Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
報告です。
 色々と悩みましたが、院生になることにしました。

 http://www.waseda.jp/wnfs/
 
 
 学費がかなりの額なので、借金して通います。 
 まさか、自分にレバレッジをかける事になろうとは思っていませんでした。。


 仕事決まらないと、まずいですね。。 かけすぎたレバレッジの恐ろしさを身をもって実感することになりそうです。。
 

 
 首席で卒業しようと思っています。 
 学生の平均年齢が32歳らしく、経験では頭一つ出れそうにないので。


 取り急ぎ、報告までにて。
 以前アドバイスをくださった皆様、ありがとうございました。

 


 P.S.こんな僕を定時で雇ってくれる方、いらっしゃったらご連絡ください^^;
スポンサーサイト
寒い冬に培われるもの。
twt047-s.jpg


 僕の家の周りで、梅の花が蕾をつけ、ぽつぽつと打ちつける冷たい雨に、意志の強さを漂わせながらまんじりともしないでいました。

 
 花が芽吹く力は、寒い冬に蓄えられるのですよね。 うら寂しい枝の奥に、迸るような生命が重みを増していく。


 人間も同じなんじゃないかと思うんです。
 
 栄華を極めているとき、その人は素晴らしく立派に見えるけれども、あまり成長してはいない。

 反対に、逆境にあってそれを耐え抜いているとき、その人は立派には見えないけれど、その人の内には、着実に困難に打克つ意志の力、生命の力が蓄えられていく。



 と、メモ代わりに。
 いま落ち込んでいる人の援けになれば幸いです。 

顧問の必要と「~らしさ」。
 経営以外にも、色々な示唆がある内容なので、メモ代わりに。


大賀、出井両氏も退陣 ソニーらしさ失う?業界波紋 顧問制度3月廃止

 ソニーが元役員で構成する顧問制度を三月末で廃止し、かつてトップをつとめた大賀典雄・名誉会長や出井伸之・最高顧問が退任することが決まった。ハワード・ストリンガー会長兼CEO(最高経営責任者)や中鉢良治社長ら現経営陣はスリム化による経営改革を急ぐが、経営を主導してきた“カリスマ経営者”が一斉に退くことで、「ソニーらしさがなくなるのでは」という声が業界内で広がっている。
 (中略)
 ただ、業績は上向いているが、創業者の井深大氏や盛田昭夫氏に近い大賀氏の退任や、独自事業の撤退といったリストラが、「ソニーらしい商品を生む土壌を奪うのでは」(大手電機メーカー)と危惧(きぐ)する声も一部には上がっている。
(産経新聞) - 2月24日3時11分更新


 大手電機メーカーのたった一人の声が「一部」になっている可能性はおいておいて。

 僕としては、「危惧する」ところが良く分からないのです。


1.「~らしさ」
 「~らしさ」って何なんでしょうね? かたい言葉で言えば、経営理念、組織文化と呼ばれるものなのでしょうか。

 定義はさておいても、「~らしさ」が残ることは、それが企業に利益をもたらす場合にのみ評価されるものなのだと思います。 特に、営利を目的とし、常に競争環境にさらされている企業にとっては。 他の社会組織に関して言えば、その「本来の目的が何なのか」という観点から、「~らしさ」の評価をするべきなのでしょうね。



2.顧問制度がなくなって「~らしさ」がなくなるのか?
 さて、「~らしさ」が必要だとしても。

組織文化や経営理念に関して、重要なプロセスは、「生成→共有→伝承」です。 それらを鑑みて議論を立ててみます:

 ・組織文化や経営理念を生成・共有させることにおいて、経営陣の役割は非常に大きいものだと思います。
 しかし、一度、それらが浸透したのならば、「~らしさ」は顧問がいようがいまいがそう簡単にはなくならないものだと感じています。

 ・組織文化を伝承することも生成・共有と同じく重要なものですが、それを前世代の人たちに頼るのはおかしい。 新しい世代の人たちが考えて守・破・離をしていくべきものだと思います。



 顧問が45人もいると、費用のみならず現経営陣によるすばやい意思決定に何らかの支障がある可能性も高いと思うので、個人的にはこの廃止はよい判断だと感じています。

人ノート、そして、発想ノート。
 人ノートを最近書いてることは、日記に書いてある通りです。

 それを何で書くかについて、自分のためにも、書いておこうと思います。
 
 理由は、大きく三つ。
 ・自分の精神向上のため
 ・困難に面したときにそれを打克つ智慧に近づくため
 ・将来、投資をするときに必要な、人を見る目を鍛えるため

 
 だから、その人がなんで人々の心に今も残っているか?、その人はなぜ志を達成できたか?、と言った事を考えながらノートにまとめています。 「○○年~」とかは、ほとんど書いていません。 例として必要な場合にのみ書いています。


 
 本を3~6冊くらい、図書館でパパッと抜きだして、それを元にいつも書いています。

 一番最初に手をつける本が大切。
 基本的な内容が書いていそうな本を選びます。 
 それをベースにして、更に細かい内容を残りの本で埋めていく。
 これを、A4のノートに殴り書き。 ハングル、日本語、英語が入り混じった、速さを追及したノート。

 ただ、3日も経つと、読めなくなるので、早いうちに、もう一つのノートに清書しています。 これは、紙が酸化しないしっかりした紙質のノート。 MOLSKINEというノートです。 

 見開きの2ページに、一人、書かれています。
 ノートのページ数が200ページ弱あるので、合計で100人弱の人がそこに入る予定です。


 知識やディシプリンは最低限のもので、もっとすごい事をするには、従来のパラダイムから転換した「何か」が必要だと感じてるんですよね。 
 そのための試行の一つが、この人ノートなわけです。


 そして。
 昨日、親友と話しながら、触発されて、もう一つ、ノートを思いつきました。



 それは、「発想ノート」。
 アーティストや発明家など、素晴らしい創造を世の中に残してきた人についても、上の方法でノートをとろうと思っています。
 
 作品や発明は素晴らしいけど人格的には尊敬できないアーティストが結構いて、その人たちは人ノートには書かない予定でした。 例えば、モーツァルトとか。
 もったいない。 けれど、この「発想ノート」だったら、この人たちも入れることが出来ます。

 
 これによって、得られると思うのは、二つ:
 ・知的生産の発想力の向上
 ・「成功する人」を見る目の向上
  です。
 

 ただ、ネーミングは間違いなくもっといいやつがありそうなので、それを考え中だったりします。
ライヴドア事件に関する雑感。
 この頃、この問題について、何も書いていませんでした。

 いちいち突っ込みを入れていたらきりがないと感じていたので。
 メディアが暴力装置だという実感を日々強めている今日この頃です。
 この圧倒的な情報量の前に、異議申し立てがなすすべもなく飲み込まれようとしていますが、それでも書くべきだと思うので、書きます。




 1.堀江氏のプライバシー
 
 最近、夕方のTV番組に、堀江氏の起業以前の過去などを暴露しながら、「何が彼を変えてしまったのか?」と問いかけるようなものがいくつかあります。
 本人の承諾も得ていないのでしょう。
 松本サリン冤罪事件のメディア報道がフラッシュバックしてきます。

 報道の自由は、このようにして個人のプライバシーを暴露して、個人の人格を貶めることも許容するのでしょうか?

