Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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巨大与党の憲法草案について②9条
 戦後少したってのこと、宮沢さんと芦部さんは、ある立て看板を見ていました。 どうやら、新しい憲法の条文が書かれているようです。 二人は、もと日本軍だったので、次の条文がとても気になりました。

第9条 
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 宮沢「ああ、これで日本は軍隊をもたない国になるんだなあ。」

 芦部「ああ。 これまでの事を考えると、それが妥当なんだろうな。」

宮沢「でも、ちょっと気になる点があるなあ。 なんで、9条の第1項だけで、軍隊を持つことが禁止されるのに、わざわざ第2項まで書いてるんだろう? あ、そうか、第2項で念入りに確認してるんだな。」

芦部「え? 何を言ってるんだ。 第一項じゃ軍隊を持つことを禁じていないじゃないか。」

宮沢「君こそ何を言ってるんだい。 戦争と、武力による威嚇、武力の行使を放棄するんだったら、当然軍隊なんかもてるわけないじゃないか。」

芦部「そりゃ、君の勝手な解釈ってもんだよ。 だって、第一項には、しっかりと、「国際紛争を解決する手段としては」と、書いているじゃないか。」

宮沢「どういう意味?」

芦部「だから、国際紛争を解決するために戦争をしたり武力を持ったりすることは放棄する、とは書いているけど、国際紛争の解決を目的としない時は、必ずしもそうではないって言う事だよ。」

宮沢「じゃあ、一項では、自分の国を守るときとかは、武力の行使とかもべつに禁止されているわけではないと言うこと?」

芦部「それが、一項のまっとうな解釈ってもんだろう。」

宮沢「うーん、僕には屁理屈におもえるけどなあ。 だいたい、前文を見てみろよ。 前文とのつじつまとかを考えたら、9条の第1項で、軍隊をもっちゃだめだって考える方が妥当だと思うけどなあ。」

芦部「俺はそうは思わないけどなあ。 まあ、いいじゃないか。 どうせ、第2項で軍隊をもてないように決めてるんだから。」

宮沢「けど、君みたいに考える人の中には、第二項についても「前項の目的」ってのをこう考える人も出てくるんじゃないかな。 「国際紛争を解決するための手段として戦力を行使しないことによって、国際平和に貢献すること」が、「目的」の内容だって。」

芦部「まあ、そんな人はいないだろう。 論理としてはありかもしれないけど。 いとこの政夫はそんなことを言っていたけれど、なに、あれは酔っ払いの世迷い言さ。
  おっと、もうこんな時間だ。 早いとこ、今日の仕事を片付けちまおうぜ。」

 
 以上、9条と軍隊の保持についての学説の対立でした。
①一項にて禁止されているとする説 
②二項にて禁止されているとする説
③一項、二項でも完全には禁止されていないとする説(政夫が、いないだろうといった「そんな人」)

 があるわけで、アカデミックにいうと、
 ①:九条一項全面放棄説、
 ②:九条二項全面放棄説、
 ③:九条一項・二項限定的放棄説
 となります。

 さらに、「武力」の解釈とか、いろいろとあるのですが、ここでは省略します。 


 ①が昔の通説。
 ②が、現在の学者の間では通説となっている。
 ③は、従来の政府解釈。 この解釈だったら、自衛隊を持っていても憲法違反ではないわけです。

 と対立しているわけです。
 
 で、第二項からばっさりと変えた今回の自民党の草案はというと、現在の通説である2項全面放棄説を説く学者たちをも、軍隊保持について黙らせる事が出来る案なわけです。 ※文末に、自民党の草案について貼り付けておきます。 

 

 現在、軍隊を持つことを放棄している国は二つ。 一つは日本、そして、一つは、南アメリカにあるコスタリカという小さな国。 ちなみに、コスタリカは、日本とは異なり、国民投票により軍隊を廃止した国である。 

 戦争を放棄するというのは、人類の理想であると僕は考えている。 けれど、「やらなければやられる」という論理が支配しているのが、今の世の中であることも、僕は認める。 日本が軍隊を持つことについて、僕は断固として拒絶することを出来ない。 悲しいことだが、今の世の中では、それが「普通の事」なのだから。 

 それでも、
 ガンジーの理念に傾倒している僕は、非武装平和の夢をいまだ見ている。 ガンジーの考えた非暴力は、決して覚悟のいらないものではない。 むしろ、暴力を用いることよりも数倍の勇気を要するものだと思う。 自らが死ぬことがあろうとも、己の信じた道を通す、なみなみならぬ覚悟を必要とするのが、ガンジーの非暴力運動である。 自らの命をかけて、人類の良心に訴えかける、身の震えるような理念だ。  日本国憲法の前文には、その理念に通じるものがある。  僕が尊敬するもう一人の人物のチェ・ゲバラには、一笑に付されそうだけれど。 彼はこう言っていた:「ピストルも持たないで革命をしようなんて、君は頭がおかしいんじゃないのか?」(ゲバラ伝のどこかに書いています。 原文ママではないです。)
 
 また、
 法には、教育的な側面があって、その法があることにより、人々に訴えるという性質を持っている。  例えば、差別を是正する過程における立法などを考えればよい。 ノルウェーでは、企業の重役40%以上に女性を置くことを法で定めている。 たとえ法の理念と現状が異なるとしても(現状を僕は知らない)、法の存在により、人々に、男女平等の考えを広めることができている。  憲法を変えるのであれば、「国内の現実と憲法の内容とがかけ離れているから」だけではなく、「憲法の理念そのものが変るべきだと思うから」行うべきだと思う。 もちろん、現実と理念はお互いに関係しているので、それを分けるのは簡単ではないのだけれども。  日本国憲法は、その存在によって、世界に非武装平和の精神を発信してきたのは、紛れもない事実である。  

 いつか、
 もしかしたら数世紀後かもしれないが、日本国憲法の非武装平和の精神が、世界中の人々から評価される日がくると思っている。 科学技術の発展は、真の意味の平和なくしては人類を新たな段階に踏み出す事が出来ないようにするだろうから。  全世界の人々が容易に核爆弾に匹敵するものを作れるようになる社会を想像してみるといい。

 
 そんな日のために。
 僕は日本国民ではないけれど、この国の憲法の非武装平和の精神が、他の人権と同じように、時代の試練に耐えていくことを、願ってやまない。





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自民党草案

 (平和主義)
 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 (自衛軍)
 第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する。
 2 自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
 3 自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
 4 前二項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関する事項は、法律で定める。
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自民党の憲法改正草案について考える①
 圧倒的な議席を誇る自民党。 そんな自民党の新憲法草案が発表された。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051029-00000008-maip-pol

 日本国民ではないがこの国に生まれ育った市民として、日本国憲法の理念に基本的に賛同する人間として、平和的生存権の提唱者の弟子として、感じたことを何回かに分けて書いていこうと思う。 

 
 1.憲法改正について
 2.前文について
 3.9条について
 4.その他、気になった条文について。
 


 1.憲法改正について

 現行の憲法では、衆議院と参議院で3分の2以上の賛成を得た後に、国民投票で過半数の賛成を得ることにより、憲法が改正されることになる。 普通の法律よりは改正が難しいのが、日本の憲法の特色で、このような憲法を硬性憲法と言う。

 自民党の案では、憲法の改正条件をより容易なものにするようだが、それは、ここでは、追及しないことにする。


 
 憲法の改正において一番僕が不安を感じるのは、

 「総論賛成、各論反対」ならば、その改正案が通る

 、という点である。 個々の改正案について多少の問題があったとしても、全体として「いいものと考えられる」のならば、その改正案は、衆院・参院の賛成以降の国民投票でも、通ることになる可能性が高い。 

 
 ちょっと簡単な例で考えてみよう。
 
 売れ残りの商品がある。
 このままじゃ誰も買いそうにない。
 どうしたら、この売れ残りをさばけるか(=個別的に賛成を得にくい条文を改正させられるか)?
 
 はい、その通り。 売れ行きの良い商品にくっつけて売ればいい。 もちろん、くっつける売れ残り商品があまりにも目に付くようだと、誰も買いたがらなくなってしまうので、ある程度のバランスをとりながら。

 
 人々の承認を得られやすいような条項たちを目玉にして、それを改正案として提出する。 これにより、多くの有権者たちが気づかない間に、草案作成者たちの隠された意図が通ることになりかねない。 空恐ろしい。 後に詳述するが、ひそかなところで、ちょっと怖い改正条文案があったりしているし。 おっと、最近の衆院選のデジャヴが。。

  
 今日は、のこり、全文の改正案についての所感だけ書いて終わろうと思う。 それも、できるだけ、メディアでは取り上げられそうにないニッチ(オタッキー)な部分を。 

 条文、特に憲法の条文解釈においてポイントは何か? 
 それは、「何が書かれていないのか?」を注意深く見ること。 書かれているものを解釈するのも重要だが、何が書かれていないかをよく考えることにより、理解がより深いものになる。 指導教授に叩き込まれた思考方法である。



 2.前文について
 憲法や多くの国際的な憲章には前文というのがあって、これは、条文の前に書かれているもの。 その法の根本的な理念を述べている。

 0)読んでみての第一印象。 
 内容以前の問題。 文章として、美しくない。 草案だから適当なだけで、正式に国会に提出するときには、もっと格調高い文章になっているのだろうか? 国家の基本法である憲法の前文というのは、国家の理念を反映するような内容のものであるのに、それが、こんな文章でいいのだろうか?


 個々の内容を見ると、
 
 1)最初の文の動詞
 現行:「この憲法を確定する。」
 草案:「憲法を制定する。」

 なぜ、現行憲法において、「確定する」としているのか? ある考え方が理由となっている。 それは、「これら憲法に書かれている理念は、すでに人類共有の価値であって、新たに創造されたものではなく、確認するべき内容のものだ」と言う考え方である。 それを草案では「制定する」としている。 草案起草者たちが何を考えていたのかは分からないが、何か、意図が反映されているのではないか? と思ったりする。

 
 2)歴史観の削除
 現行憲法においては、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることの無いように・・・」という文言が前文に含まれているが、草案において、戦前の事に触れる部分が完全になくなっている。
 普通、憲法の前文には、歴史に関する言及がされるものなのだが、草案ではそれが一切なされていない。 これは、おかしい。


 3)平和的生存権の根拠の削除
 平和的生存権は、現行憲法の前文にある「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」という文を、その根拠としている。 前文そのものに権利の根拠を求めることにも争いがあるのだが、草案が通れば、その争いすら生じることが無くなってしまう。  
 あと、後に触れる9条2項の改正草案と連動して、戦力の不保持に関連する前文の内容も無くなっている。 


 4)環境問題、天皇制についての言及
 環境の保全について述べていることは、進歩だと感じられる。 また、現行憲法の前文にはなかった、「象徴天皇制は、これを維持する」という文がふくまれている。


 つづく。
夢に触発されました。
 夢を見た。
 夢分析をされるのは怖いが。 フロイトやらユングやらに一時期はまっていた僕であるから、なおいとど。 (というか、自分ですでにこの夢の分析を完了していたりする。)


 素敵な雑貨屋があった。
 
 入ってみると、そこにいるのは、半年越しに会う、アーティストの後輩。「個展ひらいてるんです。」と言うではないか。


 「個展て?」と聞く僕。


 「この雑貨屋そのものが個展なんです。」 と、彼女は答える。


 

 あ、面白い。 

 死ぬまでにやりたいことリストに新たに加わる。


 何を隠そう、僕は、子供の頃から雑貨屋が大好き。 素敵な雑貨屋に入った瞬間、何か別の世界へ放り込まれたような気がするのは僕だけだろうか? 雑貨屋の品々を見ているだけで、脳がさくさく刺激されている感じを受ける。 

 かてて加えて、「こんな雑貨があればいいな~」というアイデアを数知れず持っていたりする。 そのうちのいくつかは、メモサイズのスケッチブックに書いていたりする。 僕が客なら絶対に買うようなデザインのイス、机、文房具、その他いろいろ。 はい、トリッキーな品なんですね。 多分。

 
 僕にとって、雑貨屋は、「人の創造性が支配する空間」の象徴ともいえるようなもの。 それを、制限された創造性が多くを支配する現実空間に現出させる事によって、多くのものを主張できる気がする。 演出は、色々と考えられそう。 


 是非やってみたい。 

 ご意見、求みます。 
RTC勉強会に参加してきました。
 朝、起きたら、寝違えていた。

 修練の鬼、宮本武蔵が釘を踏んだときの真似をしてみよう。

  「修行が足りない。 これが戦なら致命的だ。」

 
 しーん。


 あれ、、、?
 
 


 閑話休題。


 昨日、RTC勉強会というものに参加してきた。 

 テーマと言うか、話の題材が、「阪神、楽天、TBS」だったので参加。 その内容は、主催者の方がまとめられているので、こちら参照。
 http://chou.seesaa.net/article/8598773.html

 
 予想以上に、楽天・TBSが新たにシナジーを生むかと言う点が議論の多くを占めていた。 てっきり、買収に関するテクニカルな内容が主になるのかと思っていた。 主催者の方は、投資銀行出身の人だったし。 そこらへんの内容をあまり聞けなかったのが、少し心残りだったりする。

 感じていたことを書いていこうと思う。 あと、近日中に、このブログにてTV各社の企業価値評価をする予定。 

 雨のせいで偏頭痛気味&寝違いなので、2点だけ。 思い付きを書いていこうと思う。

 1.統合はシナジーを生むのか?
 2.企業戦略における買収の位置づけ



 1.統合はシナジーを生むのか?

