Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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猫でさえも、分け合うのに。
 最近のお昼の楽しみ。 公園での食事。

 ベンチに座ると、大きめの猫が寄ってくる。 親猫だ。
  
 弁当のおかずを分けてあげると、親猫は、草むらに向かってニャーとひと鳴き。
 
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 猫でさえも、分け合うのに。
 自分たちは何をやっているのだろう。
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暮らしに役立つ経済概念:機会費用
 学生寮の食堂は前払い制で、一回ごとに400円ずつ支払っている。
 それなのに外に食事に行くとしよう。 そこで、1000円の定食を食べたとする。
 さあ、この外食の費用はいくらと考えるべきか?

-----------------------

 どの分野の概念も実生活にかなり役立つものである。
 それをたまにちょこちょこ書いていこうかと。

 記念すべき第一回は、機会費用。

 あるものを、別のことに用いたらどうなったか?、を何かしらの決定をする際に考える。 これが、機会費用を考えるということの本質。

 ※機会費用の定義は(飛ばしてもよし)、「ある生産要素をある特定の用途に利用するについて、それを別の用途に利用したならば得られたであろう最大の貨幣額」


 食堂の例に戻り、機会費用を含めて考えるのならば、この外食は1400円かかっていることになる。 もし、そばを300円で食べたとしても、費用は700円。 前払いで食費を払っているという事情を考えるのならば、費用はこうして計算するべきだと思う。 


 機会費用の考え方は、こういった経済的な問題のみならず、もっと広いものにも適用できる。 先にも述べたように基本は「~したら、~しなかったら」の場合を共に考えること。
 
 例えば、時間。 ついついネットにはまってしまい、30分で十分なところを2時間使ってしまったのならば、その1時間30分で何が出来たかを考える。


 是非、意思決定にお役立てください。
残念無念。
 (今日のPRIDEの結果のネタばれあり。)









自分は別に結果を先に知らされても残念と思わない人間であるし、どうせネットを回っていたら目に入ってしまうと分かっていたので、演劇の練習中に友人のイッキョからPRIDEの実況中継をメールでしてもらっていた。

 ミルコ、0-3で判定負け。 イッキョ曰く、フョードルには「マシンガンを持ってきても勝てない(そしてここで不覚にも自分が笑ってしまったのは内緒の話)。」とのこと。 圧力でミルコが下がる姿を始めて見たらしい。
 もうひとつ、シウバが負けたのもショック。 

 残念だが、勝負とはシビアなもの。 強い人間が勝つ。 負けるのは、弱いから。 コンディションをもし作れなかったとしても、それ自体が弱いということの一つの内容なのである。
 
 技術的な試合の分析は、地上波で行われるあさってのものを見たあとに書こうと思う。

  
 とりあえず、フョードルに懸垂の回数だけでもタメ張れるように(懸垂30回×6)トレーニングを積もうかと思う。 現時点で、調子のいいときにでも30回しか出来ないので、遠い話だが… 



 ※前のエントリーまではヒョードルと表記していたが、今回はフョードルと表記。 ふと、ロシア文学を思い出したからである。 ロシア文学では、といってもドストエフスキーとトルストイとツルゲーネフしか知らないが、ヒョードルはフョードルと表記されている。
素敵なお店。
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 高円寺にある美容室兼雑貨屋。
 Swing A Goなんて、なんと素敵なネーミングだろう♪ さすがはバンド人のメッカ高円寺。

 一回、髪きりに入ってみようかな。  
政治思想と人格の分離定理。
経済学の理論においては分離定理というものがよく用いられる。 特にファイナンスの分野では。
 といっても、内容は簡単、「これとこれとは分けて考えることができる」という類のもの。
 例えば:
 ・フィッシャーの分離定理。資本市場が存在すれば、消費・貯蓄の決定と投資の決定は別個に行うことが出来る。
 ・資産選択の際の分離定理。安全資産が存在するのなら、リスク資産のみで組まれるポートフォリオの決定とリスク資産と安全資産を混ぜたポートフォリオの決定は別個の問題として考えることが出来る。
 などなど。
 
 さて、この分離定理、社会全般で広く適用できる概念だと思う。

 特に、このごろ強く感じているのは、政治思想と人格の間の分離定理。 
 
 その人に生活(もしくは生活性)があるのならば、この二つは別個に考えることが出来る。 

 政治思想としては到底相容れない考えを持っている人の人格までも相容れないものかというと、決してそうではない。 逆もまたしかりである。
 某党の選挙事務所に入っていたときに、それを痛感した。 

 と、ここまで書くと、鼻息が荒くなる人たちがいるかもしれないけど、その人たちは、普段読んでいる(はずの)本をよく読んでみてください。 全く同じことが書かれているから。 「その個人の政治思想を許せないからといって、それを持つ人間の人格まで貶めることができるわけがない」、と。

 現在、郵政民営化に真っ向から反対されている議員の人、身近で話してみると、とてもとてもいい人です。 まあ、政治家というものはそういうものなのかもしれないが。

 しかし、やはり、郵政はある程度は民営化すべき。 それについては、後のエントリーで書いていこうと思う。
アスリート。
 足を痛めたので、このごろは10km走が1km泳ぎに切り替わっている。
久しぶりに測ったら、体脂肪率がついに一ケタになっていた。

 高校2年生のときの状態と同じ。 

 はあ、、何やってるんだろう、自分。
ミルコvsヒョードル。
池袋のとあるジムで、自分はウォーミングアップをしていた。 
 試合が近い友達のスパーリングに付き合うためだ。

