方が本当の親である。血がつながっている親であれば、わが子が泣き叫ぶのには耐えられないはずだ。」

このお話は、この奉行の機知を称えるものとして語り継がれてきた。


この話の背景には重要な前提があるように思う。それは、「血がつながっている親の方が、子どもを大切にするであろう」というものだ。確かにある程度まではこういったことは事実なのだろう。おそらく、世の中の事例を10万くらいもってきたら、そういったことが当てはまる可能性はあると思う。

でも、こういった統計的な一般論を個別の事柄に当てはめることは出来ないし、時には何の意味もないのだと、昨日は心から思い知った。

昨日はLiving in Peaceの教育プロジェクトのフォーラムが開催された。錚々たるスピーカーの一人が、女優のサヘル・ローズさんだった。


サヘルさんはイランの孤児院で育った。孤児院では毎週「オーディション」が行われていた。里親候補が孤児院を訪れて、気に入った子どもを養子に迎え入れていくのだ。里親になる人々は、まだ記憶もほとんどなく、育てやすい小さな子どもを選んだ。当時すでに4歳だったサヘルさんは、その「オーディション」に落ち続けていた。

そんなときに、将来に自分の母となる大学生と出会う。彼女は、「私のお母さんになって」というサヘルさんのために、全てを投げ出した。血のつながっていない他人のために。

イランでは里親となるには3つの条件があった。一つが、経済的に恵まれていること、もう一つが結婚していること、もう一つが子どもが産めない状態にあること。サヘルさんの母となった女性は王族の人間だったので、経済的には恵まれていた。婚約者もいた。しかし、子どもが産める体だった。

そして、彼女はサヘルさんを養子にするために、自分の体にメスを入れて、子どもが産めないような身体にした。


まだ話は終わらない。養子を迎えた彼女は、一族から追い出された。その後、フィアンセがいる日本にやってきたが、フィアンセも彼女が子どもを産めない身体になったことに憤り、自分の血のつながっていない子どもは愛せないとサヘルさんらに虐待を加えた。ならば、と、彼女はまだ幼いサヘルさんを連れて、言葉も全く分からないまま、フィアンセの家を出ていき、公園で暮らした。スーパーの試食コーナーを周り、雨の日は公衆トイレで過ごした。その後も、様々な困難を乗り越えて、二人は生き抜いてきた。

血のつながっている故の愛情があるのは事実だろう。でも、血のつながりがなくても、無償の愛は存在しうる。そいう人が世の中に存在しているということだけで人間を信じていいと思うし、世界に希望を持っていいのだと思う。
子どもの貧困と希望
明後日11月3日の午後1時から時間が空いている人は、ぜひ広尾にきてください。子どもの未来に興味のある人々であれば、後悔しないと思うので。

日本で「子どもの貧困」といってもピンと来ない人は多いと思う。でも、よく見てみるとそれは確実に進行していて、生まれながらに機会の平等を奪われている子どもがどんどん増えている。そんな状況は間違っているし、世の中全体にとっての損失だし、変えることができると思う。

変えるためには、「今はどうなっているのか」という現状認識とともに、(完全ではないまでも)「どうすれば状況は良くなるのか」というモデルが必要だろう。それをシェアすることが今回のフォーラムの目的だから、サブタイトルは“Think and Act now”になっている。


今年は豪華なゲストでお送りする。普段であれば、一人のスピーカーに90分話して頂いてそれでイベントができるくらい。

基調講演をする阿部彩さんはコンスタントに売れ続けている「子どもの貧困」(岩波新書)の著者。当日は、日本における子どもの貧困がどのようなことを背景にしてどれくらい進んできているのか、についてお話を頂く。特に今回は、児童養護施設のことを中心としてお話をしてくださるとのこと。
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さらに現状認識を進めて、子どもの貧困が複合的にからみあっている児童養護施設の現状と希望をお話してくれるのが、つくば愛児園の山口公一理事長。現場にずっといた先生の言葉にはこの上ない含蓄があり、子どもの成長とは何かという点について、深く考えさせられる。