 僕は、堀江氏のスタンスはあまり好きではありません。  
 けれど、個人の性質がどうであれ、その人格を貶めるような事が許されて良いわけがないと思います。

 それに、彼は、まだ犯罪者でなく、容「疑」者にすぎないのです。


 
 2.ライブドアショックの波及の可能性
 ソースを覚えていないので恐縮なのですが、英語系のメディアでは、今回の問題を:
 ①既存勢力への反抗者に対する抑圧
 ②証券取引所による市場の効率化のためのプロセス

 の2点から見ている向きがあるようです。

 そして、②から、今後もいくつかの企業が摘発されるのではないか、という論調が見受けられています。

 
 市場は、特に短期的には、事実以上に期待により動かされます。
 
 以前、僕は、「この事件はさほど大きな問題とはならないのではないか」、とブログに書いているのですが、場合によっては、考えが外れるかもしれない、と感じています。



 
 3.ライブドアへの株主訴訟
 という動きがあるようですが、泥縄と感じずにはいられません。
 多くの専門家達が示唆していたように、フジテレビ買収を企てた際のMSCBの発行時点でこのアクションをとっておくべきだったと思います。

 まあ、株主の数が10万以上いた状況では、相当に自体が逼迫しない限り訴訟が起こされることはないのでしょうけれど・・・

 
 
 4.マネーゲームを許しているのはだれ? 
 個人的には、開いた口がなんとやらなのですが: 

 LD株の投機売買を憂慮-東証社長
定例会見で監理ポストでのライブドア株取引について「取引しているのは投資家という名の投機家。極めて憂慮している」と語る東証の西室泰三社長。「取引時間短縮も検討する」という(21日、東京・日本橋兜町)(時事通信社)19時33分更新


 裁定機会が存在すれば、それをつくというのは、当然の事だと思います。 むしろ、こういうアービトラージャー(裁定機会を利用する人)がいることによって、市場において裁定機会がなくなり、市場の効率性が結果として保たれるわけで。

 機関投資家やその他「投機家」が、その機会を利用して利益を得ることに、なんら問題はない。 むしろ、機関投資家などは、出資者に対して当然の義務を遂行しているわけです。 

 問題を問うのならば、そのような機会を生み出している東証の現在の対応策に問うべきなのではないでしょうか?





 声は、あげていかなければいけないと感じたので、以上書きました。
終わった。
 ついつい目に付いたので。

<青山学院大>「朝鮮戦争終わった」 入試で出題ミス

 青山学院大は22日、18日に実施した国際政治経済学部の一般入試A方式の日本史に出題ミスがあったと発表した。選択解答式の問題の中で、休戦状態の朝鮮戦争を「終わった」と記したためで、この設問について受験した957人全員を正解とした。受験生からの指摘で分かったという。合格発表は24日。
(毎日新聞) - 2月22日11時51分更新


 
 「終わった」が正解になる日を待ち望みます。
コンプレックス。
 「超」がつくほど、くだらないことなのかもしれませんが。。


 コンプレックス、ない人っていますか?
 多分、いないと思うんです。 
 誰かしら、何かしらの、ひけ目を感じる部分があると思うんですよね。 僕も当然。
 

 
 で、このコンプレックスに関して僕が目をつけていることの一つは、同様のコンプレックスを感じている人は、とても仲良くなれる可能性が高いということ。 少なくとも、その悩みに関して「打ち解けて」話せる。 話すうちに、自分のコンプレックスについての、過度の意識が和らぐ。


 そこで!






 コンプレックスを共通点として人々が集まるようなサイトを作ったら、面白いと思うんです。



 はい、くだらない妄想です。
 メモ代わりに書いておきます。

 
 ひねもすこんな事を考えてたら、脳みそにカビが生えそうですね^^;
茨木のり子さん。
 大好きな詩人の一人が、亡くなっていた事を、今日知りました。

 茨木のり子さん。
 彼女の詩から感じられる凛とした空気が大好きでした。 元気が出るような歌詞を作るとき、意識しながら作ることが多かったです。


 彼女のうたの中で一番好きだったものを、載せます。 著作権、、ごめんなさい。



 自分の感受性くらい

 ぱさぱさに乾いてゆく心を
 ひとのせいにはするな
 みずから水やりを怠っておいて

 気難しくなってきたのを
 友人のせいにはするな
 しなやかさを失ったのはどちらなのか

 苛立つのを
 近親のせいにするな
 なにもかも下手だったのはわたくし

 初心消えかかるのを
 暮らしのせいにはするな
 そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 駄目なことの一切を
 時代のせいにはするな
 わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性ぐらい
 自分で守れ
 ばかものよ

 
バリュエーション:財務諸表からの投下資産の算定まで。
 さて、間が空いてしまっていますが、再開です。
 前回までは、こちらをご参照:
 http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-entry-406.html

 2回にわたって、企業が公表している財務諸表から、投下資産やNOPLAT、フリーキャッシュフローを算定していこうと思います。

 今回は、投下資産を算定するところまで。

0.はじめに
1.財務諸表の入手
2.要約損益計算書の作成
3.投下資産算定用の貸借対照表の作成
4.投下資産の算定
ブログのレイアウト変えました。
 いたずらに長い文も多いので、目が極力疲れないよう、暖色系を使ってみました。

