Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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答えは相手自身の中にある。
 成長した己を振り返るとき、目に浮かぶ人たち。
 そんな人は、その人にとって一番大切な人間なのだと思う。
 振り返ってみると、自分には、人生の節目ごとにそういう人たちがいた。
 
 そういう人になれたら、無上の嬉しさを覚える。
  

 自分は、時間をこの上なく惜しむ人間。 時間を節約するためには、なんでもする。 例:走りながら英語リスニング→1時間の節約。 風呂に入りながら読書→30分の節約。

 けれど、進路の問題とかで人と話をするときは、一つもその時間を惜しいなどとは思わない。 将来一緒にやっていくその人と5時間話すことで、その人の意思決定を助けるが出来たのなら、その5時間は喜んでささげられる。
 話を通じて、彼・彼女が新しい道を3ヶ月早く見つけ、歩き始めたとしよう。 
 それによって、社会的には、3ヶ月(正確には三ヶ月-5時間)の時間が、有意義に使われることになるのだ。

 だから、気持ちの上のみでなく、合理主義的な観点に立ってさえも、自分にとっては、人とそういう話をするのは、かけがえの無い貴重な時間である。


 本当に実りある時間に出来るために、最大限に無い頭を使って努力する: 
 ・議論が空回りしないように、絶対に相手の話をメモする。 紙が無い場合は、頭で図を書きながら話をする。 
 ・そして、「その人にとって、実際の問題は何なのか」についての仮説をたて、検証をするために質問をくりかえす過程で、それを探し出す。
 ・次には、その人の中にある問題解決能力を探しながら、自分がするべき話を考える(したい話、ではない)。 この時に、問題解決の鍵は私自身の中には無く、相手の中にこそあるということを肝に銘じること。
 ・相手から質問をされたときは、ほとんどの場合、質問を言い換えるなどして、その質問の真意を確認して、答えをする。
 ・自分自身も話し相手から学ぶことがあるということを、決して忘れないこと。 
 ・そして、なによりも、はじめにまごころありき。
 
 母校の高校生たちと、本当に色々なことを話した。 時計を見たら4時になっていた。 何か、きっかけを与えることは出来ただろうか。 出来たと願う。

 次に、昼間には、神戸の一つ年下の後輩と、これまた進路の話。 久しぶりに会ったら、表情から険がとれていて、いっそう魅力的な人になっていた。 自分の話が何かの助けになっていることを心底願う。


 マルクスも言っていたが、人は、己が解決できるものだけを、問題としてとりあげるのだ。 そして、その問題を解決をする力は、その人自身の中にある。  人間は、一時くらい衝動に陥ろうとも最後には決して道を間違えたりしない。これは、ゲーテの謂。
 解決には時間がかかってしまうことがある。 そういう場合、周囲の人がヒントを与えて、時間を早められるかもしれない。 そんな人間に、自分はなりたい。
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「ありがとうございます」と「ありがとうございました」。
 気づいたこと。
 なぜ、日本語には、感謝の気持ちに過去形があるのだろう?
 例:ありがとうございます と ありがとうございました。

 少なくとも、ハングルと英語にはあまり見当たらない。

 例:カムサハムニダ はあるが、カムサヘッスムニダは存在しない。
   I appreciate youはあるが、 I appreciated youはあまり聞かない。

 その他言語はどうなのだろう。 だれか、教えてください。

 
 言葉は生きていて、その言葉の背景には多くの「ものの見方考え方」が存在している。 だから自分は言葉が好きだし、その地方の味を感じさせてくれる方言が大好きである。

 日本語に、「ありがとうございます」と「ありがとうございました」が存在するのも、ただの偶然とは考えられない。
 
 仮説を考え中。 アイディア、求みます。
意味の付与について考える。
 大学の後輩に是非聞いてもらいたい話。
 
 意味は、タイミングにより、二つにわかれる:
 ・事前に付与するもの。
 ・事後に付与するもの。


 やるまえから、その行動の意義を感じながら行動を採ることは、もちろん可能。 そして、これは、自分がいた大学ではかなり重視されていた。

 しかし、事後からの意味づけも、存在するのだ。
 
 事後の意味づけのうちで、究極のものは、生きる意味だろう。
 
 心理学者V.E.フランクルも言っているように、
 生きる意味とは、生きているという事実そのものが、その人に対して問いかけているものなのだ。 自分が生に対して問いかけるのではなく、生が自分に対して問いかけるのである。

 もうちょっと説明が必要だと思うので補足する。
 「なんで生まれてきたのか」とか、「なんで死んでゆくのだ」とか、そういった問いかけは、自分が生に対して行う問いかけ、最初の話しで言えば、事前の意味づけ。 問いかけたところで、答えを待つのは難しい。
 
 反面、「生きているのだから、どうやってこの人生を意義あるものにしようか」と、考えるのは、生の問いかけに対する答えにあたる。 最初の話しで言うのならば、事後の意味づけ。 多くの、素晴らしい意味づけをすることが出来ると思う。

 こう考えると、生きるということについては、事後の意味づけがとても重要だと思う。 
 
 生きる意味という高尚なテーマでなくても話は同じ。

 
 日々課される物事に対して、
 「なんでこんなことをする必要があるのか?」
 と、事前の意味の付与を求めるのみならず、
 「自分は、このおこってしまった出来事にどのように意味を見出せるか?」
 と、事後の意味付与について考えたい。

 
 何かのイベントについてもそう。
 はじめは、ただ、思いつきで始めたイベントも、その人の志向がしっかりしていれば、後には、貴重な意義を見出せるものである。 
 躊躇せずに、踏み込んでもらいたい。 一生懸命していれば、かならず何かを見出すことが出来るから。 挑戦なくして、得るものは無い。





 久しぶりの総合格闘技。
 練習してなかったのに、左のキックがかなりレベルアップ。 プールの成果か。 やっぱり寝技は苦手だ。。 
 練習後、呑みながら、明日から母校の高校で開かれる二泊三日泊りがけのセミナーに夜だけ参加することに決める。 さてさて、どんな話をしてあげようか。 
15分でまとまらない考えなんて。
 毎日毎日こんな長いブログを書いて、勉強しているのか? 

 と言われた。

 ちゃんとしてます。。 仕事の時間以外は。
 8月上旬からのこの期間に、700ページくらいある専門書を3冊、ノートをとりながら3回まわしたし。 こんな風に→http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-date-20050822.html

 毎日のブログの内容は、駅から自宅までの自転車の15分の間に考えている。 タイピングのスピードは、ゆっくり話すのと同じくらいなので、作成に際して時間はかからない。
 だいたい、15分くらいでまとまらない考えなんて、本当に自分のものになっている考えではないのだと思う。 百科事典なみに知識がある人には別かもしれないが。

 と、ソクラテスには遠く及ばないが、弁明をしてみようと思った。
間に思う。

































































































































































































 質問:カーソルを動かすあいだに、何を感じましたか?



 間は、自分に認識という行為の性質について改めて考えさせてくれた。 認識の対象が空虚なものであっても、その対象を超越した認識が、己の精神世界内で成立しうるのだ。 
 もう少し俗っぽく言ってみよう。
 人は、どんな状況でも、感じることが出来る。 出来るかできないかは、その人の内面によるのだ。
右と左の憲法学的考察。
 知は公共の財産である。 と、自分は思っている。 受験時には、基本的にみんなと一緒に知識を享有しようとするし、MBA受験の間は、そのおかげで多くの素晴らしい友人たちに会うことができた。


 そういえば、自分の卒業論文について、あまり人に話せていない。 
 この卒論、平和的生存権の最初の提唱者であった指導教授、星野安三郎は大絶賛してくれたもの。 学会に出したらどうかとまで言ってくれていた。 ただ、学内の論文審査では、「こんなもの、法律の論文ではない」といわれたが。。
 
 さらに、この卒論の内容は、飲み会の場などでちょっとしたトリビアになること間違いなし。 


 タイトル「試論・右と左の憲法学的考察」


 歴史的に、右には「強さ、正しさ、男らしさ、幸運、器用」などの価値が付与され、左には「弱さ、邪悪さ、女らしさ、強運、不器用」などの価値が付与されてきた。 奇妙なことに、この事柄は、世界的に共通であった。 言葉、宗教、慣習など、すべての分野においてそうである。 

 権利のことを英語でrightと言う。 ちなみに、ドイツ語では、rechtと言い、フランス語ではdroitと言うのであるが、これは、すべて「権利」という意味とともに、「右」という意味を含んでいる。

 右→権利 となった、その論理について知ることによって、社会を見る新たな視点を得られるのではないか。

 
 まあ、ここらへんが、論文の主な内容である。 専門性の高い分野は省いて、生活に役立つ(?)部分について、叙述していこうと思う。 
 こんな論文を書くきっかけになったのは、英語の勉強であった。

 ある日、dexterousと言う単語に出くわした。 これは、「器用な」と言う意味の単語であるとともに、「右の」と言う意味も持っていた。 逆の言葉であるsinisterousは、「左の」と言う意味とともに、「邪悪な」と言う意味も持っていた。

 さて、これは何かあるのでは。 と、思い、開始。 とりあえず、ハングルと日本語を調べた。

 おお、右には「吉、強さ、器用、尊敬」がついてきていて、左には「凶、弱さ、不器用、蔑視」などがついている。 とりあえず、代表的なものを。


1)ハングル
 ハングルにおいて、右側は「正しい側、行儀のよい側」ともされている。右足、右腕、右手、などはすべて「正しい・行儀のよい足、腕、手」なのである。 
 さらに、ハングルにおいて行進の際の敬礼をさすことばは「右を向け」である。 また、右という漢字はハングルの発音では「ウ」となるのだが、この「ウ」という音は上という意味をも持ち、強調を表す接頭語としても用いられている。 
 また、右はハングル固有の発音では「オルン」となるのだが、これは「正しい」を意味する発音と同じなのである。 