ここまでが現状認識で、子どもの希望と、ここから先は僕たちに何ができるのかについて。二人の素晴らしいロールモデルの人にお話を頂く。

一人は、ヒューマン・ライツ・ウオッチの土井香苗さん。土井さんの本を読むと分かるように、土井さん自身も複雑な家庭環境のなかで育って、バイトしながら司法試験に合格して弁護士になり、いまは世界最大級の人権擁護組織で日本代表として働いている。当日は、土井さんの今の活動とともに、普段はなかなか聞くことができない、土井さんのこれまでのストーリーについてもお話しして頂く。

もう一人のロールモデルは、女優のサヘル・ローズさん。イラン・イラク戦争で自分以外の家族全員を亡くし、里親に引き取られ日本に来た後も、ホームレスを経験するなどをしながら今は女優として活躍している。サヘルさんも自分のストーリーを話してくださるのだけれど、それに圧巻されること間違いなし。

二人を連れて以前児童養護施設に行ったことがあるのだけれど、二人とも見事に子どもの心を掴んでいた(これはすごく珍しいこと)。自分の経験に根付いた言葉や振る舞いだからこそ、二人のことばは聞き手の心に届く。


パネルディスカッションはたっぷり時間をとっていて、会場からの質問も多く受け付けて行われる予定。ファシリテーションは僕。

今回のフォーラムの参加費は3000円だが、収支のうち半分は児童養護施設に寄付される。11月8日から発売される本の先行発売もこの日に行われる。


詳細はこちら。

◆ 日時 : 2011年11月3日 13:30~17:30 (受付開始 13:00~)
◆ 会場 : 広尾駅から徒歩2分、JICA地球ひろば 3階 講堂
◆ 参加費 : 3,000円(※経費を除いた収益の半分は児童養護施設に寄付します。)
◆ プログラム:講演(13:30~15:30)、パネルディスカッション(15:45~17:30)
◆ 参加お申込フォームはこちら → http://goo.gl/PJ3M5
拝啓 全国のタイガーマスク様
拝啓 新春の候、益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。

私は慎 泰俊と申します。海外でマイクロファイナンスを、国内で児童養護施設の資金調達支援とキャリア支援をしているNPOの代表です。このNPOはパートタイムで行っており、本業では投資ファンドで働いています。(全く関係ないのですが、私の子どもの頃のあだ名はタイガー・ジェット・シンで、勝手に親近感を覚えています。)

この度にあなたによる児童養護施設への一連のプレゼントについて、いくつか感じることがありご連絡を差し上げています。

第一に、あなたの行動をきっかけにして、児童養護施設への関心が高まったことを本当に有り難く思います。

今、全国570の施設には虐待を主な理由として親と離れて暮らす子どもが3万人います。子どもの心の傷は非常に深い場合が多く、それを癒すのは職員の地道なケアにかかっています。しかし、子どもの親代わりとなる職員は勤務時間に平均して10人の子どものケアをしており、家事をこなすだけで一日が過ぎ、ケアに時間を割くことが困難です。この状況を根本的に変えるためには、制度そのものが変わる必要があると私は考えています。子どもに選挙権がないという現実も踏まえると、状況改善のためには社会の人々の関心が高まることが何よりも重要です。


一方で、ランドセルその他プレゼントをあげたりするよりも、よりよい方法があると私は考えています。

子どもの生活に関する雑費用は全て措置費という公的資金で賄われています。児童養護施設の子どもたちは、その措置費を受け取った施設の職員とともに、お店で自分のランドセルを買うことができます。服もおもちゃも買ってもらえます。クリスマスプレゼントも。児童養護施設の子どもたちは、モノにはあまり困っていないのです。子どもたちは、僕が子どもだった頃よりはるかに多くのおもちゃを持っている場合が多いです。

このことについて、多くの人々が誤解をしているのではないかと恐れています。多くの施設において、子どもたちは、モノには囲まれています。しかし、子どもの成長にとって一番大切な、大人のぬくもりには囲まれていないのです。理由は簡単です。子どものおもちゃをたくさん買っても、100万円にもなりません。ですが、職員を一人雇うのにも500万円が必要です。

地味ですが、児童養護施設にいる子どもたちにとって一番必要なことは職員数を増やすことだというのが現場の声の大勢を占めています(私の主観ではなく、アンケートによるものです)。中長期的・全体的には制度変更が必要なのだと思います。


