Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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一番難しいときに②。
 一番辛いときに、その人の真価が問われると思う。
 これは、昨日のエントリーの内容。

 この、「一番辛いとき」の心得は、人との関係でも同じことが言えると思う。
 
 一番辛いときに、一緒に苦しんでくれる友達とは、一生縁が切れることはないと思う。
 
 高校を卒業してから、離れていても、ちょくちょく連絡を取ったり飲みに行ったりするのは、やはり、一緒に辛いことをやりとげてくれた友達である。 
 サッカーの個人練習を毎日一緒にした友達や、高校の学生運動で一番苦しいとき・自分が孤立してしまったときに、苦しんでくれた友達や先生とは、これからも縁が切れることはないと思う。

 大学の軽音サークルの頃の友達と今も仲良くしている理由も、音楽が本来もつ楽しさだけゆえではないと思う。 4年間、部活でないゆえに課せられた殺人的なスケジュールをこなしながら(スケジューリングにも問題はあったはずだが・・・)、練習を一緒にした仲間だからであると思う。 徹夜で練習して、学内での支持を得るために、授業中はしっかりと起きて、部活や学生運動をして。 ああ、若かったなあ。

 楽しみを共にするのも重要ではある。 しかし、楽しみのみを共にするのでは、深い関係は築きにくいと思う。

 だから、他人が本当に辛いときに手伝ってあげればと思っている。 勉強する時間は喉から手が出るほど欲しいのは事実だが、それは、自分が手伝った彼・彼女らもまったく同じことであるのだから。 

 他人に対して傍観者の態度を取れる人であるか、それとも、ともに苦しみ、ともに喜び、ともに罪を受ける人であるかどうかは、決定的な差異である。 後者は真に生きている人だ。
 ホフマンスタール


 ただし、色々なことに首を突っ込みすぎて、本末転倒になることは避けなければいけないので、時に、判断に迷うことは多い。

 倫理や正義感などは、いきなり発揮されるものではないと気づいた今日この頃。 日ごろの修練のみが、とっさの献身的な行動に現れるのだと思う。
 小学・中学時代の自分を知っている人間はよくわかると思うが、元はかなり良くないので、コツコツと、自分を磨いていきたい。
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一番難しいときに。
 父から常に言われてきた事柄の一つ。

 本物の人間は、一番難しいときに一歩踏み出せる人間だ。
 周りが乗り気になっているときに行動をするのは、誰でも出来る。 本当にえらいのは、周りが誰もしようとしないときに、敢えて出来る人間だ。 日ごろの行動は当たり前、人前で話すのもそう、掃除などもそう。


 この教えは、いまも、自分の奇妙な反骨精神と英雄主義と相まって、自分の心の中で醸成している。 

 このごろになって考えてみると、やはり、自分に一番大きな影響を与えたのは、父のようである。 ふと振り返ると、この言葉にかなり近く生活をしている自分がいる。

 きついときに、一歩前に出る。 もしくは、敢えて、きついやり方を選ぶ。 そのためか、友達には、マゾ呼ばわりされる。 まあ、サドかマゾかと言われれば、マゾに属してしまうのであろうが。 うう、話が変な方向に・・・ 

 今日、降りしきる雨の中、ポロシャツのみを着て数時間も作業をし続け、熱ぼったくなっているあほな自分を振り返りながら、ふと、こんなことを思い出した。 この性質を、もうすこし、自分の能力向上に使えるように、がんばりたいものである。
キャンディ。
 多くの批判を受けるかもしれないが、書く。 これは、個人的な意見に過ぎず、それを利用する人々に対し、なんらの中傷も意図していない。

 小平は小川町にキャンディなる名前の定食屋がある。 名前からして、変わっている。 もとは、喫茶店兼定食屋だったのだが、いまや完全なる定食屋である。
 今も昔も、自分はこの店が好きになれない。 自発的に行くことはない。

 店内。
 ひどい油の匂い。 どころか、テーブルや椅子まですこしべとついている。 店を出ても、服に匂いが染み付く。 不快。
 
 次に、水がとてつもなくまずい。 一口、口をつけただけで参ってしまう。 この水でご飯を炊いたり、味噌汁を作ったりしているわけだから、当然、その味も悪い。 朝大の食堂の方がはるかにおいしい。

 次に、料理が出てくるのがとても遅い。 待つときは、30分以上待つことになる。 酒を飲む場合以外に料理屋で待つのが嫌いな自分には、これもいやである。 

 次に、味に比べ、価格が高い。 コレステロールの塊のようなあの味で、あの価格は、ありえない。 量は確かにあるが、それは、ご飯の量でしかない。 おかずの量はたいして多くない。 体作りのために、ご飯を余り取らずに、おかずを多く食べたい自分には、これもマイナス。

 最後。 会話を楽しめない空気がある。 これが、最大の理由。 
 人と食事に行くのは、なにも、同じものを胃の中に入れるのだけが目的ではない。 それなら、家畜と変わらない。 自分は、人と食事に行く時は、ゆっくりと、その人と色々な話をしたい。真剣な話から、楽しい話まで。 
 なのに、その量のせいか雰囲気のせいかよくわからないが、あの定食屋には、食事を掻きこむだけの所といったイメージが感じられる。 時に、食事に行ったにもかかわらず、お互いが、据え置いてある漫画や雑誌を手にとってそれを黙って読みながら食事を待つ光景を見る。 自分の判断が正しいと思わないが、自分にとっては摩訶不思議な光景。
 その空気は、上で上げた理由+他の客の行動により醸成されているのだと思う。 

 これらの理由から、自分はこのキャンディなるお店が好きになれない。 
 蓼食う虫も好き好きなので、この店に好きな人に何か言うつもりは一切無い。 ただ、自分が好きになれないだけである。 
 さらに、学生の頃には、食堂の代金は前払いで全日分払っているのである。 それなのに、特別な理由なしに、わざわざこのようなお店に食事をしに行く理由が考えられなかった。 特に、学生の時分にはお金が無かったので、そのような食事に行く金があるのなら、その分の金で、古本屋で新書や文庫本の5冊でも買って読むほうがはるかにましであった。 

 今日も、ついつい勢いで入ってしまいながら、激しく後悔している自分であった。 文のとげとげしさの理由は、そこにもあると思われるので、ご勘弁をお願いしたい。
2つの目。
 二つの目で物事について考えることが重要と考える。 愛の目と理の目。

 愛の目をもって人を見る。 努力している人や、献身的な人を見ながら感動し、何かしてあげたいと感じ、実際に助ける。 とても大切だと思う。

 しかし、一方で、理の目も大切である。 その物事の合理性について考えたり、根本的な原因について考えてみたりする。

 
 愛の目、理の目、片方しか持っていない人が多いと思う。
 
 愛の目のみだと、問題について、感情論の上でのみ判断してしまう。
 理の目のみだと、問題について、合理性の上でのみ判断してしまう。

 どちらか一方しか持っていないと、好ましくない。
 どちらにせよ、正確な判断をすることが出来なくなってしまう。 片目で見ると、遠近感がわからなくなってしまうのと同じように。

 例えば。
 ある組織の中で、他人の為に一生懸命に努力している人がいるとする。 しかし、なかなか報われない。
 そんな人についてどう考えるべきであろうか?
 その献身的な姿はすばらしいと手放しで評価すべきであろうか。
 逆に、報われないという結果のみについて、冷評すべきであろうか。 
 