 一方、左と関する言葉では、
 「左にうなずく」→「他人の意見に対しての反対や否定」
 「左の道」   →「一定の方向にそむく道」
 「左の声」   →「誤っている声、険しい声、訃報」
 などがある。 うーん、不思議である。

 さらに、「左足使い(左足利きのこと)」という言葉はあるが、右足使いという言葉はないのである。また、左のことをハングルの固有の発音で「ウェ」というのだが、この「ウェ」という発音は、「母方、外、他」などを意味するのである。


2)日本語
 日本語でも、「握る(にぎる)」を語源としている右は、「優れた方」とされている。
  
 「右職」→「高官、役人」
 「右に出る者がない」→「その人より優れたものがいない」

 逆に、端を意味する「ハタ」、「ヘタ」を語源とする左に関しては、
 
 「左巻き」→つむじが左巻きの人は正常でないという俗説から、「頭の働きが少しおかしい人」
 「左(さ)道(どう)」・「左様(ひだりざま)」→「正しい道にたがうこと」
 「左前(ひだりまえ)」→「①死人の服の着方、②物事が順調に行かないこと、運が悪くなること、経済的に苦しくなること」
 「左(さ)言(げん)」→「言葉を知らない未開人」
 
 また、「左勝ち(左側のほうをよく使うこと)」という言葉はあっても、「右勝ち」なる言葉はない。


 とまあ、なかなか不思議なのである。 ウリマルと日本語もそうなのだから、多分、他の外国語でもそうなのではないかと言うことで、他の国の言葉も、知る限りで探すことにした。 

 とりあえず、ここで、ひと段落させるつもりである。 続編は、また、時間があったら。

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 3)その他言語―中国語、スペイン語、ロシア語、イタリア語など
 中国語においても、やはり右が尊ばれ、左が卑しまれるようだ。たとえば、
 「右武」という漢文のよみかたは「ぶんをたっとぶ」となり、「相左」という漢文をよむときは「あいたがう」となるのである。
 日本語にもなっている言葉だが、「左遷」とは「高い官職から低い官職におとされること」であるが、これは、王の面前に集う際、臣下たちは位の高い順に右から並んでいたので、地位が落ちることは左へと移動することだったからである。 文事を尊ぶこと、文学を重んじることをさして右文と呼ぶ。


 スペイン語では
 「左利きの人」→悪意から罪を犯した者、または泥棒。
 非常に賢いということ→「no ser zurdo」。「zurdo」とは左利きのことで、「no ser zurdo」とは、直訳すると、「左利きでない」となる。 


 ロシア語では 左利きを意味する「levja」は侮辱の言葉として用いられる。 そこから派生する「na levo」も「卑劣な」を意味している。
「左足から起き上がった」→いやな気分で目覚めること
 布地や織物の「左側」→「間違った側」。
 「左方向に」何かする→「こそこそ卑劣な行為をすること」。
 同性愛者を蔑視した俗語「levak」→英語の「lefter(左利き)」にあたる言葉である。
 
 左利きを意味するイタリア語である「mancino」は、「歪んだ」、「不具の」を意味する「mancus」から由来している。

 ほかにも、スワヒリ語、セルビア・クロアチア語、アラビア語、トルコ語、ポルトガル語にも、左や左利きという言葉の持つ概念に軽蔑的な意味合いがこめられていた。

 
4)フランス語、ドイツ語、英語
 フランス語は、「人権発祥の地」の言語であり、ドイツ語はヨーロッパにおける法理論の発展においてもっとも重要な役割を果たした言語のうちの一つであり、そして、right概念のrightは英語である。 さて、これらの言葉ではどうか。


 フランス語では、「gauche」とは、「左利きの、左側の」という意味と、「不器用な、無作法な」という意味を同じく持っている。これと関連して、
 「武器の左側を通り過ぎる」→死ぬ
 「右と左を区別できない」→「善と悪を区別することができない、常識を知らない」。
 「左利きの結婚」→「内縁関係、同棲;自分より身分の低い人と結婚すること」。


ドイツ語において、左は「link」であるが、これは「不器用な、不正な、いかがわしい」を意味している。「zwei linke Hande haben(二つの左手を持つ)」とは、「不器用である」ということである。ヘブライ語にも同様の言い回しがある。

左の英語「left」の語源は、「弱い」、「壊れた」を意味するアングロサクソン語「lyft」からとされている。 「左利きの」にまつわる言葉については、否定的な意味合いを持つものが少なくない。 
「左利きのお世辞」→褒めているのか褒めていないのかわからないお世辞。
「ベッドの左側から生まれた息子」→私生児として生まれた子。
 「左利きの分析」→「誤った判断」
 「左利きのビジネス」→「非合法な商売」である。


 ここまでくると、どうやらただの偶然ではなさそうである。 世界の行き来が自由になる以前に、この事柄が起こっていたことは、おどろくべきことである。 
 話は言葉の問題だけにはとどまらない。

 そのうち、また書いていくことにする。
調和から考える、世界と生き方。
 風邪をひきながら、そして、川の流れと秋風にそよぐ枝を見ながら、調和についてつらつらと考えた。
 多くの人に読んでもらえるように、時間の制約内で可能な限り、分かりやすく書いたつもりです。 最後まで読んでくれたら幸いです。
 
 現代を知る上で、また、よりよく生きる上で、調和というのはとても重要なものの考え方だと思う。 
 (調和の定義は難しいのですが、ここでは、調和は、「うまく釣り合い、全体がととのっていること」という広辞苑の定義に従うことにします。) 


 1.現代を知る上で

 -音楽と調和
  近代までは、音楽は調和を旨としていたと思う。 クラシック音楽は、調和の典型である。 しかし、現代音楽は、この調和をある程度崩しているものが多い。 ブルーノートという不協和音を導入しているジャズなどがその典型か。 不協和音のみならず、即興演奏も、調和を崩すものと考えられるだろう。 
 
 -美術と調和
  宗教画(タイトル忘れた、、)の黄金比をはじめとして、これまた、現代以前の美術作品は調和を旨としている。 
 しかし、現代アートは、例えば90年代のアートは「分裂症の時代」(椹木野衣の『日本・現代・美術』より)という風に表現されるように、不調和を内包している。 
 六本木ヒルズのキャラクターのデザインもしている、日本で最も評価の高い現代アーティストの一人、村上隆の94年の作品に「ズ・ザザザザザ」というタイトルのものがあるが、これも、ズ・ザザザザの語呂の良さを、あえて、「ザ」を一音付け足すことによって崩している。 


 -文学と調和
 ソフォクレスの戯曲「オイディプス王」にて、神託(神様のお告げ。劇中では、オイディプスが父を殺し、母と結婚することになると言うのが、そのお告げの内容だった)が最後には達成されるように、現代以前の文学はほとんどが調和的なものであった。 反面、現代文学はそうでないと思われる。 個人的な見解で恐縮だが、自分は吐き気を催しながら読んだカミュの異邦人からは調和のちょの字も感じることは出来なかった。 
 また、文学とはすこし離れるが、現代演劇においても、予定調和的な演技というのは、最悪のものであることを、演劇の練習を通じて最近知るようになった。


 -哲学と調和
 現代以前の哲学は、プラトンの「真善美(~普遍妥当な価値としての、認識上の真と、倫理上の善、審美上の美)」に代表されるように、調和を基本としていた。 しかし、現代哲学は違う。 構築された議論を一度粉々に崩そうとする脱構築などは、その典型ではないかと思う。

 また、余談だが、哲学者ミシェル・フーコーが「監獄の歴史」にて明らかにしているように、現代以前までは今で言う精神病患者は聖人として、社会の中で隔離されずに生活を営んでいたのだと言う。 調和である。 
 反面、現代になり、これらの人々は、「狂人」とされ隔離されることになる。 不調和である。


 というように、現代においては、社会の多くの場において不調和が含まれている。  何故か? その考察は最後にしようと思う。



 2.よく生きるうえでの調和の考察
 調和の取れた状態について考えることは、よりよく生きるうえでとても貴重なことだと思う。
 

 -自然と調和
 例えば、今日見た秋風にそよぐ枝。 風が吹かなければ、そのままの状態でとどまったままである。 風が吹くと、枝は揺れ動く。 しかし、よほどの事がないと折れたりはせず、結果として、もとの枝の角度へと戻る。
 自然に身を置きながら、その調和の美しさに嘆声を上げた記憶は、誰にでもあると思う。 また、自然災害を目の当たりにし、人類が地球にかけてきた負担について考える人も少なくないと思う。 自然に身を置く人間として、自然について調和の観点から考察することはとても重要なことと思う。
 傍論だが、漫画、「ARMS(おすすめです)」でも取り上げられている、ガイア仮説(地球を一つの生きたシステムと考えた)の提唱者であるジェイムズ・ラグロックは、次のように語っている。 
 
 我々の惑星を構成している全てのものは―物理的なものであれ、生物的なものであれ―あたかも単一の生きたシステム、すなわち、全体を並行に保つべく、変化や損傷を自らの内部で補償できるような自己調節をする存在とみなすことが出来る。

 

 そして、この自然の調和に対する考えから、いろいろな事を考えられると思う。


 -経済と調和
 経済学全般において最も重要な考え方の一つは、均衡である。 経済学では、釣り合いが取れている状態をもととして、時には前提として、議論を進めていく。 均衡の概念がないと、多くの経済学的考え方はなりたたないのである。 たとえ、均衡が実質的には成立していないとしても。
 ちなみに、ファイナンスの分野においては、均衡を想定し、市場にある資産の組み合わせを模した投資を行い得るリターンをレラティブリターンといい、伝統的な投資手法とされている。 反面、均衡時の価格からの乖離を探しだし、それを利用する(裁定行為という)ことにより得られるリターンをアブソリュートリターンと言う。
 