 TBS側が統合に関しては拒否したと言う報道が入っているが、それは後で話すことにして、「実際に何らかの新しい価値が生まれるのか?」というのが、勉強会の主な争点だった。

 僕としては、統合して多少は新しい価値が生まれるとは思っている。
 でも、だからといって、その新しく生まれる価値が、統合によって生じうる価値の減少より大きいのかと言う点については、正直判断しかねる点がある。

-統合により新たに生まれうる価値について
 ・情報生産における共通性
 プレゼンテーターは、TV局は一つの工場のようなもので、ネット企業のそれとは全く違うものと話していたが、たとえTV局が工場のようなものであったとしても、生産している商品は情報なのであってこの点において、共通点があると思う。 情報の生産に対するアプローチには、現在相違があるが、その相違は、かえってシナジーを生み出す源泉となるのではないだろうか。

 ・増える媒体
 情報は発信者同士で共有してもその価値が減じない反面、媒体を増やすことにより、より多くの価値を創造することが出来る。 TV局とネットが融合することにより、媒体は確実に増えるわけで、それがマイナスになるとはあまり考えられない。 現実的に、韓ドラの有料の再放送を見ている人々は少なくないのだし(ちなみに、我が両親もその人々に属している。。)。
 
 ・広告料の確保
 現在、テレビ局が取得できている広告料は、かなり減ってきている。 その理由の一つは、技術革新により、CMを飛ばして録画できるハードディスク型録画機器が増えているからだ。 皮肉なものだなあ。 まあ、それはさておき、テレビ局の広告収入が低下してきているのはかなり現実的な問題で、プレゼンテーターも現在消費者金融のCMがゴールデンタイムに放送されているのはその反映と見ていいと話していた。
 ネット上なら、テレビ番組を録画する際にCMをとばすようなことを出来ない。 なぜなら、見る画面まさにそこに、CMがあるのだから。
 そういう意味で、広告料を確保できると言う点でも、統合は新たに付加価値を生みうると思う。
 


-統合により減じうる価値について
 ・企業文化の相違
 これは、実際かなり大きい。 特に、楽天はどうか分からないが、TBSは、プレゼンテーターの話から判断するに、かなり「古くからの日本的」な企業のようで、統合をしたときに現状のインセンティヴ状況を悪化させる可能性がありうる。

 ・多角化の本来持っている問題点
 多角化に失敗している企業は少なくない。 それらの企業は現在、選択と集中に専念して新たに企業価値を高めている。 事業が多角化することによりある程度の利益があるのは事実ではあるが、多角化による機動力の低下など、問題点も多く、今回の統合がどちらにウェイトがより大きくかかるのかは、まだ判断しかねている。 そもそも、今回の統合は多角化の範疇に属するものなのか?とも、まだ考えている途中だったりする。   偏頭痛であたまがやられているので、今回エントリーはいつも以上に脊髄反射的なのはご勘弁を。
 
 

 2.企業戦略における買収の位置づけ  
 何らかの動きがあるごとに、メディアは大騒ぎする。 まあ、それが仕事と言えば仕事なのだからしょうがない。 
 TBSが統合を拒否したようだ。

 けれど、買収の諸段階は企業が己の目的を達成するための一つの過程に過ぎないという点が、看過されすぎている気がする。


 故事を考えてみよう。 有名な、「項羽と劉邦」の話だ。

 漢の劉邦は、戦のたびに項羽の前に負けっぱなしだった。 けれど、劉邦は、ただ一戦でのみ勝利を収めた。 ガイカ(漢字が変換されなかったのでこれで)の戦と呼ばれる、天下分け目の一戦で、将軍韓信らの活躍により勝利を収めた劉邦は、そのまま中国全土を統一し、中国の歴史でもとても長い間続くことになる漢王朝を建てたのだった。

 買収の諸段階と言うのは、この項羽と劉邦の間で行われてきた戦たちに似ていると思う。
 
 その時々の結果に一喜一憂するのでなく、結果的に企業が己が目的としているものの達成―例えば、守りたい価値観を保全すること―など、することに重きを置いて、事態を考えたいものだと思う。 

 



 ちなみに、楽天がかなり買い増しをしたそうで。 19%になったらしい。 TBSの買収防衛策の発動条件である20%まであとわずか。
 TBSの買収防衛策にも色々と問題があるとおもう。 けど、もうそろそろ書くのもしんどくなってきたので、次回にでも。


 主催者の皆さん、貴重な機会をありがとうございました。
FRB新議長バーナンキ氏ってどんな人?
 FRBの新議長に、プリンストン大学の教授、ベン・S・バーナンキ氏が就任した。

 えー、まず、FRBってなんじゃらほい?
 Federal Rserve Bank(連邦準備銀行)の略です。また、連邦準備制度理事会(Board of Governors of the Federal Reserve System)も、FRBと約される。 ややこしい。。
 連邦準備制度理事会の決定を、連邦準備銀行が執行することになる。この準備制度理事会の議長が、連邦準備銀行の総裁も兼任している。
 連邦準備銀行は、アメリカの中央銀行であり、日本で言うところの日銀です。

 いまだに世界経済に巨大な影響力を持っているアメリカの中央銀行。 
 そんな連邦準備銀行の総裁に、今度はどんな人がなるの? 
 
 と、まあ、注目が行くわけです。


 ビジネスウィークに特集があったので、それをちょっと読んでみると、どうやら、学者たちの間ではかなり評判の高い人のようです。 ちょっと見てみよう。

 
 1.ミルトン・フリードマン、曰く。  ミルトン・フリードマンは、マネタリズムの泰斗である、アメリカの大経済学者。

 「グッドチョイスだ。 彼は、マネタリーポリシーについて、正しい見解を持っている有能な人物だと思う。 問題は、『何が金融政策の主な障害であるか?』と言うことだ。 答えは価格の安定であり、そうでないといけない。 他の全てのものは二次的なものだ」


 2.ポール・サミュエルソン、曰く。 ご存知、「経済学」のテキストで有名な、経済学のほぼ全ての分野で実績を挙げている、超人的なノーベル経済学賞受賞者。 齢90歳を超える、伝説的な人物。 リベラル。

 「彼は、(候補者として)言及された多くの名前の中からのベストチョイスだ。 私は、彼・彼女ら(ブッシュ政権の人々)が彼を選んだことに少々驚いている(あ、皮肉ですよ。これは)。 一般論として、彼女・彼らは、(人物の)指名において、満足のいくもの(原文perfect pitch、訳むずし。。)を行ってこなかったのだから。」
 

 3.グレゴリー・マンキュー、曰く。  29歳にしてハーバード大学の教授についた天才経済学者。 マンキューのマクロ経済学教科書でも有名。

 「ベン・バーナンキは、アラン・グリーンスパン(今までの議長)に続く、素晴らしいチョイスだ。 彼の信頼は完璧無比だ:彼のアカデミックな業績は最高クラスのものだし、彼の判断は岩のように固く、そして、かれは金融政策担当者として経験豊富である。 ブッシュ大統領は、この重要な職責について、これ以上ない人物を選んだ。」



 マネタリストのみならず、リベラリストたちからも評価の高いというのは、かなりすごいことである。 アメリカでは、歴史を通じて、リベラリストとマネタリストの間で対立があったことを鑑みれば。 (対立の主な内容、そのうち書こうかと。)

 
 今、アメリカは、相対的に世界経済における地位を下げてきていて(それでもトップなのには代わりはないのだが、)以前よりも、金融政策について外国からの影響を強く受けるようになっている。 前代のグリーンスパン氏の直面した状況よりも、より難しい状況にバーナンキ氏は立たされている。 
 外国からの状況以外に、今すぐ崩壊するかもしれないと危ぶまれているバブルを形成している不動産市場、拡大する貿易赤字や、エネルギー資源価格の上昇によるインフレーションの恐れなど、問題は山積みである。

 
 その中で彼が採る政策のうちで、公表されたものについて、コメントをしておこう。

 バーナンキ氏は、「インフレ率のターゲットを1~2%に設定し、中央銀行のインフレに対抗する機関(fighterが原文、これも訳しにくい…)としての役割を高める」としている。

 てことは、FRB自らインフレ率の調整に乗り出すと言うことなのだろう。 このような政策を、インフレータゲッティングと言うのだが、その有効性については、マクロ経済学的にかなり論争のある問題だったりする。 これも、出来れば、そのうち書こうかと。 ちなみに、前職のグリーンスパン氏は、このターゲッティングは市中銀行の危機に対応する能力を妨げることになるとして、行ってこなかった。
 マクロ経済学的に、バーナンキ氏の取り組みは、なかなか興味のあるものなのです。 
 


 それにしても。 
 学者がこうやって、実績さえあれば政治の世界で活躍できるのは、本当にうらやましいことだと、僕には思えてならない。 ニョンチやチューなど、学問を究めようとしている友人たちと話しながら、つくづく感じること。  僕は学者にはならないだろうけど、よしんばなったとしても、そして、もし実績を収めたとしても、政治の舞台に立つことは出来ないだろう。 世知辛い世の中だ。
ディープインパクトの血統について。
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 実は、元競馬オタクです。

 と言っても、賭けるほうは別に好きじゃない。 スポーツとしての競馬が好きなのだ。 

 血統を見て、ふむふむ、と考え、
 厩務員の日々や調教師の様子を見ながら、なるほど、と思い、
 レースを見て、ほほう、と感じていた、
 そんなあほな中学生だった。

 血統好きになった理由は、当時流行していたゲームソフト、「ダービースタリオン」にある。 このゲームで最強馬を生産したくてたまらなかった僕は、血統について必死に勉強した。 種牡馬の名前は今でも100頭くらいなら空で言えるし、有効なインブリード、相性のよい系統、競馬の血統の歴史などなら、基本的な事項は今もあたまに叩き込まれている。 適度や適当をしらない人間なのです。
 その甲斐もあって、雑誌の大会で優勝したりもした。 ああ、これをもうちょっと他のものに使っていたらなあ。

 ディープインパクト、血統から言うと、完全に異系の配合。 インブリード(血が重なること、クロスとも言う)は特になし。
 その代わり、母方はノーザンダンサー系、父方はヘイルトゥリーズン系で、この組み合わせは、相性のよい代表的な組み合わせ(こういう組み合わせを、ニックスと言う)の一つ。 
 ちなみに、競走馬としての成績は素晴らしかったが、その血統が異系を多く含むゆえ、アメリカでは不安視され、結果日本へ輸入されたサンデーサイレンスが日本で成功を収めた理由の一つは、当時日本の繁殖牝馬の多くが、ノーザンテースト産駒であり、サンデーサイレンスと系統的に相性がよかったことにあると、僕は考えている。 事実、日本でサンデーサイレンス産駒が爆発的な成功を収めた当初、その繁殖牝馬の多くはノーザンテースト産駒、すなわち、ノーザンダンサー系だった。

 こういうのを見ていると、血のロマンを感じてしまう僕がいたりする。 「競馬は生命を弄んでいるのではないか」、と、少なくない人は言う。 けれど、この問いに対して、一概に答えるのはとても難しいと、僕は考えている。 このスポーツに対し、真剣に取り組んでいる人たちを知っているから。 彼・彼女らは、サラブレッドたちがなぜ生まれてきて、なぜ走るのかについて、誰よりも真剣に考えている。 「命とは何なのか、命はなぜ生きるのか」という問いに根本的につながっている問題意識だ。 競馬と言うスポーツに対して生命に対する侮辱だと決め付けることは、すこし危うい議論だと感じている。

 まあ、何はともあれ、ディープインパクト強し。 速い馬が勝つと言われている皐月賞、運が強い馬が勝つと言われているダービー、そして、本当に強い馬が勝つと言われている菊花賞を、危うげなく勝った。 競走馬としてのみならず、今後の種牡馬としての活躍も楽しみ。 こうやって、血はつながっていくのだ。

 ああ、久しぶりに、家から5分でつく、大井競馬場でのレースでも見に行こうかな。
登山のお誘い(真剣です)。
―タカオ クレハガリ 2005―

 -日時 
  10月30日(日)、昼前から。 日没までには下山予定。
  
  雨天順延。
 

 -場所
  登る山は、高尾山。 
  集合場所は立川もしくは高尾山口を予定。


 -参加のメリット
  1.紅葉をみて癒される。
  2.ちょっとしたカタルシスを味わうことにより、明日への活力を。
  3.事務作業や勉強で疲れている人は、気分転換のいい機会。
  4.運動不足の人は、体脂肪を燃やすチャンス。
  5.貴重な出会いがあるかもしれません。
  6.要望があれば、僕が料理を作ります。 
  7.要望があれば、可能な限り芸を披露します。(本当かよ)  酒を飲ませてくれれば。

  
 -参加資格
  ・途中で「だりぃー」って言わない人。 
  ・山の中腹にある動物園の猿と喧嘩しない人。
  ・熊、その他猛獣を呼び寄せたりしない人。
  ・登山家の心得を必要以上に説教しない人。 
  ・途中で道なき道を冒険しない人。 その道を皆に無理強いしない人。
   
   要は、当然ながら、だれでもOKってことです。 はい。


  一人でテクテク登るのもさびしいので、一緒にのぼってくれる人、いらっしゃったら感謝します。
 ブログのコメント欄か、stjofonekorea@hotmail.comまで。 あっ、ウィルスは送らないでくださいね。。

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耳を澄ませば。
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 「なぜ?」という問いを、一日に何回発するだろうか? 