 文字のサイズや不都合など、なにかあったら教えてください。
人ノート②周恩来―世界の人々が慕った大地の子。
 それでは「人ノート」第2段。 今回は、周恩来です。

 ※前回もお断りしましたが、このノートはもっぱら、僕自身の精神や、将来の投資活動に必要とされる眼力その他の向上に資するために作成しているので、学ぶべきと個人的に感じた内容のみを記すことになっています。 結果的に、ポジティヴな見方にバイアスがかかっている可能性があります。 もしテスト対策などに使ったら痛い目を見る可能性は高いので、ご注意を。



1.略歴
2.知性
3.徳
4.肝
5.手腕
6.結びに

みじめな思い。
 みじめな思い、誰だってしたくないですよね。
 できることなら避けたいと言うのが人情です。


 ですが、こういった経験をすることはとても大切だと思うんです。

 まず、みじめな経験をすることによって、その人の根っこの部分が強くなると思うんですよね。 うたれ強くなる。 
 
 次に、もうみじめな思いをしたくないから、必死に努力するようになる。

 そして、もう一つ。 人の心の痛みをよりよく分かることができるようになると思います。 人間って、自分が経験したことでないと、言葉では分かっていても理解できないものが多いと思うんです。 何かに失敗して悲しみに打ちひしがれている人がいても、失敗をしたことすらない人は、本当の意味でその人の心情を汲んであげることは出来ないのだと思います。 フラれた事のない人に、フラれた人の気持ちは分かりにくいですよね。




 痛い話をするのは好きではないのですが、今回は必要なので、個人的な話をしてみます。

 例えば、大学1,2年生の僕は、自分が本当にみじめだと思っていました。 単に理想が高かっただけかもしれませんが、ほぼ毎日、この上なくみじめな思いをしていたのは事実です。 周りが皆僕を責めているような錯覚にまで陥りそうにもなりました。 顔を上げて周りを歩きたくないくらい、敗北感に打ちのめされていました。 今までの人生でもトップ3に入る、みじめな期間でした。

 でも、今になって考えると、その頃の経験があって、今の自分があるわけなので、本当に感謝してもしきれません。 今も時々思い出すのですが、その経験がなかったら、自分の弱さや未熟さなどを知ることは出来なかったと思います。 何よりも、そのことを「みじめだ」と思っていた考えそのものが、自分の至らなさだと知ることが出来ました。 同じような思いをしている人たちの話を聞いて、より深く理解をすることも出来るようになりました。



 何かをやろうとする人は、必ずと言っていいほど、みじめな目にあう機会に出くわすと思います。 ちなみに僕には、チャレンジすると必ずみじめな思いが付きまとっています^^;(←さすがにこれは嫌ですね;) 
 そういう時、みじめな経験をする事を恐れずに、前に進めればいいと思います。 みじめな目にあっても、ぐっとこらえて、ずんと進む。 できれば、失敗の言い訳なんかも一切しないで。 愚直に前へ、前へ。



 何か、見えてくるんだと思います。 


 
 「自分の力以上のことを作り出そうとして、そのために倒れていく人を私は愛する」 ニーチェ 
小説分析(感想)文:博士の愛した数式。
 映画ではなく、小説の感想文です。
 メモ代わりに書いておきます。

 1.映画化の弊害
 2.書き方
 3.博士の愛した数式は?
 

-------------------------
 1.小説の映画化を知ってしまっていることの弊害について。 
 博士や「私」がすぐ、映画中の人物として頭に浮かんでしまいます^^;  映画を知らなかったら、頭の中で色々と妄想が膨らみ、もっと楽しかったのだろうな、と思ってしまいますね。
 寺尾さんは、「半落ち」とかを見ながらその演技の素晴らしさを知ってはいるのですが、やはり、小説の博士とは少し違う気もしたりして・・・ 
 あ、もちろん、映画が素晴らしいと言うことは、大前提として。


 2.書き方について。
 小説を、「私」の視点で書くことによって、数学アレルギーの人も容易に読めるようになっています。 うまい工夫ですね。 いつか解説系の本を書くときに、このやりかたは拝借しようとおもいます。



 3.博士の愛した数式は?
 博士は小説中にどの数式を一番なしていたか話していません。
 オイラーの公式のことなのでしょうか?
 いざこざを一瞬で鎮めたことから、そうなのだと考えられます。

 さて、じゃあ、なぜオイラーの公式?

 僕は大学からは数学を一切やっていなかったので、オイラーの公式の証明を見たこともないのですが、そのインプリケーション(内示するもの)は高校の頃に習ったので知っています。

 それは、指数関数と三角関数は複素数の世界ではつながっているということ。


 冒頭で、博士は、複素数は「ここにある」といって自分の胸を指しています。 目に見えなくても大切なものが、人の心の中にある、と中盤あたりで再度話しています。

 ここで、文学的に複素数=博士の心とすると、ある程度は、意味が分かってくる気がしますね。

 
 指数関数と三角関数は、全く起源を異にした関数です。 途中で記憶の性質が変ってしまった博士にとって、未亡人(差別用語ですが原文ママ)に対する記憶と、「私」と少年ルート君に対する記憶は、全く異なるものだったと思います。

 しかし、それらは、博士の心の中で、一つにつながっているのです。
 
 博士は、だから、あの場面で未亡人に向かってオイラーの公式を書いて示したのではないでしょうか。 

 大切なものは心の中にあって、その心さえつながれば、人はつながりあうことが出来る、たとえ、記憶の起源が異なったとしても。 とか考えたりしました。



 
 予定通り、これを読んで数学がまた少し好きになりました^-^
オズの魔法使いと金銀複本位制。
 ネタがないので、知り合いに約束していた、オズの魔法使いに関するトリビアを。

 経済学をやってきた人にはトリビアにすらならないかもしれませんが、お許しください^^;



 この「オズの魔法使い」、金本位制の金銀複本位制への移行が焦点となったアメリカの1896年の選挙を背景としています。 金本位制というのは、通貨を一定の量の金と常に替えることが出来る制度です。 金銀複本位ならば、金銀両方。

 1880年から1896年にかけて、アメリカの物価水準は23%下落していました。 これは、北東部の銀行に代表される貸し手には好都合でしたが、南部や西部の農家に代表される借り手には不都合でした。 デフレ対策として考えられていたのが、金銀複本位制の実施でした。 実施すると国家内の貨幣量が増えると考えられ、結果、デフレが抑制されるためです。