 
 -人と調和
 まず、身体。 人体はつねに己を調和の状態、すなわち健康状態へ戻そうと常に働きかけている。 
 次に、精神。 時に揺れ動くこともあるが、やはり、人間の精神は内的な調和を目指しているのだと思う。 そのために、人類はいままで色々な精神の調和のための手段を考えてきた。 宗教儀式などがその最たるものだと思う。
 
 よりよい心身を考える際に、やはり、調和の概念は貴重な洞察を与えてくれると思う。

 
 さて、結論。 

 第一に。 先に述べた、「なぜ、現代において不調和が現れ始めたか?」に対する答えでもある。

 不調和は、調和の貴重さをより強く感じさせてくれるものであり、それゆえに、人々はかりそめの不調和を探すようになったのではないか。

 と、自分は考える。
 音楽において、もとはタブーであった変終始を味わうことにより、全終始の美しさをより強く感じることができる。 不健康であるからこそ健康のありがたみを知る。 孤独を感じるからこそ、人の世の温かみを時に知る。 調和の取れていない状態にあるからこそ、調和のありがたさを人は感じるのである。
 
 哲学者吉野源三郎は、『君たちはどう生きるか』で次のように語っている:
 
 人間が本来、人間どうし調和して生きてゆくべきものでないならば、どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることが出来よう。 お互いに愛し合い、お互いに好意を尽くしあって生きてゆくべきものなのに、憎みあったり、敵対しあったりしなければいられないから、人間はそのことを不幸と感じ、そのために苦しむのだ。

 だから、現代の脱構築美術に対して、脱構築を提唱した哲学者であるジャック・デリダは憤慨している。 デリダの脱構築は、脱構築をすることにより、ものの本質に迫るための方法であったのに(不調和による、調和のより深い理解と解釈できると思う)、現代の多くの脱構築美術家たちは、ただ、現状においてあるものを崩して終わりだからだ。 同様の憤りを、自分自身、六本木ヒルズの森美術館でのアーキラボ展示会を見ながら感じていた。 デリダが憤慨しているのは、その後に知った(といっても、信じてもらえそうに無いが、同行していた後輩が証人である)。
 一時的にとられる不調和は、調和を探すものとして、その意義を見出すべきだと自分は思う。


 もう一つ、上の事柄からの帰結ともなるかもしれないが、

 今、人々がすべきは、単なる調和のみではなく、もちろん、不調和のみでもなく、一時的な不調和から調和へと移行する際の過程に対する考察にあると思う。
 
 物理の世界ではもうこれは進んでいて、アインシュタインやウィーナーらのブラウン運動に関する考察などがそれにあたる。 彼らは、不規則な運動について一定の傾向を見出しつつ、それが時間が経過するごとにどのように変化していくかを数学モデル化した。 この考え方は、現代のファイナンス理論において、かなり重要な役割を担っている。 ブラックショールズ式なども、この考え方を重要な理論的前提としている。

 投資の世界におけるアブソリュートリターンを得るにも、上で述べた、不調和と調和の間の関係についての考察が必要不可欠である。すなわち、自分がこれから成功を収めるために必要なのである。

 自分の人生の目標の一つが、人格の完成にあるのだが(といいつつ、未熟なことばかりだが)、そんな自分がにとって、人は不調和の状態からいかにして調和のとれた精神状態へと移行していくかについての考察と言うのは、重要な事柄である。



 そのために、何をすればいいか。 色々考えている。 類推の誤謬、合成の誤謬を恐れつつも、自然観察をしようかと思っている。 水の動きや風の流れなどを、ちょっと観察しながら、何かが見つかるのかもしれない。

 子供の頃に見たドラえもんの映画(確か、海底旅行のやつ)で、「地球の全ては解明されてしまって退屈なことばかりだ」、と言っていたジャイアン君、まだまだ地球には不思議がいっぱいだよ。
 また、何かを発見できることを考えると、明日朝起きるのが楽しみでしょうがない今の自分は、とても幸せなのだろうと思う。
知識人について。
 知識人とはなにか。 自分の大学1年生から2年生の間にかけてはもっとも重大な関心事であった。 かなりの時間を、これについて思い悩むことに費やしたと思う。

 考えの整理が出来ていないので支離滅裂になるかもしれないが、読んでくれたら幸いである。 さらに提言をしてくれたらこの上ない。 おそらく、この日記は日記なのにもかかわらず幾度か書き直されることになりそうである。



 現在、自分は、知識人は「世界に既に存在するがあらわされていないものを、自らの方法によって表現する人」だと思っている。

 「既にあるが言語化されていないもの」というのが重要で、知識人は新しい原理を作り出すものでは決して無いと思う。 社会科学で言うのならば、人々がたちが感じていたり、感じていなかったのだとしても、社会において貫徹されている原理や原則などを見つけ出し、それを表現するのが知識人の役割だと思う。 


 
 ここから端折る。--------------------------
 
 なぜ、このような当然のことを言うのかというと、近頃、言語や数式のみを土台として、論理のみの理論を作り上げる「知識人」たちが少なくないからである。特に、学問分野の性質上、社会科学に多い。 現実とかけ離れていても、言語的・数式的な正しさだけをもって、「自分の理論が正しくて、現実がそれと一致していないだけなのだ」と主張する人たちがかなりいる。  
 自分は、この様な理論を理論とは認めたくない。 現状に対する妥当性が存在しないからではない。 
 一定の時代において現状に対する妥当性を持たない理論はいつも存在した。 ガリレオ、メアリ・ウィルストンクラフトの言ったことを当時の人たちの多くはは納得しなかった。 しかし、その時代において妥当性を持たなかったとしても、彼・彼女の理論は自分たちが直面している現実にしっかりと立脚していた。
 

 論理のみの上に成り立つ理論を認めたくないのは、かなり個人的な価値観に立脚している。 
 自分は、生きている人間が作り出す理論というものは、生きている人間に対して救いなり、または利便なりをもたらすものであるべきだと思っている。 
 これは、かなり時代遅れといわれがちな価値観であるのは承知である。 しかし、考えてみてほしい。

 絶望にある人がいたとする。 本当に逃れようのない絶望である。 その人に対してなんと声をかけるか。
 「残念ですが、知恵の結論からすると、あなたは絶望するしかありません。」
 「なんとか絶望を逃れる手段があるはずです。私が考えます。」 

 自分は後者を選ぶ。 それが、生きている人間のとるべき選択であると思う。 矛盾をはらむ現状の解決のために論理を組み立てる人間に、自分はなりたいと思う。 たとえその論理が、多少の欠陥を抱えてしまうのだとしても、そちらを選ぶのだろう。 
 マルクスしかり、ケインズしかり、サルトルしかり、歴史において魅力のある理論というものは、後者の立場をとってきたものだと思う。 学問的な正しさと魅力と言うものが一致するとは必ずしもいえないのかもしれないが。


端折り終了。-----------------------------


 上で述べたことから分かるように、自分は知識人といったとき、表現活動をする人間たちを全て念頭においている。 芸術家たちも彼女・彼らの方法で現実にある事柄を表現するのならば、知識人なのだと思う。 だから自分は、関心事項である音楽についても、端折りで述べたような理由で、軽音楽などをその形式のみをもって蔑む人々を嫌悪する。  



 知識人が上で述べたようなはたらきをする人たちならば、知識人の役割とは、その表現活動によって、人々に何かを気付かせることにあると思う。 その何かは、現在行われている愚行について思いとどまることであったり、くらしを豊かにする方法であったり、異なった視点であったり色々であると思う。



 予想通り、収拾がつかなくなりそうなので、ちょっとずつ書き足していくことにする。 とりあえず、しめる。

 自分の術語法の範囲内であるのならば、自分は知識人になりたいと思っているし、そのために現在は学問をしている。 学問のみが知識人へといたる唯一の道ではないと痛いほど知っているが、当面は学問が必要だと思うからである。 学問は厳しいものである。 現実が烈日の厳しさであるのならば、学問は秋霜の厳しさであるとおもう。 目的意識をしっかりと持って乗り切っていきたい。



 There is no royal road to science. But only those who do not dread the fatiguing climb of its steep path have a chance to get its luminous summit.
学問に王道はありません。しかし、その急峻な坂道を疲労困憊し登ることを恐れぬものだけが、その輝かしい頂点にたどり着く望みを持つのです。 
                        カール・マルクス
酒バトン。
 最近、学術的なエントリーを書いていなくて恐縮なのだが、、
 
 酒バトン、行ってみましょう。


 
①今、冷蔵庫に入っているお酒の容量は?

 自分用のお酒は、日本酒と焼酎が数本。 合計で4リットルくらいか?
 10月1日の自分の誕生日に先んじて、マイク・タイソン似の弟がさっきワインをくれた。


②好きな銘柄は?

 日本酒は、天狗舞のフルーティさが◎ 買うのは基本的に純米酒。 アンチ醸造アルコール。 最近JRから特別発売されている純米大吟醸酒をチェック中。

 芋焼酎は、今色々模索中。 今まででヒットは天孫降臨という芋焼酎。 今、芋焼酎が3本あって、のみ比べ中。

 ビールは、エビスとハイネケン(で読み方あってるのか?)。 純ビールが好きみたい。

  

③最近最後に飲んだ店は?