 アインシュタインやエジソンは、子供の頃学校で「なぜ?」を発しすぎて、退学になった。 ニュートンは、落ちる林檎をみながら、「なぜ?」を考えた数少ない大人だった。
 多くの発見はこの、「なぜ?」という問いから立ち現れるのだと思う。
 「慣れる」という行為は、人の持つ優れた点の一つではあると思う。 けれど、何かを捜し求める人は、精神の慣性からは解き放たれていなければいけないと思う。

 
 ただし、「なぜ?」だけでは不足していて、それより重要なものがあることに、気付く。

 本論を続ける前に、ちょっと必要な脱線。




 金融の世界では、新しい金融商品の開発が盛んだ。

 近年発明された、面白い商品たちを、少し見てみよう:

 ・災害債~Catastrophe bonds. ある種の災害が起こると、利回りがアップする。

 ・天気デリバティヴ~異常気象が起こると、利益が得られる。 エルニーニョ発生期に大流行。

 ・長寿債~Longevity bonds.  高齢化が進むと、利回りが高くなる。


 そして、極めつけは、ちょっと前に販売された、これ。じゃん。


 ・六甲おろしバスケット eワラント ~阪神タイガースの成績が好調で株価が上昇した場合に利益を得られるコール型2銘柄と、ファンの期待に反して勢いが失速した場合、株価下落によって利益を得られるプット型の2種類。 やるなあ、ゴールドマンサックス。
  


 はい、脱線終了。


 
 今までも色々な金融商品が開発されてきたが、開発された後10年以上長く使われるものは稀有。 その稀な商品たちには、共通点があると思う:
 ・投資家の選択肢を増やしてくれるもの。
 ・そして、その結果、投資家が今までに無い新しい満足を得られるもの。(リスクの低減、期待利回りの上昇など)。
 ・または、現存の制度の問題点(規制、税制など)をうまく解消しているもの。


 
 共通点を一言で言えば、

 「世が求めているもの」 

 だと思う。その需要が今まで目に見えるものであったのか否かに関わらず。

 
 この考えは、世界の全ての創造的行為につながるものだと思う。 
 思えば、すべての発明・発見・創作は、人、または自然がすでに、問題意識を内示しているものであったのだ。 人や自然が、明確に声には出さずとも、「求めてきたもの」だったからこそ、その創造物たちは、時を超え現代までに残ってきたのだ。

 
 天才の所産と呼ばれる自然科学の数多くの発見でさえもそうである。
 「20世紀の物理学」という書籍の冒頭にも、アインシュタインや、ファインマン、ハイゼンベルクらに関して、以下のように書かれている。
 「こうしたヒーローたちは自分たちが発見した事柄は、発見されるのをむしろ待っていたということを承知しているのだ。・・・彼らは織物のほつれ(=世界が科学者の前に提起する問題意識)を見出し、どう直せばいいかを考えて、新たに現れた美しさを楽しんでいるのである。」

 
 エドワード・サイードも、「知識人とは何か」と言う著書において、知識人の定義について、「表象するもの」と語っている。 人々が切実に思っているが声にできないことがある。 それを、言語の力によって、代弁すること。 それが知識人だと彼は語ったのだ。  知識人が語るべきものは、決して、ただ単に新しい奇をてらっただけのものではあってはならない。


 文学でもそう。
 最近取り上げた「斜陽」でいうのならば、あの書籍によって「斜陽族」と言う言葉が世に流行するようになったのは、その斜陽的な感情が既に人々の心の中に根付いていたものだったからなのだと、僕は思う。 どんな天才文学者であっても、自分だけの全くの独善的な感情を他人に根付かせることは出来ないであろう。


 音楽も同じ。 
 美術も同じ。
 
 宗教、社会的運動、言うまでも無い。 みな、人の求める何かに触れてきたからこそ、世紀を経てこの世界に息づいている。


 今になって、マルクスの「人は解決できる問題だけを自らの前に提起する」という言葉が、深みを増してきた。

 
 
 まず、世界の声に耳を澄ますこと。
 目に見えたり、耳に聞こえたり、感じたりできる全てものから、メッセージを感じようとすること。

 そして、そのあとに、「なぜ?」を問う。
 

 その問いに対する僕の答えのうちに、一つだけでも、1000年、2000年と世界に残るようなものがあればいいなあ、と思う、思索の秋の今日この頃。
歴史認識を可能な限り近づけるために。
 歴史認識は共有できるのだろうか?

 完全には、おそらく不可能だと思う。 しかし、認識をすり合わせるための努力はするべきだし、ある程度までの共有は可能だと、僕は考えている。 

 そのために、どうすればいいか。 具体的な方法を考えてみる。

 
 東アジア各国の歴史資料の共有化。

 が、ぱっと思いつく第一歩だと考える。 これも、言うは易し、行うは難しなのだが・・・

 以前に、京都大学の水野教授がその歴史資料の共有化について書いていたものを読んだことがある。 とても共感できたことを覚えている。

 以下では:
 1.歴史資料で何が分かるの?
 2.今のところ、どれくらい公表されているの?
 3.東アジアで歴史資料の共有が必要な特別な理由ってあるの?
 4.むすびにかえて
 
 について、書いていこうと思う。 

  1.歴史資料で何が分かるの?

 ほとんどの政府は、昔の政策や法令その他に関する情報を文書として保存している。 
 もちろん、歴史小説のように、まとまった絵巻物のようにまとめているわけではない。 けれど、それを一つ一つ見ることによって、過去の状況を可能な限りリアルに把握することが可能となる。 これを一つ一つ紡いでいくのが、歴史家の役目の一つであって、さながら、ワンピースのニコ・ロビンを思わせる。

 

 2.今のところ、どれくらい公表されているの?


 日本で言うと、一定程度の公表はされている。 
 特に、大韓民国政府からの要求されたものについては、戦時動員された労働者や兵士の名簿を提供してきた。
 
 また、94年村山内閣時の「平和友好交流計画」に従い、2001年にはアジア歴史資料センターが開設され、ネット上で公開されている資料を見ることが出来る。
 ここです:http://www.jacar.go.jp/

 他のアジアの国々でも最近、歴史資料の開示活動が活発である。 たとえば、お隣では、光州事件、済州島4.3事件、金大中拉致事件などについて真相の究明がすすめられている。
  
 ただ、各国ともに、いまだ公表していない資料が多く存在するのは事実のようである。 個人情報の観点から開示が難しい資料も多く存在するらしく、どこまで開示すべきかについては議論がある。

 日本でも、上記のセンターを設立する際に、センター設立検討のための有識者会議の提言において、今まで未公開であった資料についても開示するべきとの提言がされたが、99年の閣議決定ではセンターでは今まで公表されてきた資料のみを開示することに決定がなされた。 よって、未公開資料は、いまだ公表されていない。





 3.東アジアで歴史資料の共有が必要な特別な理由ってあるの?
 

 特別な理由があると思う。 それは、植民地という当時の状況の固有性に起因する。
 植民地時代の情報の:
 ・記録をした当事者
 ・情報そのものの内容
 において、日本とその他の東アジアの旧植民地国家の間には、隔たりがあるのだ。

 当時植民地であった諸国における歴史の記録の作業は、当然ながら、日本当局によってなされた。 特に、独立運動等の資料は、それを持っているだけで治安維持法その他法規の対象となりえたため、民間人でそれを保存する人はほとんどいなかったと思われる。  
 
 歴史の記録の当事者の問題のみではない。 当時の状況を浮き彫りにさせるために、当時とられた政策や法令、独立運動についての資料はとても重要なものなのである。 そして、その資料は、日本政府以外の政府が保存している可能性は低い。 

 45.8.15日直後に朝鮮総督府や特高警察が資料を大量に焼却したとされているが、ある程度は残っているのではないかと思われる。 
 
 もし、それら資料が残っているのであれば、それらを開示し共有することによって、現在の閉塞感あふれる状況をいくらか打開できるのではないかと思う。

 当然、個人情報の問題など、全てを開示するのは難しいだろうが、一定の制限事項をつけつつ開示するのは、可能だと僕は考えている。



 4.むすびにかえて

 ふと、以前出演した演劇での事を思い出した。 「コンテクストのすり合わせ」である。 演劇におけるコンテクストのすりあわせとは、脚本その他演劇全般に対する解釈を、皆の間で一致させる作業である。 演出家、平田オリザの著書参照。

 多分、俳優と演出家は、演劇をあげるという目標を持っていなければ、コンテクストのすり合わせなどは行わないと思う。 個々人の解釈があって、それで、なんの問題は生じない。 たとえば、日常会話で、ボケるタイミングについて感覚が違うとしても、イッキさせられるジョッキの数は増やすかもしれないが、大事には至らない。  
 しかし、演劇を挙げるとなると、話は別となる。 皆がある程度まで同じ解釈をすることなしに公演を挙げると、チグハグで見てられない演劇が出来上がるであろう。 片方がボケているのに、片方が超真剣。 まあ、それはそれで、狙えば面白くなるのかもしれないが。

 多くの場合、人は、ともに一つの目標を共有するからこそ、複数の解釈を持ちうる対象(脚本など)に対して、解釈を近づけていこうと努力をする。
 ちょっと考えてみると、偶然かもしれないが、敗戦後の西ドイツと西欧諸国には、共有するべき目標があったと思う。 西欧諸国は、一方で唯一超大国として台頭してきたアメリカに、他方では東側社会主義諸国に、対抗しなければいけなかった。
 
 東アジアの諸国、そこに住む人々に、共有する目的はないのだろうか? ある、と僕は信じて疑わない。
小泉首相、五度目の参拝。
 小泉首相、5度目の靖国神社を参拝。 今回は記帳は今までとは違い、私費の献花料も支払わず、本殿への参拝もしなかった。
 ただ、以前から参拝を促していた東アジア各国からの反発は、かなり高いレベルで予想される。

 参拝の憲法上の問題については、大阪高裁の判決に際して、以前に書いたので、こちらをご参照あれ。
 http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-entry-249.html  


  「総理大臣小泉純一郎としてではなく、一人の国民として参拝した。二度と戦争を起こしてはならないという不戦の決意で祈った。今日の日本があるのは、心ならずも戦争に行かれた方々のお陰である。アジア諸国との関係を重視し、未来志向で進めたい」
 彼の真意が、言葉の通りだとしても、、
 小泉さん、残念ながら、伝わりません。


 なぜここまで問題がこじれるかについて、メカニズムを考えてみる。

 
  
 政治家は、基本的に国民の感情や意識を鑑みて発言をする。  
 さて、その国民の感情や意識は、自然発生的なものなのか?
 残念ながらそうではありえない。 皆、知らず知らずに何らかの影響を受けているものである。 その影響を与える最たる存在は、メディアであるのは、周知の事実。 現代社会でもし、中立になりうる人間がいるとしても、それは、本当にわずかな人々であると思う。

 ノーム・チョムスキーは、「メディアは同意の大量製造(manufacturing concent)装置である」と語った。 その「同意」の方向は、どんな方向にでも作用する。 近い例では、アフガニスタン戦争前のアメリカにおける戦争支持など、その他国民の意思の一致のために用いられてきた。 今回の例も、それに漏れない。 各国の意図を反映し、報道には必然的にバイアスがかかるであろう。

 
 上記のように、もともと、政治問題に関する報道にはバイアスがかかるのに、かてて加えて、靖国神社の問題は、過去の植民地支配の問題と密接に関わっている(これについても、上に張っているリンク参照)。 これで問題がさらに根深くなる。 

 過去の支配者、被支配者、いうなれば、加害者と被害者の感情には、避けがたいギャップが存在する。 これがさらにバイアスをかける。 これは、今までの、東アジア各国の植民地支配の研究一つにも如実にあらわれている。
 そして、残念ながら、今まで、そのバイアスは埋められてこなかったと、僕は思っている。 もし、埋めようと努力する人がいたとしても、それが結実していないのは事実だろう。 議論をしても、ほとんどが一方通行。 互いに互いを理解しようとする建設的な対話が足りないまま21世紀を迎えてしまった。 上記で述べた感情の問題がそれを難しくしている一因だと僕は考える。 
 
 以上を鑑みると、
 問題は、より一層激化するだろう。 東アジアの諸国で手を取りあって発展していかなくてはいけないのに、残念でならない。
 
 東アジアの首脳たちで、朝まで生討論でもしてくれないかな、と、ひそかに願っていたりする。
 問題は激化するだろうが、質量法則よろしく、今回の参拝が新たに建設的な対話をうむ局面へと移行する契機となる事を願ってやまない。
秋のオススメ文学セレクション。
 人は、食べないと生きていけない。 それと同じで、人間の精神にも糧が必要だ。 文学は、その糧の一つ。 僕はそう思う。

 内容が分かってしまってはつまらないので、内容には出来るだけ触れないことにして、さらに、個人的にマッチすると感じた歌をともに紹介することにする。
 

 

 「姉さん、僕は貴族です」20051016214905.jpg

 強烈な出会いだった。 
 折りしも読んでいた時間は夕暮れ時。
 
 太宰治の作品は、「走れメロス」などは例外で全般的に陰鬱な雰囲気が漂っているが、その中での人間の苦悩や意志についての描写が素晴らしいと思う。 描写される世界が凄惨であればあるほど、その中で必死に生きる人間たちが光り輝いている。

 太宰治、「斜陽」。

 クライマックス時に、ともに聴きたい音楽は、
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 「不良の森」
 ブランキージェットシティーのアルバム、Harlem Jetsの六曲目。





 「あなたは、女性の黒髪に縛られたことがありますか?」と語った先生。 なぜ、あなたは・・・?
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 夏目漱石の、「こころ」
 日本文学屈指の傑作。 美しい日本語と美しい描写に基づいた精神世界を堪能してください。
 実は、以前に「こころ」についてはエントリーを書いている。 こちら。 (ネタバレあり)
http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-date-20050418.html

 クライマックス時には、音楽などはむしろ聴かずに、可能な限り静かな場所で読んでみるのがオススメ。




 次に、大好きなゲーテの作品を。

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 一生のうちで、この作品が自分のために書かれたのだと思う事がない人間は不幸だ、と、ゲーテが語った作品。 まったく同感。
 得ることが出来ないものを愛求しもだえるあの気持ちは、人類に共通なのだろうなあ。
 
 「若きウェルテルの悩み」

 クライマックス時に聴きたい音楽は、
 
radiohead.jpg

 Creep、アコースティックバージョン。 歌詞もかなりマッチ。

 redioheadの my iron lungの最後の曲。
 
 



 うーむ、何か沈鬱な作品が多い。 憂愁漂う秋の空気がそうさせるのか?