 その相手は、PRIDEの選手、クロアチアのミルコ・クロコップ。
 
 強い。 プレッシャーが半端じゃない。 左ハイキックは、いつもどおり、見えなかった。 そして、そのまま気絶する自分。

 






 

 と、いう夢を見た。 



 気絶させられて、起きたら、布団の上。 現実に戻される。

 いやー、夢にまで出るとは、ちょっと危ないな、こりゃ。


 いよいよ、試合が近づいてきた。
 PRIDEヘビー級タイトルマッチ。 
 ミルコ対ヒョードル。
 
 下馬評を見る限りでは、やはり、ヒョードルが有利というのが一般的な見方。 打撃ではミルコが勝っているが、寝技やパウンド(立っていない状態で殴ること)では、ヒョードル有利。 打撃でミルコが勝っているといったが、それでもヒョードルの打撃のレベルはPRIDEでトップクラスに位置している。 ただ、ミルコの打撃がとんでもないだけ。 あのハイキックは、一撃で相手の精神力とは無関係に、意識そのものを断ち切る威力を持っている。

 けれど、前のエントリーでも書いたように、自分はミルコのファン。 当然、応援するのはミルコ。 演劇の練習があるから、リアルタイムでは見れないが、しっかりと録画をしておこうと思う。

 予想は、ちょっと、書けません。。
格差について。
 久しぶりの経済ネタ。

 いつの間にか、勝ち組み、負け組み、負け犬、○○デバイド(デバイドとは、格差という意味)という言葉がメディアにおどる今日この頃。

 日本は格差社会か?
 経済学的な観点から言うと、かなり格差が小さい分類に属している。 
 では、格差はこの10年ほどで拡がってきたか? 
 という問いに関しては、「イェス」が答えである。 

 では、どの程度? 
 それが問題である。
 
 経済学的には、格差というのは、所得の均等さによって考察される。 消費の水準や資産水準などでも測定は可能なのだが、所得水準のデータを取るのが最も容易なため、所得水準にて考察されている。
 
 所得の面では、労働所得の格差は拡大傾向にある。 富の分配の平等さを測るジニ係数(※1)でみても、ある程度上昇している。 しかし、日本が高齢化していることを加味すると、すなわち、年齢層の構成が変っていることを鑑みると、大して格差は広がっていないのである。
 
 これが、巨視的に見た際の結論である。 格差は確かに拡がっている、が、それほどではない。
 
 ただし、巨視的な視点からはわからない経済的格差がある。
 それが、見えない格差といわれるもので、男女間の格差や、マイノリティーとマジョリティーの間の格差などがそれにあたる。 現在の研究ではそれがあまりなされていないようである。 

 
 しかし、それでもまだ十分ではない。
 なぜ、格差が広がっているという感が社会に浸透しているのであろうか?
 
 経済学の視点では答えは見つからない。 社会学的に考える必要がある。 経済セミナーにて格差の特集をやっていたときに、そこに社会学者の文を掲載させていたのには感服した。
 社会学的には、格差とは、人々が感じる「期待される水準からのへだたり」である。 この定義から考えると、今、この国で格差が広まっているという考えが浸透している理由もうなずける。
 人々は何から期待を作っていくのだろうか? 当事者の目に見えるものからである。 メディアや親や友人が、人々の間の期待の形成を行っているのである。 特に大きな影響を与えるのがメディアであろう。 格差が大きくなったという感覚は、富の分配が変らずなされていても、生み出されうるのである。 実際にアンケート調査においても格差感は広まっており、社会学的には、格差が生じていると言えるのである。

 もちろん、経済学的にも、日本に格差は格差として厳然と存在していて拡がっていないだけである。  世界的に見れば、格差は格段に拡がってきている。 それを否認することは出来ない。

 それでも、格差の要因について色々な側面から複眼的に分析して、その理由を考えるのは、とても重要なことだと感じる。 上で見たように、ある学問的知見からは「イエス」ということが出来、他の知見からは「ノー」といえる状況が存在するのだから。 人は分けることによって分かるのだ。
 

 ※1 ジニ係数について。
 イタリアの統計学者ジニが考案した、所得分配の不平等度を測る指標である。 決して、大学の頃の先輩の名前ではない。
 G=(∑∑|Yi-Yj|)/2μNNで示される。
 一つ目のシグマの条件は、i=1, nまで。
 二つ目のシグマの条件は、j=1, nまで。 
 Y:所得
 μ:平均所得
 N:人員の累積値

 所得を縦軸にとり、人員を横軸にとりグラフをかくと、
 人員・所得が0の地点と、人員・所得が最高の地点において、45°線と接する曲線となる。 この曲線をローレンツ曲線というのだが、このローレンツ曲線と45°線との間の面積と、45°線と縦軸横軸で囲まれた三角形の面積との比が、ジニ係数となる。
 これは、0から1の間の数をとり、1だと最も不平等だとされる。
 日本は0.3のあたりを行ったりきたりしている。 どっかの国よりははるかに低いはず(統計を見てないので分からないが)。 
 
私の知的生産の技術。
本腰を入れて読む専門書は、ノートを取っている。 ノートの取り方も、これまで色々やってきた。 現在のやり方をする前には、もっぱらウィンドウズのワードの色々な機能を駆使したノート作成であった。 
 パソコンでのノート作成には、難点がある。 
 それは、論理の展開が上から下へしか流せないことである。 それでもある程度の体系だてた理解は可能だが、やはり、現在やっている方法には劣る。
 