 当時共和党候補だったウィリアム・マッキンリーは金本位制維持を公約に掲げ、民主党候補のウィリアム・ジェニングズ・ブライアンは複本位制を支持しました。 ブライアンは、「労働者の頭に茨の冠をかぶせるべきではない。人民を金の十字架にかけるべきではない(→金本位制の維持によるデフレで人民が苦しむこと)。」と選挙演説時に述べています。 

 この論争は、1896年の選挙直後に出版されたオズの魔法使いによって見事に寓話化されました。
 なんでオズかと言うと、金の単位であるオンスはOzと表現されるからです。※orzじゃないですよ。

 故郷のカンザス州から遠く離れた不思議な土地に迷い込んでしまったドロシー(=アメリカの伝統的価値観)は、かかし(=農夫)、ブリキの木こり(=工業労働者)、臆病だが雄叫びだけはすごいライオン(ブライアン候補)と友達になります。 そして、迷ってしまった自分を家に帰すことができる魔法使いがいる、オズを目指します。 


 一行はオズ(=ワシントン)に到着しますが、そこでは皆が緑色の眼鏡(=緑色のドル紙幣)をかけて世の中を見ています。 魔法使い(=ウィリアム・マッキンリー)はみんなの願いをかなえられるように見せかけているが、偽者であることがばれてしまいます。

 最後にドロシーは、自分の銀のスリッパの魔力(銀も本位通貨にすること→金銀複本位制)を知って、その力によりついに家に帰ることになりましたとさ。 めでたしめでたし。


 選挙は共和党が勝利し、金本位制が維持されましたが、選挙の前後にアラスカ、オーストラリア、南アフリカで金が発見され、さらに金鉱石からの金抽出を容易にするシアン処理法が考案されたため、インフレは結果的に達成されることになりました。 1896年から1910年までの間に、物価水準は35%上昇したのです。現実世界でも、まあまあ、めでたしめでたしといったところでしょうか。


 短絡的な風刺漫画、僕はあまり好きではないのですが、こういう考え込まれた作品、面白いですね^^。
頭の使い方。
 頭がいい人なんてほとんどいないと思います。 いるとしたら、頭の使い方がうまい人なんだと思います。 頭のよさは生まれつきのものなのですが、頭の使い方というのは訓練すればある程度までは鍛えられる類のものだと僕は感じています。

 僕達は、経験から、身体の全ての部分は鍛えればある程度の水準まで達する事を知っています。 運動が出来ない人だって、一生懸命努力すれば運動能力が上がる事を知っています。 例えば、僕は、高校一年生のときの体力測定は、身体能力・運動能力共にC/3でしたが、高三の頃には両方A/1となりました。 理由は簡単。 部活を必死にやったから。 それと、ポジションが全体的な身体能力を鍛えられるものだったと言うのも関係あるかもしれません。 鍛えれば、人間何とかなるものです。

 だから、頭の使い方も、鍛えることが出来ます。 なぜか、頭の使い方に関しては努力と言う言葉が似合わないような見方が世間的に広まっていますが、それはおかしいと僕は感じています。 
 
 前置きが長くなりました。

1.記憶力について。
2.創造力について。
3.成果について。
4.要領のよさについて。


 分けて書きます。


1.記憶力について。
 脳物理学を専攻している某先輩によると、人間の記憶力の総合力は変らないのだそうです。 変るのは、記憶の性質です。 20歳を過ぎてから記憶力が落ちるわけではなくて、記憶のメカニズムが変化するのです。

 どう変化するのか。

 一言で言うと、人間の記憶の仕方は、年を経るごとに、より総合的なものに変化していくのです。

 子供のときは、単純記憶力が秀でています。 例えば、いまでも九九や覚えた詩を暗誦できる人が多いと思います。 しかし、物事を総合的に覚えられるかと言うと、それは苦手のようです。
 
 大人になるにつれて、総合的な記憶力が優れていきます。 これは、例えば、ストーリーや流れを覚える能力です。 色々なものをからめることによって、記憶をより強固にすることができるようになります。

 別に大人になったからと言って暗記を出来なくなったと嘆くには及びません。 自分の記憶のメカニズムを理解して、それにあった覚え方をすればいいのです。

 また、記憶そのものが時間を経るごとに低下していくことは、大人子供同様であるので、復習は誰にとっても重要な過程だということが出来そうです。




2.創造力について
 僕が何か創造的なものに打ち込むときに2つの原則を持っています:
 ・重点的に集中するものは3つ以内に絞ること。
 ・しかし、関心は多方面に拡げておくこと。

 なんか矛盾してそうですが、これも、頭の性質を利用しようとした結果です。

 まず、3つ以内に限定すると言う点について。
 例えば、パソコンでプログラムを5,6つ同時に開くと、僕のパソコンであればちょっと動きが遅くなります。 こういった場合、当然ながら、プログラムを3つくらいずつ開いていった方が効率よく仕事を進められますよね。
 これは、人間の頭の構造についても同じだと感じています。 3つというのは、僕の経験上の結論なので、人にとって差があるとは思います。 3つ以上一生懸命やる事を頭に抱えると、何にも手につかない状態に陥ってしまいがちです。

 だから、僕は、3つに絞ります。 その3つのうち一つをクリアすれば、また、やるべきことリストの中から一つを引っ張ってきます。 
 ちなみに、これは、今はなき偉大な経営学者ドラッカーも行っていたことだったそうです。


 次に、関心は多方面に拡げておくこと。
 これも経験の裏づけがあるのですが、全く関係のない事柄から、ぱっと物事を思いつくことって、とても多いと思うんです。 林檎が落ちるのをみて万有引力を思い立った、ニュートンの例などがそうですね。
 ニュートンは、物理に全力で集中していた。 しかし、他方面についても関心は持ち続けていた。 だから、このような創造的な発想を出来たのだと思います。 ちなみにこのような発見をする体験を、アハ体験(aha experience)と言います。 GMATの過去問にも載ってましたね^^;

 原理的な話を言うと、脳の神経線維というのは、外から入ってくる刺激が多いほど、よくつながるようになっているそうです。

 だから、僕は3つの事に集中しつつも、いろいろなものに関心を拡げるように心がけています。 未知の分野・苦手を感じている分野に対して知り合いが誘ってくれたりしたら、時間が許す限り基本的にのります。 



 3.成果について

 結論:コツコツこなすこと。
 です。

 脳の神経線維のつながりと言うのは、網の目式につながっていきます。 このつながりが、いわゆる成果につながります。 このつながりは事象の連合と呼ばれたりしますが、べき乗で増えるという性質を持っています。
 とても単純化すると、
 