 心温まる作品を。
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 「迫害されるものほど、常に真理に近い」、とは、誰が語ったのか、本当に至言だと感じる。 住井すゑの未完の傑作、魂の叙事詩。(「ゑ」は、「え」の旧字体。念のため。)
 彼女が描く人々の心の美しさのみならず、研究され尽くした大和言葉の美しさ、自然描写の美しさに涙してください。

 「橋のない川」、住井すゑ
 
 ともに聴きたい音楽は、「赤とんぼ」。 特に、自然描写がされているときに聴いてみてください。



 
 
 無窮なる秋空のように、志高く、そして清らかに生きたいと感じる人へオススメなのは、
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 これ。
 2000年以上前の人物でありながら、いまだに中国では神のごとく崇められている人物。 屈原、関羽、孔明などと並び、中国ではいまだに人々の胸の中にある人、介子推の生涯をつづった本。
 清冽な感動を覚えることが出来る一冊です。

 「介子推」、宮城谷正光

 ともに聴きたい音楽は、
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 このアルバムに収録されている、バラード曲全般。

 ジャクソン・ブラウンのベスト盤、Next voice you hear。 
 



 最後は、青春を描いた作品としては最高傑作だと感じるものを。
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 幼い精神の成長の過程を、見事なまでに書ききった作品。 翻訳が、とてもうまい。 絶妙な精神空間を作り上げている。

 「デミアン」、ヘルマン・ヘッセ。
 
 デミアンが語っているときに聴きたい音楽は 
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 サイモン&ガーファンクルの、サウンド・オブ・サイレンスや、スカボロ・フェアー。 デミアンの周囲をたゆたう神秘的な空気にとてもマッチする。 


  
 深みのある文学に接し、感じ、思い、考えることによって、人間性は深みを増していくのだと思う。 実際に、読書で自己を確立させた偉人たちは、歴史に数知れない。 
 現代小説にそういう書籍が無いとはいえないのだが、少ないのは残念ながら事実。 だから、僕は重厚な古典文学を好んで読む。 


 長いエントリーを読んでくれてありがとうございました。

 
 取り上げた本や音楽に思い入れがある人、
 コメント欄で心行くまで語ってください^_^!!!
DCFって何でPEで使われないのだろう?
僕がほぼ毎日見ているブログの一つに「ハーバード留学記」がある。 とても触発され、勉強になるブログだ。 ちょうどDCF法と関連して書いたばかりだし、ちょっと思うところがあるので、書き留めておこうかと思う。

 著者のdiwaseさんが、PEではDCFをほとんど使わない理由を書いていた。 
 
 
 ① そもそもオークションになる時点で「買える」価格のレンジが決まっている(EBITDAの●倍)

 ② 買う時点ではどれだけレバレッジをかけて買えるか、キャピタルストラクチャーの方がよっぽどリターンに効いてくる(100で買うか120で買うかも大事だが、それ以上に100をすべてエクイティで買うのと、70借入・30でエクイティで買うのでは、リターンが大きく違ってくる)

③ 買収後のキャッシュフローは自分たちの腕力で、様子を見ながらある程度どうにでもなる(資本構成による金利レベル、人員削減、設備投資抑制)

④ Terminal Valueを理論的に計算するのではなく、エグジット時点で「いくらで買ってもらえるか」を考えるので、これも大抵EBITDAのマルチプルで考えることになる



 なるほど。 僕は、今までPE関係の書籍を読んで(これとか、これ)PEではEBITDAなどのマルティプル(倍率だとか、乗数の意味)を使うのは知っていたが、その理由は本には詳細に書かれていないので、とても勉強になった。


 けれど、DCFは、広く実務でも使われていて、バリュエーションではいまだにポピュラーな手段であることも確かなのである。 更に言えば、実証研究に基づいて「市場はDCFの結果を適切に反映している」という結論を出している人々もいる。(Valuation,Tim Koller他、70~100ページくらいのところを参照)

 さて、両者は矛盾しているのか?

 ちょっと考えてみたが、どうやら、矛盾しなさそうだ。

 なぜなら、DCF法も、PEの人々が使うバリュエーションも、根本部分での考えは一緒だと思われるから;それは、「企業の内在的、根本的な価値を見据える」ということである。

 勉強をしながら感じることは、DCFの趣旨は、「企業価値評価に関しては、企業価値の要因たちを鑑みないといけない。」という、至極当たり前なことだと感じる。その要因として挙げられるものが、先のエントリーで述べた投資資本に対する収益率や成長率、資本コストである。他にも色々あるが、やはり、これが基本。
 実際に、市場価値と、ファンダメンタルな要因とされる企業の収益率(資本コスト加味)・成長率の間の回帰変動率は46%と、非常に高い。 そして、そのファンダメンタルズに関する考察に基づいて、割引率を決定して、バリュエーションをするわけだ。
 
 一方、PE投資の場合は、内在的な価値が市場から適切に評価されていない企業を対象としている。 だから、必然的にDCF法などを使うよりも他の方法を使った方がいいことになる。 以前、PEファンドで働いている人に教えてもらったが、バイアウトから売却までのシュミレーションモデルを作るときも、大体の場合、企業価値が修正された後の状態を想定して(=企業の内在的な価値を適切に評価して)モデルを作ることになるそうだ。


 同じ、内在価値に関して考慮するという方法を採るにしても、対象企業の状態によって方法を変えるのは別に変なことじゃない。 だから、対象企業が異なる、PE,投資会社・証券会社などの間で主な評価方法が違っていても、それも十分に理解できることだな、と感じた。 不動産はどうなのだろう?

 人と接するときも、その人の根本的な人間性とか志向・能力を見る。 その人に対する世間の風評とかは二次的なものであるべき。
 人を見ることも、企業を見ることも、根本的には同じことなのかもしれないな、と考えていたら、思わずくしゃみをしそうになった。
阪神上場について:続き。
 続きです。
 
 1.IPOパズルって何?
 2.上場したらなんかいいことあるの?
 3.上場したらまずいことってないの?
 4.そもそも、阪神って上場させられるの?



 1.IPOパズルって何?

 IPOというのは、「新規公開」と同じ意味。 Initial Public Offering の略。 上場したら、新しく上場した株式の売出しを募ることになるから、こんな名前なのだろう。

 さて、この新規公開銘柄は、投資家の間で人気がある。
 なぜだろう?

 図を見れば一目瞭然なので図を作ってみた。
 出所:金子隆「なぜ企業は新規公開時にブックビルディング方式を選択するのか」2002.5

 IPOの件数とその平均初期収益率をしめしたもの。
20051016072544.jpg
 

 「公開価格で新規上場株を入手できれば、必ず儲かる」とさえ言われている。 
 この初期収益率は、ブックビルディング方式というIPOの価格決定方式に移行して以来、さらに高まっている。

 この不思議な現象の事を、IPOパズルと呼ぶ。 英語では、ちょっとした謎などについても、「パズル」という表現をする。

 やけに初期平均収益率が高いということは、新規公開(IPO)がされるときに、その株式が本来より低い価格をつけられているということになる。
 
 なぜ? という問いには、仮説が4つほどある:
 ①引受会社要因
 引受とは、発行された株式や債券を買い取ること。 その目的は、自分で保有すること、と、相手に転売すること、の2種類。 主な引受会社は、証券会社。
 証券会社としては、自分が引受けることになる株式が全て売れないのは困るし、売れ残ったりしたらなかなか大変である。 そのリスクを回避するためには、株式が割安で新規公開されているととても助かるわけ。

 ②経営者要因
 経営者は、新規公開株式を割安にしてもらうことにより、それを買ってくれる人々に喜んでもらおうとする誘引がある。 新装開店のパチンコ屋で出玉を多くするのと気分は似ている。 (けれど、株式を割安で買って喜んでも、投資家の場合は、パフォーマンスが悪いと観るや否や問答無用で売り飛ばす気が僕はするのだが)


 ③投資家間の情報の非対称性
 投資家は、経営者やその引受会社ほどには、相手企業のことを知らない(これを、情報の非対称性と呼ぶ)。 もし、全ての株が割安でない場合は、投資家は警戒してなかなか新規公開株を買わないかもしれない。 そうなると、資金を調達するために株式を売り出すのに、その目標が達成されない。 ならば、株式が割安であることは都合がいいわけである。

 ④価格付けをする会社要因
 新しい価格付けの方式であるブックビルディング方式では、機関投資家の意見が新規公開価格に反映されることになる。 機関投資家としては、それを割安に設定するのならば、他の投資家から喜ばれはしても、憎まれたりはしない。 しかし、低く設定してしまい、損をする投資化が出てくると、その価格づけをした会社の評判が落ちてしまう。 だから、価格付けをする会社としても、株価を割安に設定するのは都合がいいことになる。


 と、色々なことが話されているのだが、全ていまだ仮説に過ぎない段階。 実証分析がいっぱいされているが、いまだに決着はついていない。

 ただ、結論は簡単。

 阪神タイガースが上場したら、一年目の株式はかなり高い確率で上がる。 だから、その株式をはじめから持っている人は、大きな利益(株価の上昇による利益をキャピタルゲインという)を得ることが出来る。
 村上ファンドにとって上場が好ましい更なる理由。
  


 
 2.上場したらなんかいいことあるの?
 

 上の事柄に加えて、
 ・阪神ファンのファン意識が高まり、結果として企業の収益が上昇。
 ・球団の正確な価値が市場から評価されること。
 ・タイガースが阪神電鉄の支配から脱することになるので、より透明性の高い経営が可能になる。 多くのタイガースファンが、「阪神はフロントがくさっとる」と嘆く中、これは、なかなか嬉しいこと。
  
  

 3.上場したらまずいことってないの?

 一番言われているのが、敵対的買収にあう危険。
 「よーしゃ、俺が阪神こうたるわ」と思っている人のなかで、実際に過半数を取れるくらいの金持ちが出てきたらさあ大変。
 阪神タイガースはその人の支配下におかれてしまうわけ。 ファンとしてもこれはやる気が下がってしまうのでよくない。

 ただし、事前に買収防衛策を作っておけば、そんなに問題は無いと思う。 村上ファンドも同様の説明をしている。

 
  
 
 4.そもそも、阪神って上場させられるの?


 実は、これが一番頭の痛い問題だったりする。現状ではほぼ不可能に近い。
 日本のプロ野球協約では、株主に変更があった場合、そのつど届出をしなければならなくなる。 これを、株式が公開されている状態でやるのは、難しい。 しかも、われらが阪神タイガース、一口でもその株を買おうという人が多ければ多いほど大変なことになる。
 あと、上場のためには、正確な財務諸表を作らなければいけないのだが、これもまた大変。 もし出来たら、是非観てみたい。 

 財務諸表の問題はまだしも、株主変更の届出の事項を何とかしない限り、果てしなく不可能でしょう。 村上氏は、それを知っているはずなのだが。
阪神っていくらになるの?
 楽天のネタが書きたくてしょうがないが、とりあえず、阪神ネタを書ききっちゃいましょう。

 阪神タイガース上場について。
 

 0.阪神っていくらになるの?
 1.IPOパズルって何?
 2.上場したらなんかいいことあるの?
 3.上場したらまずいことってないの?
 4.そもそも、阪神って上場させられるの?

 
 0.阪神っていくらになるの?
 えー、、、前のエントリーで評価しそうなことを書いておきながらなんですが、はっきり言って難しいです。


 そもそも、企業の価値ってどうやって決めるの?
 と、思う人が多いはずなので、一番ポピュラーなのを。 じゃん。
 

 ☆基礎から分かる、企業価値評価☆



 例えば、阪神タイガース株式会社が毎期ごとに100億円ずつ純粋な利益としてキャッシュを得るとする。
 すると、この企業の価値は、

 100+100+100+・・・・・

 「え、無限じゃん。」と考えられそうだが、ところはどっこい、そうはいかない。
 
 なぜなら、「現在の100億円は、一年後の100億円より価値がある」から。

 簡単な例で考えてみる。 
 今、100億円を銀行に金利5%(夢のような話)で預けたとすると、

 現在の100億円の価値=一年後の105億円の価値(100億+利息の5億)

 となるわけ。

 だから、
 1年後の100億円は、現在で言うと100÷1.05億円分の価値しかないことになる。

 これを考えると、阪神タイガース株式会社の企業価値は、、
 100
 +100/1.05
 +100/1.05の二乗
 +100/1.05の三乗
 ・・・

 となるわけで、これを、無限大の時間まで足していくと、
 初項:100億、
 公比:1.05
 の、無限等比級数となるわけで、

 計算すると、100+100÷0.05=2100億円なり。

 となるわけ。 

 この原理で、(だいぶ端折る) 


 企業価値=期毎に出る自由に処分できるお金÷(加重平均資本コスト―成長率) 

 ※加重平均資本コスト、阪神タイガース株式会社くらいのリスクの会社に投資をしたら、平均してどれくらいのリターンが帰ってくるかという率。 上の話では利子率にあたる率。

 この、自由に処分できるお金をフリーキャッシュフローという。 主要事業から得られた利益から調整された利子を差し引いたもの(これをNOPLATという)から、毎期の投資に必要な金額を差し引いたもの。


 例えば、阪神タイガース株式会社の年毎の:
 ・主要事業からの利益:120億円
 ・必要な投資額(選手強化、設備の修理、虎党の組織化):20億円
 ・成長率:5% 
 ・加重平均資本コスト:15% 

 とすると、
 

 阪神タイガースの価値=(120億―20億)/(15%-5%)
           =100億÷10%=100億÷0.1

           =1000億円!!