また、個人ができることとして、里親になることであったり、定期的に施設に通いお手伝いすることなどがあります。子どもの育ちにとって一番大切なのは家庭に近い環境で育つことなので、里親家庭が増えることは素晴らしいと思います。また、施設で勉強や稽古事のボランティアを毎週一度ずつでもして頂けると、子どもにとっては、身近な大人に触れる貴重な機会であり、また、施設職員はあなたが子どもの相手をされている間に、泣いている子どものケアや、事務作業などを行うことができます。お電話で施設にお問い合わせください。
(ただし、多くの施設は日々の業務に忙しくて対応がぶっきらぼうかもしれませんが、気を悪くされないでください)


短期的、局所的に必要なものは、個別施設への寄付です。多くの児童養護施設は個人の寄付を受け入れています。身近な施設にご連絡ください。もし寄付をする児童養護施設を探すのが難しいのであれば、ご協力するのでご連絡ください。

(追記2011.1.13.19:50:ここから途中削除しました。あとで理由とともにブログ更新します)
(追記2011.1.14.08:50:こちらのエントリーで上記の理由についても書きました。)

もしご一緒頂けるのであれば、この上ない幸いです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

                               敬具
2011年1月13日
                             慎 泰俊
全国のタイガーマスク様




「拝啓 全国のタイガーマスク様」の追伸

児童養護施設についてこれまで考えてきたこと、やろうしていること
R0015391.jpgもうすぐなのですが、11月14日午後2時から、私が行っているLiving in PeaceというNGOのフォーラムがあります。テーマは児童養護施設です。

フォーラムにもぜひ参加して欲しいのですが、これだけは伝えたい、という内容を書きました。5分くらいで読めると思うので、お時間を拝借できればと思います。


虐待などが理由で、親から隔離されて児童養護施設で暮らしている子どもは全国に3万人います。施設の数は570あります。


多くの施設はひどい状況にあり、僕たちはこれを変えたいと思っています。

「日本では努力すれば誰でもいい暮らしが出来る」というのは事実だと思います。しかし、その「努力できる能力」は、自分の人生を肯定する感情に由来していて、その根底には人間に対する信頼があります。僕が努力できたのも、決して自分ひとりのお陰ではなくて、自分を愛してくれていた人のお陰のようなのです。

暴力や放置、性的虐待を受けた子どもは、人間に対する信頼を根底から失っている場合があります。その回復のためには、受けた虐待と同じだけの密度と時間のケアが必要なのですが、ほとんどの児童養護施設は資金に余裕がなく、親代わりとなる職員を十分に雇えていません。職員は平均して10人以上の子どもの面倒を同時に見ています。ひとり親が10人の面倒をみることはほぼ不可能に近いと思います。子どもは手厚いケアを受けられず、心の回復はなかなか進みません。

子どもの自己肯定感の欠如は、数字にも如実に表れています。大学進学率が50%を越えた今日の日本において、児童養護施設の子どもの大学進学率は10%以下です。高校中退率も7.6%と、全国平均の4倍近くあります。その先には、低所得労働であったり、違法な仕事が待っている場合もあります。

人が機会の平等から疎外されて絶望せざるを得ない社会は、決して平和な社会になりえないと思います。歴史上の悲劇の多くは、絶望をせざるを得ない人々がいるときに生じてきました。僕の目には、開発途上国の貧困層と、日本の児童養護施設の子どもたちのどちらも、同じくらいに深刻なものに見えます。


僕たちは、この現状を少しでも変えたいと思っています。
根本的な問題は社会の無関心にあると僕たちは考えています。一番直接的な問題は職員数不足といわれていますが、それは結果であって根本問題ではないようです。ただし、社会の関心を高めてそれを政策変更にまで結びつけるのには、どう考えてもかなりの年月がかかるし、その間にも目の前で困っている子どもを見過ごすこともできません。

自分は何をするべきかを見つけるために、1年くらい試行錯誤をしました。転職するときに得た休暇を使って、児童養護施設での住込みもしました。住込みで現場感を得て、勉強もして、専門家やこの分野の先達にも学び、やっと解決の糸口のようなものを見つけました。

僕たちが考える児童養護施設の問題解決の糸口は、施設の改築です。

児童養護施設の建物の多くは旧式の寮のような作りになっています。これを、家庭に近い環境で子どもたちが生活できる施設に建て直すことで、とても大きな効果が出ます。

現行制度の下では、施設をこのように改築すると、職員数を倍近くに増やせるだけの補助金が毎年出てくるようになります。また、自分の住んでいる「家」がキレイになることで心が落ち着いたり、生活サイクルが安定する可能性があります。しかも、この建設費用のうち約7割は国からの補助金が出ます。