 なまはげ、という、秋田料理のお店。
 ここの地酒の北鹿(ほくしか、と発音)は、とてものみやすく、危険なお酒だった。 あと、珍しいかぼちゃの焼酎があった。 芋ほどの濃厚さはないが、甘い芳香りがする、かぼちゃらしい焼酎だった。

 

④よく飲む、もしくは思い入れのある5杯

 運動後のビール。
 刺身と日本酒。
 芋焼酎と相性がいい食べ物は現在調査中。 だれかお奨めを教えてください。


⑤ジョッキを渡す5人

 へんぐ
 さんじゅん
 しも兄
 末姉
 ちゅう

 で。 書かなくても別にかまいません。。



 肝臓は大切に。
和風スパゲッティも悪くはないけれど。
 ボランティアが終わるや否や、知り合いが多数出演する歌劇団の公演を見に新宿へ。
 舞踊は正直よく分からないのだが、この人たちの伝統音楽の演奏のレベルは、いつ見てもすばらしい。 脱帽。 しかも、よくみると、その伝統楽器奏者のうちの3人もが、自分と同じ中学校の卒業生。 誇りです。
 
 これだけの技術があるのだから、伝統音楽一本でいった方がいいのでは?、と思うのだが。 東洋音楽の楽器とノリで西洋音楽を演奏すると、やはり、どうしようもない不自然さは出るものだと思う。 特に、今回は、ドラムが裏ノリで、パーカスが表ノリという、すさまじい状況になっていた。。 ノッている身体の動きが、シーソーのように逆なのだ。 一方が身体を浮かすとき、もう一方は身体を沈めている。 和風スパゲッティは美味しいが、やはりスパゲッティはイタリアのもので、オリーブオイルが一番しっくりくるという事を、公演を見ながら考えていた。
 事業の発展を考える際に、ビジネスでよく用いられる概念の一つに「選択と集中」というものがある。 競争のある環境の中で生き残るために、他と比べ自分が持っている特異な点、優れている点を見つけ出し、それをもとに、差別化をするのである。 イメージで言うと、もともと速い球を投げられる選手が、他の変化球にはあまり手をつけずに、さらに剛速球を投げられるようにトレーニングをすることが、選択と集中にあたる。 ちなみに、多角化は、失敗することが多い。巨人のような規模の企業でさえも、時に多角化に失敗し、その後選択と集中に着手する事例が少なくない。 歌劇団のスタイルも、選択と集中をした方がいいと、自分は思ったりする。

 公演全体の演出に関しては、それに伴うしがらみがとんでもないことをよく知っているので、何も言えませなんだ。
 歌劇団の皆さん、お疲れ様でした。 巡回公演のこり約半分、頑張ってください。
IMADR(イマダー)にて。
六本木に事務所を構える人権NGOにてボランティアをしてきた。
 大学生の頃にここでインターンをして以来、機会があるたびにここでボランティアを行っている。

 IMADRといって、知恵蔵にも掲載されているNGO。 日本にある人権関係のNGOで、ここより原則的なNGOは無いと思う。 どんなときも、自分たちのスタンスを決して崩さない、本当にカッコいい人々が日々働いている。 だから、ボランティアをしようという気にさせてくれる。

 毎回毎回インターンの人たちがいるので、その人たちと話し合うのもなかなかの楽しみ。 色々なバックグラウンドをもっている人たちだから。 英米文学の演劇を専攻している人がいて、今日はその人とのシェイクスピア談義が花開いた。

 そうそう、サンデ、ここのNGOの人が、つい最近君の学校に国連の人が行った時に同行していたらしいよ。 君の事を覚えていたそうだ。 いやあ、世界単位で、世の中は狭いものだ。
第三の性。
 家に帰る途中、散歩している犬を見かけた。 犬の用を足す姿は、小さい方は、雌雄異なる。
 
 ふと、考えた。 第3の性なるものが、将来生じるのではないだろうかと。 所謂、ニューハーフなどのことではない。

 元々、生殖は、一つの性によりなされた。 それが、環境により適応できる固体を生むために、二つの性による生殖へと移行した。 これにより、種の進化のスピードは格段に上がった。
 ならば、いつか、より厳しい環境に適応するために、3つの性による生殖というものが生じるのではないだろうか。 

 なかなか不思議な絵が考えられる。 人間ならば、二人を愛する人が三人集まって、やっとカップル(言語矛盾だが)が誕生。 三人の遺伝情報が組み合わさるのだから、進化のスピードアップ間違いなし。 愛というものの概念が変わる。 ちょっと、具体的には想像できないが。 

 とまあ、素人考えに思うのである。 ただし、自分がそのような世界の住人となることは、ごめんこうむりたい。
「自分は以前に同じ人生を歩んだ事があり、今犯そうとしている過ちは、以前に犯したものであると思え。」
 「自分は以前に同じ人生を歩んだ事があり、今犯そうとしている過ちは、以前に犯したものであると思え。」
 
 自分が尊敬する人間の一人、V・Eフランクル氏の言葉である。 この頃になって、この言葉の意味をかみ締める。

 不思議なことだが、この言葉は、人の己にとって正しいと思う事柄を選択する衝動を強めてくれる。 おそらく、上のように考えるということによって、自分の在り方について決定するのは自分であるという自覚を強めてくれるからだと思う。 ある人たちは、このことをチャジュソンだと言うかもしれない。

 ふと思う。

 なんらかの真理について突き詰める人たちは少なくなかったが、各々が持つに至った真理を、生活レベルで実行するための方法について考え、実践した人は少なかったと。 実践論について述べている思想にしても、大体は、抽象的なものである。  
 真理は生きている人々のためにあるのだから、それを生かした処世訓をともに考えるのは、とても重要だと、このごろ考える。 知行合一。



神経線維と心臓と心電図の美術。
 件の、劇団アランサムセ2005年公演、「アベ博士の心電図」で、自分が手がけた舞台美術。 多くの専門家から高評価を得たので、調子に乗ってエントリーで取り上げることにする。

haikeibijutu.jpg


 演劇中はこんな感じ。
haikeibijutu2.jpg


 座長は最初ニューロンをテーマとして、アミダクジのようなものをイメージしていた(実際にそういう舞台美術があるらしい)らしい。 
 
 が、タイトルが「アベ博士の心電図」でありながら、話は脳のお話なので、両者を融合させた背景美術を勝手に考えることにした。

 そこで、神経線維と心臓と心電図の融合を考える。
 ひもは神経線維をイメージ。 ありあわせの紐をほぐしたり刃物で切ったりしながら、それっぽく纏め上げる。 神経線維っぽく結節をいくつかの場所に作る。
 ところどころ張られている布は、心電図の線をイメージしている。 特に、上段の左右に伸びている赤布は心電図のイメージを前面に出している。 
 中央やや上にあるのが、心臓であり、これは同時に神経線維の核でもある、とイメージしている。 それは、演劇の最後の台詞,すなわち一番伝えたいメッセージが「私は心で思考をする。」だったから。 「心で思考する=心臓が神経線維の中心(=思考の中心)となる」というわけである。 心臓がやや上に位置しているのは、黒板が最初は閉じているので黒板越しにも心臓が見えるようにするため。
 また、舞台の序盤は、心臓は神経線維の紐で縛られている。 これは、劇中で博士が記憶を支配しようとしている(劇の文学的表現で言いかえるのなら,「心で考えようとすることを抑圧している」)ためである。 この紐は、ラストで助手(自分の役)が登場するシーンで引きちぎられる。
 
 ちなみに、劇団内ではここまで詳しい説明はしていない。 説明が長すぎるから。 
 
 
 舞台入りしたその日に、その場のひらめきで作った。 この類のものをひらめくときのぞくぞくした感じがたまらない。 凝り性なので時間をかけすぎてしまい、ほかの劇団員の大道具の設置を手伝えなかった、が、やはり創造の喜びは計り知れない。

 哀しいかな舞台美術。 演劇が終わればすぐに取りはずされ、いまや、原形をとどめないヒモの塊になってしまった。
 
 久しぶりに、美術作品を作れてかなり楽しかった。
 
 実は今ほかに作りたい美術作品がある。 それは、椅子。 デザインは1年前から考え付いている。 時間があって作ることができたら、ブログ上でお披露目しようと思う。
食物と遺伝。
健康と遺伝子と食事は相関関係があるらしい。

 ある食物が人の健康に影響を与えるかどうかは、その人の遺伝子によるのだという。 たとえば、ブロッコリーは、ある人にとっては、心臓病にかかる確立を大きく下げるのだという。 全ては、組み合わせ。 

 自分にとってコーヒーが癌の可能性を極端に高める作用を持っていないことを願う。

 これを応用すると、とんでもない悪事に使えるのではないだろうか。 たとえば、生命保険である。 研究所に依頼して、ある人にとって、癌やその他致命的な病の可能性を極端に高める食物を調べてもらう。 保険金を狙いに、その食物を食べさせる。 うまくいけば、完全犯罪の成立である。

 二重螺旋に自分がどれだけ支配されているのだろう。 ふと思うと怖くなってきた。思わず、くしゃみをした。
公演ボケ。
 公演ボケ、なるものを経験するのは自分だけだろうか?