 と、企業の価値がわかるわけです。 DCF法(この計算の仕方の名前)万歳。 パチパチパチ。


 上記のように、原理は、そんなに難しくはない。 けれど、実際にその数値を持ってくるのが大変。

 これを算出すためには、色々と知る必要があって、少なくとも、
 自由に処分できるお金(=フリーキャッシュフロー)を知るために:
 ・企業の主な事業内容からの利益
 ・企業の成長率
 ・企業の投資に対するリターンの比率

 は知る必要があるし、


 加重平均資本コストを知るためには:
 ・株式の資本コスト
 ・負債の資本コスト
 ・税率
 ・負債と株式の比率 

 を知らなければいけない。
 
 
 というわけで、難しい点が多いわけです。
 ・まず、一番きついのは、阪神の事業内容から出るキャッシュフローがいくらなのか、僕には皆目見当がつかないこと。 優勝する年とそうでない年で、かなり違いそうだし、地元で勝つのが多いかそうでないかでも、かなり分かれてきそう。
 ・さらに、この価値評価の仕方は、阪神タイガース株式会社が一定の割合で成長(または衰退)していくことを前提としているので、そうじゃないと、正確に判断できない。 ましてや、われらが阪神タイガースです。 もしアナリストが虎党だったら、成長率30%なんて試算、、、するわけないか。
 ・しかも、こういう企業価値評価をするときには、通常、失敗を避けるために似たような企業との比較を行うのだが、それも日本の企業とは不可能。欧州なら、マンUのように上場している企業はあるようだが。
 ・その他手法を使うにしても、やはり、阪神のパフォーマンスの数値化は難しい。

 などなど、問題点はいっぱいなわけ。 そこで、


 結論: 出来るとしても資料探しにかなり時間がかかりそう。 もし上場したら、勉強させていただきます。 m(_ _)m
 

 何か有効な評価方法を考え付いた方、教えてください。


 続きはまた次回。
鉄道会社9社比較より。 村上ファンドの意図が少し見えた気が。
 いやあ、ブログって素晴らしい。
 前回の阪神関連エントリーに関するコメントで、ちょっとしたゼミ感覚になりました。 


 47thさん、toshiさん、F.Nakajimaさんからのコメントを受けて、分析について手直ししました。 
 ちなみに、47thさんのブログ「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」とtoshiさんのブログ「ビジネス法務の部屋」は、僕がほぼ毎日見ているブログです。とても勉強になるのでオススメ。

 まずは、
 ・南海、京阪、近鉄を追加し
 ・さらに、当座資産、流動負債、有利子負債、固定負債を加え、
 ・利益剰余金を削除して作ったのが、以下の表。
 20051013225130.jpg


 とりあえずのソースです。
 で、これを元に、いくつかの比率を見ていったのがこれ。
 20051013225138.jpg


 おおっと。 当座資産関連の比率、阪神電鉄のパフォーマンスがかなり良い。 
 
 例えば当座比率(=当座資産÷流動負債)。
 阪神電鉄54.06%は、他社をかなり上回っている。
 当座資産関連の比率で、阪神電鉄を、唯一上回っているのが西武鉄道の当座資産対資本比率。 そして、村上ファンドは、この西武鉄道の株をきっちりと買って大株主になっている。 ご参照:http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1426154/detail?rd

 当座比率について少し説明を。 この比率、別名、酸性試験比率acid test ratioと呼ばれる。 当座比率が企業の流動性の純度を調べるのに有効だからである。 開発者は、アメリカのアレキサンダー・ウォール。 
 当座資産とは、要は、「かんたんに現金にできる資産」のこと。 現・預金、受取手形、売掛金、売買目的の有価証券、満期保有目的の有価証券のうち満期が一年以内に到来するもの、などが含まれる。 流動資産に含まれるものでも、換金がそう簡単ではない棚卸資産などは含まない。
 だから、当座資産比率が高ければ高いほど、負債を返済する能力が高く、安全性が高いというわけである。

 
 で、その当座資産の比率という視点から見ると、阪神電鉄株は、かなり魅力的であると思う。 財務報告書の情報からのみでも、色々と視点によって見えてくるものが違うのだなあ、という事を再確認。 47thさん、ありがとうございました。

 この魅力に加え、先の短いエントリーで述べたように、とんでもなく過小評価がされている資産の存在を考えると(こちら)、村上ファンドが倍近い価格で阪神電鉄株を購入したのも十分理解できることになる。
 さらに、次のエントリーで書く(はず)の、タイガース上場により得られるであろう利益を鑑みれば、こりゃもう、買いでしょう。 ただし、実際問題では、上場させるのに色々と難問があって、上場する、よりも、出来るのかどうかはちょっと疑問だが。
秋の夜長にオススメセレクション①ジャズ編
 引き続き阪神ネタ、そして、多分その後にTBSネタに続くと、カタックルシイので、間に挟んでいきます。 ジャズ、小説、哲学書籍は、とりあえず書こうかと。
 さて、秋の夜長にオススメのジャズ。


 秋といえば、枯葉。 
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 ジャズを好きな人なら、知らない人はいないこのアルバム。 エヴァンスの代表作。 
Autmn Leaves(枯葉)は、ジャズの曲でも最も愛されているスタンダードの一つ。 枯葉といえば、やはり、このアルバム。 エヴァンス以前のジャズトリオは、ピアノなどのメインの楽器のみが前面に出てドラムとベースはバックアップするような構成が基本だった。 これに対し、エヴァンスのトリオは三者が同等な立場でプレイするという斬新なもの。 さらに、ベースとピアノの音との関連を意識し、低音はベースに任せ、残った手でエヴァンスは高音を奏でた。 エヴァンスの演奏する姿は、これまたかっこいい。 ピアノの音に全神経を集中させる前傾姿勢で、一音一音確かめるように弾いています。

 2,3曲目の枯葉、是非、聞いてみてください。 

 
 あ、枯葉と言えば、もう一つ有名なアルバムが。
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 キャノンボール・アダレイ、something else。 これも、枯葉の名演としてはとても有名なアルバム。
 マイルス・デイヴィスと共に素晴らしい枯葉の演奏を見せてくれます。 ポートレイト・イン・ジャズの枯葉が秋風に舞う枯葉なら、このアルバムの枯葉は、音も無くひらひらと落ちていく枯葉です。 甘美。

 

 はい、次。
 厳密に言ったらジャズじゃないのかもしれないが、
 
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 ジョニ・ミッチェルのHejira。 僕が始めてジョニ・ミッチェルを聞くようになったのはこのアルバム。 空気感があって、リズミカルで、引き込まれるような歌声。 荒涼としたサバンナをイメージしてしまいます。 原っぱなどに出たときに、一曲目のCoyoteを聞いてみましょう。笑
 ちなみに、このアルバムを聞いて一番耳を奪われたのは、夭逝した天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスのベース。 歌もののアルバムでベースにここまで聞き入ったのは初めて。  
 



 冷たい秋雨が降る日に聞いてみたいのは、 
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 これ。 オスカー・ピーターソントリオのカナダ組曲。 彼がこよなく愛したカナダの情景を表現しているのだそう。
 外で雨が降る中、室内で聞いていると、幸せな気分になります。



 雨→水、で、ぱっと思い浮かんだのは、
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 これ。 ビル・エヴァンスとジムホールの共演。 アンダーカレント。 トニー先輩のホームページのタイトルにもなっている。
 ジャケット、美しい。
 演奏、もっと美しい。 インタープレイ(プレイの応酬)という概念を広めるきっかけとなったアルバム。 交互にソロに入るのだが、相手のソロに対しての、「いけいけ~♪」とあおるようなバッキングが素晴らしい。 
 これを聞きながらカフェで読書をしてみましょう。
 
 
 
 さて、ラスト。 
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 ジョン・コルトレーンの、バラード。
 40歳での早すぎる死が惜しまれる、テナーサックス奏者、ジョン・コルトレーン。 それにしても、なぜこの時期のアーティストたちは麻薬に手を出してしまうのだろう。 残念でしょうがない。
 ブルートレインに代表されるように、コルトレーンの演奏は情熱的でスピード感があるものがイメージされるが、バラードの演奏も、これまた素晴らしい。 
 
 思索の秋の物思いにふけるとき、BGMにいかが?
こんなに差額があったんだ。。
 コメントにも書いたのですが:
 今日知ったのですが、阪神電鉄は、時価が簿価を上回っている資産を多く持っているみたいです。
 甲子園球場は、簿価800万円、時価推定150億円。 阪神百貨店は、簿価900万円、時価推定300億円・・・ 
 なんか、推定額が合っていたら、この差額だけでも元を取れそうですね。。 減損会計(簿価を時価が大きく下回ったら時価評価しなおす)だけじゃなくて、時価と簿価の間の乖離が大きくなったら評価をしなおすようなシステムの方が望ましい気が。

 
 取り急ぎ。
遅ればせながら、阪神電鉄の件。
 埃をかぶったファイルを見ていると、2週間ほど前にプリントアウトしていた鉄道会社の中間報告書が。。 
 賞味期限を越えつつありますが、せっかくEDINETで30分くらいかけて集めた書類なので、僕自身の勉強にもなるだろうし、公益にも資するはずなので書くことにします。
 

 村上ファンド(正式には、M&Aコンサルティング)の関係者は、阪神電鉄を見れば見るほどいい投資対象だといっているが、正直疑問である。

 0.データ
 1.一般的な考察
 2.阪神電鉄固有の事情を鑑みての考察

 で、進める。


 まずは、参考データ。 読み飛ばしても、一向に構いません。(EDINETに掲載されている、鉄道会社6社の中間報告書より、Taejunがエクセルにて作成) 雑ですがご容赦を。 EDINETのサイトはこちら:http://info.edinet.go.jp/EdiHtml/main.htm
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単位:百万円 

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 鉄道会社というものは、安定・低成長、固定資産比率も似たようなものであろうということを仮定して、これから書くことにする。 あと、この期間に、西武鉄道とJR西日本には騒動があったが、それは、まだ反映されていない。


1.一般的な考察

 今までの村上ファンドの行動を考えると、意図としてぱっと考えられることは:
 ・グリーンメール
 ・利益の吐き出し
 ・企業再編成による企業価値の向上
 
 の三つか。


 ・グリーンメーリング 買収を嫌う相手の足元を見て、取得した額を通常はるかに上回る額で相手側に株式を売りつけること。 
 これをやると、基本的に嫌われる。 そりゃそうだ。 ちなみに、グリーン・メールというのは、「恐喝状」を意味するブラックメールもじった造語。

 ・利益の吐き出し
 利益留保(利益を上げた額のうち、再投資にも使わず、株主の配当へも使っていない金)を、配当という形で出すようにさせる。
 僕が見る限り、株式取得後の村上ファンドがやることで、一番多い内容はこれ。 かなり前の日経ビジネスの村上ファンド特集にて、この利益の吐き出しをさせられた企業の社長さんのコメントをご参照。 確か、5月ごろの日経ビジネス。


 ・企業再編成による企業価値の向上
 被買収企業の営業の質の向上、不必要な分野からの撤退、人件費の削除、従業員の解雇、などを通して、経営の効率性を上げ、企業価値を向上させ、株式の価値を向上させることにより、利益を得ようというもの。
 これもかなりどぎついやり方をしているようで、経営者の中には、村上ファンドを文字通り蛇蝎視する人が少なくないという。 ご参照:http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/e/f8b26c68e9cea5ae9d357092e4b9d144


 まあ、グリーンメールは、買収対象がキャッシュを保有していれば狙える方法だとして、留保利益の吐き出し、企業の再編等で考えた場合、この時期の財務諸表からは、別に必要を感じられない。
 例えば、資本合計額に占める利益剰余金の割合を見ても、阪神電鉄のそれは40.5%にすぎず(6社中4位)、その他に京浜急行やJR西日本・東日本の方が高い比率をもっている。 ただし、JR系は資産額がかなり大きいので、「もの言う株主」になるためにはなかなか大変そうだが。
 企業の安全性を示す指標であり、情報としての硬度が高い(会計政策により左右されにくい)、税・利息引き前後の営業キャッシュフロー(CFと略しているもの)の資本合計額に対する比率を見ても、阪神電鉄のパフォーマンスはそう高いものでない。 
 
 ここまで見た上では、「もっといい買収対象があるのでは?」と、思わざるを得ない。 例えば、西武鉄道とか。 まあ、僕は、ちょっと前に世間を騒がせた西武グループの事情がどうなっているのかデューディリジェンスしているわけではないので、詳しいことは分からないが。 
 
 更に言うのなら、村上ファンドの大量保有報告書を見ても、大量保有取得資金総額は936億。 一株当たり平均で580円~600円弱で購入しているようだ。 だが、阪神電鉄の株価は過去5年間、300円程度で安定しているわけで、株価だけで言うのなら、2倍にならない限り、割に合わないことになる。 こちらをご参照:http://www.ny47th.com/fallin_attorney/archives/2005/10/post_74.html#more
 

 いよいよもって、意図が掴みにくいわけだ。


 そこで、阪神電鉄固有の事情についてちょっと考えてみた。

 
2.阪神電鉄固有の事情を鑑みての考察 いつもながらの駅からの自転車での帰り道で、考えたことは二つある:
 ・福知山線脱線事故のインパクト
 ・タイガース上場に伴う、IPOパズルによるキャピタルゲイン&その他もろもろの利益



 ・福知山線脱線事故のインパクト
 これはもう、言わずもがなであるのだが、この事故がJR西日本の信用を落としたことに疑問は無い。 そして、JR西日本は、これまで、阪神電鉄の顧客を得るために、様々な無理をしてきたことも明らかになった。 阪神電鉄と重複する区間のみにおける切符価格の引き下げなどが最もポピュラーなところだったと記憶している。 事故以来、JR西日本がどのような営業を行っているのか、僕は東京の住人なのでよく分からないが、これら、事故により、多くのJR西日本の顧客が阪神電鉄へと移ったことが予想される。 もし、そうであれば、財務報告書はまだ提出されていないので分からないが、この期間に阪神電鉄の利益が急上昇している可能性がありうる。
 村上ファンドは、阪神電鉄の株式を大量保有したのは、2ヶ月前。 福知山線脱線事故は4月25日。 うーん。


 ・タイガース上場に伴う、IPOパズルによるキャピタルゲイン&その他もろもろの利益

 これは、また、別途書きます。
 球団のバリュエーション(企業(?)価値評価)って、どうすればいいのだろう? バリュエーションに必要な各数値をどうやってもってくるか、僕の好奇心をかなりくすぐっている。 見ている人に阪神ファンは少なくないはずなので、その人たちのためにも僕なりに一生懸命かいてみます。 
ダ・ヴィンチ、レスター手稿についての考察2。 なぜ、彼はこれを書いたのか?
 前回の続きを書こう。


 3.なんでダ・ヴィンチはこんな手稿を書いたの?