 以下の写真が、今の自分のノートの取り方。
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 一章ごとに一枚ずつノートを取る。 紙は、A3サイズのものを使用。 大手家電量販店で売っている。
 
 紙の真ん中に、その章のタイトルを書く。 そして、それから枝分かれするように、各節ごとに延ばして行き、そして、それは必要によりさらに分かれていく。 
 パソコンでの記述のような上から下への論理展開が必要な場合は四角で区切って、その中に書き込む。
 
 一章をライン引きしながら読みきり、その後に、このノートをすぐに作成する。 そして、次の日に、人に教えるつもりになって声に出してその内容を説明する。その時に、マーカーでノートに線を引く。 これで、復習の基本、三回読書を終了させる。 読み終わったA3の紙は四つ折にして本のカバーと本体の間に挟む(普通の専門書のサイズなら可能)。 知識の定着度が全然違う。
 
 この一見子供の書いた地図のようなノートの取り方の効能は次のようなものだと思う:
 ・本の情報の内容の根幹ほどしっかりと頭に入るようになる。 これは、膨大な量のものを学ぶ時にとても重要。
 ・それぞれの概念の間の関係をビジュアルで理解することが出来る。
 ・右脳を使うノートの取り方なので、書きながらひらめきやすくなる。
 ・A3という限られた枠の中なので、最も重要な情報を抽出しようという意識が強くなり、要約能力が身につく。 自分はタイピングは書くのの3倍くらい早いので、パソコンだとついつい蛇足をしてしまっていた。
 ・上のことから、当然ながらコンパクト。 580ページの専門書籍が、9枚のA3の紙にまとまっている。
 
 ちなみに、これは、古くはダヴィンチやらがとっていたノート法で、現在の企業などでは主にアイディアを生み出す際に用いているという。 専門書籍のノート作成にも応用できると思い、やっている。 ちなみに、講義を聞く際にも、これは活用されている。 今の自分の講義ノートは、スケッチブックである。

 今のノウハウを、大学一年生の頃の自分に教えてあげたいものである。 けれど、自分で見つけなければ、多分まじめに取り組まないと思うので、無駄かな。 ちゅう、参考にしてみてくれ。
普通じゃないことは、普通には出来ない。
 普通じゃないことを、普通にやっていて出来るわけがない。
 気違いと呼ばれるくらいにやらないと、出来るわけがない。
 出来るのは、ごく一部の天才と運の両方に恵まれた人。
 至極、当たり前のこと。 
 だけど、人は時にそれを忘れる。 
 そして、いつの日か、一人歩きした、実現不可能になってしまった夢を語る事になる。

 戒めの備忘録として書いておく。
挙動不審の要素。
 演劇の練習をしながら、実生活に活かせる色々なことに気づいている気がする。
 挙動不審の条件について:
 ・目が一点にとどまらずきょろきょろ泳いでいる。
 ・姿勢がおかしい
 ・声が単調かつ小さい
 ・社会的には突飛もない行動をとる

 だということが分かってきた。

 そして、気がついてみると、自分は4点全てにある程度該当していることに気づく。 愕然。
 はい。考え事をしていると、色々なところを視点が回ります。
 はい。姿勢が悪くて、昔腰を痛めました。 現在矯正中。
 はい。人前でプレゼンするときはメリハリつけて話しますが、実生活ではトーンは小さめです。 ちょっと単調かもしれません。
 はい。友達に色々と奇人エピソードを作られました。

 自分の挙動について客観視することが出来る演劇の練習において、改めて気づかされた。 きっちりと直そうと思う。 だけど、4番目はちょっと無理。 色々つくられてきた奇人エピソードも、その当時の自分としては合理化された行動だったから。 例えば、毎日日課で10キロを走るときに、英語のシャドウィングをしていた事とか。 合理的だと思ったら、社会的にあまり行われないことでも行ってしまうのだが、それは、よほどの場合以外は別に悪いことだとも思わないので、直すつもりはあまりない。 
 
 ちなみに、指導してくれている人から、反面教師として紹介されたのが「飼育シリーズ」なるビデオなのだが、さすがに、恐ろしくてレンタルビデオ屋に行く勇気はない。
軽音のOB会に行って来た。
 クリアファイルに十数枚のぐるナビクーポンを入れ、大学の軽音のOB会に参加。
 いやー、楽しかった。 
 そして、うちの軽音では酒の場において必ずといっていいほどトラブルが発生してきたのだが、それも発生せず胸をなでおろす。
 唯一のトラブルと言えば、終電で帰りながら、自転車を置いてある駅を間違え、かなりの距離を走ったこと。 自転車置き場が1時にしまってしまうためだ。 

 このごろ立て続けに言われているショックなこと。

 『お前の日記、難しい』

 今日も言われてしまった。 がーん。

 難しいことを簡単に書けるのも実力のうち。 大学在学中に一番知的影響を受けた教授も、常に「難しいことを話すのは、本人がよくわかっていないからだ」と言っていた。 努力してみよう。
自己の解放、進行中。
 前のエントリーでも書いたように、9月中旬の新宿の小劇場の舞台に向けて、夜に演劇の練習中。 喜劇(だと思う)。 ラップやスポーツをこなす研究助手が、自分の役。 

