Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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ダ・ヴィンチ、レスター手稿についての考察2。 なぜ、彼はこれを書いたのか?
 前回の続きを書こう。


 3.なんでダ・ヴィンチはこんな手稿を書いたの?

 彼が何を書いたのか、ではなく、なぜそれを書いたのか? 僕が一番知りたかったことはここにある。 人類最高の天才の一人といわれるこの人の考えの集大成が、なぜ、このようなノートとなったのか? それが知りたかった。 なぜなら、それを少しでも知ることが出来れば、「彼が現代に生きているのであれば何を考えるのであろうか」について、一定の推測がつくからである。 
   
 ダヴィンチが、なぜ、自然の観察を行ったのか。
 それは、彼が表現者として、より徹底した表現を行いたかったからにほかならないと思う。 そのために彼は、時には人体を解剖するなどの、当時の人からは狂人扱いされるようなことを行った。 実際、ダ・ヴィンチの評価の殆どは彼の死後のもので、生前は奇人の一人と看做すむきが強かったのだという。
 そういう意味で、彼にとって芸術とは、他の何よりも科学的な知的営みだったのだと思う。 
 

 さて、エントリーの本論。 なぜ、レスターノートの内容はあのようなものとなったのか、について考えみた。
 天文学、流体力学、地球物理学と単純に分類するだけでは、皮相的な答えしか帰って来ない。
 パンフレットを購入し、日本語に完全に翻訳されている6ページと、他のページの概要を読むと、ダ・ヴィンチがレスターノートに記した内容は、他の意味で共通点を持っていると、僕は考えた。

 それは、彼がこの手稿を完成させる以前に行っていた人体解剖などでは解明できない事でありながら、彼の表現活動を完全なものとするためには欠かすことが出来ない分野だった。 僕が思うに、それは: 
 ・人が何かを「見える」ということについて
 ・人の体内の循環について
 ・人の声、感情の波紋について


 の3つ。

 どれも、死んだ人間や生きている人間を観察しても解明することが難しい分野である。
 
 レスター手稿の内容を詳しく見てみると:
 ・天文学~天体に関しての考察よりも、「光」に対する考察が、それが見えるか見えないかや、光の反射などに関する考察が、その多くの分量を占めている。
 彼の描く目は、これらの深い洞察に根付いたものであったのだと、僕は感じた。
 
 ・地球物理学~地球の組成の内容そのものよりも、地球内部の物質の循環、特に、水の循環に関する考察に多くの紙面が費やされている。 彼は、地球を一つの生命システムと考え、それを人体や他の生命体のそれと類推していたのだと思われる。 彼はこのように記している。
 「大地には植物的な活力が宿っている。 大地それ自体が肉体なのである。地球の軟骨は凝灰岩であり、その血液は水脈であり、心臓の内部にあるべき心室は海洋である。 生物の鼓動が手首を通る血液の脈拍であるのと同じく、地球の鼓動は海の潮の干満である。 この世界の生命の熱は日であり、それは地球に活力を与えている。 その生命力を宿す水が、温泉、硫黄の鉱山、火山など、地球のさまざまな場所で呼吸している。」
 唯一の生きたままその循環の姿を見ることが出来るものは、地球しかなかった。 それを観察することにより、彼は他の生物の循環を考え、それらをより生き生きと表現しようと考えたのだと、僕は考える。


 ・流体力学~彼が考察を続けているのは二つ。 流れと波紋である。 風の流れや、人の感情の流れは目に見えないが、水のそれは見ることが出来る。 彼は、風の流れや人の感情の流れは水の流れから類推できると感じたのであろう。 これらに対する詳細な考察が、絵画ににじむ人の感情の機微はもとより、彼の飛行機の考案に結びついたことは、想像に難くない。 彼の多くの発明や考案は、彼の天才ゆえの思い付きではなく、地道な観察から得られた知見に基づく当然の帰結であった。
 また、人の声の響き、人の感情の共鳴なども、水に落ちた水滴が生む波紋から類推できると考えたのだと思う。 これは、美術館内で放映されているビデオにおいても同様の内容が言われていた。