 彼が何を書いたのか、ではなく、なぜそれを書いたのか? 僕が一番知りたかったことはここにある。 人類最高の天才の一人といわれるこの人の考えの集大成が、なぜ、このようなノートとなったのか? それが知りたかった。 なぜなら、それを少しでも知ることが出来れば、「彼が現代に生きているのであれば何を考えるのであろうか」について、一定の推測がつくからである。 
   
 ダヴィンチが、なぜ、自然の観察を行ったのか。
 それは、彼が表現者として、より徹底した表現を行いたかったからにほかならないと思う。 そのために彼は、時には人体を解剖するなどの、当時の人からは狂人扱いされるようなことを行った。 実際、ダ・ヴィンチの評価の殆どは彼の死後のもので、生前は奇人の一人と看做すむきが強かったのだという。
 そういう意味で、彼にとって芸術とは、他の何よりも科学的な知的営みだったのだと思う。 
 

 さて、エントリーの本論。 なぜ、レスターノートの内容はあのようなものとなったのか、について考えみた。
 天文学、流体力学、地球物理学と単純に分類するだけでは、皮相的な答えしか帰って来ない。
 パンフレットを購入し、日本語に完全に翻訳されている6ページと、他のページの概要を読むと、ダ・ヴィンチがレスターノートに記した内容は、他の意味で共通点を持っていると、僕は考えた。

 それは、彼がこの手稿を完成させる以前に行っていた人体解剖などでは解明できない事でありながら、彼の表現活動を完全なものとするためには欠かすことが出来ない分野だった。 僕が思うに、それは: 
 ・人が何かを「見える」ということについて
 ・人の体内の循環について
 ・人の声、感情の波紋について


 の3つ。

 どれも、死んだ人間や生きている人間を観察しても解明することが難しい分野である。
 
 レスター手稿の内容を詳しく見てみると:
 ・天文学~天体に関しての考察よりも、「光」に対する考察が、それが見えるか見えないかや、光の反射などに関する考察が、その多くの分量を占めている。
 彼の描く目は、これらの深い洞察に根付いたものであったのだと、僕は感じた。
 
 ・地球物理学~地球の組成の内容そのものよりも、地球内部の物質の循環、特に、水の循環に関する考察に多くの紙面が費やされている。 彼は、地球を一つの生命システムと考え、それを人体や他の生命体のそれと類推していたのだと思われる。 彼はこのように記している。
 「大地には植物的な活力が宿っている。 大地それ自体が肉体なのである。地球の軟骨は凝灰岩であり、その血液は水脈であり、心臓の内部にあるべき心室は海洋である。 生物の鼓動が手首を通る血液の脈拍であるのと同じく、地球の鼓動は海の潮の干満である。 この世界の生命の熱は日であり、それは地球に活力を与えている。 その生命力を宿す水が、温泉、硫黄の鉱山、火山など、地球のさまざまな場所で呼吸している。」
 唯一の生きたままその循環の姿を見ることが出来るものは、地球しかなかった。 それを観察することにより、彼は他の生物の循環を考え、それらをより生き生きと表現しようと考えたのだと、僕は考える。


 ・流体力学~彼が考察を続けているのは二つ。 流れと波紋である。 風の流れや、人の感情の流れは目に見えないが、水のそれは見ることが出来る。 彼は、風の流れや人の感情の流れは水の流れから類推できると感じたのであろう。 これらに対する詳細な考察が、絵画ににじむ人の感情の機微はもとより、彼の飛行機の考案に結びついたことは、想像に難くない。 彼の多くの発明や考案は、彼の天才ゆえの思い付きではなく、地道な観察から得られた知見に基づく当然の帰結であった。
 また、人の声の響き、人の感情の共鳴なども、水に落ちた水滴が生む波紋から類推できると考えたのだと思う。 これは、美術館内で放映されているビデオにおいても同様の内容が言われていた。

 
 直接見ることが出来ないもの、それらを、類似したものを観察する事によって、類推しようとした。 ダ・ヴィンチには、学術の分野ごとの垣根は存在しなかった。 彼にとって存在したのは、人と世界を知り、それを表現しようと言う意欲だけだったと、僕は思う。
  

 僭越だが、僕が日ごろ感じていることと、近しい感覚を感じた。 ※ちょっと前のエントリーをご参照。↓  
http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-entry-252.html
 
 といっても、ダ・ヴィンチの考えが僕のそれに近いわけでなく、僕の考えが彼のそれに近いのだということを勘違いしてはいけない。 ケインズが言っていた、「ほとんどの経済学者は過去の経済学者たちの奴隷である」(原文ママではない)、といった内容の言葉を思い出す。

 あと、もう一つ、類推の持つ危険を忘れてはならない。 似たものを観察する事によって得られた知見を他のものに適用することは、時に誤りをもたらす。 レスター手稿を見ればわかるように、ダ・ヴィンチ自身も同様の誤りをおかしている。 例えば、「月には水が存在する
」などの。


 現代においては、学問や芸術分野の深化がすすみ、それらの間の統合がより難しくなっていると思う。 アインシュタインでさえも、「力の統一理論」の完成に失敗している。
 単一の理論で社会現象を理解できるというのは、もはや不可能なことであると言うのが通説化している。 他ならぬ僕自身も、社会現象を一つの哲学や思想などで評価するやり方に、大きな危険を感じている。

 しかし、全てのものは、人が作ったものなのだから、根本に「何か」があるはずだと僕は思う。 それは、「一にして全、全にして一」のようなものだ。 僕は、自分が生きている間にそこに少しでも近づければと、願ってやまない。 
ダ・ヴィンチ、レスター手稿についての考察1
 3日前に、六本木ヒルズの森美術館にて開催されている、レオナルド・ダ・ヴィンチのレスター手稿の展示会に行ってきた。
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 パンフレットも購入。 さすがに、パンフレット内のノートそのものの写真は、怖くてアップできない。 見たい人は、ヒルズに行ってきて下さい。

 
 今回の目的は、①ダ・ヴィンチが何を考えていたのかを読み取ることと、②ノートのとり方から参考になりそうな事を探すこと、の2点。

 なかなか忙しくて書けなかったが、感想が言語化されないのはあまりにも惜しいので、勉強の合間をぬって書くことにする。 順序は:
 1.レスター手稿って何?
 2.レスター手稿って何が書いてあるの?
 3.なんでダ・ヴィンチはこんな手稿を書いたの?
 
 になる。 3.については、完全に僕の主観なので、参考程度にして欲しいと思う。

 1.レスター手稿について
 万能の天才と呼ばれた、レオナルド・ダ・ヴィンチの残した絵画作品はいくつか。 実は、厳密な意味では9つのみ。 非常に少ない。
 その反面、彼が残したノートで現存しているものは、8000ページ。 彼は、その8000ページの中に、自らの考え、工夫、デッサンを書き込んだ。 
 それらノートは、世界各地に分散して保管されている。

 レスター手稿は、ダヴィンチが晩年に書いたもの。 
 ダ・ヴィンチは、自らの考えを自由奔放に8000ページのノートに記している。 そのため、手稿の殆どは、他人から見ると理解が難しいものが多い。 その中で、彼が晩年に書いたレスター手稿は、内容、形式において最も統制がとれた、稀な手稿である。 

 レスター手稿は、個人が保有する唯一の手稿。 現在は、マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏が所有権を持っている。 今回の展示も、氏の協力のおかげ。


2.レスター手稿の内容
 レスター手稿に書かれている内容は、大きく三つ:
 ・天文学
 ・流体力学
 ・地球物理学
 である。 全72ページ。
 彼の自然科学的考察の一つの集大成をなしているノートと言われている。

 他の手稿に比べ、文字の比率が格段に多く、デッサンが少なめなのも、レスター手稿の特徴と言われている。


 
 3.については、長くなりそうなので、次のエントリーで書くことにして、
 ちょっと余談ではあるが、ダ・ヴィンチが「絵画論」において、画家の心得について書いているので、それについてパラパラと書こうと思う。 芸術家や研究者など、何かを極めようとしている人には通じる内容であると感じたからだ。 (以下、パンフより)


 1)勤勉であること。
 己を鞭打ち日夜苦闘しない限り、後世にのこる作品を制作することは出来ない。

 2)孤独に耐えること。
 孤独に耐えて精進しなければならない。 談笑しながら製作が進むはずは無く、夜中の孤独な空間の中で、試行錯誤を繰り返しながら苦闘を続けなければならない。

 3)清貧に甘んずること。
 芸術製作に携わるものは、すべからく清貧に甘んじなければならない。 金銭を目当てに描く作品が人を感動させるはずは無く、芸術製作とは元々金銭とは無縁の行為、純粋に創造的な活動で無ければならない。

 
デリダへ捧ぐ。
相変わらず低空飛行の体調。 頭が重い。

 しかし、今日は書かねば。
 
 現代における最も偉大な知識人の一人である、フランスの哲学者ジャック・デリダが逝去した。 
  
 自分自身、彼の著作を読みあさったというわけではない。 しかし、彼の学説の最たるものが脱構築(解体構築ということも)であることは間違いないと思う。 

 脱構築。 英語では、deconstruction。フランス語でもスペルは大体このような感じだったと思う。 de→否定、construction→構築である。
 脱構築というと、少しとっつきにくい感じは否めないが、かれが言わんとしている事を理解するのは、さほど難しくはない。 少なくとも、基本的な原理に関しては。 

 構築とはこの場合、理論家たちが、自分が抱いた真理に基づいて、その理論体系を作り上げることである。 真理が土台で、その上にビルを建てるようなイメージか。 たとえば、「現実の世界は真理であるイデアの反映である」という真理に基づいてプラトンの理論体系はなっているし、自分たちのよく知る理論体系は「人が全てのものの主人であり、人が全てのものを決定する」という真理に基づいている。
 デリダが考えたことは、この真理が多くの場合妥当性を持つのだとしても、それを土台として体系を構築する際に、欠陥が出来てきてしまうということであった。 そこで、彼は、この構築されたものを一度崩して、その崩された理論体系の中から、土台にあった一番のエッセンスを取り出そうと考えた。 
 専門的に研究している人から非難されるかもしれないが、平たく言えば、これが脱構築の根本的な内容だと思う。 これは、日常の自分たちの生活の中にも生きている考えである。 たとえば、議論の場でのすこし突飛な発言に対して、その意を汲み取り、議論を発展させる場合などがそうである。 

 これでわかるように、脱構築は単なる破壊ではなく、生産的な破壊である。 すべてなし崩しにしてしまうようなわけではない。 現代の思想状況が、社会における価値などを全てをなし崩しにして、それでおしまいとしている感が強いことに辟易している自分にとっては、かなり魅力のある議論である。
 自分も含め、自分の周囲も脱構築が必要と考える今日この頃である。


 知識人の社会的影響力が弱くなっている現代において、強い影響力を放っていた数少ない一人であった。 これでまた、現代における知の力が弱まるのは間違いない。 自分の尊敬するサイードも、去年白血病で亡くなり、魅力のある知識人がどんどん少なくなっていく感がある。 

 ここで、知識人の魅力について話が及んだので、明日はこのテーマに関する自分の考えを書くことにする。
備忘言。
 昨日の記事http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-entry-258.htmlに対して、コメントがあった。


朝高の悪習は終わってないよ。

運動会の後にヤキくらった後輩もいたし。

悪習の根は深いから、そう簡単に無くならないよ。

その後も代々と続いたそうな。
 


 6年前の事なのにもかかわらず、僕の胸にまずやってきた感情は、驚きと悲しみだった。 

 僕が無くせたのは、「僕の目に見えること」だったのだろうか。 今は、前より少しは、キング牧師やガンジーが運動中に感じた苦悩を理解できるようになった気がする。
 「僕の目には見えないこと」は、どうだったのだろう? 僕の目には映っていないので、分からない。 幸い、このブログは、かなりの数の後輩が見てくれているので、その人たちが書き込みをしてくれることを願っている。

 それでも、僕は、卒業式に僕に起こった出来事や、卒業後に会った後輩たちの話を通じて、一緒に泣き笑った友達と共に、母校に新しい、けれど、目には見えない、「何か」を残すことが出来たと思っているし、それを誇りに思っていくとは感じている。 それは、変らないと思う。
 