 その人の心持に賛辞を与えつつ、一方でなぜ事がうまく言っていない事実を冷静に捉え、その理由について考える。

 そういうものの見方の重要さを痛感する、今日この頃である。
一生懸命に。
 このところ、ブログの訪問者がかなり増えた。 うれしいことである。

 ある催し物の為に何人かの友達が準備をすすめている。 本人たちも、かなりの長期間その準備に参加するのは本意ではなかった。 しかし、彼・彼女らのスキルを有する人間が他にいなかったのでしょうがないといえばしょうがない。
 そういう、他人の為に頑張っていると、いたたまれない気持ちになる。 しかし、そういう気持ちになりこそすれ、己の行いについて恥じ入る必要は一切ないと思う。 自分も彼女・彼らと同じ心持で、目の前のことに一生懸命に向かえばよいのである。

 ふと、詩を思い出した。

 朝鮮植民地の頃の詩人、ユン・トンジュの「序詞」という詩である。 自分が最も好きな詩人である。 日本語訳を読んだことはないが、自分なりにやってみようと思う。 


 死のその日まで天を仰ぎ 一点の恥もなき事を

 葉をそよがせる風にも 私は気だるさを感じた

 星を歌う心で 全ての死にゆくものを愛せねば

 そして 私に与えられた道を歩まねば

 今日の夜も 星が風に吹き曝される



 全てのものに対する愛を持ちながら、己に与えられた使命を懸命に果たす。 そういう風に、生きたい。
感謝の気持ちを忘れずに。
 いったん書いたエントリーが消えてしまい、とてもショック。 書き直す気力も無いので、要点のみ書く。

 どんなときも、自分を支えてくれている他人に対する感謝の気持ちを忘れないこと。
 
 これを忘れたときから、その人の人間的な堕落が始まると思う。
アカウンティング。
 外資系の証券会社の人事部長さんのアドバイスに従い、会計の勉強を始めた。
 
 この分野の知識は、ほとんど無いので、本当に初歩の初歩からのスタートである。
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0070375933/qid=1117021044/sr=8-1/ref=pd_ka_0/249-7161002-6188367 本も購入。

 現在3日目、一日で1章のペースで進めている。

 しながら、すでに、かなり、感動。
 企業の経営活動について、合理的に記録する、帳簿の美しさに感嘆している。

 レオナルドダヴィンチ曰く、複式簿記というものは、人類の生んだ偉大な発明だったのだと言う。 その言葉の意味を、理解する。 

 あれだけ複雑な活動をしている企業の経営を、網羅する枠組み。 また、それを読みながら、人が、その企業について分析をすることも出来る枠組み。 うーん、何でもっと早く勉強しておかなかったのだろう。 

 ただ、計算が、だるい。 電卓が手元に無いので、暗算なのだが、時間がかかるかかる。 大変である。
 早いところ、電卓を買わねば。
 
 また、新たな、知の枠組みとの遭遇である。 明日も楽しみである。
鈴木敏文。
 鈴木敏文という人をご存知だろうか?
 セブンイレブンの経営者であり、現在日本で最も評価の高い経営者の一人である。

 この人の本は、とても参考になる。
 「統計心理学」
 「本当のようなウソを見抜く本」

 など、著作活動も旺盛で、それらに対する評価もとても高い。

 自分なりに、彼の著作や、雑誌記事を読みながら感じたこと。
 

 「一切の予断を廃して、自分の力で考えること。」

 この一言に尽きる。


 例えば、彼は、「現在、消費者は安い商品を求める」という情報を鵜呑みにしなかった。 質が良いものであれば、消費者はそれを購入すると考えた。 
 そこで出てきたのが、セブンイレブンの高級スイーツ類である。 類似した他のメーカーの商品に比べかなり高価であるにもかかわらず、これらの商品は、かなりの売れ行きを見せている。
 
 例えば、彼は、「顧客のために」という言葉を従業員がすることを禁じた。 なぜなら、「顧客のために」というと、顧客についての固定観念を持ってしまうことになるからである。 代わりに、「顧客の立場になって」という考え方を奨励した。

 例えば、彼は、「不況期には、消費が落ち込む」という情報をも、信じなかった。 そして、統計を見ながら、むしろ、不況期であっても小売分野での消費は伸びているという裏をとった。

 
 あらゆる情報や言説に対して、鵜呑みにせず、情報に対し仮説を立て、信用できる情報を元に検証する。
 セブンイレブンの大躍進の理由の一つは、この事柄を、地道に続けてきた成果だと思う。

 生き方について考えるのにも、役に立つと思う。 

 一切の予断を廃し、自分の力で考えて、生きる。
ユーモア。
 今日のカウント数は、初の100オーバーを記録しそうである。 それにしても、このブログの訪問数の変動は、まさにランダムウォーク。

 最近、真剣にほしいと思っているものがある。

 ユーモアである。

 このごろ、ユーモアの持つ力について、強く感じるようになった。 実務的な話で言えば、ユーモアがあれば、交渉時に遥かに事を容易に運ぶことが出来る。 のみならず、悲観にくれているときに、気休めながらも生きる元気を与えてくれると思う。
 
 ので、ユーモアについて考え中である。 
 何かについて考えると、すぐさま、図書館で本を何冊も借りるのは悪い癖。 こんなんで、ユーモアがつくものか。

 しかし、ユーモアについて、ある程度の分析は出来るようになった。


 まず、人が面白いと思うパターンについて
 ・なんらかの不適合感をうまく醸造している。
 ・自己をとことん客観化する。

 が、2大パターンなのだという。


 次に、ユーモアのある人は、
 ・常に人を笑わせようと考えている
 ・人の輪に積極的に入ろうとする。
 ・日ごろ明るく振舞うよう努力する。
 ・人に優しくする。
 という事を心がけている傾向があるとの事である。
 
 
 さらに、笑わせる能力で重要なのは、
 ・創造性
 ・社交性
 ・間・雰囲気作り
 
 なのだという。 

 なんだか、道が遠く感じるのは気のせいか。 さらに、おそろしい実験結果。

 人が他人のユーモアについて笑う際に、慣れというものが多くを占めているのだという。
 よくあることだが、おなじ類のユーモアでもある人がやれば面白いのに、ある人がやると一つも面白くない場合がある。 
 社会関係の中で、一度、ユーモアのない人間として位置づけられてしまうと、その殻を破るのはとても難しいとの事。 ガーン。

 
 とりあえず、救いの内容としては、

 ある程度までは、面白いものを真似るだけでユーモアを得られるということである。 特に、広範な人に好かれるユーモアは、落語から探すのがベストなのだという。 

 ちなみに、うちのアボジはかなりの落語好き。 今日あたりから、寝る前に落語でも聞いてみようかしら。
LBOについて②LBOの利点。
さて、レバレッジについての説明を終えたので、次は、LBO全般の利点について述べようと思う。

ざっくり言って、LBOの単なる買収に比べた場合の利点は

①レバレッジによる資本・リターン比率の向上
②課税対象額の減少
③経営陣に対するプレッシャー

が、あると思われる。

①は、前回のエントリーで述べたとおり

②課税対象額の減少
 金利に対する支払いには、税金がかからない。
 そのため、レバレッジを大きくすることにより(買収の際の資本を増やすことにより)、税金を少なく払うだけですむことになり、この分、企業の価値は増加することになる。
 
③経営陣に対するプレッシャー
 負債を高めれば高めるほど、倒産のリスクは高くなる。 
 経営陣というものは、えてして、倒産のリスクが低くなった場合、放漫経営をすることが多い。 しかし、倒産をしたときに、もっとも責任を負うのは経営陣であるため、負債を増やすことで倒産のリスクを上げ、経営者が経費の無駄遣いなどをすることが減る。 