 勉強量0:2のゼロ乗=1
 勉強量1:2の1乗=2
 勉強量2:2の2乗=4
 勉強量3:2の3乗=8

・・・

 と言った感じです。
 ですので、もともと多く勉強している人が新しい分野に踏み込んでも他の人よりはるかに高いパフォーマンスを発揮するのは、才能でもなんでもなく、その人のこれまでの努力の積み重ねの当然の帰結なのかもしれません。 
  


 4.要領のよさについて。
 
 要領のいい人は、何が優れているのでしょうか?
 僕が今まで話してきた頭の使い方という側面からいうと、要領のいい人は、ワーキングメモリの使用において優れているのだと考えられます。
 ワーキングメモリと言うのは、一定の時間の間保たれる記憶です。
 
 イメージとして例を挙げます。
 様々な材料の中から料理を作るとします。
 調理台が広かったら、材料をすべて一点に集められるので、それらをみんな生かしたいい料理が作れる可能性が高いですよね。 逆に狭かったら、大切な食材を抜かした料理を作ってしまいかねません。
 この、調理台が、まさにワーキングメモリです。
 ワーキングメモリが優れている人は、判断材料をより多く集めて、短時間内でより適切な判断を下すことが出来るようになります。 これが、要領のよさや、段取りのよさ、判断力に現れるようになります。 

 この要領も最近の研究では鍛えたらある程度は成長することが認められています。
 例えば、朝に何かしらの文章を読んで、夜に、その内容を記憶だけを頼りに要約することです。 その意味で、要点だけをまとめた日記をつけるというのも、とても有力な方法だと思われます。



 何か付け足してくださる方、歓迎します^^
情報の非対称性から考えるメインバンク・システム。
 47thさんがメインバンク・システム論について書かれていたので、触発されて書いてみます。


 僕が経済について興味を抱いた頃には、メインバンク・システムについては囂々たる非難以外あまり聞くことが出来なかったのですが、それでも、このシステムには、何らかの利点があったため続いてきたんだろうな、と、感じていたのを覚えています。

 このエントリーでは、メインバンク・システムの持つ情報生産における効率性について書いてみようと思います。

1.情報の非対称性とエージェンシー理論
2.メインバンク・システムと情報の非対称性によるコスト低減
3.メインバンク・システムが日本にマッチしていたと考えられる理由
4.結びに

1.情報の非対称性とエージェンシー理論

 ファイナンスの学問において情報の非対称性というと、真っ先に思い浮かべるのは、エージェンシー理論です。
 とても平たく説明してみます:
 お金を貸している人(債権者)/出している人(株主)と借りている人(企業)の間には、持っている情報に格差があるため、企業経営者がしばしば投資家に損害を与えるような行動をとることが疑われます。 例えば、ビジネスの論理に沿わないM&A、経営陣の交代を難しくするような経営戦略を採る事などを挙げられます。
 このような行いを制限するために、投資家は様々な手段を講じます。 経営者の監視を外部機関に依頼したり、債務制限条項を盛り込んだりすることが挙げられます。 これによるコストを、モニタリング・コストと呼びます。 
 このモニタリング・コストを削減するために、経営者は自らが投資家の意向に沿った行動をを保証する為に何らかのアクションを行うことになります。 このことによるコストが、エージェンシーコストです。

 企業価値を最大限にするためには、これらのコストを最小限に抑える必要があります。 

 コストを抑えるための手段の一つとして、最適な資本構成(株式資本と負債の構成)を考えることが挙げられます。 こういった事をエージェンシー理論では考えることになります。



2.メインバンク・システムと情報の非対称性によるコスト低減

1)情報生産のインセンティヴ
 メインバンクの特徴は、多くの場合:
・ 最大株主であること
・ 最大債権者であること
・ よって、代表的な利害関係者であること
 の3点と呼べるでしょう。
 
 銀行には当然ながら、企業がエージェンシー関係においてかけるであろうコストを最小限にするインセンティヴが働くことになります。


2)情報生産能力 
 インセンティヴが働くのみならず、メインバンク・システム下における銀行は、企業に関して、人材派遣や長期的関係の維持などを通じ、とても精度の高い情報を保有していたと考えられます。 また、培ってきたノウハウにより、当時の日本においては、どの期間よりも情報の生産能力が高い機関であったとも考えられます。

 これらが作用することによって、企業経営におけるエージェンシーコストが削減されていたと考えられます。 
 それに、利害関係者があまり増えないことも、情報の効率的な生産に役立ち、コストを未然に防いでいたと思われます。
 ただ、僕はメインバンク・システムの盛行期にはランドセルを背負うか背負わないかくらいの年だったので、実感はほとんどありません。。



3.メインバンク・システムが日本にマッチしていたと考えられる理由
 
 単純なところで考えられるのは、つい最近まで、日本の発行市場の未成熟だったことが挙げられそうです。 そのような状況下、企業にとっては、発行市場において資金ファイナンスするよりも、メインバンクをもちそこから資金を調達する方が、必要なコストは低かったのだと考えられます。

 もうひとつ、考えられることとしては、これは、かなり思いつきなのですが、文化的な側面なのでしょうか。 イメージとして、市場型デットファイナンス(社債発行)においては企業と投資家との間にクールな関係があって、相対型デットファイナンス(銀行借入)においては、よりホットな関係があったのかなと思っています。 時に理屈を超えた義理人情が通じそうな関係です(ちょびっとの身近な事実に基づいた想像です)。
 相対型のデットファイナンスは、戦後復興を遂げてきた日本の文化とかなりの親和性があったのではないか、と、これは、妄想に過ぎないのですが感じるときがあります。 


4.結び
 ここまでメイン・バンクシステムの情報生産における効率性について、つらつらと書いたわけですが、総体としてのメインバンク・システムに諸手を挙げて賛成を唱えるわけではありません。
 株の持合などにより、緊密な関係を深めることは、情報の生産においては効率的だったのかもしれませんが、ともすると、経営に対するチェック機能が低下する要因にもなったと考えられます。
 戦後復興期のように、足並みをそろえて必死に成長をしていかなければならなかった時期には、それは問題として顕在化しなかったと思うのですが、経済全体がある程度裕福になるにつれて、足並みをそろえる必要もなくなって、結果、チェック機能の弱さが露呈するようになった。 