ざっくり計算の例として、定員42人の施設の新築費用が4億円だとしましょう。
このとき、もし手元に1億2千万円があれば、4億円の施設を新築できて、かつ、児童指導員(子どもの親代わりの職員)を最大で7人雇えるだけのお金が毎年出てきます。勤続年数にもよりますが、毎年4000万円くらいです。

簡単にいうと、手元に1億2千万円があれば、それが4億円の施設と、毎年4000万円のキャッシュフローに変わるわけです。都道府県別に差はあるのですが、施設の新築がもたらすインパクトはとてもレバレッジがきいたものになっています。


問題はこの手持ち資金がないことです。僕たちはこの資金を、多くの個人からの寄付で集めたいと思っています。

これまで、こういったお金は少数の富裕層がポーンと出す場合が多かったそうです。これでも当面の問題は解決されますが、根本的な問題である社会の無関心を解決できません。だから、本当に面倒で大変であっても、僕たちはより多くの人々からの寄付を募っていきたいと考えています。その集め方を考えていて、それをフォーラムで発表する予定です。

また、子どもの進学支援のための寄付のプログラムも準備しています。本質的な問題解決には、進学が最も重要だと考えるからです。


私たちのこれまでの活動や思索の集大成が、今回のフォーラムとなります。参加費の半分は、児童養護施設に寄付されます。

児童養護施設の話をするとき、ついつい感情論に流されがちですが、今回は現場の方のみならず経済学者にも参加いただき、私たちの活動意義を検証しようと思っています。基調講演者の「バナーキー」こと橘木先生は格差や子どもの貧困について研究している著名な経済学者で、今回は幸運にも基調講演をお願いできることになりました。

お忙しい中恐縮ですが、もし可能であれば足を運んでみてください。皆様からのご来場を心からお待ちしています。

日時:11/14(日) 14:00~18:00
場所:日本財団2F大会議室(赤坂) http://www.nippon-foundation.or.jp/org/profile/address.html
参加費:3000円
詳細及びお申し込み:http://bit.ly/c4tsK9

学校や児童養護施設のガバナンスの難しさを考えてみた
組織の問題行動とガバナンス不在には関係があるようだ。ガバナンスはどんな組織にも必要で、学校や児童養護施設もそれにもれない。しかし、そのガバナンスには構造的な難しさがある気がする。

ガバナンスの要諦は、その組織が、便益を受ける人のために活動をしているのか、チェックする仕組みを作ることにある。

(念のためだけど、僕は人間の善意を信じているし、実際に今までに多くの人の善意で生かされてきた。でも、組織の設計において人間の善意をあてにしたり前提に置いたりするのはナイーブだと思う。仕組みの設計というのは、どんな人間がその組織の中にいてもきちんと組織が機能するように作るべきものだと思う。)

通常株式会社であれば、コーポレート・ガバナンスは、会社が株主の利益のために運営されているかをチェックする仕組みとなる。それは株主や、潜在的な株主を通じてチェックされる。ガバナンスが不適切であり、株主の利益を考えずに事業を行う会社に対しては、訴訟や株の売却を通じた時価総額の低下等により、時には手厳しい規律付けをされることになる。

株式会社のガバナンスは株主を中心にして考えられる。なぜ社員や債権者でなく株主になのかというと、会社がうまくいかなかった時に最も経済的に被害を受けるのは株主であり、最悪の場合に一番損をする人が意思決定に影響を与えたほうが組織のうまくいく可能性は高いからだ。


学校や児童養護施設には、ガバナンスの観点から難しい問題が三つある。いわゆる社会的事業を行う組織やいくつかの政府組織にガバナンスをしっかりときかせることの難しさも、ここからある程度説明できるのかもしれない。

第一に、便益を第一に受ける人間が組織行動をチェックすることの難しさがある。
学校や児童養護施設の事業から便益を受けるのは子どもたちだ。でも、子どもたちには十分な判断能力のない場合があり、学校や児童養護施設の行動をチェックするのは困難だ。
普通の学校の場合、子どもの利益を一番に考えるのは親であり、親が子どもの代わりに学校の行動をチェックすることになる。PTAがその一つだ。その場合でも、親と子どもの利害は完全に一致しない場合があるし、親の望む学校づくりが子どものためになるのか分からない場合がある。
児童養護施設の場合は、子どもに親がいない場合が多く、学校の場合よりも問題はずっと難しくなる。