 
 これらが、現在、バイアウトファンドが買収をする際にレバレッジをかけたLBOを多用する理由である。 負債を多くするということは、経営はなるべく自己資金でまかなうべきという、従来の経営の基本的な考え方に抵触するが、以上の利点からLBOはよく用いられている。

 ただし、先にも述べたように、負債を増やすほど倒産のリスクは上がるし、さらに倒産をした際のコストもかかる。 これらの不利点の上、さらに、この不利点により、金融機関から借り入れをする際の金利も上がることになる。

 さらに、エージェンシーコストの問題もある。 エージェンシーコストとは、株主・債権者と経営者の利益が相反することから生じてしまうコストである。モニタリングコスト、経営者の非金銭的満足のための支出による企業価値の減少、ボンディングコストなどがそれに含まれる。 このコストにより、企業の価値は減じることになる。 


 よって、ある程度のレバレッジをかけつつも、さまざまなコストを鑑みて、最適な資本構成というものを考える必要がある。 どれくらいの比率がベストかと。 こういうことを、金融工学では数式を用いて計算したりするのだが、文系の自分には、式の意味を理解は出来ても、それ以上はお手上げ、エクセル君などに計算を任せているのが現状である。
LBOについて①レバレッジについて。
 更新が遅れて申し訳ない。

 予定通り、LBOについての説明をしようと思う。
 LBO,Lveraged BuyOut(てこのかかった買収)の意味である。
 
 今日は、レバレッジの効用について語ることにする。

 てこのことをレバレッジというのだが、このものの考え方は、とても重要である。 買収時のみならず、企業のファイナンスをする際に考えるべき概念である。

 さて、レバレッジとは何か。 
 イメージ的には、てこと同じである。 てこの原理によれば、てこが長ければ長いほど、より大きなものを持ち上げることが出来る。 
 てこを金に見立ててみる。 やはり、資金が多いほうがより大きな企業をもちあげられる(買収ができる)。
 しかし、自己資本だけでは、どうも、今回はてこの長さが足りないようである。 

 そのようなばあい、金を金融機関から負債として借り入れ、その資金とともに、買収をかけることがある。

 買収した企業が成長すれば、負債は利子つきで返せばよい。 この場合、持ち前の資本に比較して、多くのリターンを得ることが出来る。

 例 200の商品を買い取り、その1年後の価値が300になった場合。

 1.レバレッジをかけない場合
 
 200の商品を、すべて、自己資金で購入。
 その後、商品の価値が300になるのだから、
 投入資金  :200
 その後の価値:300
 で、投入した資金が、1年で1.5倍になったことになる。

 2.レバレッジをかけた場合

 200の商品を、自己資金100、負債100(利子10%)で購入。
 投入資金         :100
 その後の価値       :300
 負債の返済額       :110
 その後の価値-返した負債額:190

 結果、投入した資金が、1年で、1.9倍になったことになる。
 
 資本に対するリターンの比率が高まること。 それが、LBOをした際の最大の美味しさである。
 しかし、いいことばかりではない。 負債を増やすということは、何よりも企業の倒産のリスクを高めることになる。 さらに、金利以上に購入した対象の価値が上昇しないのであれば、収支はマイナスとなってしまうのである。
 
 ビジネスの世界には、ハイリスク・ハイリターンの原則がある。 市場が効率的であれば、リスクが高ければ高いほど、結果の報酬は高くなる。 逆もまたしかりである。 バイスバーサ。
 LBOによって得られるハイリターンは、それが負う高いリスクの代償である。 
 
 さて、今回は、レバレッジについて説明した。 
 次は、買収時にLBOが持つその他の効果について説明しようと思う。
わの会。
 LBOについては、明日書くことにする。 今日の出来事について、感想が風化しないうちに書き付けておきたいからである。


 先日面接をしてくださった方に誘われ、食事会に参加。 とある、割烹料理屋へ。
 
 「わの会」という名称で、日本酒を楽しむ会である。 もともと、お酒を好きになったきっかけは日本酒だったので、参加以前からとても楽しみであった。
 食事会は、大満足。 日本酒もさることながら、料理も本当に美味しかった。 順番に出される6種類の日本酒と合うように考えられた料理は、絶品であった。 
 ほとんどは、魚料理。 やはり、日本酒には、魚がよくあう。 日本酒に含まれているアミノ酸が、魚のうまみをさらに引き出してくれるし、魚料理に使われる、わさびやポン酢に負けない力強さがある。 

 面接をしてくださった方以外にも、MBAの卒業生が何人か参加されたのだが、気を利かせて、自分の近くに座らせてもらえた。 
 二人の卒業生の方の話は、本当に参考になった。

 自分の将来のビジョンについて話したところ、今、自分が何をすべきかについて、いろいろとアドバイスをくれた。 本当にありがたい。 

 大学で法学を専攻したのなら、二重学位を取得し、その後、ローファームと、金融企業で働くのがよい。 法律の知識は、非常に重要であるから。

 出願においては、自己アピールが重要。 一種のマーケティングと思ったほうが良い。 学校に乗り込んでアピールするべし。 ビザの問題があるとしても、手紙なり、メールなり、やり方はいろいろとある。


 外資系の証券会社で人事部長をしている方に不躾ながら質問。

 1.「ファイナンス関係の企業に就職する際、面接官は志望者のどのような点をみているのですか?」
 2.「10年後までに、Private Equityのファンドを設立しようと思うのですが、あなたが私の立場でしたら、どういうシナリオを立てますか?」

 快く答えてくれた。 本当にありがたい。

 1.チームにおけるコミュニケーション能力、数字に強いこと、英語の3つ。 
 ほとんどの仕事はチームを組んで行われるので、チームワークを円満に出来ない人間は厳しい。 
 この業界においては、すべてのものは数字で語られる。 数字に強いとは、難解な式をいちいち解ける事をさすのではなく、数式の本質を理解し、それを実際に利用できること。 数字に対する勘を持つこと。
 英語は、現在、ファイナンスの業界では、ほぼ必須。

 2.基礎学問をみっちりやっておくこと。
 ファイナンスの業界は変動が激しい。 どんな状況になっても、つぶしがきくように、ファイナンスをするにあたっては絶対に必要な基礎分野をしっかりと勉強しておくのが、一番の得策。
 主に二つ。 一つは会計。 もう一つは、ファイナンス論。 

 
 日本酒・料理、聞けた話も本当によかった。 呼んでくださった面接官の方に本当に感謝。

 よし、さっそく、会計の勉強を始めよう。 ちなみに、会計は、英語で勉強した方がいいとの事。 教科書をアマゾンで探そうかな。 
Private Equityファンド、特にバイアウトファンドについてのまとめ②
 バイアウトファンドの活動の内容について見ることにする。

 バイアウトファンドは、ファンドの設立から回収まで次のような事をする。

 1.ファンドの組成と投資家の募集  ファンドをつくり、それに投資をしてくれる人や機関を探す。 典型的な投資家は、年金基金や投資信託などの、いわゆる機関投資家である。  
 この時の投資は、設立から回収までの期間として、4~10年を見越して行われる。 企業の売買は容易でないので、中長期的に資金を提供してくれる投資家でないといけない。


