Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
コーディネート力
事の始まりは、今の勤め先の面接に遡る。

僕:「モデル作りなら誰にも負けないと思います。」
相手:(ため息をついて)「そういう、エクセル早いですとかって、この仕事じゃあまり重要じゃないんだよね。全体のコーディネートをどうやってするかが大切なの。」

仕事を始めるようになって、この言葉を思い知るようになる。


今の仕事を通じて知った、実務上の一番大切な能力の一つは、全体のコーディネート力、とでもいうようなもの。PE(Private Equity)以外のプロフェッショナルファームでは、こういった能力を使う機会は意外と少ないかもしれないので、いまいち伝わりにくい気もするが、ちょっと書いてみる。この能力は、パートタイムでNPOをする上でも、本当に大切な能力だと思う。

PEの投資プロフェッショナル達が一つの案件をするとき、自社チームの人数は5人くらい(会社によっては大量に人を貼り付けるが)。このチームだけで投資先のデューディリジェンス、株主や経営陣とのやりとり・交渉、株式取得に関する諸々の手続き、ファイナンスづけなど大量の作業をすることはリソース的にも、知見的にも不可能だ。

だから、大勢の人々と一緒に仕事をすることになる。具体的には、弁護士、会計士、税理士、戦略コンサル、投資銀行の人々と仕事をすることになる。案件の大きさにもよるけれど、この協働する人々の人数は30人にはなる。しかも、皆それぞれの分野の専門家で、「自分よりはるかに物事をよく知っている人」との仕事になる。

こういった仕事をするためには、自分たちよりもはるかに大勢で、かつ専門性を有している人々と働く能力を身につける必要がある。それがコーディネート力で、必要なタイミングで必要な外部リソースの助けを借りつつ、その支援者がもたらしてくれる知見をしっかりと理解して次に進める能力とでもいえるだろう。コーディネート力を身につけるためには、相手の言うことを理解できるに必要な知識と、全体感を持つことが重要になる。

こういった能力は、自分の本業でもすごく大切な能力なのだけれど、自分がパートタイムで行っているNPOでも必要な能力だとつくづく思う。NPOの中にいる人々だけでできること、出せるアイディア、ソリューションには限りがある。その限界をしっかりと認識して、外部リソースとの連携をうまく活かして、所期の目的を達成するためのコーディネート力を発揮してこそ、最大の成果を出すことができる。
スポンサーサイト
数え方
今日は泳いだのだけど、その途中でふと気付いたことがあった。往復回数の数え方だ。

例えば、片道50mのプールで3キロ泳ごうとしたら、プールを30往復することになる。ただ泳いでいると自分がどれだけ泳いだのかを忘れてしまうので、今何キロ泳いだのかを、往復回数で数えることになる。

このとき、どうやって往復回数を数えるだろうか。二つの数え方がある。一つは、1、2、3と泳いだ分を数える方法、もう一つは30、29、28と、残り泳ぐべき分を数える方法だ。

この数え方一つに、根本的なものの見方考え方の違いがあるかもしれない。泳いだ分を数える方法では、視点は過去にこれまでやってきたことにある。終わった時には、この例なら、30回という数が残って終わる。多少の達成感もあるのかもしれない。

一方で、残っている往復回数を数える方法においては、視点は未来にある。達成するべきものだけが目の前に見えていて、達成されたときに、回数はゼロになる。少し大袈裟かもしれないが、修行を終えたお坊さんが、全てを終えた後の心が空であると表現するのに似ている。

残念ながら、僕のこれまでの数え方は前者だった。そこには、もちろん未来を向いてはいるものの、若干ながら過去に達成したものに目を向けてしまう自分の傾向が見て取れた。

これは、単に泳ぎにおける回数の数え方という問題に限定することは出来ない。日頃の何気ない所作の中にこそ、その人の本質があるという考え方に立てば、これは無視できない傾向だ。似たような問題としては、無くなってしまったものを数えるのか、残っているものを数えるのか、というものもあると思う。

心のあり方と行動は相互に影響しあうので、まずは、ものの数え方から変えてみようと思う。
相互理解について
人は他人を完全に理解することはできない。それは、僕達が使っている言葉や言葉遣いがあまりに多義的だからだ。

例えば、僕達が「ほら、あれだよ」というときに、その言葉が差す対象と、「あれ」という言葉の間にはどうしようもない曖昧さが生じている。言葉遣いも多義的だ。太陽は東から昇る、というが、これは本当の意味的には正しくない使い方だ。本当は、地球が太陽の周りを回っていて、太陽が東から昇っているように見えるだけだ。ただ、便宜的な理由もあり、さまざまな言葉遣いが多義的な用いられかたをされている。