 
 システムというのは、子供の靴のようなものなのかと思ったりします。
 子供はその身体や経済状況にあった靴を履くものです。
 成長するにつれて、靴をどんどん変えていく必要はある。
 けれど、靴自体の本来的な機能は、ずっと変らない。
 速く走れることであったり、身体を怪我からまもることであったり。
 足の大きさと目的にあった靴を選んでいくべきなのですよね。
読書のススメ。
 僕の成長に本が与えた影響は、はかり知れなく大きかったようだ。

 今でも忘れない。 小学5年生の僕がある日家に帰ると、父は吉川栄治の三国志全八巻をテーブルの上に置いていた。

 「読んでみろ。 読みきったら、図書券五千円分をやろう。」

 図書券とはいえ、小学生にとっては大金。
 不純な動機から、読書はスタートした。

 もともと読書は好きだったけれど、それでも、最初は難しかった。 巻末の語句説明を参照しながら、登下校時に読み続けていた。 董卓が死ぬまでがやまだったか。 その後は、すらすら読めていた記憶がある。
 いつしか、当初の図書券五千円のことも忘れていて、本に夢中になっていた。 登場人物に感情移入し、写真でしか見たこともない中国の大地に想いを馳せながらページを手繰っていた。 本が終わってしまったときには、満足感とともに、言いようのない虚無感を受けたのを覚えている。

 
 6年生になり、「竜馬が行く」を読み始める。
 父の本棚にあったものを勝手に引っ張り出して読み始めた。
 そこでも、竜馬に夢中になる。 竜馬とともに一喜一憂する日々だった。

 
 中学生になると、部活と囲碁の道場が忙しくて本をあまり読まなくなったが、中国の歴史小説だけは読み続けていた。
 一番多く読んだのは、宮城谷正光の小説。 介子推、天空の舟、孟嘗君、張耳、楽毅、、いまだに強く記憶に残っている。


 高校生になると、高校サッカーに全精力を注ぎ込んだ。 朝5時には起きて朝練をして、授業中は「身体を大きくする」という大義名分(?)のもと爆睡、夜は部活後も自主練をして、家に帰ったら一時間以外に就寝、という生活だった。 それでも、高三のころなど、生徒会長を兼任していたので、そのときの問題意識に沿った本は読み続けていた。 キング牧師やガンジー、朝鮮史の本や、辺見庸などのジャーナリストの本を読むようになった。 一番苦しかったとき(多分このとき)、これらの本と、小中学生のころに読んだ本を読み返すことによって、どれだけ助けを得たかわからない。

 
 大学生になった。 
 真剣に、世の中をよくするための学問をしようと決めていた。
 1、2年生のころは、気が狂ったように、哲学と文学の古典を読みふける。
 学校の勉強はまったくそっちのけ。
 そこに、すばらしい真理があるはずだと思い込んでいた。
 不思議なもので、本を読みきって、そこに何が書かれていたのかはあまり覚えていなかった。 その代わりに、その哲学者や文学上の登場人物ならどう考えるのか、といったものの見方考え方が少しは身についていた。 同時に、学者固有のひねくれも(これを直すのに苦労した)。
 本の中にすべての答えがあるわけがないということを思い知る。

 3年生になって、経済学と法律と英語の勉強を始めた。
 文学や歴史・哲学の本は、それでも読み続けていた。



 
 今になって、それらの本によって、今までの自分の人格の少なくない部分が形成されてきたことに気づく。 
 
 あの時、父が、三国志を僕に勧めなかったら今の自分はあっただろうか。 多少は違った僕がいたに違いなさそうだ。 感謝してもしきれない。

 先人には、読書によって修行を積んだ人が多い。 僧侶や武芸者などだ。たとえば、宮本武蔵は、3年間閉じこもって本を読み続けたという。 戦国時代の武将なども、常に古典を持ち歩き、それを読んでいたという。  


 専門書籍を読むことも重要だけれど、時には、そうでない本を読むことの重要性を強く感じるようになった今日この頃です。
ちょっと聞きたいのですが・・・
 お尋ねしたいのですが・・・
 下の考え、ロジカルでしょうか??
 いや、厳密な意味で論理的というよりも、いわゆる「筋の通った考え」でしょうか?

----------------------
 自分が真理だと考え付いたアイディアがある。
 私は今まで、多くの人にそのことを説いてきた。
 賛同者もいるが、そうで無い人もいる。
 このままだと、自分が寿命を全うした後、この考えは残らないのではないだろうか。

 私が死んだ後に、この考えを世に残すためにはどうすればいいか。

 私の考えを、他人をして語らせることだ。
 
 自分の考えを自分が語ることと、他人が語ることには、大きな違いがある。 その話を聞いた人間が感化されるときの性質が違ってくるのだ。

 聖者がいるとする。 
 そんな人の話を聞くとする。
 人によっては、「あの人は聖者だから」と片付けてしまい聞く耳を持たないかもしれない。

 だが、その聖者に感化され、その教えを我が物にした人の話を聞いた場合はどうか。
 「自分も、今語っているあの人のようになれるのかもしれない。 あの人も、もとは平凡な人だったのだから。」
 と、感じるのではないだろうか。
 考えはよりよくひろまるかもしれない。
 
 だから、自分以外のものが、強い信念と共に、私の考えを語ってくれる必要がある。


 そのために、どうすればよいか。

 その人たちに、強い義務感を呼び起こす必要がある。

 
 義務感を最も強く呼び起こす方法は?

 
 自分が、その信条に基づいて、その人たちのために、死ぬことだ。

 私が死ぬことによって、私の考えは、より多くの人にひろまるだろう。 そうして、私がいなくなったあとの世界はよりよいものになるはずだ。
-----------------

 ※もちろん僕には、こんなことをやる気も根性もありません。
個人的には想定内ですが。
 ニュース速報。 自分の考えを備忘録代わりに記しておきます。

 個人的には、明らかに想定内ですが:

 <耐震偽造>姉歯氏以外の物件で3棟に疑い 福岡市発表

 耐震データ偽造問題で福岡市は8日、市内のマンション3棟に新たに構造計算書偽造の疑いがあると発表した。いずれも木村建設(熊本県八代市)が施工、福岡県春日市にあった設計会社「サムシング」が設計を請け負っていた。姉歯秀次・元建築士以外による耐震偽造疑惑は初めてとなる。サムシング側は福岡市に対し、偽造を否定しているという。同社はこれまでに1万件程度の設計を手がけたとされることから、市は同社設計の物件について可能な範囲で調査する方針。