2.バイアウト対象企業を決定
 高い回収が出来る企業を買収対象に選ぶ。
 企業の額面価値と本来価値に対しての見積もりなどをする会計的な能力が重要である。 企業のキャッシュフローについて知ることも重要である。 現実のキャッシュフローについて知るために、EBITDA(Earnings Before Interest, Tax, Depreciation, and Amortization。 イービットディーエー、もしくはイービットダー)という指標を用いる。 
 EBITDA=売上-費用+減価償却費+無形資産についての償却
 
 である。
 

3.売手との交渉(M&A)
 バイアウトファンドの買収は、多くの場合、ファンドが対象企業に対し、買収を提案し、それを対象企業が受け入れることにより成立する。 
 典型例は、大企業の子会社や事業部門を買収するばあいである。 買収対象が公開企業の場合は、この際に非公開化する。


4.銀行との融資交渉
 投資家からの資金のみならず、銀行からも資金を調達して買収をする。 銀行からの負債が大きいほど、事業が成功したときのリターンは大きいが、反面、倒産のリスクも上がる。 ちなみに、この、銀行からの負債を利用しての買収をLBO(Leveraged Buy Out、「てこのかかった買収」とでも訳すのか)と呼ぶ。 LBOは、バイアウトファンドにおいてかなり重要なので、明日にでも詳述する。 

5.Due diligenceの完了、M&Aの終了
 Due diligence(デューデリジェンス)とは、企業の資産価値を確認する作業のことを言う。 ほかにも、いろいろな意味を持つのだが、この文脈においては、企業の資産価値の確認作業を指す。 


6.事業活動の開始・支援
 買収した企業の事業活動に、さまざまな形で関与し、企業価値向上のためにファンドが働きかける。
 この際に、ファンドにもっとも求められる能力は、経営コーチング能力である。

7.案件からの退出(exit)、ファンドの回収
 企業の売却か、株式公開を通じて行われる。


 平たく言えば、
 金集め→買い上げ→仕事のおてつだい→売却 


 のサイクルである。 

 以上、基本的なファンドの活動の内容について述べた。

 明日は、今日のエントリーにも書いていたLBOについて述べようと思う。
Private Equityファンド、特にバイアウトファンドについてのまとめ①
pic05_b.jpg

 またまた柏本作品。 つくづく、自分は凝り性である。 タイトルはdomani。 googleで調べたら、domaniとは、「明日」という意味らしい。 なるほどねえ。

 
 閑話休題。

 久しぶりに、まじめなねたでも書いてみようかと。
 
 「Private Equity(プライベートエクィティ)投資」というものをご存知であろうか? 現在、ファイナンスの業界では、一番アツいと言われている投資分野である。 以下、Private Equityを、PEと略することにする。 

 Private:私的、Equity:株。 
 PE投資とは、未公開事業に対する投資のことである。 単にPEと言っても、未公開事業投資を意味する。 ここらへん、新しく出来た分野のせいか、概念の整理がかなりごちゃごちゃしている。
 このPE投資の先は、大きく二つに分かれる。 
 ・ベンチャー企業に対する投資
 ・既存企業に対する投資    の2種類である。

 現在、PE投資というと、主に後者の既存企業に対する投資について言うことが多い。 さらに言うと、投資というよりも、買収というほうが実態にはるかに近い。
 
 投資(買収)対象である既存企業は、株式非公開である企業だけとは限らない。 株式を公開している上場企業なども投資の対象である。 しかし、投資(買収)をする際に、これらの株式を非公開化する手続きを経て投資を行う。 
 
 PE投資は、投資会社がファンド(基金)を組み、行われる。 このファンドに投資家たちが出資をする。 ファンドの資金では足りない部分は、金融機関から借り入れたりして補うことになる。 
 混同も多いところであるが、この資金としての基金もファンドと呼ぶが、この基金を募る会社もファンドと呼ぶ。 だから、投資ファンドというと、①投資ファンドを募る会社、②投資をするために集まった基金の両方を意味することが出来る。 

 特に、買収を行うファンド(会社として)を、バイアウト・ファンドと呼ぶ。 現在、PEというと、このバイアウト・ファンドと連想されることが多い。 買収なので、M&Aに属する。

 バイアウトファンドの利益はどこから生じるか。 それは、買収をした企業の価値を上げることによる。 
 例えば、市場現在価値が100億の企業を買収し、その経営状態その他を改善させ、企業価値を200億に高め、その企業を上場させたり、他の機関に売却する。 これにより、100億の利益を得るのである。
 一番話題となったのは、リップルウッドの新生銀行の事例であろう。
 10億円の元の資金からファンドを募り、1200億円を調達し、それをもって、日本長期信用銀行を買収。 それを新生銀行として再出発させ、再上場、保有していた株式を売却。 
 リップルウッド・ホールディングスが市場に売り出したのは、国が保有する優先株を除くと、新生銀行の発行済み普通株式13億5,800万株のうち、4億4,000万株。 約32%である。 
 上場時の売り出し価格が525円だったので、525円×4億4,000万株=約2,300億円!! 手数料を差し引いたとしても、2,200億円程が利益となるわけである。 投資家から預かった資金の1200億円にプレミアムをつけ、1.5倍くらいの額で返却しても、まだ残っている68%の株式と共に、莫大な利益を得たのである。 うーむ、マネーゲーム。

 さて、次に、PEファンドのバイアウト分野での活動内容について見ていくことにする。
自分を可愛がらないこと。
 「己を愛するは善からぬことの第一なり。修行の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出来ぬも、功に誇り驕慢の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己を愛せぬものなり 。」

 西郷隆盛が言っていたこの言葉の意味を、このごろになって、やっと汲むことが出来るようになったと感じた。 
 西郷隆盛が言う「自分を愛する」というのは、自分たちの世代の言葉遣いで言えば、「自分を可愛がる」ということだと思う。 キリストらの言う愛とは異なるものと思われる。 そう考えると、このごろ多くのことを気づくようになった。

 
 自分の多くの欠点、特に虚栄心や利己心、怠惰などは、この「自分を可愛がってしまう」ことに由来していると感じる。 自分を可愛がってしまうので、自分を虚飾してしまうようになるし(例えば、このブログでも)失敗について格好のつく言い訳を考えたりしてしまう。 他人の気持ちを忘れてしまったり、精進を怠るようになってしまう。 時には、変なプライドを持ち、人の意見に耳を貸さないようになってしまう。
 
 自分を愛することはよいと思う。それは、つきつめると他人を愛することとつながっていると自分は思っている。
 しかし、自分を可愛がってしまうことはよくない。 己を可愛がる心、言い換えれば、私心とでも言うか、そういうものがあったら、その人の成長は歪んでしまうと感じる。 「自分可愛いがり」の精神でも、ある程度の成長は出来る。 自分が可愛いから自分の能力を上げたりすることは出来る。 しかし、上で西郷が指摘しているようなゆがみ方をしてしまう可能性がなくはない。

 どうすれば、己を矯める事が出来るか。 人格というものは、日々の生活により、常に変化していくものだと思う。 努力をすれば、少しずつ理想の人格を形成することが出来ると感じる。 日々の行いが重要である。

 そこで、現在、自己矯正のための日課を考えている。 その方向性として、とても参考になる考え方があった。 

 仏教の六波羅蜜(ろくはらみつ・ろっぱらみつ)である。波羅蜜とは、理想を実現するための実践修行をさす。 内容は、以下の通りである。

精進(しょうじん):人生を精一杯、一生懸命生きること
持戒(じかい):人としてやってはいけないこと(戒律)を守る。過ちを犯したら、反省し、懺悔し、悔い改める。
布施(ふせ):人のために尽くす。
忍辱(にんにく):堪え忍ぶこと。
禅定(ぜんじょう):一日に一度は心を鎮める機会を持つこと。
智慧(ちえ):上の五つの修行を通じて得られるもの。