 
 直接見ることが出来ないもの、それらを、類似したものを観察する事によって、類推しようとした。 ダ・ヴィンチには、学術の分野ごとの垣根は存在しなかった。 彼にとって存在したのは、人と世界を知り、それを表現しようと言う意欲だけだったと、僕は思う。
  

 僭越だが、僕が日ごろ感じていることと、近しい感覚を感じた。 ※ちょっと前のエントリーをご参照。↓  
http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-entry-252.html
 
 といっても、ダ・ヴィンチの考えが僕のそれに近いわけでなく、僕の考えが彼のそれに近いのだということを勘違いしてはいけない。 ケインズが言っていた、「ほとんどの経済学者は過去の経済学者たちの奴隷である」(原文ママではない)、といった内容の言葉を思い出す。

 あと、もう一つ、類推の持つ危険を忘れてはならない。 似たものを観察する事によって得られた知見を他のものに適用することは、時に誤りをもたらす。 レスター手稿を見ればわかるように、ダ・ヴィンチ自身も同様の誤りをおかしている。 例えば、「月には水が存在する
」などの。


 現代においては、学問や芸術分野の深化がすすみ、それらの間の統合がより難しくなっていると思う。 アインシュタインでさえも、「力の統一理論」の完成に失敗している。
 単一の理論で社会現象を理解できるというのは、もはや不可能なことであると言うのが通説化している。 他ならぬ僕自身も、社会現象を一つの哲学や思想などで評価するやり方に、大きな危険を感じている。

 しかし、全てのものは、人が作ったものなのだから、根本に「何か」があるはずだと僕は思う。 それは、「一にして全、全にして一」のようなものだ。 僕は、自分が生きている間にそこに少しでも近づければと、願ってやまない。 
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ダ・ヴィンチ、レスター手稿についての考察1
 3日前に、六本木ヒルズの森美術館にて開催されている、レオナルド・ダ・ヴィンチのレスター手稿の展示会に行ってきた。
 20051010151700.jpg


 パンフレットも購入。 さすがに、パンフレット内のノートそのものの写真は、怖くてアップできない。 見たい人は、ヒルズに行ってきて下さい。

 
 今回の目的は、①ダ・ヴィンチが何を考えていたのかを読み取ることと、②ノートのとり方から参考になりそうな事を探すこと、の2点。

 なかなか忙しくて書けなかったが、感想が言語化されないのはあまりにも惜しいので、勉強の合間をぬって書くことにする。 順序は:
 1.レスター手稿って何?
 2.レスター手稿って何が書いてあるの?
 3.なんでダ・ヴィンチはこんな手稿を書いたの?
 
 になる。 3.については、完全に僕の主観なので、参考程度にして欲しいと思う。

 1.レスター手稿について
 万能の天才と呼ばれた、レオナルド・ダ・ヴィンチの残した絵画作品はいくつか。 実は、厳密な意味では9つのみ。 非常に少ない。
 その反面、彼が残したノートで現存しているものは、8000ページ。 彼は、その8000ページの中に、自らの考え、工夫、デッサンを書き込んだ。 
 それらノートは、世界各地に分散して保管されている。

 レスター手稿は、ダヴィンチが晩年に書いたもの。 
 ダ・ヴィンチは、自らの考えを自由奔放に8000ページのノートに記している。 そのため、手稿の殆どは、他人から見ると理解が難しいものが多い。 その中で、彼が晩年に書いたレスター手稿は、内容、形式において最も統制がとれた、稀な手稿である。 

 レスター手稿は、個人が保有する唯一の手稿。 現在は、マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏が所有権を持っている。 今回の展示も、氏の協力のおかげ。