第二に、子どもの成長が定量的に評価しにくいことがある。
会社の場合は、株価を通じて会社のパフォーマンスを評価することができる。しかし、子どもの成長というのは定量的に評価するのが難しいものだ。
とはいえ、子どもの育ちに関連するいくつかの重要な指標はあるはずで、それらを導入するのは有意義だと思う。例えば、企業の社会貢献度数を計測する様々な方法はこれまでに考えられてきたし、まだ完全ではないものの一定の成果をあげつつある。同じことは、児童養護施設の評価についてもいえるのかもしれない。

第三に、組織の外に発信される情報が少ないことがある。
外部との交流を積極的に行わない児童養護施設が多いことには一定の理由がある。第一に子どものプライバシーの問題がある。虐待等が理由で親から引き離された子どもの住んでいる場所が親に知られると、親が施設に乗り込んで騒ぎになる場合がある。それはやっと落ち着いてきた子どもの心理にまた混乱と動揺をもたらす場合があり、避けないといけない。また、児童養護施設は子どもにとっての家であり、その家に外部の人が勝手に上がりこむことは異常なことでもある。
しかし、外部との交流が少なく、地域や社会に対して提供される情報が限られていると、外部の人々による組織行動のチェックはききにくくなる。とんでもない人が施設長になった場合に、その暴走を止めることが難しくなる。

ある重大な事件が生じた理由を、特別な性質を持った個人に帰するのは簡単なことだ。でも、それはあまり生産的でないし、正しくない場合が多い。ナチスドイツの台頭をヒトラー個人のせいにすることができるだろうか。事件が生じた後にするべきことは、それが生じた客観的な理由を可能な限り深彫りして考えることだと思う。そうすれば、事件が繰り返されないように、可能な限りの取り組みをすることができる。

第一の点はどうしようもない。出来ることは第二と第三の点で、適切で具体的な評価指標を考えること、可能な範囲内での公開性を保たせることには、今まで以上に力を入れてもよいのではないだろうか。


花の家の記録
色とりどりの花咲く家
東京から高速に乗って一時間足らず、緑に囲まれた山の一角に、その児童養護施設はある。パンジー、八重桜、チューリップ、タンポポらが、白塗りの時計台のような建物を囲む。
施設は1985年に設立された。地元の名士でもある親が先祖の代から持っていた山を切り開いて、施設を建てた。千葉県に17あるうち14番目の施設だ。設立当初に受け入れた人数は40人で、13、13、14というグループに、年配と二人の若い男女の計3人の職員がついていた。設立当初から、ひとつのグループがひとつの家庭を築く、というコンセプトで施設は運営されてきた。

この施設の設立の歴史は1970年に遡る。施設の設立者でもある理事長は、スイスにある「ペスタロッチ子供の家」という国際児童養護施設で働いていた。そこで彼女は、韓国人の子どもから衝撃的な言葉を受ける。
「日本人って、ひどいことをするんだってね。」
この意識が育つ背景には、国家間の反目と差別があると彼女は考えた。当時日本では殆どなかった、外国人を受け入れる児童養護施設を設立することを志すようになった。

帰国したのち、インドシナ難民の子どもを引取り自宅で育てていた時期を経て、理事長はこの施設を設立した。設立当初、子どもの3分の1が外国籍保有者だったが、そのような施設はここの他にはほとんどなかった。今は、外国籍を持っている子どもは一人だけだ。ただし、親が外国籍の人はさらにたくさんいる。

他の施設と同様、ここにも虐待、貧困、親の知的障害などの理由で子どもたちがやってくる。9割のこどもは虐待を受けている。設立当初は手が早く出る子どもが多かったそうだ。外国籍の子どもが多いということもあってか、半分近くの子どもには親がいなかった。

家庭に問題があり通報がされると、子どもたちは何も分からないまま連れ出され、児童相談所で1ヶ月ほど「保護」される。この間は学校に行けない。この状況を指して二次的虐待という人もいる。特に、千葉、東京、大阪、神奈川の社会的擁護の状況はひどい状況にあり、児童相談所は常に定員オーバーだ。児童養護施設にも、最も深刻な状況にある子どもたちが送られることになる。何も知らないままに、仲の良い友達に対しての別れも告げられず、子どもたちは自分のいた学校とコミュニティとの離別を余儀なくされる。