 こつこつと、自己改革をしていこうと思う。 人格は、人生において重要な財産だとおもうから。

 ふと、高校時代、坊主頭であった自分についたあだ名を思い出した。 織田無道。 うーむ。
心の地動説。
 前野隆司という学者が、受動意識仮説なるものを提唱している。 言い方は難しいが、考え方はさほど難しくない。 いうなれば、「心の地動説」である。

 今まで、自分の問題については、天動説的な考え方をされていた。 自分の意識がすべてを支配していて(心の天動説)、感情、知的活動、運動はすべて意識により統制されていると考えられている。
 
 しかし、氏は、これをおかしいとする。 なぜなら、人の身体の中の神経作用は、意識作用よりも先に起こっているからである。 意識がすべてを支配しているのなら、神経作用も意識作用に従い起こるはずであるのに、そうなっていない。

 そこで氏が提供したのが受動意識仮説(心の地動説)である。
 これによると、意識というものは、脳の中の自立的な計算の結果を受動的に受け入れている存在であるとされる。 意識は、脳が自律的に行った事柄を、自らが行ったかのように解釈するのである。 川にたとえると、意識は、さまざまな無意識の支流を持つ大きな川の下流にあるわけで、無意識の支流一つ一つの頂にあるわけではない。
 
 意識がこのような作用をするのは、人の記憶を助けるためであるとされている。

 なかなか、知的興奮を呼び覚ましてくれる議論ではある。
 
 しかし、疑問もある。 天動説を信じていた人が地動説を聞かされたときの不快感に共通するものも一部であるが、それだけではない。
 人が自らを変革しようとしているときの意識作用について、前野氏はどうやって説明するのだろうか。 意識が完全に受動的な立場であるのなら、そういったことはできないはずと思うのである。 はたまた、自己変革すら、脳の自律分散演算の結果に過ぎないのか。 はてはて。 メールしてみよう。
花鳥風月。
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 以前にブログで書いておいた、運命の出会いを感じさせてくれた絵である。

 タイトルは、花鳥風月。 作者曰く、
 
 振り向けばある翼。 しかし人は大地に根ざし、花を咲かす。手は水をかき、風を抱く。 月がほのかに照らすような道を、静かに足で踏みしめて進む。

 とのことである。

 
 実際の姿だけではなく、心の動きも描いているのが、自分に欲しい!と思わせた理由だと思う。 技術のみならず、作者の内面世界に感じるところが多かった。 深さを感じたのである。 ここらへんは、音楽と同じだと思う。 自分は、技術だけあっても、内面性が浅い(と、詞や日ごろの言動から感じる)人間の音楽に惹かれることはない。

 さらに作者自身のバックグラウンドを聞き、この絵に対する思い入れが強くなった。

 柏本龍太。 32歳。 美大を2度受験したが不合格となる。 その間に考えが変わる。 自分が学ぶべきところは美大ではないと。 そこで、長崎美術学院に入学。 ここでは、講師が少人数の生徒相手に、技術のみならず、内面世界のありかたについて教える。 精神的なものがしっかりとしていないと、画家としてやってはいけないという、その学校の新年からである。
 柏本はそこで学び、卒業後、同学院で講師をしつつ画家としてのキャリアをスタートさせる。
 98年には、命にかかわる大病を患う。 しかし、描くことをやめなかった。 この期間に、彼の作風は大きく変わったという。 絵が凄みをまし、深くなったのである。 
 03年、日本アートアカデミー賞でグランプリ受賞。 その他さまざまな賞を受賞し、現在、若手のアーティストの中で、リーダー的な存在である。   

 しかし、24万円なりっ!! さすがに、、迷う。 
 しかも、厳密に言うと原画ではない。 リトグラフといって、石の版画である。 それでも、世界に100枚程度しかないものではある。 

 この絵を見てから、油絵を描きたくなってきた。 恥ずかしながら、絵を描く。 しかし、色弱なので、描くのはもっぱら鉛筆画であった。 机には、6Hから6Bまでの鉛筆、練り消し、消しゴム、スケッチブックが置いてある。 
 それでも、チャレンジしてみようかな。 
愛するものは道誤らず。
忘れないうちに、感想を。

 何をするに当たっても、一番大切なことは、人を愛することだと思う。 特に自分の仕事と関連している人々を愛することである。

 先生であるのならば学生たちを、ビジネスパーソンであるのなら、顧客や従業員、取引先の人々を。

 人々を愛する人が、大きく道を踏み誤った例を、自分はついぞ見たことが無い。 

 関西であった学校の先生たちは、この点において、皆すばらしい資質を持っていると感じた。 彼・彼女たちは常に学生たちのことを考えている。 
 
 学生たちの話をするときの慈しみのこもった眼差しに、思わずはっとさせられる。 何をするにしても、明日こういった話をしたら子供たちは喜ぶかな、どうやったら授業をもっとよく出来るかなと、常に考えている。 苦しいことは多いはずなのに、それを微塵も感じさせない。

 本当に高貴な人々だと、つくづく感じる。 

 こういう人たちがよく暮らせないのであれば、その社会はおかしいのではないか、という気にすらさせられる。 彼女・彼らがよく暮らせる、そういう社会にせねば。
関西最終日。
 京都を後にする。

 京都は本当に大好きな町である。 どれくらい好きかと言うと、中学生の時に、すでに一人旅で京都に来ているくらいである。 もともと歴史小説が好きだったので、京都の色々な場所に来ながら、過去に思いをはせる時がたまらない。
 町並みも、歴史を感じさせる町並みである。 これも、東京とは大違い。 表通りは、かなり新しい建物が多いが、裏小路をあるいていると、なんともいえない趣がある。 
 京都朝高から京都駅まで、基本的に裏小路経由で行くことに。 途中で、いろいろと面白いものに出くわした。 

 個人で経営している美術館の玄関にて。 zou.jpg


 とっくに廃車となったと思われる路線電車。
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 途中、坂本竜馬のお墓をお参りする。 大学生になってから気付いたのであるが、竜馬のお墓は、護国神社の中にある。 まあ、当然といえば当然なのだろうが、少し複雑な気分である。
 
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 清水寺もすぐ近くで、丁度京都駅に向かう道によることが出来るので寄ろうと思ったが、道も歩けないほどの観光客の数に閉口。 行かない事にする。

 昼前に京都駅出発。

 最終日は、神戸の三ノ宮で。

 高校を卒業しての春休み、東京から神戸まで歩いたときに通過したはずなのだが、その時は高速道路の下しか通っていなかったので、三ノ宮の町を探索するのは、今回が初めて。

 港町情緒が溢れる、いい町だというのが素朴な感想。 どこか、横浜に似ている。 
 三ノ宮駅から神戸駅まで続いているガード下を2往復。 この期間、本当によく歩く。

 友達に紹介されてはまったプリンに、ケーニヒスクローネという洋菓子店のプリンがあるのだが、そこの手提げ袋のモデルにもなっている三ノ宮店に入る。 
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 クローネは残念ながら、売り切れ。 プリンを食べる。 やはりおいしい。 ちなみに、支店は新宿の高島屋の地下にでている。 是非、一度どうぞ。
 
 尼崎で先生をしている、大学時代仲の良かった後輩にあう。 お店は、凡という名前のお好み焼き屋。 この期間、お好み焼きを本当によく食べた。 
 また、勉強になる。 みんな歯を食いしばって必死にやっているのだなと、感じる。 特に、関西の地方は、本当に今が踏ん張りどころだと思う。
 