 続きはこちらhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060208-00000037-mai-soci

 
 
 問題が起こったとき、それが:
 ・偶発的なものか
 ・システム的なものか
  考えてみるのは、とても重要だと思います。 

 偶発的なものであれば、その事件自体は問題ですが、社会的にたいした問題にはならない。

 システム的なものであれば、問題は重大です。 一つの問題が取り上げられている最中にも、構造的に新たな問題が作られているからです。

 今回の設計偽装問題は、明らかに構造的な問題なので、この先も、どんどん問題が噴出するのではないでしょうか。


 解決法もまた同じ。
 つぎはぎ的な改善をしても、根本的に何も変らないと思います。
 構造的な問題を変えないと。

 建物偽装だけじゃなくて、色々なところに当てはめられそうですね。 人は変化を恐れる存在ですが、必要とあれば構造的な問題の変化を促せる勇気を常に持ち続けたいものです。
人ノート1:ガンディー-真理と愛を帝国よりも強大にした人。
 望まれてもいないのに、はじめます。 「人ノート」連載。


 ※この「人ノート」は、個人史の記録よりも、その個人から学ぶ事を目的としているので、僕が感じたその人物の長所なりをまとめるのに重点が置かれます。 記録などに関しては、ウィキペディアなどをご参考にしてください。


 第一回は、この人。 ガンディー。


1.略歴
2.ガンディーにとっての神
3.メッセージ力・歴史観・非暴力主義
4.徳のある日々の行い
5.結びに


やさしさの精神病理と恋愛バトン。
 毎日新聞だったはず、結構前の記事なのですが、
 フられる経験をしたことがある若者の比率が下がっているそうですね。 

 経団連の奥田さんが、時代が変ったものだ、とこの記事にコメントしていました。


 さて、この低下の理由と、恋愛バトンについて考えてみます。
 ※バトンと言うのは、ブログやSNSの日記上などではやっているもので、設問に答えた後に、おなじ設問に答える人を指定して、その人にも答えてもらうようにするものです。 不幸の手紙のアンケートばんといったイメージでしょうか。 例えば:http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-entry-368.htmlこんな感じです。



 比率低下の理由としてぱっと思いつくのは:
 1)彼氏・彼女がいないということが、社会的にあんまり肩身が狭いものでなくなった。 「とにかくほしい」という人が減ったため、結果的にふられる経験をする人が減っている。
 
 実際、結婚年齢の上昇などに反映されるように、現代の人々はあまり付き合ったり結婚したりすることに焦っていないように感じられます。  僕の親も、大体僕ぐらいの年でそろそろ結婚しているのに、僕は結婚なんて考えたことすらありません。 だいたい30歳くらいかなー、とか考えていたりします。

 まあ、もうちょっとしたら、独り身にはつらいシーズンが訪れるんですけれどね。 バレンタイン氏の命日です。


 2)現代の若者の傾向として、人の心に直接踏み込むことが苦手になっている。 (ここらへんは、岩波新書赤の「やさしさの精神病理という本とかを読んでみてください)

 いい悪いの判断は出来ませんが、
 一昔(いつだろう?)前の人間関係において「ホット(熱い)」なものが多かった、と表現するのならば、
 現在の人間関係においては、「ウォーム(あたたかい)」なものが多くを占めるようになってきた気がしています。
 
 
 これは、現代の僕を含んだ若者の言葉遣いに現れています。

 「自分的には」
 「~て感じ」
 「よくわからないけど、~」
 「(相手の主張に対して)なるほどね。」
 「とりあえず、~」
 「~な気がする。」


 などなど、どれも、相手の心に直接踏み込む事を避けるような表現が目白押しな現代の若者の会話であります。 
 エヴァンゲリオンに出てきたATフィールド(≒心の壁)って、本当に存在してそうですよね。 
 
 もともと僕は言葉の力に敏感なので、ここらへんがいつも気になっています。

( もちろん、現代においても
 「お前、根本的に間違ってるよ。」
 「お前の人生観、そこがおかしい。」
 「君、本当にやる気があるのか?」
 と、他人の世界観にがんがん踏み込むツワモノも何人かいるわけですが。

 


 さて、そして、数多く出回っている恋愛バトンたち。

 これって、現代若者の多数派の感情にぴったりマッチしていると思うんです。

 恋愛バトンの特徴として:
 ・相手が不特定(→何を書いても、「○○に向けて書かれた」とは受け取られない)
 ・それとなく好意を持っている相手に自分の想いを伝えることは出来る。 だけど、それによって自分は大して傷つかない


 イメージとしては、こんな感じです:
--------------------
 人ごみの中、好きな人が目の前にいます。
 あなたは、(本心ではその人に向かって、けどそれはあなたしか分からない)、
 あなた :「私はこういう人が好きなんです! 付き合ってください!!!」

 シナリオA:ハッピーモード
 好きな人:「はい。 自分も好きでした。」
 あなた :「ほんと!?」

 
 シナリオB:安ハッピーモード
 好きな人:「ごめんなさい・・・」

 あなた :(心の平静を保ちながら)「え、ちがうよ。 君じゃないって。 僕は、ああ、いっちゃった、いま人ごみの中にいたあの人に向けて話してたんだよ。 ほら、大きな声出してたでしょ? それはあの人が遠くにいたから。」

 好きな人:「あ、なーんだ。 早とちりして、ごめんなさい。」

 あなた :「いいんだよ。(心の中ではブルー。)」
-----------------------

  
 と、シナリオ2つを想定しながら、自分が傷つかない選択肢をとることができるわけです。 平たい話、アンパイを切れるわけですね。

 上のは極端な例ですが、僕は、恋愛バトンには少なからずそういったものが込められている気がします。 もちろん、元から好きな人がいない人にとっては、その要素は低いと思うのですが、恋に落ちているけれどうまく自分を表現できない人とかにとっては、なかなか素晴らしい道具だったりするわけですね。


 じゃあ、僕は何を考えながらバトンを書いているのかって?

 そりゃあ、、、、黙秘します。(笑)←あ、この(笑)も現代若者のATフィールドの一つですね。
人ノート。
 気が滅入ったときにはどうします?