家庭に近い環境づくり
子供にとって一番大切なことのひとつは家庭を知ること。家庭を知らないと、僕たちにとっては当たり前のことができない場合がある。たとえば、僕たちは食卓の上に鍋料理と皿が載っていたら、自分でよそって食べるだろう。だけど、もし施設で給食の形式だけで食事をしていると、そういった普通のことも身につかない場合がある。家庭を知らないがために生じるギャップ故に、結婚時に夫婦生活がうまくいかず離婚してしまうこともある。

こういったこともあり、施設では家になるべく近い環境で子どもを育てることを目指している。子どもたちには、ここが二番目の家であると伝えているそうだ。特に年齢の高い子供達についてはグループホームをつくり、5人で共同生活を送るようにしている。でも、家に近い環境を作るにはコストがかかり、なかなか全員に対してはそうはいかない。

この施設では、月に一回会議を行っている。職員なしで会議を行う場合もあり、スリッパ並べ、ご飯のおかず、門限、外泊、携帯電話の保持など、生活に関係した内容について話しあう。


子どもが家庭を知って育つためには、里親の制度が根付くことが最もよい解決策だと言う人もいる。欧米では里親は多いが、日本では根付くまでまだ時間がかかるのかもしれない。



隣人のたすけ
施設以外の人々と接点を持つことも大切だ。この施設では、子どもたちが地域の中に浸透出来るように、村祭りを一緒に盛り上げている。他にも、クリスマス会、国際交流の会、など二ヶ月に一度は何らかのイベントがあり、周りの人との接点を持てるための活動をしている。粗食の日というのもある。これは、その日はご飯と味噌汁だけで食事をして、浮いた食費で、海外のさらに貧しい子どもたちのために寄付をするというものだ。こうして、自分たちが受け取るだけではなく、与えることも出来るという自覚を促す。

支援団体となっている企業を訪問するイベントもある。子どもたちにとっては、職場というのは町工場のようなイメージで固定化されている場合がある。そういう子どもたちが、多くの人が名前を知っているような大企業を訪問する。実際にオフィスに入り、職場の風景を見て、「自分には無理だ」と尻込みする子もいるが「自分はこういうところで働きたい」と決意する子どももいる。

施設の外にいて、子どもたちを気遣ってくれる大人の存在は本当に重要だ。施設は子どもたちにとっては家のようなもので、施設の職員が子どもに対して愛情を注ぐのは、子どもたちにとっては良い意味で「当然のこと」と思われているのかもしれない。だからこそ、外の人々が子どもに接して信頼関係を築くことには意義がある。

「ここにも自分を大切にしてくれる人がいる」という気付きは、時として人間に大きな影響を与える。例えば、社会から完全に疎外されてきた結果として罪を犯した人が、刑務所で優しい人と出会うことによって変わることがある。こういった心理的効果は、施設にいる子供にとっても同じなのだと思う。別に、子どもに対して親のように密接に関わらなくてもいい。数週間に一度の割合で顔を会わせ、お祝い事をしてあげたり、相談を聞いてあげたりする、「身近なお兄さん・お姉さん」になれるだけでも、とても大きな効果がある。

この施設は他にも、海外から人身売買同前で日本にやってきたシングルマザーが最大二年間家賃を払わずに住むための家も提供している。東南アジア系の女性が多く、幼子とともに住んでいる人が多い。



お金がモノをいう現実
国際色豊かな活動と、理事長の精力的な対外活動が効を奏し、施設の中には国際機関からの表彰状がずらりと並ぶ。下賜金を受けたこともある。表彰によって施設への信頼が高まり、さらに多くのお金が集まり、それがさらに施設の信頼性を高める。そういった正のループが回っているように感じられた。

施設にとって何より必要なものの一つはお金だと、改めて痛感した。お金より重要なものがあることには何の疑問もない。でも、お金が無いゆえの悲劇が世の中にはあまりにも多い。

お金は、傷ついた心を持った子どもたちの成長において重要な役割を果たす。お金のある施設は多くの職員を雇うことができる。職員が多くいれば、その分、ひとりひとりの子どもに十分なケアをすることが出来る。時間をかけて気遣われることほど、子どもの回復にとって重要なものはないのだ。