 ライヴが終了した次の日に、その余韻に浸ってしまいなかなか本業に戻れないという類のもの。 大学生の頃から常にそう。
 
 6回も連続で公演をしたのは初めてだったし、感情移入がとても激しい演劇であったので、今日一日は、シャカリキモードに自分を戻すのに大変だった。 仕事をしていても、本を読んでいても、この期間に増え続けた生傷を見たりすると、つい演劇のシーンが頭にのぼってきてしまう。

 直す方法は、現在のところ愚直に目の前のものに取り組む以外に知らない。 誰か、いい方法知っていたら教えてください。
 
 
 さて、六ヶ国協議、終了した。

 政治ネタの日々の経過には、ほとんど興味を持てなくなった今日この頃。 文書は協議の場では書かれていないのだし、政治は、漣のような、日々の事象に一喜一憂すべきようなものではないと自分は考えているから。 この考えには、実体験の裏づけもある。
 合意の文書の分析などから色々なものが見えてくるということを否定するわけではない。 ただ、交渉の過程を、スポーツの試合の中継のように見る事は、もう無いのだろうな。
人の為。
 変なことに気が付いた。

 人が為すこと。 
 単語にすれば、人為。
 一語の漢字にしてしまうと、偽。にせ。

 あれこれと、考える。 こうなると、納得のいく説明が自分なりに出来るまでは、考えはとまらない。

 そうか。 ここでの、人とは、おそらく、独善的な個人のことだ。 アジア圏では個を集団と対置させて、個に対して、独善的なイメージをおしつける傾向が歴史的にあった。 

 「人為」が「偽」になるというのは、人が、己の独善的な判断に基づいて、行動をするとき、それは、偽になるということなのだろう。 偽にならないためには、独善に基づくのではなく、人々・社会の流れにそうものでなければいけないようである。

 さて、自分を振り返る。 ・・・偽の行動多し。 よろしくない。

 以民為天。 偽者にならないための必須条件ということを噛み締める。 まあ、噛み締めるだけで、問題が解決したら願っても無いのだが、己の意志の弱さよ。
歩く死刑囚。
  Dead man walking。 ちょっと前に有名になった映画らしい。 芸能関係は、己の興味のある分野以外は、ほとほと弱い。今日、先輩たちの話題に上った、たけうちようこ、という人も、いったい誰だかわからない。 
 この映画を借りた理由も、TSUTAYAがレンタル半額中で、音楽CDを借りるついでに、何かDVDを借りてみようとしたところ、たまたま目に引っかかっただけのことである。

 感想。 一言で言うと、へこんだ。

 なぜ、こんなに、へこんだのだろう。 それもよくわからない。 寝室を暗くしてヘッドフォンをかけて一人で見たのちに、勉強部屋に帰る足取りがとても重たかった。 
 印象的なのは、最後のシーンか。 薬物処刑される死刑囚と、その犯罪者が行ったレイプ殺人の映像が交互に流れる。 死刑囚が死ぬ前に言った、「人を殺すのは悪い。 それが俺でも、あなたたちでも、政府でも。」という言葉の、反芻なのであろう。
 
 調子に乗って、字幕なしで見たのだが、内容の半分くらいしか理解できなかった。 見終わってから、また、字幕つきで見直す。 TOEFLのリスニングで90%以上正解できても、所詮こんなもの。 それも少しへこんだ。

 死刑が最後まで執行される映画で、近年の映画といったら、ダンサーインザダークか。 これは、主演がビョークだったのですぐに見た。 これも、へこんだ。 しかし、映画からは、泣き喚きながらも死を自ら選ぶことができる人間の強さを感じることができた。 ただし、へこんだことにかわりはない。
 
 大学生時代、友達とした死刑制度についての議論。刑罰は、応報刑であるべきか、教育刑であるべきか。現代の刑罰のほとんどは、教育刑である。ならば、死刑は、教育刑なのか。 それらが、かなり薄っぺらに感じられた。 死刑囚の苦悩は、死刑囚にしかわからない。 想像力を限界まで働かせて見ても、限界がある。 その苦悩が、死刑制度の是非に関して、強い影響を持つのか、それもわからない。

 こんな制度を作ってみてはどうか。 まず、死刑は、完全に薬物によるものとする。 死刑囚は、最後まで苦悩する。 薬物による処刑が行われる。と、それは、おもてむきで、実際に打ち込まれるのは、ただの睡眠薬。 周囲の人間には、絶対に極秘。
 数日後、死刑囚は目覚める。 そして、完全に書き換えられた名義と、本人とわからぬほどに整形された身体をもって、新しい生活を送る。 ルールは2つ。1つはあらかじめ知らされる:以前社会関係にあるものと故意に接触をしたら、処刑。 その生活の様子を、関係者たちは、常に監視する。 行動に改善が見られないようであったら(第二のルール)、そこで、処刑する。
 また、うわさでしかないが、死刑囚が、命を救ってもらうことを前提に、スパイになるということがあるらしい。 ニキータという映画は、それが題材である。 
 ここまで、妄想を働かせておいてなんだが、これは、普段行われている死刑制度以上に、日本の憲法で禁じられている「残虐な刑罰」に該当するかもしれない。 国家が、人の命をもてあそんでいるように解釈できるだから。

 ふう。 収拾がつかない。。 まあ、収拾がつくような議論であったら、今のような社会ではないはずである。
演劇終了後雑感。
演劇の全日程が終了した。

 評価、感想ともども含めて書こうと思う。


 自分自身のパフォーマンスの評価について。
 ・かつ舌がまだ甘い
 ・経験が足りない
 ・序盤がやはりまだかたい
 などが批評に書かれていた。 客から見れば自分は劇団の一人。それ以上でもそれ以下でもない。 お金を取って演劇を挙げているのだから、「素人だから」という言い訳は一切通用しない。 それくらいのシビアさが自分のこれからの精進のためには心地よい。 ものをはっきりと話すことや身体を自然に動かすことなどは、実生活でも必要なことであるので、これからの生活を通じて向上させていこうと思う。

 反面、打ち上げのときに、韓国から国費で留学にきている大俳優(と座長は言っていたが、芸能関係に興味が無い自分は知らない)からは、「自分には無い真実味がある」と、名指しでとても褒められたし、他の演劇暦の長い人達にも、「始めて1ヶ月あまりでこれだけ出来る人間はあまりいない」、とは言われた。 あと、最初と最後を見ていた劇場の管理人からは、この4日間でダントツによくなったと言われた。 やはり素人な分、上達も早いのだろう。 演劇の稚拙さを自分で思い知りながらも、これは嬉しかった。
 
 
 演技以上に評価が高かったのは、自分が作成した背景の美術。
 写真家の人に撮ってもらったので、それが出来たらアップしようと思う。 そのときに解説ともどもしようと思うが、これは、舞台美術の専門家や美大生から絶賛された。 (これを作るのに自分が凝りすぎたために、他の手伝いに手を回すことができなかったのは反省。)
 

 
 次に、感想。
 やってよかった。 呼んでくれた座長と演出家に感謝深謝。
 それが、第一の正直な感想。
 
 よかったと断言できる理由は:
 ①この期間に自分の自意識の殻をある程度取り外すことが出来た。
 ②新しい芸術の形式に触れ、その分野似たいする知識・理解が深まった。
 ③この期間に色々な人と出会い、その人たちとの話を通じて学ぶことが多かった。
 ④何より、この期間本当に楽しかった。

 が、今ぱっと考え付く理由。

 ①は、今回演劇に出ることを決めた最大の理由でもあった。 自分が本当に他者に貢献しようと思うのならば、自意識を廃してまごころをもってそれら貢献を行わないといけないと、自分は常日頃思っていた。 その自意識を取り払うきっかけをこの演劇は与えてくれた。
 ギャグとか、変な踊りとか、自分は普段する人ではない。 それは、自意識があったからだと思う。 今回は強制的にそれらをせざるを得ない状況に身を置くことにより、自分を解放させることが出来た。 演劇を見に来てくれた、自分をよく知っている人は面食らったと思う。

 ②演劇は総合芸術だということを改めて知った。 文学、照明、音楽、美術、演技その他もろもろの芸術的な要素が絡み合っている芸術なのである。 現状において照明以外の全分野に興味がある自分は、演劇に新たな興味を見出すようになった。 今なら、シェイクスピアの作品も違った見方で読めるようになると思う。 死ぬまでにやりたいことリストの中の一つに、「戯曲を作り、それを舞台に上げること」が加わった。

 ③この劇団、座長の人の顔がかなり広く、色々な専門家たちが見に来てくれた。 前のエントリーでも書いた照明の話などもそうだが、今日の打ち上げも含め本当に多くの話を聞くことが出来た。 これは、すばらしい経験だった。 

 ④本当に楽しかった。 ほぼ毎日、新しいものに遭遇して、自分の上達を感じることが出来た。 座長のトークも爆笑なので、毎日笑いの絶えない日々だった。



 次に、ネガティヴに感じた部分。 これは同時に、自分がこれからも演劇を続けることを躊躇させる理由でもある:
 ①演劇の意志決定過程の一方性
 ②時間の拘束
 
 の二つ。

 ①演劇においては、脚本家と演出家は絶対的な存在である。 これは、総合芸術を作るのにおいて必要なことではある。 脚本家が書いたものを演技しないといけないわけだし、その書かれた脚本に対する理解は、演出家のそれが最優先される。
 今回の脚本に関して、技術的な面はよくわからないが、脚本の思想的な面では、個人的に不満な点が無かったわけではない。 けれど、切迫している状況の中でそれになんと言っても事は進まないのである。 やるしかない。 それはわかる。 しかし、自分の性質上、これはとても嫌なこと。 
 次に、文学というものは脚本家が書いた意図以上に、様々な解釈が可能なものである。 そこに問題が生じる。 ある台詞について、自分はAと解釈し、演出家はBと解釈したとする。 この場合、多くの場合はBが通るのである。これは、演劇の世界では正当なこと。更に言うのなら、演出家の方が知識や経験が豊富なのだから、当たり前とも言える。 演出家の独裁度は、劇団ごとにまちまちのようである。 この劇団の座長は、多様な意見を取り入れようとする姿勢がとても高い人なのであるが、それでも時間が切迫してくると、「双方の理解のすり合わせ」とでもいうような、そんな余裕が皆の間になくなってくる。 何回か、解釈をめぐって話し合いになりそうになるたびに、残り時間を考えながら、本意ではない「ああ、確かにそうですね」を言っていた自分がとても嫌だった。 これも、必要性はわかるが、それでも嫌なこと。
 これら葛藤は無いのが理想だが、現実はそのようなものではない。 現実と理想の狭間で思い悩む自分がいた。