 これにて、関西地方への旅は終了。

 4日間、勉強を離れていたのは(一応、電車の中や、休憩中の喫茶店などで、少しは勉強したが)本当に何年ぶりか。 しかし、かけがえの無い貴重な経験をすることが出来たと感じている。 明日から、また気合を入れてやり直そうと思う。
エスカレーターでの立ち方。
大阪で、もうひとつ、気がついたこと。 というよりも、行くたびにいやがおうでも気づかされること。
 
 エスカレーターでの立ち方。

 東京では、止まる人は、左側に立つ。 大阪では右側に立つ。 ぽけーっと左側に立っていたら、後ろにいたおじさんにどやされてしまった。

 さて、なぜか。 ちょっと考えてみた。

 ちなみに、日本がエスカレーターというものを取り入れた元である欧米では、立ち方は、東京と同じである。
 

 それで、東京人は、自分たちが標準で、大阪が非標準という。


 しかし、よくよく考えてみると、大阪のほうが理にかなっているのかもしれない。 なぜなら、日本では、車両は左側通行だからである。 車であれ、エスカレーターに乗る人であれ、進むのは左からというわけである。

 日本には、左側を進むという伝統が江戸時代からあるのである。 これは、侍は刀を右側に差していたので、とっさの場合に斬られないようにとの配慮からである。  また、刀の鞘と鞘を当てると、「鞘当」といって、大変無礼な行為となる。 これがもとで切り捨てられたといっても、しょうがないほどの行為であった。 それを避けるためにも、日本では、左側通行が伝統的なものとなった。

 左側通行が日本の伝統だということをかんがみれば、エスカレーターに乗る際も、とどまる人は右に立ち、進む人は左を進むというのは、かなり合理的なものとはいえないだろうか? 少なくとも、日本の文化との整合性を考えると、エスカレーターの立ち方は、大阪のほうが整合している。

 ついつい、考えてしまった。 
関西初日目。
夜行バスに乗り、朝7時、大阪は梅田駅に到着。 
 歩いて、淀屋橋へ。 午前中に用をすべて済ませる。

 その後、心斎橋まで歩く。
 心斎橋からガード下をなんばまで進む。 

 若い年代はそうでもないのだが、大阪のおじさんたちの顔には共通の傾向があると感じるのは、自分の気のせいだろうか。 眉が濃いのと、反骨根性が感じられる面構えが、他の地方にくらべ、多い気がする。 家康時代からの恨みつらみか。 それなら、この土地でブルースがはやるのもうなづけるし、色々なことが腑に落ちる。 

 とにかく大阪は、食べ物がおいしい。 市場寿司というところで昼ごはん。 すしのネタの大きさ、味、価格と、すばらしかった。 大満足。 
 
 なんばまで行き、またガード下を通って、その後梅田まで。 
 
 この途中で、ヒロ・ヤマガタ展がやっていたので入る。
 すると、ヒロ・ヤマガタの絵のみならず、現代アートの作家の絵も展示されていた。

 運命の出会いともいえるような、素晴らしい絵を発見。 解約をしてもいいので予約をすれば、画集をただでもらえるとのことに、ついつい、予約をしてしまった。 しかし、なかなか高価なので、躊躇している。 この絵とそのアーティストについては、今度写真をアップできるときに、話すことにする。


 梅田まで戻り、友達に会い、食事。 個人的に、大阪のお好み焼きといったら風月(他は知らないだけかも)。 とても、おいしくいただいた。
 ロースクールに通う同級生から、現状を聞く。 うん、自分も負けてられないな。 

 キンキホーム宅に泊めてもらう。 ありがたい。 そして、今、ここでブログの更新中。 

 結構歩いた。 
 明日は京都。 寺をまわるつもりである。 清水、竜馬の墓と、寺田屋と銀閣寺は絶対に行く予定。 もちろん、徒歩で。

 明日も、同級生に会う予定。 誰と会えるか。 楽しみである。 
目黒川にて。
 仕事がない日以外は、図書館入りびたりの毎日。

 人生をかけてやり遂げたいことが、かなり具体化してきたので、それが果たして可能か、問題点は無いか、実行するために必要な能力・人・もの・資金・時間・気その他を検証中。

 図書館の近くには川が流れている。 近くの銀行に用があったので、昼ごはん後、一番集中できない時間に、目黒川の側を歩きながら銀行へ。 

 魚が群れを作って、上流に向かっていた。 1.5kmの道のりで、合計1000匹はいたろうか。 産卵シーズンにはまだ早い。 東京湾でなにかあったのか。 これ以上狼少年振りを助長したくはないので、地震が来るとは、もう言わない。 それにしても、異様な光景だった。 何かしら、あったのだろう。 捕食生物が、東京湾に出現したとか。

 ちょっと急な用が出来たので、明日から、関西へ出かける。 昔の友達に連絡をしているが、何人に会えるか。 とりあえず、明日の大阪の夜が楽しみである。
欲望という前提。
 素人ながら、経済学の勉強をしている。 大学で数学を習っていないので、金融工学などに四苦八苦。 
 勉強をしていて、数式を立てたりするときに、いつも気に食わないことがある。 それは、ほとんどの式が、経済主体の間の利益相反を前提にしているという点である。 

 多くの場合、経済学で解を得るときには、均衡状態を導き出し、解を出す。 この状態は、利益が相反する人々の取引によって達成される。

 商品の価格について考えてみよう。 たとえば、商品Xを買いたい人と売りたい人がいる場合を想定する。 買い手は、できるだけ安く買いたいし、売り手は、できるだけ高く売りたい。 この欲望がぶつかり合いながら、ついに、両者が妥協する価格にいたる。 これが、均衡価格である。 市場(いちば)でのセリが、イメージとして適しているかもしれない。  

 仕組みとして、利益相反がないと、式を非常に立てにくいのが、現在の経済学である。 今日も、エージェンシーコストなるものの算定を計算していたのだが、やはり、株主、経営者と、債権者の間の利益相反が、解を求めるのに重要な鍵となっている。

 利益相反、ちょっとうがった言い方をすれば、欲望の対立というこの前提が気に食わないのである。 

 確かに、欲は、人間の本質の一つだと思う。 しかし、「欲」をキーワードにして解を求めていく経済学の現状は、物悲しいと、自分は思う。 
 代替案を出せればいいのだが、難しそうである。 出せたら、ノーベル経済学賞と平和賞をいっぺんに取れるかもしれない。 たとえば、「おもいやり」をキーワードにして、理論を構成するとか。 いやあ、これは、「欲」の場合より1万倍くらい難しそうである。
アンシステマティックリスクを下げるための報道。
 依然として、福知山線の列車事故についての報道が続いている。 遺族の無念たるや、形容しがたいものに違いない。

 しかし、今回の事故に関する報道、あまりにもかたよってはいないかと思うのである。 
 もちろん、JR西日本の日勤教育の現状、JR西日本の社員たちが事故直後に平然と宴会を行っていたことなどは、大きな問題である。 慣習や行動そのもののみならず、これを惹起した企業文化が事件の大きな要因となっている可能性は大いにある。 しかし、現在の報道は、これ一辺倒でありはしないか。 