今日訪問した施設では46人の子どもに対して18人の直接指導スタッフを含めた総勢29人の職員がいる。真に家庭的な環境で育てるにはまだ足りないけれど、この職員数は多い方だ。

職員数が少ない施設に普段通っている僕は、職員数の違いがもたらす結果に驚かされた。こどもの表情、言葉遣い、態度といった感覚的な側面のみならず、就業率、大学進学率、勤続年数、高校中退率といった数字にも、お金のある施設と無い施設の格差が如実に現れていた。今年の三月に卒業した四人のうち、三人がそれぞれマッサージ師、障害者の施設の職員、主婦になった。一人は東京農大に進学している。この三年間で、高校を中退した子どもは一人もいない。

この施設のように職員を増やすことは容易ではない。国からの助成金は、小学生以上の子ども六人に対して一人の職員が雇える分のお金しか出ない。寄付が一切受けられない施設においては、一人の職員が施設の仕事もしながら六人の子供の面倒をみる計算になる。ひとり親で子ども六人を育てる絵を想像してみてほしい。かてて加えて、相手は心に深い傷を負った子どもたちだ。職員には、子どもに対して十分なケアをする時間的余裕がなくなってしまう。こどもの心が回復しないと、さらに子どもが問題を起こす場合がある。もっと多くの時間が必要になる。だけど、時間がない。その悪循環が続き、燃え尽きてしまう施設職員が後を絶たない。さらに、児童養護施設への就職の人気も下がっている。施設内虐待の問題が過大に報道された結果、もともと給料が低く(高い場所もある)、過酷である児童養護施設で働こうとする人は減少している。



施設の格差が第二の運命の翻弄をもたらす
暗澹たる気持ちになる。子どもは生まれてくる親を選べない。それは運命というには酷なことだ。

さらに、子どもたちは、自分がケアを十分に受けられる施設に行けるか否かについても、運命の偶然に委ねるしかない。親からの虐待にあい、何も分からないまま親から引き離され、児童相談所に1ヶ月間閉じ込められ末にまた運命に弄ばれるのはあまりにも酷なことだ。

社会の役割のひとつは個々人がなるべく運命の偶然に翻弄されないようにすること、言い換えると、個々人リスクを下げることにあると僕は思う。ある子どもが、運悪くひどい家庭に生まれてしまったとしても、公的施設の存在が最後の支えになる。その公的施設に格差が存在するのは、税制されるべきだと僕は思う。

こんなこともあってか、最近僕の頭からは施設の資金調達のことが頭を離れない。ミクロレベルで、ある一つの施設の資金調達を支援することは、頑張れば可能だと思う。だけど、これは構造的な問題であって、構造的な問題解決を考えたい。もちろん、目の前のことも忘れずに、コツコツと活動は続けていこうと思う。

卒業生が語る朝鮮学校
NYにいる友達から質問を受けました。

「朝鮮学校ってどんなところ?」というのは、知りたいです。前に授業はコリア語で、日本語もあったりすると電車の中で教えてもらいましたが、特徴はどんなところですか?教科書はどこが出版しているのですか?指導者の崇拝は学校で行うのですか?」



大分返事が遅れてしまったのですが、このエントリーで答えられたらと思っています。

僕のいた朝鮮高校の沿革はこちら。
http://www.t-korean.ed.jp/sub6.html

もともと、在日コリアンが帰国するための準備として、子供に言葉を教えるために建てた国語講習所が朝鮮学校の母体です。一番苦しかった戦後の時期に、朝鮮民主主義人民共和国から何度にもわたり億単位の資金援助を受けてきたことがあり、その恩義を感じている在日一世・二世は多いです。朝鮮学校がかなり北よりであることの一因は、ここにあると思います。私の父は、一切政治的なことを話さないのですが、常に「義理人情だけは忘れてはいけない」といつも話していました。



授業内容
基本的に朝鮮語で行われます。日本語の授業は別にあります。英語の授業もあり、最近はネイティヴの講師が教えているそうです。日本の学校の授業にないものといえば、言葉以外は、朝鮮地理・歴史くらいでしょうか。