 ②時間拘束
 これまでのブログTaejunomicsを見てきてくれた人々は理解してくれると思うが、自分にとって時間とは何よりも貴重なものである。 そんな自分にとって、1ヶ月間、移動時間を含めた5時間ほどの時間が費やされることに対して、耐え難い葛藤を覚えた。 8月6日だったか、それくらいから練習を始めて盆休みをはさんで今日までの約1ヶ月、自主練を含めると合計300時間ほどが練習に費やされたことになる。 それを専門的にやる人にはなんとも無いのだろうが、自分にはそれはかなりきつく感じられた。
 音楽だとそうではない。 リハーサルの時間、すなわち、完全に拘束される時間は、ライブまでに50時間あればとても多い方。  
 ただし、自分が素人なのだから、その300時間が無ければ何も出来なかったことは間違いないものとは認めるところである。

 

 以上、パフォーマンス評価と感想。


 本当にやってよかった。
 得るものが本当に多かった。
 見に来てくれた皆さん、そして、今もこのブログを見てくれているのなら、誘ってくれた座長と脚本家の先生、本当にありがとうございました。
虹色のベルト。
舞台もいよいよ残すところ1回。 
 
 しかし、今日は、舞台以上に衝撃的な出来事があった。

 
 演劇を行う劇場は新宿の二丁目にある。 よく知らなかったのだが、一緒に演劇をしているお姉さんによると、とても「有名な」場所なのだという。 
 それを聞いたときは、ああ、ここは演劇をする人間にとってのメッカのようなところなのかな、程度に考えていた。
 

 しかし、その、「有名」の意味を、今日思い知ることになった。


 舞台は、2時からのものと7時からのものがある。
 だから、2時のものが終わったあとは軽くミーティングをして自由時間となる。  
 一日にいっときも学ばないと不安に駆られる自分であるので、ちょっと眠いが、その時間に近くのスタバで勉強をすることに決める。

 
 劇場を出る。
 坂を下る。
 
 なぜか、何人かのガタイのいい男たちが、自分をちらちら見ている。
 

 なんだ、この人たち? レスラーかなんかか?

 

 と、思いながら、普通に歩く自分。
 
 歩くうちに、その人たちが、自分に寄ってきた。 

 なんだなんだ、ストリートファイトか?

 喧嘩して舞台でのパフォーマンスに支障をきたしたらいけないので、無視して早歩きしてその場を切り抜けようと

 した矢先、そのうちの一人が声をかけてきた。

 「ねえ、君、そのベルト、いいね。
 よくここに来るの?」

 
 ???

 ベルトを見る。


 虹色。 大学生のころにカラフルなベルトを探して、そのとき、トリコロールカラーと虹色のベルトを購入、まだ使用している。 

  、、、

 、、、 

 あ"。



 このとき、すべてを理解した。
 そう、教科書的な知識でのみ頭に入っていたが、虹色は同性愛者のシンボル。 多様性への寛容という意味で虹色となったのだとか。

 周りを見ると、ちょうど虹色の看板のお店。。 中には、いろいろすごい品物が置いてあることを、視力1.2の目で確認。


 姉さん、有名ってそう意味だったんすね。。
 そんなオブラートに包まず、はっきりいってくれれば良かったのに。。 



 さてどうしたものか。
 そのケは一切ありません、といっても「またまた~」と言われて面倒なことになりそうだ。
 ストリートファイトをしても、この人数差ではさすがに自信がない。 おそらく格闘技はやっていないのだろうが、力は強そうだ。 取っ組み合いになったら勝ち目はなさそう。 というより、無事劇場に帰れなさそう。

 理解してから意思決定までに、約0.5秒。
 
 普通の行動をとることに決める。
 幸い、大通りまでは、残り20mほど。

 「来ません(よく来るの、という問いに対する答え)!」
 と、答えて、足早で大通りまで出た。
 正直、ほっと一息ついてしまった自分がいた。

 人間は思想や信条をもって差別されるべきではない。 それは、憲法ゼミであった自分にとっては、金科玉条となっている。 先天的であれ後天的であれ同性愛者に対して、その事を理由で差別することは許されるものではない。
 そう頭で理解していても、ほっと一息している自分がそこにいた。 その、ほっと一息が、自分とは異質なものに対する正当な理由のない恐怖から生じたのか、そうでないものから生じたのか、はたまたその両方が混ざったものから生じたのか、まだ判断しかねている。

 
 それでも、一つだけはっきりしていることは、そういう誤解を招く服装をしていた自分が悪かったのだということ。
 もう、あそこには、虹色の柄の装飾品はつけていかないことにします。


 演劇? ええ、きっちりしましたよ、しましたとも。 残る公演は一回のみ。 がんばります。
恋愛バトン
 恋愛バトンなるものが回ってきてしまった。
 しょうがない。書きましょう。
 

☆1 お名前と性別を教えてください

 Taejunomics管理人、♂

☆2 現在、恋人または好きな人はいますか?

 います。


☆3 今まで一目惚れをしたことがありますか?

 惚れっぽいです。
 それに自分で気づいているので用心深いです。


☆4 恋人に求める条件を3つあげてください

 好きだから好きなのであって。
 時間が経つほど、「いいなあ」と思える人がよし。 


☆5 今までに付き合った人 好きなタイプと一致しましたか?

 どう答えても矛盾や問題が生じるので黙秘。



☆6 自分から告白しますか?それとも待ちますか?

 自分から。


☆7 結婚願望はありますか?

 あります。


☆8 失恋した時、どう対処しますか?

 当日 :アコギ片手にストリートライヴで熱唱。
 その後:自分を磨く努力をする。


☆9 今現在の自分の恋愛を表す曲は?

 僕の歌は君の歌
 

☆10 次に回す5人指名をどうぞ
 
 ちぅ、書きたまへ。
おしゃれバトン
 明日はいよいよ公演初日。

 今日は一日中ぶっ通しで練習だったのでなかなかきつかった。 見に来てくれた人、舞台の一番後ろにある舞台美術(と呼べる代物ではないのかもしれない)は自分が手がけたので、見てみてください。 イメージは、心臓と心電図とニューロン。

 さて、まじめエントリーを書く気合は無いので、トニー先輩からもらったおしゃれバトンなるものを。 恋愛バトンも届いているのだが、おしゃれバトンのほうが先約なので。


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01最近のお気に入りコーディネイトをどうぞ。
 定型はなし。 会社のWEBデザインをする時にカラーコーディネイトを一緒に勉強した後に、雰囲気で色あわせしているのが、お気に入りのコーディネイト。 


02好きなブランドを3つ厳選して答えてください。

 服を見たら、
 ・バーバリー・ブラックレーベル
 ・ポール・スミス
 ・コムサデモード・メン

 が、多いことに気づく。

 

03よく読むファッション雑誌は何ですか?
 
 読まない。 けれど、青山とかに遊びに行くときに、道行く人を参考にする。


04買い物は、どこの町に行く事が多いですか?

 服は、池袋、代官山、あと、最近のマイブームは高円寺。
  


05買い物は一人で行く派?それとも友達と行く派?

 服は、基本的に一人。
 


06今まで買った中で、一番高価なお洋服(または小物)は?

 コートかな。 
 


07最近買ったお気に入りアイテムを紹介してください。

 心斎橋で偶然見つけた、音符がとてもおしゃれなTシャツ。 



08好きな色の組み合わせは?

 白と黒を基調にして、ちょびっとアクセントを。  


 
09おしゃれに目覚めたのは、何歳のとき?
 
 私服というものを着るようになったのが、大学から。


 
10振り返りたくない過去の自分の服装を告白してください。
 
 道行く人が振り向くような服を意識して、変なメッセージ・絵が入っているシャツとかを着ていたとき。。 例:ど根性ガエルのシャツ
 ※最近、「萌え」と書かれたシャツを着ている人を高円寺にて発見。 


11お金が無い時、食費とおしゃれ代、どっちを削りますか?
 
 迷わずおしゃれ代。
 

12好きな異性のファッションは??
 
 他人に流されていなくて、似合っているものを着ている人は、素敵だと思う。 例えば(?)、宮崎駿の映画に出てくるようなの。
 


お疲れ様でした。8人のおしゃれさんに、このバトンを回してください。

 8人か、、

 服装にこだわりがあるなー、と、感じている:
 ちゅー
 げんちん
 heng
 りょんぼ
 さんじゅん
 末姉
 星姉
 ルン姉
 3
  

 で。 よろしくお願いします。
断絶を埋めうる選挙。
 いよいよ、2日後には舞台。  
 四分の不安と六分の高揚感(芥川風)が程よい具合に混ざり合っている。 楽しかった練習の日々ももう終わりかと考えると、幾分かうら悲しい気分にもなる。

 演劇全般の感想は、初日目が終わった後と、全日程終了後に書くことにして、

 今回の選挙結果について、感じたことだけをちょちょいと書こうと思う。


 間違いなく、日本の政治にとっては、トータルで見た場合は、プラスであったと思う。 有権者が参加した選挙だったからである。
 郵政民営化は、10年くらいの長い期間をかけて行われていくものなので、その成果の是非はまだわからないとしても、有権者の多くが参加したことの意義は大きい。 投票率約65%なんて、昨今の日本の選挙では考えられない。
 
 なぜ、多くの有権者が参加したことが大きな意義を持つと自分は考えるのか。
 さくっと考えた理由は:
 ・投票者が自らが国の方向を決めることに参加したという意識を持ったこと
 ・それを通じて、自らが決めた国の方向に関して責任を感じるようになること
 ・それが、将来にわたって、政治の質の向上への波及効果をもたらすこと

 である。

 
 今までは、多くの人が、政策に関して、自分の問題ではなく、政治家たちが勝手にやっている問題として受け取っている場合が往々にしてあったと思う。 しかし、高い投票率に加え、今回は争点が明確であったし、結果も明白であったため、多くの人々が、参与したという意識を持つようになったと思う。

 意識することから、責任感は生じるもの。 今回は多くの投票した人々が、自らの決定に責任を感じるようになると思う。 これからの自民党の政策のパフォーマンスがどのようになるのであれ、その政策について人々が自らの責任を感じるようになることは大きい。 もはや、「政治家たちが勝手にやってきた問題だから・・・」という事を言えない人が、今回の選挙を通じて増えたのではないだろうか。