 今日初めて褒められた。 めちゃくちゃうれしい。
 この期間しごかれた事と、自分の相方がとても上手いこと、努力とかがその要因になったのかと思う。
 
 そうする間にこの期間に自分に起こった変化:
 ・人前でネタをするのがあまり恥ずかしくなくなった。 今ならモグラーズの踊りも出来そう。
 ・声の音量が少し大きくなった&芝居じみている(気がする)。
 ・漫画の台詞がやけにリアルに聞こえてくるようになった。

 恐るべし、演劇。

 あっと驚くような成長を果たせるために、残り一ヶ月必死にやるつもり。 でも、この調子だと、それが終わった後の自分が楽しみでもあり空恐ろしくもある。
痛みに始まるもの、痛みに終わる。
イスラエル人のガザ撤退の件。
 
 まず、知らせを聞いたときには、にわかには信じがたかった。 あのシャロン氏が、そのような決定をするとは到底思えなかったからだ。 サイードらが告発してきたように、彼がどれだけの侵略と虐殺の指令を下したことか。 正直、撤退の過程に反パレスチナ人感情を高めることが目的なのではないか?、と勘繰っていた。

 しかし、予想は裏切られ、現在、入植者は、自主的もしくは強制的に撤退をしている。 ちなみに、撤退の英語はevictionだから、「立ち退き」とかの方がニュアンス的には正しいと思う。 立ち退くのは文民である入植者たちなのだから、撤退という言葉はふさわしいとは思わない。

 まず、知りたいこと。 今チェックしたニュースからは知ることができないのだが、立ち退くことになる入植者たちの新しい住居・雇用は政府から保証されているのだろうか? だれか、知っている人、教えてください。 シャロン氏は「立ち退きを遂行している兵たちを責めるのではなくて、私を責めてください。」と言っているのだが、そこまでいうのなら、普通、撤退することになる入植者たちの新しい生活を保障していると思われるのだが。 けれど、抵抗者たちの姿を見ていると、もしかして、その後の保証は一切ないのでは?、とおもってしまう。
 また、マスコミがさほど入植者のその後の生活の問題について取り上げないのも、マスコミの視点のあり方について疑問を抱かせる。

 
 次に撤退の理由:
 ・もともとの占領自体が明らかに不当だから
 ・パレスチナ人の反乱勢力の指導者たちをほとんど摘んだので反乱の恐れが少ないため
 ・パレスチナ人の2度のインティファーダ(「民衆蜂起」、が訳だったはず)に代表される抵抗のため
 ・イスラエルが、当初の建国の目標を達成できないことが明白になってきたため。 たとえば、少ないユダヤ人のイスラエルへの帰国者数。 ユダヤ人は、イスラエルよりアメリカにより多く住んでいるのである。

 などが、話されているようだ。 真相は正直わからない。


 歴史において多くの場合、痛みに始まるものは、痛みに終わる。 侵略も、革命も、恋愛も。
 必要以上に痛みから始まることがない世の実現のため、何をすればよいか。 考えずにはいられない。
ステレオタイプ。
とんでもないステレオタイプかもしれないが。
 
 自分の周りの神戸の人には、他人に対しての評価が辛口な人が多い気がする。

 意見、異論お待ちしています。
フィラデルフィアが第二のウォールストリートに?
 フィラデルフィアに新しい証券取引所ができるらしい。 対象とするのは、リターンが高いデリバティブが主なもの。
 
 現在ウォールストリートでは、ビッグボードことニューヨーク証券取引所(NYSE)とナスダックの2極構造。 双方ともに電子証券取引を行っていたアーキペラゴとあと、名前忘れた、、確かイー何とかを買収し、その様相を増していた。
 
 このままでは取引コストが高まることが予想され、今回の運びとなっている。 モルガンスタンレー、UBS,シティグループらが出資をする模様。 ゴールドマンサックスは入っていない。 それは、ゴールドマンサックスは、NYSEのアーキペラゴ買収のディールにかんでいて、アーキペラゴの株式を保有しているから、らしい。

 アメリカの古都、フィラデルフィアが新しい金融の町となるのか? 
 
 確かに、フィラデルフィアにはペンシルヴァニア州立大学があって、ここのMBAはファイナンスと会計に強い。 スタンフォードのMBAがシリコンバレーの発展の立役者となったように、PENNのMBA卒業生たちが、新しいフィラデルフィアの証券取引所をリードする日が来るのかもしれない。
 こりゃ、場合によっては、ペンシルヴァニアも2年後の出願先候補に入れておかねば。。 
自慢の祖父。
JR高尾駅から歩いて25分ほど、父方の祖父の墓は、高尾の墓地の一番高いところに位置している。祖父がいた頃の家の勢いを反映しているのか。
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 報告も兼ねて、一人でお墓参りをしてきた。

 自分の記憶は2歳からしかない。 3歳の頃に亡くなったので、祖父の思い出はおぼろげなものしかない。 しかし、人づてに聞く祖父の話を統合すると、自慢の祖父だったようだ。 母方の祖父も自慢の祖父だったようだが、その話は、また近いうちに。

 衆議院議長も勤めた大物政治家の後援会の副会長。 当時の在日朝鮮人の状況において、その地位にあることのすごさは想像に難くない。 当時の浅草近辺では知らない人間はいない顔役だったそうである。
 祖父が病に臥し、もう先が長くないという時だった。 その事態が祖父を知る人々の耳に届くや否や、祖父には当時で日に何十万もする延命装置が取り付けられたという。 