2.レスター手稿の内容
 レスター手稿に書かれている内容は、大きく三つ:
 ・天文学
 ・流体力学
 ・地球物理学
 である。 全72ページ。
 彼の自然科学的考察の一つの集大成をなしているノートと言われている。

 他の手稿に比べ、文字の比率が格段に多く、デッサンが少なめなのも、レスター手稿の特徴と言われている。


 
 3.については、長くなりそうなので、次のエントリーで書くことにして、
 ちょっと余談ではあるが、ダ・ヴィンチが「絵画論」において、画家の心得について書いているので、それについてパラパラと書こうと思う。 芸術家や研究者など、何かを極めようとしている人には通じる内容であると感じたからだ。 (以下、パンフより)


 1)勤勉であること。
 己を鞭打ち日夜苦闘しない限り、後世にのこる作品を制作することは出来ない。

 2)孤独に耐えること。
 孤独に耐えて精進しなければならない。 談笑しながら製作が進むはずは無く、夜中の孤独な空間の中で、試行錯誤を繰り返しながら苦闘を続けなければならない。

 3)清貧に甘んずること。
 芸術製作に携わるものは、すべからく清貧に甘んじなければならない。 金銭を目当てに描く作品が人を感動させるはずは無く、芸術製作とは元々金銭とは無縁の行為、純粋に創造的な活動で無ければならない。

 
デリダへ捧ぐ。
相変わらず低空飛行の体調。 頭が重い。

 しかし、今日は書かねば。
 
 現代における最も偉大な知識人の一人である、フランスの哲学者ジャック・デリダが逝去した。 
  
 自分自身、彼の著作を読みあさったというわけではない。 しかし、彼の学説の最たるものが脱構築(解体構築ということも)であることは間違いないと思う。 

 脱構築。 英語では、deconstruction。フランス語でもスペルは大体このような感じだったと思う。 de→否定、construction→構築である。
 脱構築というと、少しとっつきにくい感じは否めないが、かれが言わんとしている事を理解するのは、さほど難しくはない。 少なくとも、基本的な原理に関しては。 

 構築とはこの場合、理論家たちが、自分が抱いた真理に基づいて、その理論体系を作り上げることである。 真理が土台で、その上にビルを建てるようなイメージか。 たとえば、「現実の世界は真理であるイデアの反映である」という真理に基づいてプラトンの理論体系はなっているし、自分たちのよく知る理論体系は「人が全てのものの主人であり、人が全てのものを決定する」という真理に基づいている。
 デリダが考えたことは、この真理が多くの場合妥当性を持つのだとしても、それを土台として体系を構築する際に、欠陥が出来てきてしまうということであった。 そこで、彼は、この構築されたものを一度崩して、その崩された理論体系の中から、土台にあった一番のエッセンスを取り出そうと考えた。 
 専門的に研究している人から非難されるかもしれないが、平たく言えば、これが脱構築の根本的な内容だと思う。 これは、日常の自分たちの生活の中にも生きている考えである。 たとえば、議論の場でのすこし突飛な発言に対して、その意を汲み取り、議論を発展させる場合などがそうである。 

 これでわかるように、脱構築は単なる破壊ではなく、生産的な破壊である。 すべてなし崩しにしてしまうようなわけではない。 現代の思想状況が、社会における価値などを全てをなし崩しにして、それでおしまいとしている感が強いことに辟易している自分にとっては、かなり魅力のある議論である。
 自分も含め、自分の周囲も脱構築が必要と考える今日この頃である。


 知識人の社会的影響力が弱くなっている現代において、強い影響力を放っていた数少ない一人であった。 これでまた、現代における知の力が弱まるのは間違いない。 自分の尊敬するサイードも、去年白血病で亡くなり、魅力のある知識人がどんどん少なくなっていく感がある。 

 ここで、知識人の魅力について話が及んだので、明日はこのテーマに関する自分の考えを書くことにする。
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