 「投票者の行動には、マスコミを通じてバイアス(偏り、偏見)がかかっていたから云々」と言う人たちが多いみたいだが、それを今話したところで、詮無いこと。 今回の投票率の高さは、将来にわたってそのバイアスを少なくする貴重な契機となると思う。

 波及効果といった場合、イメージとしては、

 参与意識の高まり→政策への注目→政治意識の高まり→より多くの人が投票→さらに参与意識が高まる・・・


 といった感じである。

 学生運動などでもそうだったのであるが、一度多くの人が真剣にある物事に参与したら、その効果は、多くの場合正の波及効果をもたらすものだと思う。




 最後に、この投票率の高さの歴史的意義について考えてみる。 
 今回の選挙は、戦前と戦後の間の断絶を多少なりとも埋めるのではないだろうか。

 近代史において、日本では国の方向を決める意思決定が大衆によってなされたことが多くなかった。 明治維新は、侍という特殊な階級に先導されなされたし、戦後の民主主義の多くの部分は占領からもたらされた。 押し付け憲法論が、その是非はどうであれ、取りざたされるのは、一つの象徴的な事柄である。

 近代民主主義の成立のための一つのキーワードとして、「国民・市民による意思決定の記憶の保有」があると、自分は考えている。 「国民・市民による意思決定の記憶」とは、例えば、フランスでの革命、アメリカでの独立戦争などが、それにあたる。
 
 人権も、もともとは、そういった、意思決定に参与する「自立・自律する強い個人」をその享有主体としていた。 例えば、ゲーテは、「ファウスト」において
 「自由も権利も日毎にそれを闘いとってこそ、それを享受するに値する人間といえるのである」(原文ママではなし。うろ覚え。)
 と語っているし、ジョン・スチュアート・ミルなども、「自由論」において、その自由の享有主体として、強い個人を想定していた(ちなみに、彼はそれを持たない野蛮人は自由の享有主体ではないとした。これは植民地支配の正当化の論理となった、がそれは傍論)。 ジョン・ロックも同様のことを話している。確か、「統治論」だったか。 


 今回の選挙は、日本史における戦前と戦後の間の断絶(その間に大衆による意思決定を出来なかったという意味において)を埋めるための貴重な契機となるのではないか、と、自分は考えていたりする。
 
 これを読んでくれている政治専攻の皆さん、コメントお待ちしております。 
可能なことの限界は、誰にもはかれない。
 実は最近、このブログの紹介のエントリーを書いている。↓
 http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-category-15.html 
 そのエントリーにもあるように、10年以内に1000億円規模のバイアウトファンドを設立するという目標を立てて、準備中である。 それをもって収益を上げる+やりたいことがあるからだ。 
 やりたいことについては、この期間に仲良くなったキャリアカウンセラーに「それを言ったらクレイジーだと思われるからあんまり言うな」と言われた。 けれど、自分は、このやりたい事と収益は一致するという信念を持っている。

 「10年以内に、千億規模? そんなもの出来るか」、と言うのが、ほとんどの人の反応。 常識で考えれば、至極当たり前なことである。 自分のそれとは多少分野が違うのだが、参考はこちら。http://londonib.exblog.jp/i4  自分がやりたいのはPEだが、10年の間に、一度はヘッジファンドの業界(リンク先で説明が書いてあります)にも身を置く事になると思う。

 親をはじめ、自分をこれまで育ててくれてきた多くの人は、それに反対した。 そりゃ、そんなリスキーなことはやってもらいたくないと思うのが人情と言うものである。

 けれど、可能なことの限界をはかることなんて、誰にも出来ない。  「無理だから」無理なのではない、「無理だと思うから」無理なのである。 自分のこれまでの人生経験から、人は、志と努力と忍耐さえあればほとんどの事はやり遂げられるというのが、己の信条となっている。 そして、地道な努力と話し合いを続けてきた。
  
 最近、やっと、自分を育ててくれた人々皆から、「とりあえずやってみろ」と言われるようになった。 だからといって成功の可能性が上がるわけではないのだが、これはこれでとても嬉しいこと。 誰かが信じてくれていると思うだけで、人は強くなれるものなのだから。

 
 最後に、同感してくれた人々へ曲の紹介。 ちょっと青臭いかもしれないが。

 「グングニル」 by バンプ オブ チキン。
グルーヴのお化け、リチャード・ボナ。
演劇の練習が昼の1時から夜の10時まで!! 1時間ほどの休みを抜かしてほとんどぶっ通し。  持病の偏頭痛&立ちくらみが出てきて、なかなか大変だった。

 衆院選の結果は、議席数が確定してから書くことにしておいて(なかなか疲れていて&アルコールが入っていて真剣なものをかける気もしない)、久々の音楽エントリーを。


 最近のベストCDは、これ。 
 20050912005229.jpg

 マイク・スターンの these times。
 まず、メンバーでこのCDを手にとってしまった。

 金管楽器やらはあまり奏者の名前を知らないのだが、
 ギター :マイク・スターン
 ベース :ウィル・リーとリチャード・ボナ
 ドラム :デニス・チェンバースとヴィニー・カリウタ
 パーカス:ドン・アライアス
 
 ときたら、こりゃもう間違いは無い、と聞く前から確信していた。
  
 聞いてみる。 一曲目は、最近のジョン・スコフィールドの音楽をはじめとしたジャムシーンでよく見られるインドの音楽ぽい雰囲気を感じさせる歌。 これはこれで、なかなか良い。 

 そして、二曲目。 曲名は、「シルヴァーライニング」、確か、雲の光り輝く部分をさしていう。 「どんな薄暗い雲にもシルヴァーライニングがある」という英語の諺もある。
 
 7分ほどの演奏時間が驚愕と至福のうちに一瞬で過ぎ去る。
 グルーヴが、もう、溢れている。 本当に、シルヴァーライニングを見れる高い場所までグルーヴの上昇気流が自分の身体を押し上げてくれるような感覚さえ覚える。
 ヴィニー・カリウタのドラムの演奏もすばらしいのだが、リチャード・ボナ、やばい。 ドラマーのくせに、ベーシストに聞き入ってしまった。

 リチャード・ボナは、カメルーン出身の天才ベーシスト。 アフリカで太鼓を日ごろから叩きながら育ってきた人間のグルーヴは、もう、太刀打ちできないな、と思ってしまうほど強烈。 グルーヴのお化けです。
 聞いていて、ジャコ・パストリアスに似ているな、と感じるベースの音色。 途中のベースのソロのようなパートの、速いフレーズの全ての音が、きっちりとミュートされつつ、とても力強い弾力感をもっている。 もう、釘付け。 「ベースは、音色とリズムの二つを支配できる楽器だ」という言葉を、本当に実感させられた。

 今も、毎朝自転車に乗りながら真っ先に流しているのは、この曲。


 ちなみに、トニー先輩は、誕生日にマイクスターンのブルーノートでのライブを見に行って、マイク・スターンからサインをもらったらしい。 ああ、うらやましい。。

 お奨めです。特に、ベーシストの皆さん、聞いてみてください。
坂道は一気に登るべし.
 ある落語家が言っていた事である.
 
 「坂道は一気に登れ」

 本当に,その通りだと思う.
 自転車で坂を上るときも,途中で止まってしまったら余計にしんどいもの.
 人生の節目節目においても,まさに同じで,きついときにそこで立ち止まってしまったら,もうそれ以上先に進む事がとても難しくなる. 多少歯をくいしばっても,先に進むべきなのだ.

 今現在,きつい上り坂を感じているすべての人々に贈りたい言葉です.
郵政民営化についてやっと書いてみる。
 ついに明日は9月11日。 衆議院選挙日。
 長いこと書こう書こうと思いながら、ついずるずると先延ばしになってしまった、郵政民営化に関するエントリーを書くことにする。 
 三谷幸喜並に脚本の仕上げが遅い脚本家のおかげで、演劇の本舞台の1週間前にしてやっと脚本が完成。 練習も佳境なので、ちょっと詳細は書けないが、賞味期限を過ぎてしまうのはあまりにももったいないので、メインアイディアだけでも書いておこうと思う。 学ぶ身なので、批判は大歓迎です。

 まず、経済における政府の役割と、国営化について。
 経済における政府の役割の要点は、平たく言えば、
 ・効率性
 ・社会正義(社会正義の定義は勘弁してください)
  の2つ実現にあるといえると思う。 
 
 具体的な政策として:
 ・企業が効率的に機能するための制度的枠組みをつくる事。 立法がその主な手段。
 ・経済全体が安定成長をするための政策を実行すること。 不況の未然阻止、不況からの回復のための金融政策など。
 ・適正な競争を促進するために、一定の規制をかけること。 独占禁止法がその典型。

 これが、政府の役割だと思う。 特定の企業を国営化することも、上で述べた趣旨にそっていなければならない。 
 市場経済の論理に従うのならば、企業は基本的に民営化であるべきで、国営化するのは「民営ではやっていけない」場合のみに限定すべきであると思う。 
 国営化された企業内に多少の非効率が生じるとしても、それは、国営化により生じる社会正義・経済全般の効率性と比較して、どちらを選択すべきかを考えるべき。 
 
 以上を踏まえて、郵政民営化について、考えてみる。 

 大学の頃の憲法ゼミの先生で、学生期間を通じて自分が一番尊敬する学者であった星野教授は「人は分けることによって分かるんです。」と常日頃話していたが、今回の考察にも、分けて考える事がとても役に立ちそうである。
 重要なことは、事業のうち、どこまでは国家の関与が必要であるかの、線を引くことにあると思う。