 自分は、祖父が自分の守護霊であることを疑ってやまない。
 見えない力で、自分がある方向に引き込まれていくのを感じる時、過ちを犯して悔悟の中にある自分をまた立て直すとき、自分を見守っていてくれている祖父を思う。 
 今日は、自信が持てる将来の抱負の報告を、祖父の前で生まれて始めて出来たと思う。 自分のこれからの目覚しい活躍を見せていけるべく気合を入れねば。
悪評と好評どちらが誇大?
悪評や好評はいつの日も過大評価されがちなものである。 
 投資の世界においてもこれは変わらない。 
 では、悪評と好評は、どちらが過大評価されるのか。

 エクセレントカンパニー、直訳すれば、すばらしい会社、なるものがある。 これは、世界トップのコンサルタント会社のマッキンゼーにいたピータースとウォーターマンが取り上げた、42つの企業のことである。
 ちなみに、このエクセレントカンパニーの共通点は①行動の重視、②顧客への密着、③自立性と企業家精神、④人間を通じての生産性向上、⑤価値観に基づく実践、⑥基軸への執着、⑦単純な組織・小さな会社、⑧厳しさと緩やかさの両面を同時に持つ組織構造とのことである。 これはこれで参考になるのだが本論とはそれるのでこれくらいで。

 さて、問題は、このエクセレントカンパニーとそうでない会社、むしろパフォーマンスが劣っている会社に投資をした場合、総合的にはどちらの方が収益率が高くなるかと言う点。

 理論的に言えば、リターンは同じ。 一般の常識では、「なんで?」となるかもしれないが、評価が高い会社の株式は高く評価されるので、結果的に株式投資に対する収益率は変わらないわけである。

 これをクレイマンという人が検証してみた。 結果は、果たして、劣悪会社の方が投資パフォーマンスが高いことが判明したのである。 
 
結果(読み飛ばしても一向にオーケイです。)-----------------
      エクセレントカンパニー    劣悪会社
      への株式ポートフォリオ    への株式ポートフォリオ

決定係数    0.84          0.81
ベータ     1.18          1.17
アルファ    0.16%/月        1.00%/月
トータルリスク 17.7%/年        18.01%/年

 (Michelle Clayman, " In Search of Excellence: the Investor's viewpoint, "Financial Analysts Journal, May-June 1987 より。)
-----------------------------------------------------------

 投資の世界では、好評の方が悪評よりもより過大評価されるようである。 さてさて、現実世界ではどうなのだろう。 
偏頭痛。
偏頭痛。
 ハンマーで頭をぶん殴られる痛み。
 気持ちも悪くなってきた。
 冷や汗で体がべとべとしている。
 今回のは寝てもなかなか治らない。
 
 死ぬる思い。
回避か、中立化、愛好か。②
 (長いです。数字が嫌いな人は読まないほうがいいです。)
 以前に質問のエントリーを書いた後に書くのがかなり送れたことをお詫びします。 
 
問題は、以下のものから、何を選ぶかと言うこと。
---------------------
 A:常に100万円勝てるギャンブル
 B:50%の確率で150万円、50%の確率で50万円勝てる
 C:50%の確率でマイナス100万円だが、50%の確率で300万円勝てる
 D:常に120万円勝てる
 E:50%の確率でマイナス100万円、50%の確率で340万円勝てる
 F:50%の確率で40万、50%の確率で200万勝てる
------------------------
 
 ギャンブルとなってはいるが、これは、投資の問題として置き換えることが出来る。 てか、投資も一種のギャンブルと思います。
 
 投資の決定をする際に、ファイナンスの理論では、二つの概念がとても重要な位置を占める。
 それは、
 1.期待されるリターン
 2.リスク
 
 である。 1は、統計学で言う期待値(予想される値の平均)として、2は、これまた統計学で言う分散もしくは標準偏差(要は予想されう値のばらつき)として数的に表現される。 投資の決定の問題は、この期待されるリターンとリスクを鑑みて、投資家の効用を最大化する問題であるとされている。

 期待されるリターン(「期待収益」と呼ばれる)とリスクでA-Fをみると次の通り。 ここでは、リスクは標準偏差の記号σ(シグマ、と読む)であらわすことにしておく。 数式は気持ち悪いので省略。 万円でなくて、円にします。
 
 A。期待値:100円、 σ=0
 B。期待値:100円、 σ=50
 C。期待値:100円、 σ=200
 D。期待値:120円、 σ=0
 E。期待値:120円、 σ=220
 F。期待値:120円、 σ=80


 期待されるリターン(「期待収益」と呼ばれる)が高ければ高いほど、投資するのが好ましい。 これは、誰もが同じこと。
 次に、問題となるのはリスク。 ファイナンスの理論では、一般的に投資家はリスク回避的とされる。 
 リスク回避者は、リスクが高い投資を避ける。
 リスク中立者は、リスクを判断材料としない。
 リスク愛好者は、リスクが高い投資を好む。

 ファイナンスの理論は、このリスク回避的な投資家を前提にして構築されているので、投資家がリスク回避的でないと、なかなか大変なことになる。 そこで、ちょっとアンケートをしてみようかな、と思うことになったわけである。
 