このように、人間のコミュニケーションは、不十分な言語を使って行わざるをえない。だから、人が他人を完全に理解することはできない。


ここで「他人を完全に理解できない」としたのは、他人を100%理解することはできないという意味であって、努力によって理解を例えば90%にまで出来る可能性はあるのだろう。ただし、よりよい相互理解を可能にするためには、より多くの時間を過ごし、同じ文脈を得られるような努力が必要で、それは多くの人とできるようなものではない。特に、経験が違う人々の間では、理解が深まる可能性はかなり低く、話しても理解してもらえない、ということは往々にしてある。このように、言葉の限界上、相互理解は構造的に難しい(特に経験が異なる場合には)ということは貴重なインプリケーションの一つのように思う。

もう一つ、発想の転換的なインプリケーションもある。それは、人は他人から完全に理解されなくても生きてきたし、生きていけるということだ。僕達はよく、「誰かから理解されたい」、とか「何で理解してもらえないのか」と気を揉む。もちろん、誰かからある程度理解されるのはうれしいことかもしれないけれど、それに多くを費やすには人生は短すぎるので、近くにいる大切な人とは相互理解の努力をしつつ、あとは自分の内なる声に従ってやろうと思うことを行うのが良いように思う。
文章力
僕自身に対する警鐘も含めて。

最近、全体的に日本語を書く力が落ちていると思うのは気のせいだろうか。具体的にいうと、あるアイディアをまとまった分量の文章にして説明する能力が社会全体で落ちている気がする。ここ1,2年という時間軸の話ではなくて、この数十年の時代毎に書かれてきた文章を見比べながら漠然と感じていることだ。

尤もらしい理由はある。まず、多くの会社は提案において文章ではなくパワーポイントのスライドを用いることになり、文章を書く機会が減った。ウェブ上でまとまった考えを書くメディアであったブログも、TwitterやFacebookに代替され、ユーザー数を落としている。情報通信手段の発達によって、電話やメールなどで誰かに思考を中断させられることも増え、じっくりと物事を考える時間が減った。こういった事情が、全体としての日本語能力を下げることにつながっているのかもしれない。


人間の思惟能力と言語能力は相互に依存しているといわれる。もしそれが事実なら、文章力の低下は思考力の低下を招くということになる。僕が観察している限りでは、たしかに考えの深みと文章力は相互に関連しているようにみえる。

文章力は日々の訓練の賜物なので、毎日何かしらのアウトプットを行うことは文章力の涵養のために重要だと思う。慶応大学の石倉洋子先生やマネックスグループの松本大社長は、世界中を飛び回って超多忙であるにもかかわらず、毎日ブログを日本語・英語両方で書いている。このような規律だったやり方が、今だからこそ必要なのかもしれない。
定かならぬもの
最近、このブログをどうしたものかと考えていたのだけれど、やっと運用方針を決めることができた。

これから、このブログでは、自分が心動かされたものについて、なぜ自分がそう思うのかを掘り下げて書くことにしようと思う。

専門家の間で既に知られていることを噛み砕いて書いてみたり、様々な場所に散らばっている情報や海外の情報を紹介したりすることから自分が得られる意義は限定的になっている。何かをちゃんとした形で調べるというのは本業や執筆活動で相応に規律をきかせてやっていることなので、ブログでそういったことを書いても追加的に得られる学びはあまり多くない。ただ、先の事柄を慣れない言語で書くことには意義がまだ残っていると思い、知的関心がある事項のメモはほとんど英語のブログに移行した。


上記のようなことも踏まえ、これからこのブログでは、すでに明らかであること、時間をかければ明らかになることではなくて、もう少しふわっとした、何とも言葉にしにくいものを言葉にする試みの場としたい。それは多分、面白いと感じたことや、感動したこと、憤りを覚えたこと、興味を抱いたこと、といったものになるのだと思う。

期待する効果は三つある。一つは、自分自身を含めた人の心をよりよく理解することが出来るようになることだ。自分自身の内なる思いは、言葉にすることによって、より深く理解できるようになる。それは、紙と鉛筆で書くことを通じて、暗算で出来ることをはるかに上回る計算ができるのに似ている。自分の思いを字に反映させることで、自分との対話を通じたより深い自己理解、ひいては他者理解につながる。多分、数年後にこの類の文章を読み返すのは幾分か恥ずかしくもなるものだけれど、そういった恥ずかしさを乗り越えてでもやる意義はあるのだと思う。

もう一つは、イノベーションのためのネタづくり。多分これからのイノベーションが必要としていることの一つは、「人の心を動かすなにか」だと思う。自分の心を動かした理由をしっかりと言語化して、それをモノづくりの現場において活用することによって、イノベーションが生まれるのではないか。現時点でも、僕達は児童養護施設のための寄付プログラムや、マイクロファイナンス・ファンドの企画をしているので、これはかなり差し迫った課題でもある。

最後は文章能力の向上だ。見えていることを書くことは、書き写しに似ていて、文章能力を伸ばしにくい。一方で、人の心の機微を言葉に落とし込むのは、定かならぬものを少しずつ形にするプロセスを伴い、大きく文章能力を伸ばしてくれる気がする。

ということで、ぼちぼちこのブログを再開しようと思う。

Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。