 郵政の三事業、郵便、簡易生命保険、郵便貯金をまとめてではなく、郵便事業と金融事業(簡易生命保険、郵便貯金)に分けて、そのメリットデメリットを比較してみる。 

 1.郵便事業
 引き続き、公社として事業活動を行うのがいいと思う。
 一応、自民党のマニフェストを見ていても、民営化はするが、郵便局・郵便事業は特殊法人とし、郵便局のネットワークは法規制により維持されると話している。 しかし、その担保が小泉首相の発言「郵便局ネットワークは国民の資産」であり、「このネットワークを守って、万が一にも国民の利便に支障が生じないようにしていきたい」という言葉をはじめとした、「配慮」というのは、心許無い。 
 過疎地方においては非効率があり、それは、Eメールの増加による郵便サービス利用の低下などを理由に更に増すことが考えられるも、「みんなの住むところに郵便局を!」というようなスローガンで表現されそうな社会正義の実現を考えると、郵便事業は引き続き公社として行いながら、内部で効率化を図るのがいいと思われる。 人員が過剰であるのなら、多少のリストラクチャリングはするべき。 民営企業がこの10年間その痛みを味わい矛盾を解消していき、現在があるのに、公社の職員のみリストラしないというのは、どうかと思う。 もちろん、解雇の対象となった人々の生活を保障する受け皿はしっかりと用意しないといけない。 景気が上向きになってきた現在ならば、これはここ10年のうちで一番採りやすい政策だと思うのだが。



 2.金融事業
 さて、真打。 民営化するべきでしょう。

 ユニバーサルサービス(全ての人がどこでも同じく受けられるサービス)は、社会正義の観点から、多少の非効率性があっても維持すべき。 また、ユニバーサルサービスの維持自体は、民営化をしても可能。 まあ、郵便事業の部分で述べたのと同じ不安はあるが。
 しかし、それら不安部分以上に、現在金融事業が国営化されていることによる経済全体の非効率が大きすぎると思う。

 1)フェアな競争の抑制
 郵貯の総資産は350兆円ともいわれているが、全国の銀行全ての総資産は800兆円。郵貯・簡保は日本の金融資産の4分の1を占めているのである。
 なぜ、このようになっているのか。 それは、郵政公社が国家の庇護の下(法人税、固定資産税、事業税免除、預金は国によって完全保証)に有利に競争をしてこれたからに他ならない。 そのつけは、当然他の民間銀行にまわっている。 国の銀行の業務損益はここ10年間毎年3兆円以上のマイナスを記録している。 もちろん、その理由はバブルの崩壊や銀行の放漫経営にもあるのだが、郵政公社の存在はその一つの理由となっていると思われる。 上で述べた、フェアな競争の促進のためにも、金融事業は民営化するべきだと思う。

 2)350兆円の資産の運用法の非効率
 現在、郵政公社の資産の運用先は限られていて、きわめてリスクの小さい資産にしか投資がされていないし、多くの金が特殊法人等につぎ込まれている。
 ポートフォリオ(投資対象である安全資産とリスク資産の組み合わせ)をうまく組めば、より効率的な資産運用が出来ることは間違いないし、それは、経済全体の発展に資することである。
 さらに怖いことは、国営化されていることにより、この公表されている資産が本当に350兆円であるのか精査することが難しいことである。 ちょっと以前のカネボウの件のように、透明性の高い民間企業でも会計の粉飾が後を絶たないのに、と考えると、より透明性が低い郵政資産が本当に350兆円あるのか、空恐ろしい思いである。 「あのう、預かってたお金、半分くらい使い込んじゃってました、てへ。」なんて、しゃれにもならない。
 民営化したら国債が暴落するというのも、荒唐無稽。 一流のファンドマネージャーなら、暴落しないようにうまく売り抜けるもの。 ある程度は下がるかもしれないが、それが国債の適正な価格であるのだから、短期的に問題が生じるとしても、それは、そのうち負わなければいけない類のものであるのでしょうがない。 
 外資の食い物にされる。 論外。 現在でも日本の多くの企業や金融機関の大株主に外国人投資家はいるし、銀行業の本場ロンドンでも純イギリスの金融機関はほとんど存在していない。 外国人が郵政会社の大株主になるというような事があっても、それを「食い物に」とするのは、もう、開いた口がふさがらない。


 3)利権
 これは、実証はできないが、郵政に関してもその利権を握っている人々はいるわけで、これが経済全体に一つの負担となっているのは確かなこと。 国営化されている事業で、利権が関係しないものは無いと思われる。 建設業界ならば、自分の経験上、明らかにそれは存在しているし、最近それは明らかになっている。
 これは、民営化されないとなくならない。


  
 と、ここまで考えて、郵政民営化に関する各政党のマニフェストを読んでいると、その内容や具体的実現性などを踏まえて、自民党以上のものは感じられなかった。 
 とにかく、野党は、反論のみならず、もっと具体的な代替案としての政策提示をするべきだと思う。 それが出来ていないから、読んでいてとても貧弱に感じる。 

 

 最後に。

 自民党が議席の過半数をとれず、小泉首相が辞任したとしても、郵政の民営化はなだらかながらに進むと思っている。 実質的な民営化を進めるのにあたって一番の障害となっているのは、郵政利権をもつ政治家たちなのだが、今回の一連の出来事を通じて、彼・彼女らの影響力はかなり弱まったし、選挙を通じて弱まると感じられるからである。 改革に対する障壁が高くないのならば、民主党政権でも実質的な民営化への着手は可能であろう(民主党の幹部たちが新たな「郵政族」にならなければの話だが)。
 小泉氏としてはこれで本望なのではないか、と思う。

 なんにせよ、選挙結果が(個人的には投票率も)どうなることか、注目である。
まさかね。
 最近のアクセス数とブックマーク数の増加の理由は、最近トラックバックをするようになった事と、カトリーナのエントリーがいくつかのサイトで取り上げられたことにあるようである。 47thさんからコメントをもらえたときにはかなりうれしかった。

 特に、多くの人がここのリンクからきている。
 http://diary.nttdata.co.jp/diary2005/09/20050906.html
 
 おお、執筆者の中に坂本龍一もいるではないか!!
 
 もしかしたら、見てくれたりして・・・
 コメントとかもらえたら、それこそ天にも昇る気持ちなのだが。 まさかね。


 でも、期待していたりします。。
「知の眼鏡」について。
自分は、何かを考える時、多くの場合、ある程度納得できる思考の枠組みを作り上げてから、考えることにしている。 これをはじめるようになったのは、エマニエル・カントの著作を読んだのがきっかけだった。カントは、ヘーゲルと並び称される、ドイツの最高の哲学者の一人で、批判哲学とその他数多くの奇行で歴史に名を残した人物。
 
 平たく言えば、カントは、
 人間は色眼鏡(確か、12個のカテゴリーだったはず)をつけていて、それを通じて、世界を見ているのだ
 と考えた。 エントリー末に詳しく書いておきます。

 自分が哲学の本を読んでいたのは、哲学のための哲学をするためでなく、それを実際に使うためであった。 そんな大学生の自分がこれを読みながら考えた事は、
 「そうか、じゃあ、俺も闇雲に考えないで、そこそこ納得のできる枠組みをまず作って、それから考えることにしよう。」という事だった。 (ちなみに、カントの考えた枠組みは先経験的なものであって、人間が作り出せたりできるものではない。)


 さて、枠組みをどこから作ったり持ってくるのか。 三つを利用する:
 ・教科書
 ・好きな哲学者の方法論
 ・自分の批判精神
 
 最も多用するのは、教科書。 教科書には、一般的に同意が得られたものの見方考え方が書かれているのだから、それを使わない手は無かった。 特に多くの洋書の(もしくはそれを翻訳した)教科書は、要点をはっきり書いてくれているので、とても助かる。

 さらに、参考にしている哲学者の方法論を真似しようとしてみる。 マルクス、ヴェーバー、フーコー、ヘーゲルあたりが、よく用いられる。

 そして、自分の足りない頭で納得がいくまで考える。 矛盾していると感じたらそれを修正して、自分が納得が出来るものに作り上げる。


 こうして、自分の「世界を見るための色眼鏡」は完成する。 旅行に行く時に、その地方の紫外線の強さの程度を意識してサングラスを変えるように、違うことを考える時には、違う色眼鏡(内田義彦風に言えば概念装置)をつくりあげる。
 だから、新しい知の枠組に触れる時にとてもワクワクする。 最近はじめた会計しかり、演劇しかり。 まだ、ヒビや曇りがある眼鏡だが、10年後には、もうすこしはいい「知の眼鏡」を作りたいと思う。


 (気持ちが悪くなる可能性あるので読み飛ばしてもかまいません&私は素人なので参考程度にしてください)-----------------------

 カントによれば、世界とは「一切の現象の総括」、「諸現象の総合における絶対的相対性」のことであった。 この世界について、彼は次のように語っている:
 「現象(ここでは世界のことであると、自分は解釈した)はかくてすべて時間と空間のうちにある。区間と時間の内部に存在することで、同時に境界づけられており、したがって限界を持つもの、有限なものである。だが、世界そのものは境界によって条件づけられてはいない。かといって(もの・ごとを辿り、さかのぼって遡源する経験を離れて)無条件に存在するわけでもない。」

 カントは、認識は経験にはじまるが、認識の一切が経験から生じるのではないとした(ジョン・ロックらに代表されるイギリス経験論は、認識の一切は経験に基づくとした)。 時間と空間はア・プリオリ的(経験に先立っている)ものであるから、とカントは考えたからである。 人は、世界を、時間と空間という、すでに存在している枠組みを通じて認識するのだと、カントは考えたのだ。
600アクセス達成。
 今日一日のブログへのアクセスが600を超えた。 仕事を終えて、演劇の練習をして帰宅した後にパソコンの画面でちょっとびっくりしてしまった。

 といっても、踏んだらカウントしてしまうので、見ている人の数は400人くらい。 が、それでも、多いと思う。 見てくれている皆さん、ありがとうございます。 精進します。
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