 ちなみに、リスク回避者の場合の効用(満足度)は、一般的には以下のように表現される。
 
 効用=期待収益―0.5×σ×σ×投資家の性質を現す定数(1とかがポピュラー)。

 実際に、こんなにσ(ばらつき)が大きい投資対象は無いので、数字がなかなかおかしくなるが、まあ、それはしょうがない。
 それでもやはり、基本的に投資家はリスク回避的と言う前提はある程度の妥当性を持ちそうである。 協力してくれた皆さん、ありがとうございました。
恋愛頭脳。
 MIXIで先輩に紹介されていた恋愛頭脳判断をやってみた。

http://hanihoh.com/love/index.cgi?checkname=%82%B3%82%F1%82%DB&mystat=732233225

 そして以下が結果

-------------------------------
恋愛観レベル:聖人

★全世代から見たtaejunomicsさんの… 【恋愛観支持率】 96.8%
【恋愛スタイル】 中期低テンション恋愛型
【印象】 とくにありません

taejunomicsさんの恋愛観は、それはもう絶妙なバランス感覚を保っています。taejunomicsさんはよく恋愛相談を受けませんか?taejunomicsさんに相談すればまるでイチローのように高い確率でヒット(素晴しいアドバイスや名言)が返ってくることが期待されます。ただ、だからといってtaejunomicsさんの恋愛がいつもうまくいくのかは別問題。妥当な考え方が時として相手をがっかりさせるものです。

------------------------
 
 この手のものをやるたびいつも思うこと。 これを最初にプログラミングする人は、一体どういう基準で回答と性質をつなげているのだろうか? 最初の基準すらも、アンケートを用いているのなら、まあ及第点。 その後は、大数の法則にしたがって、社会的平均が求められていくはず。アンケートの数に従い精度が向上していくので、いいかな、と思う。

 中期低テンション恋愛って、なんじゃらほい。
 まー、あまり参考にはしないでおこう。

読んでくれている人の結果報告期待してます。
電車の中で。
 終電もそろそろ近い山手線の中。 車輌の端の席に本を読みながら揺られていた。
 とても強烈なすえた臭いに、周りを見回す。
 ホームレスの人だった。
 垢光りした服に、紙袋をいくつか抱えて、足には2月はつけているであろうギプスをしている。
 周囲の人は彼を避け、彼の半径1m以内には誰もいなくなった。 
 誰も彼を見ようとしない。 まるで、そこにいないかのように、振舞っていた。 彼を避けて移動したにもかかわらず。
 そんな中、一人彼を見ていた自分。
 財布の中を見た。 「これで何か食べてください」といって渡せるだけの金額はあった。 
 しかし、そんなことをしたら、彼の自尊心を傷つけることにはならないだろうか。
 けれど、彼が金銭的なものを必要としているのは、紛れも無い事実のように思われた。
 迷ううちに、自分が降りる駅に到着した。
 
 彼の視線を逃れるように、そそくさと電車を降りた自分。

 降りて、また、考えた。
 そうか。
 「足、大丈夫ですか? ここに座りません?」の一言だけでも、聞けばよかったのだ。 そして、彼と話せばよかったのだ。 そして、自分に出来ることをしてあげれば、それでよかったのだ。 
 「あなたがしてもらいたいと思うことを、人になすべきである」と言う言葉が、胸を突き刺した。 そのために、話し合って、分かり合わないといけない。 それが出来ていないと、時に、偽善や押し付けとなる。

 自分がいやになった。 情けなかった。
 まだまだ、先は遠い。
信じるもの。
 hyoten.jpg


 小説「氷点」を読んで、とても気だるい今日この頃。
 娘を殺した犯人の子供を育てるお話。

 人間の負の部分に対する心理描写に関しては、古典小説に少し劣る部分があるが、それでも、テーマ―原罪―が明確であるため、なかなか読ませる作品であった。
 続・氷点があるらしく、それのテーマは「赦し」である。 
 
 ふと気付いたが、このごろ読んだ小説は、信仰心を土台にしたものばかり。 カラマーゾフの兄弟、若きウェルテルの悩み、復活、白痴、そして、氷点と。

 神が存在するか否かについては別にどうでもいいことと思うが、このごろは、人間には神が必要だとは思うようになってきた。 
 無神論者的なご都合主義で、敬虔な人たちから怒られるかもしれないが、神は、別に誰・何でもいい。 キリストでもブッダでもモハメッドでも、自然科学でも、共産主義でも、民主主義でも、家の近くにある巨木でも、今けたたましく鳴いているセミでも、友でも。 神が必要だというよりも、信じるもの、すがるものが必要だと言った方がいいのかもしれない。

 人間は弱いもので、時には、信じたり、すがったり、それを行動の規範とするような何かがまだまだ必要なのだと思う。 自分たちは、ツァラトストラ(哲学者ニーチェの描いた強い人間)にはまだ遠い。 


 「宗教は体系化された迷信である」という耳慣れた言葉が、一面でとても虚しいものに思える今日この頃である。 自らの科学性を主張したところで、多くの人たちは、その科学性に対する認識を土台にそれを信奉するのではなくて、精神的支柱の必要から信奉する場合が多いのだから。 大衆運動における主義思想をみればよい。 例えば、マルクスの言うことを理解していた、いや、彼の基本著作を読んでいたマルクス主義者がどれだけいただろう。 理論や教義の正しさを競うところに、どれだけの意味があるのだろう。 虚無主義なのだろうか? わからない。
自意識を捨て去り、自己解放を。
9月16日の舞台に向けて、演劇の練習が開始している。
 一日約三時間。