 僕には理想がある。 それを叶えるために、働き、学んでいる。 その理想は、僕が高校時代に追い求めたそれと、根っこの部分では全く同じものだ。
 少年の夢は見るのが重要だけど、青年の夢は叶えるのが重要だと思う。 理想をかなえるための具体的な手段や時間割も作っている。
 僕の理想を聞いた人の反応は様々だ。 クレイジーだという人もいるし、ちょっとひきながら「まあ、がんばれよ」という人もいるし、心から応援してくれる人もいる。 たまにお会いしている、怪物のような人に、「君なら可能性はあるね」と言われた時は本当にうれしかった。

 そんな僕にとって、本当にありがたいコメントだった。 事実、世の中の負の部分を無くすことというのは、並大抵の容易さではない。 1000人くらいの学生が通う学校でさえもそうなのだから、社会であれば、比べ物にならないほどに難しいものだと思う。

 志遠とは、本当によく言ったものだと感じる。 大学生だった頃にも、特に1,2年生の頃に、僕は何度打ちひしがれた事か。 けれど、そんなときに、僕の周りには支えてくれた友人や恩師や家族がいた。 彼・彼女らには本当に感謝してもしきれない。 恥ずかしくて、ありがとうなんて言えたことはあまり無いけれど。 久しぶりに、懐かしい顔が僕の記憶をよぎっていった。
 
 本当に、色々な大切なことを思い出させてくれたコメントだったので、こうやって新しくエントリーを書いた。

 人は過去を変えることは出来ない。 けれど、過去の意味は変えられるんだと思う。
 

 コメントをくれたaraganさん、ありがとうございました。
6年前の同じ日に。
 机を整理していたら懐かしい写真がひらりと僕の前に落ちてきた。
 そういえば、あさっては母校の高校の運動会。
 あれから、もう、6年が経つ。 けれど、思い出は色あせることを知らない。
 
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 僕のいた高校は、20世紀末なのにもかかわらず、少なからぬ生徒がアイロンパーマ(アイパー)をかけていた。 校則も、「パンチパーマと長髪は禁止するが、アイパーは許容する」という、とてもユニークなものだった。
 運動会を盛り上げるために、高3の間でいつのまにかアイパー旋風が起こった。 僕は生徒会長。 やらないわけにはいかなかった。 髪の毛に焼きごてをあてる経験は、もう一生しないのだろうな。 アイパーをかけた日の帰り、電車にのるや、多くの人々が僕の席の周りから離れていくのを見て、その威力に驚いたのは今でも覚えている。
 
 
 アイパーをかけて臨んだ高校最後の運動会。
 僕のいた学校では、運動会は年中の最大行事の一つで、全校生徒がその成功のために熱を上げた。 僕たちにとって大切だったのは、「何をするか」よりも、「誰とするか、誰のためにするか、どのようにするか」だった。 かけがえの無い友達とともに、今まで育ててくれた父母に元気をあげるために、一致団結の心地よさを感じながら、僕たちは運動会に臨んでいた。 

 この写真は、入場の行進の時に撮ったもの。 
 けれど、この30分後、僕は医療室に担ぎ込まれることになる。


 
 看護士の先生によると、理由は、「疲労」だった。

 この運動会の期間は、本当にいろいろなことが重なっていた。その疲労だったのだろう。 体育会系バリバリの僕だったから、疲労は、肉体的と言うよりも、精神的な疲労だったと思う。 精神的な疲労は、運動会のみならず、それと並行していた生徒会の活動に起因しているのだった。


 生徒会長だった僕には、一年間をかけてやり遂げたいことがあった。
 それは、先輩が後輩を支配するという悪習を無くすことだった。 僕の一つ上の学年までは、先輩たちは挨拶の強要(それも、言葉でよく説明できないような奇妙な挨拶の仕方)や、食堂での割り込みのみならず、ここではとても書けないような、ひどいことを後輩たちにすることができた。
 たった一人の後輩が反抗すると、同じ中学の出身者すべてが連座でヤキをいれられた。 だから、反抗心を持つ人も、なかなか先輩に反抗することは出来なかった。 高2までの僕も、恥ずかしいけれど、そのうちの一人だった。

 けれど、僕はこれを許すことが出来なかった。 僕は、この歪んだ先輩後輩関係に、かなりの年月をかき乱された人間だったのだから。 中学生の頃などは、先輩を差し置いて試合に出るだけで、僕は次の日にはトイレでヤキをくらっていた。 中学1,2年生の頃のサッカーの練習は、陰険ないじめ以外にあまり覚えていない。 

 僕よりも人望がある人がたくさんいるのに、僕が委員長になるのは本当に嫌だった。 みじめな思いをすることになるだろうと思っていた幼い魂が、当時の僕だった。 けれど、そんな僕が委員長をやろうと決心したのも、この憎むべき悪習を何とか無くしたかったからだった。

 生徒会の友達とともに、僕はそれを始めた。
 僕の年代の友達は本当にすばらしい人々だったと思う。 受けてきたつらいことをまたやり返すよりも、それを自分たちの代で止めることに、少なくない人が賛成してくれた。 問題となっていた悪習のうちのいくつかは、比較的簡単に解決することが出来た。 ただ、それを話し合う全男子生徒の集まりにおいて、集まりを主導するはずの僕ではなく、他の人望のある友達が皆をまとめているのを脇で見ながら、僕は幾度と無くみじめな思いをしたわけだが。

 運動会の練習の真っ最中だった9月の末から10月までが、一番厳しい時期だった。 練習の疲れからか、「これくらいいいじゃないか」と、食堂で割り込む上級生が出てきていた。
 運動会の本番の3日前にも、高三の男子生徒で集まりを開いて、この事を何とかやめようと言う話をした。 このときのことは、まだはっきりと覚えている。
 「俺らは頑張ってるんだ。 これまでも色々と譲歩してきた。 これくらいいいじゃないか!」
 という友達についかっとなってしまった僕は、
 「こんなことって、こんな人間的におかしい事をしていいはずがない!」
 と言ってしまった。 場の空気がとても険悪になり、よもや殴りあいになりそうだったところを、見かねた恩師の先生が間に入って話をしてくれたのが、3日前だった。 それにしても、いまだに、「お前は、言うことは正しいけど、伝え方がうまくない」といわれる僕の進歩の無さに、本当に嫌になる。

 
 疲労は、はっきりとたまっていた。 精神的な疲労が、身体にもきていた。 長時間の眠りから起きた直後の、あの体のだるさが、一日中続いていた。
 
 そんな運動会の前日の夜。 

 僕の学校にはこれまた変な風習が当時まではあった。 運動会が終わった後に、高3の学生たちが池に先生を落とすのである。 一応、「先生たちの汚れた身体をきれいにするために」、という趣旨で、その前日にしっかりと池をきれいにするのだが、その趣旨の信憑性は高くないと思う。  
 新しい校舎とともに池はなくなったのだが、僕たちは代々、池というか、水を溜め込む巨大な風呂のようなものを運動場の片隅に作って、それに先生たちを落とすということをしていた。

 夜、ふと、その人工池を見ると、水がかなりの勢いで漏れていた。
 明日になったら、水は全てなくなってしまうかもしれない。
 肌寒い10月初旬の夜、僕は、生徒会の何人かのみが残っていた静かな運動場の片隅で、30分くらい、その池の漏れをとめる作業をしていた。 若かったなあ。 そして、お決まりのように、次の日には疲れの上に体がとても熱っぽくなっていた。


 
 やっと、話が運動会の当日に戻る。

 入場行進を終え、最初の種目となった。 これは、どこの学校でも同じであろう、100m走。
 僕は、3位だった。
 走り終えた人たちが行く場所に座る僕に、友達が、
 「お前、どうしたんだ?」
 と声をかけた。 体育会系バリバリだった当事の僕は、走りはかなり早かったからだ。 
 「別に。 ああ、今日入場行進に気合入れて足上げ過ぎたからだよ。」
 と答える僕。 このときには、相当顔色が悪かったと思う。

 競技参加者みなが走り終えて退場をした後、僕はふらふらと校舎側の日陰にいき、座っていた。 
 からだが動かない、めまいがする。
 気が付いたら、そこに僕は伏していた。

 それを見つけた友達が来て、騒ぎになる。
 僕は、そのまま医療室のベッドに運ばれた。

 
 濡れタオルを顔に当てられ、悔しさから涙を流していた僕のところに、たくさんの友達が見舞い(?)に駆けつけてくれた。 ただただ、自分が不甲斐なかった。

 けれど、僕は立たなければいけなかった。
 運動会のハイライトである集団体操、その中で盛り上がりがクライマックスになる五段の人間の塔。 支える人達を含め、50人くらいで作られるその塔の、最下段の一人が、僕だったのだ。
 
 医療室を出た僕に、恩師の先生が一言。
 「・・・いけるか?」
 「いきます。」
 「わかった。いってこい。」

 そして、集団体操を控え、整列している高三の生徒たちのところへ、僕は向かった。
 僕が医療室にいたことは、みなが知っていたみたいで、僕が行くと、皆が様々な表情を顔に浮かべていた。 スピーカーを手にして、300人の高三の友達の前で、一言。
 「僕たちのためにも、そして、見に来てくれた、僕たちを育ててくれた人のためにも、絶対に、成功させよう。」
 「オーッ!!」と、力強い応えが皆から返ってきた。 僕は、この力強さを、生まれて初めて、目にした。

 準備の5分前、配置に着く前の僕に向かって、生徒会の副会長だった子が一言。
 「だいじょうぶでしょ?」 
 「もちろん。」
 あのときの、彼女の笑顔のさわやかさは、まだ鮮烈に覚えている。
    

 そして、集団体操が始まった。
 どんどん、演目が過ぎていき、ついに、クライマックスの塔の組み立て。
 一回目、失敗。 正直、僕は足手まといだったと思う。 僕の足に力が入らない分、隣の友達に対する負担はすごかったのだろうと思う。

 
 2回目、


 成功。



 その後にも10分間くらいあった演目の事は、正直あまり覚えていない。 
 終わった後、僕は、友達と抱き合いながら、
 「やった、やった、やったんだ!!」と叫んでいた。
 そして、また、医療室のベッドへ。


 寝ている僕を、同校で教師をしている父が医療室に来て、たたき起こす。
 「何やってるんだ。 まだ終わって無いぞ。 立て。 行け。」
 6歳の僕を富士山に登らせ、日本で一番厳しい囲碁の道場へ通わせた、この父のおかげで、僕はどれくらい強い人間になれたのだろう。
 
 
 運動会も終わり、夜の池落としのイベントを、参加はせず、あたたかい服に包まりながら、遠目で僕は見ていた。 心は満足感でいっぱいだった。

 イベントも終わり、最後に高三の皆で集まった。
 僕が、締めの言葉をすることになる。 短い締めの言葉だった。 幾重の服に包まりながら、ふらふらと立ち尽くし語ったこの言葉は、まだ覚えている。

 「僕は、こんなにも弱い人間で、自分ひとりの力じゃ何も出来ないということを、本当に実感している。 でも、僕の周りには僕を支えてくれる友達がいるし、父母がいるし、先生がいる。 だから、僕は、これからもどんなことだってやっていけるだろうと思う。 これからも、力を貸して欲しい。 今日は本当にありがとう。」

 
 跡片付けを終え、生徒会の友達数人と、一番最後に学校を後にした僕たちに、校門で下校の指導をしていた、学校では有名な怖い先生が立っていた。 すこし、びくびくしている僕たちに、彼はこう言った。

 「君達に命令します。
 君たちは、今からこのお金をもって、近くのラーメン屋で、みんなでご飯を食べて、そして、家にまっすぐ帰ること。」

数学パズル:正解
問題自体を見ていない人は、もったいないので、前のエントリーを見てみてください。

 

正解は、、、



{(1÷9)+1}×9=10です☆

 
 納得の行かない人のために、もうすこし説明を。

 { }の中を計算すると、

 1/9+1=10/9 となります。 

 その、10/9×9=10!!