 この類の事件に関する報道は、大きく二つの目的を持つべきと思う。
 一つは、事実に関して、知りうる限りを知らせること。 被害や、現場の状況、発生の要因となったとおもわれる事実について、報道する。 
 次に、これが再発しないための方法について報じること。
 リスクには、2種類がある。 不可避的に生じるシステマティックリスクと、回避しうるアンシステマティックリスクである。 アンシステマティックリスクは、可能な限り下げることができる。 
 
 これから生きていく人々のためにより重要であるのは後者、つまり、アンシステマティックリスクを可能な限り下げるための報道と思うのだが、これについて、現在の報道は、とても弱いと思うのである。 

 たとえば、中越地震が起きた際の、上越新幹線の高架橋線上での脱線をあげることができる。
 マグニチュード6を超える直下型の地震を受けたにもかかわらず、上越新幹線は脱線をしたのみで、一人の人的被害をも出さなかった。  
 なぜか。 それは、JR東日本が、アンシステマティックリスクの低下に尽力していたからである。 もともと、物理的に、高架橋とその他の接続部分において、脱線の危険が一番高いのだという。 JR東日本は、阪神淡路大震災で高架橋の多くが破損したことから構造基準を見直し、高架橋の改修工事に着手した。 さらに、2003年の宮城県沖の地震の際に、改修を行っていた高架橋は破損していなかったのに対し、改修を行っていなかった場所は30ヶ所が破損していたことを鑑み、新たに、18,000本の高架橋脚の改修を開始した。 そのうち、8000本までは、中越地震時までに補修していて、震災時に新幹線が通りかかったのは、このうちの20本の高架橋脚だったのだという。 
 
 このような地道なアンシステマティックリスクの削減のための努力の成果が、脱線にもかかわらず死者が出なかった大きな理由だったのである。(当然、人通りのない地域での脱線などの理由もあるが)
 しかし、この時、マスコミは一挙「新幹線の安全神話の崩壊」を滔々とぶち上げ、この地道な努力についてはほとんど言及をしなかった。 結論ありきの報道で、この先の被害の縮小につながるアンシステマティックリスク削減のための努力について、考慮が足りなかったと思う。
 
 報道の性質について、議論があるかもしれない。 しかし、報道は、生きている人々のためにあるというのは、自明の理であると思う。 さらに、今回のような大きな事件の際は多くの報道時間が割かれているはずである。 それなら、今後似たよう様な事例が起こらないためにはどうすればいいかについて、もう少し、時間を割いてもいいのではないか。 参考になる事例があるのなら、それについて報道するくらいの時間をとってもいいのではないか、と思うのである。 
 犀を振るのは神である。 しかし、いつか来る天命のために人事を尽くして備えるのが人間なのである。 
GM,フォード格下げ・・・
 両社とも、このところ、株価の下落が続いていたところ、衝撃のニュース。 ゼネラル・モーターズ(GM)とフォードが、BB、BB+に格下げされた。

 これは、なかなかすごいことである。 

 格付は、格付会社が行う。 アメリカでは、スタンダード&プアーズ(S%P)と、ムーディーズが、主なものである。 この会社が、債券の格付を行う。 たとえば、○○社の社債を格付することにより、その会社を、○○国の国債を格付することにより、その国を格付するのである。

 格付は、
 最高 → → →  → → 最低
 AAA-AA-A-BBB-BB-B-CCC-CC-C-D (S&P)
 Aaa-Aa-A-Baa-Ba-B-Caa-Ca-C (ムーディーズ) となっている。
 さらに、S&Pは、これに、+、-をつけ、(例:BB+、BB-)、ムーディーズは、1,2,3をつけ(例:A1,A2,A3)、格付を細分化している。

 BBB,Baaまでが、「投資するのに適している」格付であり、それ以降は、「投機的(ギャンブル的)」な対象とされる。 BB,Ba以下の債券を、「ジャンク債」と呼ぶ。 ちなみに、ジャンクとは、ガラクタのこと。 

 格付が下がるということは、企業や国家にとっては、とても恐ろしいこととなる。 
 企業の場合、株価は落ち、その他、資金を借り入れるときもより不利な条件で借り入れなければならなくなる。 たとえば、今回の格付の発表を受けて、GMとフォードの株価は、一気に5%落ちた。 これで、資金繰りが苦しくなり、さらに経営状態は悪くなる→さらに格下げ、という恐ろしい悪循環がおこりうる。
 国家の場合、その国家に対する投資が落ちる。 これにより、国家の経済成長が落ち込み、結果、さらに格下げ・・・と、これも、恐ろしい悪循環を惹き起こしうる。

 たかが格付であるが、ほとんどの経済主体が、この格付に従い行動をとるため、もっと正確には、従わせるほどの背景をもっているため、恐ろしい影響力を世に持っている。 当然ながら、この格付会社には、ある種の人々の息がかかっている。 ちなみに、金大中大統領が当選し、民主化、対米路線の変更が叫ばれた際に、格付会社は、格付を下げた。 無言の圧力である。 政権当事者たちは、これに震え上がったという。 
 
 まあ、今回のはアメリカの看板とも言える自動車産業の企業であるから、純粋な格付であると思う。 それでも、格付が始まった当時、GMは、AAAであった。 それを考えれば、この凋落は、驚くべきものである。 今回の格下げが、会社の凋落をさらに進めるのは、かなりの高確率で起こると思う。

 さて、困ったことに、アメリカの自動車産業の不調は、アメリカの経済全体に影響が及ぶ。 そのとばっちりが、他の国に及ばないとも言い切れない。 日本などは、もろに影響を受ける可能性が高いので(特に、多くの場合アメリカ車の不調は、日本に責任がなすりつけられる)、すこし、マーケットに注目する必要があるかもしれない。
散歩のすすめ。
 カウンター設置。 ホームページを作成したときからの累計である。

 散歩がマイブームとなっている。
 今まで、バスで移動していた距離は、基本的に歩くことにした。 長い日には、一日に10km以上歩く。 日課の10km走も行っているため、合わせると、なかなかの距離を歩いていることになる。
 
 例によって、このマイブームにも3つ理由がある。

 ひとつは、歩き方を矯正するため。昔から、歩き方がおかしいと言われ続けてきた。 長い距離を歩きながら気づくのだが、フォームが悪いと、疲れが早くなる。 逆に、フォームをしっかりしていると、スムーズに足が進む。 たぶん、見た目もよくなるはず。 さらに、歩くというのは、すべての基本動作なのだから、これをしっかりとさせることによって、体全体の動かし方も発展すると思われる。

 次に、考え事をするためである。 考え事をするのには、座って何かを書き付けるのも重要だが、歩きながら考えることもなかなかよい。 両者を組み合わせて考え事をすると、なかなか、考えがよく進む。 家で座りながら考える→歩く→どこかに座ってまた考える→歩く・・・の繰り返しである。 ちなみに、哲学者はよく歩くのだそう。 たとえば、ニーチェは、一日に3時間以上散歩をしながら思索をしたのだという。 カントは、毎日決まった時間に決まった距離を歩いていたというし。 歩くことは、思索によいのだろう。

 最後。 これは、音楽を聴いているときだけなのだが、アップビートをマスターするため。 大体、120ー140BPM(ビート・パー・ミニットの略だと思う。 一分あたりのビート数をあらわした単位)くらいがよい。 歌の中でスネアドラムが入るタイミングに、体が浮き上がるように歩く(ちなみに、スネアのタイミングで体が沈むのは、ダウンビート)。 必然的に、足を踏むときは、裏打ちで足が入ることになる。 これをやり続けながら、確実に、ドラムが向上している気がする。 このごろ、ドラムをたたく機会が本当に少ないのだが、たまにスタジオに個人練習に入ったときに、なんかいい感じがするのである。