 予想はしていたものの、自分に対するだめ出しの回数が途方も無く多い。 そりゃ、バンドでも練習を一月半してライヴに出る素人なんか、普通、ありえない。 自分ひとりに対するコメントが、全体の半数以上を占めていて心苦しい限りである。
 
 演劇をするにあたって一番大切なことは何か。
 皆が言う。 それは、「自己の解放」なのだという。
 自分が持っている自意識を捨て去って、役そのものに自分をシンクロさせること。 そうすることにより、いい言い回しやいい動作を出来るようになる。

 この、「自己の解放」というのは、演劇だけでなく、何かをやる場合にかなり重要な役割を果たしてくれると思う。 自意識を持たない境地。 本当の他者貢献や奉仕をするにあたって、とても重要な心持だと思う。 考えてみれば、偉大とされる人々は、この自意識をうまくコントロールしている。 ガンジーやゲバラの人への思いやりには、自意識が殆ど無い。 だからいやみも無いし、人々の心を打つのだと思う。

 NGをもらいまくる状況は嫌いで無い。 そういう状態にあるときにこそ、人は成長するのだから。 あと、一月と少しでどこまで自分を発展させられるであろう。 今から楽しみになってきた。
長期と短期の観の相違。
 人の状況に対する態度は、短期と長期の間で異なる場合があるようである。
 例えば、自分は短期的には悲観的な傾向があり、長期的には楽観的な傾向がある。 短期的には楽観的でも長期的には悲観的な人も、見たところ少なくなさそうである。

 さて、なぜだろう。
 ケインズの、「我々は長期的には皆死んでいる」と言う言葉がふとよぎる。 
 
 考え込んでしまった。
 答えは、未来の不確実性にあるのか、と、漠然と考えてみた。
証券アナリスト。

 前のエントリーでも少し触れたが、ただいま、他に色々とやる傍ら、証券アナリストの資格取得のための勉強中。

 証券アナリストと言うのは:
 ・経済全体の分析、産業の分析、その他社会・政治などの分析を土台にして
 ・対象企業(や政府など)の分析をし、それに基づきその企業等から発行される証券を分析し
 ・それを元に、投資家の意向を鑑みつつ
 ・投資を分散しながら行い(この組み合わせをポートフォリオと言う)、
 ・その投資のパフォーマンスを評価し、調整を加えていく。
 といったことを、サイクルとして行う人。 (アナリスト、analyst。動詞は、analyze:分析する。)

 この試験、受験者の大半は、金融機関の勤務者。 といっても、一次合格率44%、二次40%で、合格率17.6%と、そんなに難しい試験でもない。 
 ただ、通信講座を一年受講して生じる受験資格を持って一次試験を合格して、やっと来年の二次試験を受けられるので、最短で2年かかる。 ぱっと過去問を見たところ、1年で2次試験までの知識をつけられそうなので、そこらへんが歯がゆい。

 自分としては、この受験の第一目標は、将来必ず使うことになる基礎知識を完全にすることであって、第二が、資格の取得。といっても、資格は確実にとるつもりだが。 テクニックよりも、実力養成重視。 
 だから、予備校から出ている本は極力読まないでいる。 ちょっと立ち読みしてみたが、薄っぺらい。 試験科目である、証券分析、財務分析、経済学関連の基本書6冊と新聞、アナリスト協会から発行されるテキストを3回まわして、過去問を解いてみて、行けそうだったらそのまま受験するつもり。 
 
 で、証券アナリストとなった後に、国際試験を受けて、もうひとつ上のランクの試験(多分英語で行われる)を受けて、それで、一応おしまい。 
 この次に、USCPA(米会計士)の資格を取得する。 このときに自分は27歳の予定。 この時点で、予定しているバイアウトファンドの設立まで、残り6年しかないわけである。 必要なのものは、資格や知識だけではなく、他にも色々とある。 
 
 一つ一つ、埋めていきたい。
回避か、中立か、愛好か。
 アンケートのご協力をお願いします。 種明かしは、ちょっと立ってからしますので。

 次のギャンブルたちの中で、好ましい順を教えてください。 同じ順位というのもありです。

 A:常に100万円勝てるギャンブル
 B:50%の確率で150万円、50%の確率で50万円勝てる
 C:50%の確率でマイナス100万円だが、50%の確率で300万円勝てる
 D:常に120万円勝てる
 E:50%の確率でマイナス100万円、50%の確率で340万円勝てる
 F:50%の確率で40万、50%の確率で200万勝てる

 
 さてどうでしょう?
田伏勇太。
(本当は『田伏』→『田臥』です。変換できなくてめんどくさいので田伏で統一・・・)

 高校時代、同世代のサッカー以外のスポーツ選手で唯一知っていたのが、この人、能代の田伏勇太。  皆が知る、日本人初のNBA選手。
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 その田伏がスペシャルゲストとして参加するバスケのクリニックを見に行ってきた。 先輩の友人がいけなくなったので、運よく見にいけた訳である。


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 バスケは素人なので、技術的なことはよくわからないが、そんな自分にでも、プレーのすごさはよくわかった。 
 後のQ&Aでも言っていたが、全力を尽くすのが彼のポリシーらしく、小中学生との10分のゲームでもダンクや3p、ノールックパスなど、すばらしいプレーを見せてくれた。
 
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 プレーそのものはさておき、やはり、学ぶことが多かったのは、最後のQ&A。 彼の考え方の基本は二つ:
 -やる対象を、好きになること
 -何事もポジティヴに向き合うこと