歴史の授業は、教科書が変わる度によりソフトになっているようですが、僕が高校生だった頃には、現代朝鮮革命歴史という科目がありました。日本の植民地になった時代から現代までのことを学びます。基本的に朝鮮労働党の革命史観で議論が展開されます。ただし、指導者の崇拝を強要されたり、従わないことで不当にリンチを食らったりすることはありませんでした。(それより、タバコや酒などがバレた時の説教および体罰の方がすごかったです、当時は)

教科書は、学友書房という出版社から出版されています。日本にある総連系の出版社です。教科書の出版に対しては本国の批准が必要らしいのですが、詳しいことはわかりません。よいことか悪いことかは分かりませんが、中学生のころの社会(世界史・地理)の先生は、教科書を一切使わずに授業をしていました。




生徒の構成
朝鮮籍が半分、残り半分が韓国籍です。最近は日本国籍の子供も増えています。
韓国系の学校もあるものの、最近は本国のビジネスパーソンの子どもが増え、在日の人には居にくい環境らしいです。



なぜ朝鮮学校は北よりなのか
生徒の父母の中では、もう北寄りはやめてくれ、という要望がよく出ているようです。

朝鮮学校が北よりになっているのには二つ理由があると思います。ひとつは、苦しい時期に支援を受けてきたという歴史的背景。もうひとつは、自分たちのコミュニティを守るためには国家を拠り所にする必要があること。大韓民国が在日コリアンに対し長く棄民政策を行ってきたことから、選択肢は限られていました。

一見不合理に見えることにも、その状態を継続させる何らかの要因があります。それを見据えずに大上段からものを斬るように論評するのは、藁人形相手にボクシングをするようなもので、空虚ですし何も変えられません。どんな場合でもそうですが、まずは、状況を形作っている要因をしっかりと理解することに努めたいといつも思います。

朝鮮学校に通っていた人は同意してくれると思いますが、先生の教育におけるモチベーションは、在日コリアン社会をよりよくすることであって、特定の政治的目的や国の利益を実現するためではないと思います。人間的に素晴らしい先生の比率はとても高いです。



個人的に感じている朝鮮学校の特徴

(1)ガラが悪い
僕たちのころまでは特に、ガラが悪いことで有名でした。ビーバップハイスクールは、朝鮮学校がモデルだそうです。
特に東京はかなり時代遅れ(いい意味で)であり、映画「パッチギ!」的な世界が繰り広げられていました。僕が1年生の頃は、「高3の〇〇先輩たちがまた暴走族をつぶしたらしい」、といった喧嘩話に花が咲く学校でした。僕も一度アイロンパーマというのをしたことがあるのですが、それをすると、電車で座れる確率が格段に高まりました。

そういう学生を指導する先生もハンパでなく、もともと伝説の不良だった人とかが先生になっている場合もあります。

ヤクザに拉致された学生を取り戻すために事務所に乗り込み、「腕一本おいていったら、生徒を返してやる」という言葉に応じて腕を切ることを辞さなかった(でも、結局はその心意気に免じて切られなかったのですが)先生とかもいます。とにかく、学生と先生にまつわる伝説はたくさんありました。


(2)多様性が高い
普通の高校であれば、偏差値に応じて通う学校が決まるので、高校の同級生の均質さは高いと思います。ですが、朝鮮学校はコリアン社会の全ての人々が来るので、学生の多様性はとても高かったです。びっくりするようなお金持ちの同級生もいれば、本当に貧しい同級生もいました。学力についてもバラバラで、日本のいわゆるよい大学に入っていく高校生の隣に、九九に手こずる同級生が座っていたりします。勉強ができない同級生のために、勉強のできる子が教える光景はよく見られました。 

僕が貧困に関心をもつ直接のきっかけは貧しさゆえに大学に行けなかった友人にありましたし、様々な人を受け入れる気質もこの学校で学んだ気がします。


(3)人間教育が本当によくできている
ここまでで大分書きましたが、あの学校ほどに人間性をちゃんと育むことができている学校はあまりないと思います。
朝鮮学校の財政は非常に苦しく、給料が出ないことは日常茶飯事です(特に地方では、1年間で一度しか出なかった、とかもある)。それはそれで解決するべき問題なのですが、そんなに苦しい状況にあっても先生は学生のために一生懸命に教えています。そういうことが、学生指導の様々な場面で如実に現れていると思います。指導者の崇拝を行わなくても怒られませんが、人として間違えていることをしたら徹底的に詰められます。





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