 ぜひ一度、お試しあれ。 
自分の半身。
 こんな神話がある。

 昔、人間は、今の形ではなく、球体であった。 顔は、前後ろに向いていたし、足や手も、四方に動かすことが出来た。 (イメージとしては、阿修羅マン) 両性具有で、生殖を行うのに他者の援けを必要としなかった。
 この人間が、時間を経つにつれて思い上がるようになり、神に対しても挑戦的となった。 それにいかった万能の神ゼウスが、人間を二つに裂いてしまい、人間は現在の形となったのだという。


ギリシャの言葉で、恋人をみつけることを、「自分の半身をみつける」という表現があるそうである。 多分、元プロレスラーのギリシャ哲学者、プラトンの「饗宴」にて描写されている、上の神話から伝わっているのだと思う。

 素敵な表現だとは思う。 そういう人を見つけられたのなら、お互い、これ以上ない幸せであろう。 しかし、世の中、そんなに、簡単じゃありませんぜ。
つれづれなるままに書き付ける。
 9時に起きる。 しも兄宅。 

 11時には、しも兄と別れ、もう一人の先輩とスタジオへ。 場所は、高円寺。 バンドする人には、なじみの深い場所である。

 この頃、ハイハットシンバルを足で踏むときに、表だけでなく、裏にも入れられるように練習中である。 こうするだけで、サンバ系のリズムを叩いた時に、フィーリングが全然違ってくる。 まだ、完全にものに出来てはないが、もうちょっとしたら、つかめてくると思う。

 
 その後、雑談。 
 いろいろな話をするが、特に、ライブドアの堀江社長が話にのぼる。
 自分はどうも、彼が好きになれない。 先輩も同感との事である。 今まで行ってきた事柄が、株主に損害を与えてきたばかりではなく、そのことについて、十分に株主に説明を与えていないからである。 
 経営者は誰に為に経営をするのか。 株主か、従業員か、社会全ての人々か。 国により、多少の比重のかけ具合は違うにしても、経営者は当然、株主のために経営をするという側面を持っているはずである。 

 次にのぼったのは、結婚の話題。 自分ももう23。 そろそろ、考えはじめるべき年なのだろうか。 自分の親は、これくらいの時期に結婚している。 
 心がうつろな時に、側にいてくれる人がいたらとは思うが(ちなみに、これは、「おまえの独りよがりだ」と、喝破された)家庭を持つということについて、いまいちリアリティを感じられない自分である。 
先輩、遠方より来る。
 経営者への道を邁進している先輩、遠方より来る。 亦、楽しからず也。

 八時に、恵比寿にて会う。 遅れてしも兄も参加。 イタリア料理屋にて、歓談。

 あれよと言う間に、11時30分。 
 3人で、しも兄の家に乗り込む。

 ここでも、酒を飲む。

 酒を飲みながら、色々なアーティストのプロモ・CDを見聞く。 ブライアンセッツァーや、クラプトンなどはまだしも、男三人で酒を飲みながら「さくらんぼ」を見るのは、異様な光景。

 宴もたけなわ(?)、なぜか、暴露大会が始まる。 

 団長3人寄れば、文殊の知恵。 何と言うか、もう・・・ 人の世というのは、本当にいろいろな事があるのだなあと嘆じずにはいられなかった。
いのちとしての偉大さ。
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 いのちとして偉大になりたいと、ときどき思う。 千年を一日のように過ごす大樹のような。 大地にしっかりと根を張り、何事にも動じず、生長するという己の本分を全うし続けるその姿に、何かと感動を覚える。 本当にまれであるが、人間にも、そういう人がいると思う。 そういう人に出会うと、清冽な気持ちにさせられる。 こういう風に生きたいと、思う。

 自分という、いま、ここにいる人間にとって、なによりも大切な事実は、生きているという事のはずだから、なによりも大切な根本問題は、自分が生きているということに対して据えるべきだと思う。 
 知識や、体力や、その他のものは、この根本問題にとっては枝葉に過ぎないのであって、それが顛倒することがあってはならないと思う。 すべては、自分と言ういのちをより良くするために必要なものなのであって、他人を陥れたり、出し抜いたり、打ち負かしたりするためにあるものでは決して無いはずである。 
 なによりも、人間といういのちは人の援けなしには生きていけないのであるから、自分がいのちとしてよく生きるためには、他者にたいしても、同じように気遣わなければいけないと思う。 自分がいのちとしてよく生きるということは、他人もそのように生きることと、密接につながっているのである。

 さて、本題に戻る。
 人を、「いのちとして偉大」だという時には、どういう状態にある人を指していうのだろうか。 
 いきなり根本問題に入るのは難しいので、少し迂回しながら考える。 まず、自分が、人間以外のいのちの偉大さについて感動した場合について、考えてみる。 多分、ここらへんに、答えがあると思うのである。

 -ぺしゃんこに踏み潰されても、次の日には立ち直る雑草。
 -口は退化して何も食べられず、空っぽのお腹の中に、卵だけぎっしりと詰まっている、かげろうの雌。
 -交尾の後に、雌に食われるカマキリの雄。
 -片足を失いながらも、町で野太く生きる野良猫。
 -餓えた子に自らを食べさせる親クモ。
 -天敵に襲われた時に、自らは食べられるとしても、わざとひな鳥と反対方向に飛ぶ親鳥。
 
 こんなところか。 ここから、自分が感動したことについての共通点を探してみる。

 まず一つは、生きるということに対して、とことん真剣であるということ。 生きている限り、最後まで投げ出さない。 
 次に、己が生きると言うことに対しての真剣さが、自分以外のものとの関係の中で成立しているということ。 必死に生きるが、自分の次のいのちのためには、ためらわず、自分をなげうつ。
 
 考えてみると、自分が、人について、いのちとして偉大だと感嘆する場合には、同様に上の事柄を満たしている。 自分が出あって感動を覚える人は、みな、人と人との関係の中で、物事に対して常に真剣である。 楽しむ時も、努める時も、一生懸命である。

 自我を持っている人間は、自分で選択をする自由を持っている。 だから、真剣でない生き方を選ぶことも出来る。 これは、他の動物と大きく異なることかもしれない(人間以外の生物がこのような自我を持たないということを仮定しているが)。 同じ、必死に生きるにしても、人間以外の生き物は、必然的に、必死に生きる。 しかし人間は、意識的に、必死に生きる。 
 そうでない生き方を選ぶことを可能としつつも、意志の力で、自分のいのちに対して、他のいのちとの関係の中で、真剣に生きることを選ぶということに、人だけの、いのちとしての偉大さがあるのではないだろうか。 
 
 ここから、人のいのちの偉大さとは、上のような決定をすることが出来る、精神の偉大さと言い換えられるのかもしれない。
 上の文脈から考えると、この場合の精神の偉大さと言うのは、数ある人生の選択肢について悩みぬき、自分のいのちについて、真摯な生き方を選ぶことが出来る偉大さだと思う。 選択肢の問題について考えれば考えるほど、選択肢は増えるものであるから、悩みはより一層深くなる。 だから、精神の偉大さと、苦悩の深さと言うのは、強い関係を持っているのかもしれない。


 人間社会が出来てからを考えても、自分が存在していなかった時間よりも、存在していた時間の方がはるかに長い。
 死こそ常態で、生は蜃気楼なのかもしれない。 が、そんな泡沫の生をどう生きるか。 死ぬその日まで、自分にとっては、最大のテーマである。
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