 であると感じた。 
 
 バスケが好きで好きでたまらなかったから負けたくなかったし、うまくなりたかった、結果、練習をしまくったのだそう。 
 そして、常に全ての選手が自分より大きかったが、小さな(身長173cmらしい。竜兄談)自分だけが出来るプレーがあると考えてプレーをしていたという。

 この姿勢は、全てのことに通じることだと思う。
 最近の研究でも明らかになっているように、人間の脳は、楽しいと感じている時に、最大限のインプットとアウトプットをするのだそうだ。 前のエントリーでも書いたが、やはり、人間、使命感の片輪だけではだめで、楽しみを感じられないと(使命感を感じる=楽しい、という人もいるかもしれないが)、何事も達成は難しいと思う。  
 
 いやあ、何にせよ、かっこよかった。 高校時代のバスケ部女子の多くが上履きに「田伏命」と書いていたのがうなずけた。 せめて、精神的には、それくらいかっこよくなりたいものである。
スピードアップのメリットとデメリット。
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 自分は生まれつきのスピード狂だと思う。
 自転車で坂道を下る際にブレーキはかけないし、スキーでもショートターン(ウェーデルン)を覚える以前は、どんな斜度でも基本的に直滑降だった。 もし、車に乗るようになったら、首都高バトルとか峠攻めに参戦するのが目に見えている。 免許を取りたくない理由の一つである。

 閑話休題。

 社会、とくに経済におけるスピードについて少し考えてみる。 

 現在全てのものがスピードアップしているとひしひしと感じる。 
 移動手段の電車一つとってもそうである。 電車で買う切符は、窓口で買っていたのが自動券売機で買うようになり、駅員に切符を切ってもらっていたのが自動改札となり、ついにはSUICAまで登場。
 情報伝達一つとってみても、昔は会って話すか手紙しかなかったのに、電話、携帯電話、E-Mailと、情報の伝達のスピードは大幅に上がっている。
 経済でもまた同じ。

 スピードアップのメリットは:
  ・時間の短縮
  ・コストの削減

 が、真っ先に考え付くところか。 持ち時間に制限のある人間が、資本主義社会において生きていくのに、このメリットは大きいし、だからこそ、生活のスピードを上げられるものと言うのは人々の間に受け入れられるのだと思う。
 例えば、アメリカでは1990年代に登場した電子証券取引システム(電子取引システム。ECN, Elctronic Communication Network)は、瞬く間にシェアを獲得した。 1999年には、NASDAQ上場銘柄の売買代金の40%を占めるようになったという。 
 日本でも、個人投資家のインターネット取引(99年開始)の利用率は、2000年3月に7%程度であったのが、2002年の3月には50%を上回るようになった。  
 双方とも、取引に要する時間の削減と、安価な手数料が大きな要因となっている。

 
 しかし、当然のごとく、スピードアップにはデメリットもあるわけである:
 ・しっぺ返しの大きさ
 ・社会関係の希薄化

   が、主たるものだと思う。

 何事でも、スピードアップに伴う、一番大きなデメリットは、しっぺ返しの大きさであろう。
 冒頭の例で言えば、自分自身自転車で死に掛けたことは何回かあったし、スキーでは、急斜面のコブを直滑降したために靱帯を延ばしたこともあった。 
 現在の金融市場においても、スピードが上がるのは一般的にはいいことだと思うが、一度危機が起これば、そのしっぺ返しは文字通り破滅的なものになると思う。 
 
 スピードを上げるのならば、それに伴う高性能のブレーキが必要だと思う。 既存のサーキットブレーカー(例:値幅制限。 日本で株価がひどく上がったり下がったりした場合にその日の取引を停止させるしくみ。)だけでは、心もとない。


 社会関係の希薄化といえば、真っ先に思いつくのが、マルクスの疎外論である。 疎外とは、あるものがよそよそし別なものになる事を意味する言葉である。 マルクスは、労働者自身が生み出した生産物が、彼・彼女らにとって、よそよそしく、独立した、さらには敵対したものになり、それゆえ、生産活動すらも、単なる生活維持のための苦痛な、強制された労働となるとした。 一面において、現代の経済は、この疎外状況をより一層激化していると感じる。 

 まあ、そんな難しいことを書かなくても、メールや電話でのやり取りから大きな不安を感じてしまう自分にとって、スピードアップに伴う社会関係の希薄化は、なかなか焦眉の問題であったりするのだが。 
 
 スピードを上げつつも、そのデメリットを最小限に抑えられる仕組の重要性を感じる今日この頃である。
演劇出ます。
 「ニコマコス倫理学」のアリストテレスに同感する。 
 重要なのは、よく生きることにある。
 そのためには、弁証法的なバランス感覚が重要だと思う。 だからか、本線の事業以外にも、人生の中で成し遂げたいプライベートな活動が芸術やスポーツ・格闘技の分野にいくつかある。 
 
 そのうちの一つが、奇しくも叶うことになりそうである。

 それは、演劇の出演。 喜劇です。

 ある劇団からお誘いを受けて、それに出ることになりそう。 練習は夜なので、基本的に参加できそうである。 
 ちなみに、演劇の経験は、ほとんどなし。 実は、少し不安だったりする。 台詞も、普段やらないようなアクションも多い。 
 けれど、そんな不安よりも、出れる嬉しさがはるかに上回っている。
 
 9月16日から4日間、計6回あります。 於新宿。
 見に来れる友達は、是非、笑いに来てください。
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