 いやー、美しい。
 理研という、日本における科学の研究の総本山にて研究をしている先輩が出してくれた問題でした。 その理研の研究者たちでも、時に手こずる問題だそうな。
 難しい数式が解けても、時には、こんな身近な問題すら解けないことがある。 そんな、「躓きの石」を忘れる事なかれとの示唆をくれる、すばらしい問題でした。
合理的な愚か者や×2、そなたをいかにせん。
 ヒルズに、ダヴィンチのレスター手稿を見に行く。
 本も購入したので、ちょっと読んでみてから、自分なりの観察結果を書こうと思う。

 見た後、恵比寿にて環境経済学専攻の才媛にょんちと食事。 そういえば、高2のときに知り合ったのに、長話をしたのはこれが初めてだった。 話を聞きながら、やっぱり学者の世界は僕には向いていないということを再確認。 しがらみの多さに発狂してしまうと思う。 入ってもいないのに、こんなことを話すのもなんだが。。
 
 
 話を聞きながら、環境経済学と環境について考えたこと:

 利潤を最大化するために行動する、「合理的な愚か者」を前提とする経済学。 そんな理論の土台に乗っけて、環境の保全に価値を見出すことはできるのか、ついつい考えてしまった。 ※「合理的な愚か者」というのは、アジア人初のインド人ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センという人がこの経済学が前提とする人間や企業に対してつけた言葉です。

 長期的に見た場合は、環境の保全に価値を見出すことは可能なのだろう。 けれど、短期的には正直難しいと思ってしまう。 特に、貧困の軽減が緊喫である国々にとっては、そんな余裕は正直なさそうである。
 株式会社でも特にアメリカで以前に似たような議論がなされた。 株主とストックオプションを付与されている経営者達による、短期的な収益の追求により、多くの起業の長期的な価値が破壊された。 その反省もあって、現在はコーポレートガバナンスが見直され、問題の解決が模索されるようになった。 (ここらへんは、マッキンゼーから出されている"Valuation"の叙述が参考になる。良書。最近最新版が販売されているので興味がある人はどうぞ。)

 企業の場合は、それでよい。 数個の巨大企業の破綻により、社会が問題に気付き、改善の試みが始まり、問題があるていど解決される。
 しかし、環境はそうはいかない。 一度破壊されると取り返しのつかないことになる。 気付いたところでもう遅いのだ。 

 世の中が北斗の拳やナウシカの世界になってしまうまでに、気付かねばならない。 けれど、いままで、人類が痛い目を見ずに、知の力のみで、誤った行いを軌道修正したことは、残念ながら、あまりない。 痛みからしか学習できない、悲しい歴史は繰り返されてきた。 
 でも、今度こそは、知の力でなんとかしないと、大変なことになる。 

 マルクスやケインズ級の、社会へのインパクトを持った理論が必要であると思う。

 
 そんなことを考えると、とても取り組み甲斐のある分野だと感じた。
 
 別に、理論から取り組まなくても、ビジネスからアプローチすることも可能だと感じる。 重要なのは結果であるのだから。

 
 
 その他にも色々な話を聞く。 とても触発されました。


 そして、その後、六本木在住のRYU兄宅へ突入。 ちょっと遅れた誕生祝のなべを作ってくださった。 大量のなべ。 おいしくいただきました。
数字のパズル。
1、1、9、9、をそれぞれ1回ずつ使って、

四則演算:+、-、×、÷
だけを用いて、
10を作りなさい。


―ヒント
発想の転換が必要。 あ、もちろん、カッコはつかっていいですよ。


頭の弱い僕は、一時間手こずりました。。
「みょんで」で10人って。。
 ブログを書きながらの楽しみの一つは、アクセス解析。

 特に、検索システムから人が来る時に、どのような単語で来ているのかを見るのが、かなり楽しみだったりする。

 検索エンジンから来る人は、毎日最低でも50人くらいいる。 

 例によって、どんな単語で検索されているのかチェック。

 毎回、多いのが、PEファンド、M&A関連、郵政民営化、憲法問題、ミルコのハイキックの研究、Taejunomicsなど。 友人からは、「つまらない」といわれるネタが、検索で来る人には好まれているという、ちょっとしたジレンマに直面している。
 
 そんなある日、ある単語で10人の人間が来ていた。

 その単語は、なんと、「みょんで」。。


 同名の後輩が、ちょっと心配になった。
スターバックスのシアトルラテ。
 人気が高すぎて各店舗で売り切れが相次いでいる、スターバックスから販売されたシアトルラテが偶然セブン・イレブンにて販売されていた。 自称コーヒーオタクとしては、買わねばなるまい。 210円なり。 
 starbucks.jpg


 ・・・

 ええ、ぼったくりです。 これで210円はありえない。
 他の類似したコーヒーと(マウント・レーニアとか)、味は殆ど変わりません。
 市販のカップや缶に入っている他のコーヒーと全く同じあの後味の悪さが、何ともいえません。
 
 ブランドの威力を、垣間見た昼下がりでした。
感性の砥ぎ方。  ―成功のために必要なものその2
 何かを開拓したり創造する人の成功のために一番重要なものは、感性だと思っている。 そして、僕は、この感性を磨くために色々なことをしてきた。 参考になるとは思うので、最後まで読んでくれたらありがたいです。

 まず、僕にとっての、感性とは何か、について。
 二つである。
 一つ、ものの流れを感じる力。
 一つ、ものの本質をつかむ力。

 ものの流れとは、色々なものを含む。 社会の流れもそうだし、自然の動きや、人の心などもそれに含まれる。 それらに対し、敏感であること。 それが、僕にとっての感性の内容の一つである。 感受性としての感性。
 物事に対して、ふと、「ん? 何か違うな?」とか、「これから先は、こんな風になるんだろうなあ」と、感じられるような能力。 世の動きや、人の心の機微まで、そう感じられるようになりたい対象はさまざま。
  
 ものの本質をつかむ力とは、「これは、要するに、こういうことなのだろう。」と、理解できる力。 感覚としての感性である。 よく、「勘がいい」とか言われる人は、この本質をつかむ力に秀でていると思う。 要約能力と言い換えてもいい。 
  
  
 流れを読み、本質を見抜く力。 感受性と感覚。 それさえあれば、どのような状況にでも対応ができると思う。 僕は、これを研ぎ澄ましたかった。

 感性を研ぎ澄まそうと考えたのは、大学3年生くらいの頃に、自分を色々と振り返ってみたときだった。 僕より頭のいい人間、運動神経のいい人間、人付き合いのうまい人間、人格的に高尚な人間、容姿端麗な人間…いや、もうやめておこう、そんな人間は、いくらでもいる。 そんな人たちに溢れているこの世の中で自分がやっていくのに、一番大切なもの、一番勝負できるものは、なんなんだろう。 と、考えていた。
 その結果、いたった答えが、感性。 特殊なバックグラウンドで育ってきた自分の感性は、努力すればもっと光らせることが出来ると思った。
 
 
 そして、何を始めたか。
 色々な分野に足を入れて、そこで学ぶこと。
 これが、僕の結論だった。

 
 色々な分野といっても、ただ闇雲にその分野を決めるわけではない。 基準を持っていた:
 ・何らかの形で世界の核心に密接に触れていると感じた分野
 ・必要を感じているのに、今の自分には不足している感じている分野
 ・やっていて楽しいと思える分野
 
 である。

 
 ・核心に触れていると感じた分野
 どの分野であっても、世界の核心には触れられるものだと思うが、その程度が強いと感じた分野には、真っ先に手を出している。 学問で言えば、哲学が最たるものだと感じたので、哲学の古典は殆ど読んだ(理解できたかは別)。 そのほかに、音楽、古典文学、美術、歴史、など、それをもって何かの核心に触れることができると感じる分野には手をつけることにしている。 最近演劇を出来たのは僥倖だった。 もちろん自然科学も。 子供の頃から雑誌のニュートンは愛読していた。


 ・必要なのに、自分には不足していると感じた分野。
 英語や統計学など。 最近で言えば、会計などもそれに含まれると思う。 
 
 
 ・楽しいと感じられる分野。
 僕の考える上達の秘訣は、使命感と楽しさと自信。 楽しさが無いと、上達は遅くなる。 子供の時習っていた囲碁がいい例である。 楽しさをあまり感じられなかったので、9年間やって、6段にしかなれなかった。 当時ゲームに費やしていた楽しさを囲碁にこめれば、プロになってもいい年月である。  
 世の中には、やらなければいけないこと、できることが数多くあるのだから、楽しくないものは、特別の必要性を感じない限り、後回しにしたい。 

 
 
 さらに、分野を選択した後に、一定の基準に従って行動をしている。
 ・一生懸命に楽しむこと。
 ・感動をしやすい心の状態を作っておくこと。疑問はすぐにぶつけること。
 ・その分野で真剣にやっている人たちに多く接すること。
 ・本物といわれるものに多く触れること。
 ・その分野は、他の分野に対してどのように応用できるかを考えること。


 楽しいだけでなく、一生懸命というところがポイント。 一生懸命にやる事によってのみ、見えてくるものがあるものである。 適度とか、適当とかいう言葉は、僕は好きでない。 やるからには必死にやる。 もともと負けず嫌いでもあるので、できるだけ、自分より遥かにレベルの高い人と接して、その負けず嫌いに火をつけ、一生懸命にやりたい意欲を高めようとしている。

 感動をしやすい状態とは、何事からも学ぼうとしている状態なのだと僕は思う。 草木からも人間は学べるのだから、人間が歴史をかけて作り上げてきた諸分野から学べないわけが無い。 学ぶつもりで過ごしていると、本当に多くのものから感動を得ることが出来る。 その感動が、物事の流れをつかむことにつながるのだ。 そのような感動を得られるための心作りをしながら、その機会を増やすために、疑問に感じたことはすぐに質問にするようにしている。 疑問こそ、感動の出発点。

 その分野で真剣に、しかも長い間やってきた人たちは、なんらかの真理に到達しているはずである、と、僕は考えている。 だから、そういう人たちに出来るだけ多く会うようにしているし、会えたら、その人たちから少しでも何かを引き出そうと考えながら話をするようにしている。 

 鑑定家を例にとろう。 いい鑑定家になるために、一番大切なことは、本物に数多く触れることなのだという。 鑑定家志望者だけでなくても、話は同じだと思う。 本物といわれるものは、何らかの意味で、核心部分に触れているから本物とよばれるのである。 だから、僕は、ブルーノートに足を運ぶし、美術展はちょくちょく見に行く。 文学作品は古典文学から読むなど、なんでも古典とよばれるものから手をつけるようにしている。 古典が古典である理由は、それが人や世界の核心に、ある程度は触れているからなのだから。 本一つとっても世の中には無数の本があるのだし、一生のうちに読みきれるものでない。 だから、専門書籍以外で本を読む場合、優先順位も、当然のごとく古典優先となるわけだ。 

 そして、その分野で得たものが、他の分野に、どのように応用を出来るのかを考えることにしている。 前の演劇関連のエントリーを見てくれれば、理解をしてくれると思う。 「一を知って十を知る」というのは、僕にとっては、「一を知り、十に活かす」である。 今まで色々な分野で得てきたものは、僕の頭の中で、他の分野と複合的にからみついている。 この複合的なネットワークをひろげるほど、新しいものに遭遇した時に、それをすばやくパターン認識(=本質をつかむこと)できるようになるのだと思う。
 

 
 今まで、上で述べたことを実行してきた。
 実行するうちに、新分野に足を踏み込んだときに、一定の「悟り」のようなもの(本物の悟りには程遠いけれど)を発見するスピードがどんどん早くなっているのに、このごろ気付いた。 何かをふと感じ、投げかける質問も、より核心を突いたものになってきた気がする。

 世の流れはどんどんスピードアップしている。 ビジネスの世界などは、もっとも流れが速いもののうちのひとつ。 その分野でやっていくために、あと、自分の精神的な生活をより豊かなものにするために、これからも、感性を研ぎ澄ます努力をしてきたいと思う。

 りんちゃんのアドバイスに従い、新たに手をつけようと思っている分野は二つ。
 一つは、数学。 それも、世界の本質に迫れるような類の哲学的な数学。
 一つは、ヨガ、もしくはダンス。 身体性、それと同時に、精神性を向上させたい。 


 よくいえば「多才」、悪くいえば「器用貧乏」というような状態になるかもしれないが、それは、単なる結果であって目的ではない。 目的は、これから目指すものを達成するために必要な感性を身につけることなのだから。 ギリシャの哲学者たちは、その愛智学を究めるために、結果的に万能となったのである。
 だから、よく人から言われる、「お前は、本当に色々なことに手をつけて浮気なヤツだ。」とか、「お前は一体将来に何をしたいのだ。」とかいう皮肉は、引き続き、笑ってしのごうと思う。


 世の中の人は何ともいわば言え、わがなすことは、われのみぞ知る。
 
                               坂本竜馬


 読んでくれた方、ありがとうございました。
 感想、コメント、アドバイスなど下さったら光栄です。
成功のために必要だと思うものたち、その1
 新しいものを開拓したり創造したりする人間にとって、成功するための要素は何だろう、と、考えているのだが:
 ・知識・訓練:20%
 ・人間性:20%
 ・運、その他言語に出来ない要素:20%
 ・感性:40%

 が、今の自分の考えである。


 知識・訓練
 知識や訓練は、複数の選択肢が存在するとき、「明らかに誤りである」選択肢を排除するためのものだと思う。 例えば、ファイナンスの世界であれば、投資の決定において、数字でいくつかの選択肢を切ることが出来る。 
 ちなみに、この知識や訓練は、自分自身のものでなくても良い。 後の人間性の部分ともかぶる話だが、他人が知識を提供してくれたり、訓練を受けた人が援けをくれるのならば、それでもかまわない。 ただし、住もうと思っている業界で働くのに必要とされる基本的な知識は必要。それが無いと話しにならない。 だから、将来PEに行こうと思っている自分には、会計・投資理論・経営学・経済学の基礎知識は必要。 訓練は、これから働く業界で受けることになる。

 
人間性
 チームの相乗効果をもたらすよい人間関係は、人間性によるものだと思う。 また、上で述べたように、自分にとって足りない能力を補ってくれるのに大切な要素も、その人の人間性だと思う。 余計な障害を生まないためにも、人間性は重要。 対立する相手がいるときにも、その他人の人間性のいかんによって対立の内容が異なってくるものだと思う。
 もって生まれたカリスマ性などはどうしようもないが、信頼される人間となるための努力というのは、その人次第でいくらでも出来ると思う。 古典文学、尊敬する人物が自身で書いた回顧録をこまめに読んでいる。 日ごろの生活において何人かの人物を己の人格の指針として考えるようにしている(実現ははるか遠し)。 夜寝る前には、瞑想し、自分を振り返るようにしている。 
 
 
運、その他言語に出来ない要素
 能力や人格が良くても不遇の日々を過ごす人がいるかと思うと、そうでない人が他方にいる。 これは、運や、その他言語では表現できないものによるものだと思う。 ここで重要なことは、運は20%に過ぎないのであって、いくら運が良くても、その他の要素をもっていない人間には、運は何も与えてくれないということである。  

 
感性
 政治や学問の世界ではどうか分からないが、何かを創造したり開拓する人間にとって、一番重要なものは、感性だと自分は考えている。
 自分の感性の定義、感性を磨くための自分のアプローチについては、次回に書こうと思う。
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