 友達に会って話を聞くことはもちろん素晴らしい解決策の一つ。
 日記を書くのもいい。
 ボーっとするのも一つの手。
 
 個人的には、「本を読む」というのも、素晴らしい解決策の一つ。

 こういうときに読む本は、大体、新しい見方を与えてくれる人生観関連の哲学の本か、偉人の伝記。 今日は、この偉人の伝記について、書くことにする。



 僕の偉人の伝記の読み方。 

 僕はこの類の本を「読み終わった後に、その偉人達が僕の心に居座っているような読み方」をしようと、心がけている。 今まで、彼・彼女らが、幾度となく弱い自分を打ち負かしてくれた。 (いや、本当の事を言うと、彼・彼女らに影響を受けた自分が自ら克己したのだけれど、レトリックということで。)

 そんな、僕の心の居候たち、いつもいる人たちが10人くらい、たまに訪れる人を含めると、100人くらい。 いつもいる人たちも、引きとめようとしなかったら、いつの間にかいなくなる。 そして、堕落・憂鬱が始まります(僕の場合)。

 だから、こりゃいかんな、って思ったときに、そういった本を読む。 経営者の本はあまり読まない。 今どんなに栄華を極めていたって、彼・彼女らが100年後1000年後にも人々の心の中に残っているかは疑わしいから。
 
 こういう読み方で偉人の伝記を読むと、次の日から、また個人的に満足のいく一日が送れるんですよね。 彼・彼女らに「お前、それじゃだめだろう。」って背中を押される気持ちになるんです。 

 是非、一度試してみてください^^


 最近、この読書の重要性を鑑みて、また、また読み直すと時間もかかってしまうので、「人」ノートを作成し始めた。 僕の尊敬する人は皆書くつもり。 

 貴重な精神的支柱になってくれることは間違いないし、将来、僕がやりたい投資活動とも絶対にリンクすると思う。 2日に1人以上のペースで作成中。 そのうち、「知ってるつもり」みたいに、連載が始まるかもしれません^^;

 
東京は本当に日本一危険な街か?
 ちょっと用があって色々と調査をしているのですが、結果、本論とはそれたところに面白い数字が出てきたので紹介しておきます。

 犯罪率の高い都道府県です。 交通違反を除く犯罪認知総数を人口で割っています。 データ元は、政府統計、警察白書が主なものです。 作成元は、Taejun自身です。 せっかく手間かけて作ったので、公表します。

 全国平均は、2.2%。
 それより高い都道府県は:
 
 1位-大阪、愛知:3.2% 
 3位-福岡   :3.1%
 4位-千葉、兵庫:2.7%
 6位-埼玉   :2.5%
 7位-京都、東京:2.4%
 9位-三重   :2.3%

 
 ちなみに、一番低いところは
 1位-秋田      :0.9%
 2位-山形、岩手、長崎:1%
 5位-鹿児島     :1.1%
 
 次に、殺人・強盗・放火・強姦の凶悪犯罪の率。
 全国平均:0.011%。
 それより高いところは、

 1位-大阪    :0.019%
 2位-埼玉    :0.017%
 3位-東京、千葉 :0.015%
 5位-茨城    :0.014%
 6位-神奈川、福岡:0.012%

 また、一番ひくいところは
 1位-秋田、山形、鹿児島:0.04%
 2位-長野、富山    :0.05%

 -------

 注意しなければいけないことですが:
 ここからいえるのは
 「東京は日本一危険な街ではない」
 ということではなくて、
 「東京が日本一危険な街だという事を統計は立証していない」
 
 ということのみなんですよね。


 老後の生活に役立ててみてください。。
忘れた頃にやってきたバリュエーション。
 そういえば、ライブドアの一件で完全に忘れて、ほったらかしにしてました。。。 ちまちまと不定期でやっていきますね。

---------------------------------------
 
ジャズとアラン・グリーンスパン。
 (思いつきのとんでもエントリーかもしれません。)

 
 FRBの議長であったグリーンスパン氏がついに任期を終えて、退任する。

 グリーンスパンさんがどれくらいすごいかって?
 世界経済の守護神とも言われるくらいすごい人。

 例えば、今日の日経の記事にも:
 世界経済の「守護神」退場・グリーンスパン氏最後のG7
 来年1月31日に退任するグリーンスパン米連邦準備理事会(FRB)議長の最後のG7会議が閉幕した。1987年8月に就任した議長の登板は通算55回。世界経済の「守護神」として君臨したカリスマの退場によって、G7会議も節目を迎える。



 彼が議長をつとめるFRB(アメリカの中央銀行です)の政策のおかげか、アメリカ経済は激動の80年末から現在までを、ほとんど大過なく乗り切ったとされている。 彼が議長でなかったら、とんでもない混乱が何回も起きてきたかもしれないと言われる。

 僕がいつもお世話になっている方は、一時期グリーンスパン氏と仕事をしていたことがあって、僕はいろんなお話を聞かせてもらったものだ。 そのお話を聴きながら、グリーンスパン氏の読みの鋭さと対人スキルの高さを強く感じたのを覚えている。
 


 さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本論。

 グリーンスパンさん、元はジャズの演奏者。 腕はプロ並み、というか、プロ。 アメリカでジャズをやっていてプロということは、素晴らしい腕前のはず。 日本で演奏をしているジャズ奏者のほとんどがアメリカで通用しないのを見てもわかるはず。
 

 僕は、彼のジャズ経験が、FRB議長時代にも生きているんじゃないか、と感じている。

 
 ジャズの演奏において大切なことは色々あるのだが、主なものは:
 ・基礎技術(当然)
 ・相手の呼吸を読む能力
 ・相手の呼吸に合わせる能力
 ・流れに従いつつも、新たなものを創造する能力

 と、まあ、こういったところ。

 ロックやポップスとかの決まりきった演奏と違って、ジャズの演奏は千変万化する。(もちろんロックなどもその日毎に演奏は違ってくるが、ジャズほど劇的ではない) 同じ曲で同じミュージシャンでも、その日によって演奏は変ってくる。

 こんなジャズの演奏をやっていると、感性がすごく研ぎ澄まされる。 言い換えると、ものの流れを能力や、ものの本質をすばやくつかむ能力がつく。 僕がジャズや即興演奏の要素がある演奏が好きな理由も、ここにある。 (以前の記事参照) 演奏をしているときのワクワク感が違います。

 人は、たまにグリーンスパンさんの経歴を見て、「は!? 以前ジャズ奏者??」という反応をするが、僕は、ジャズ奏者だったからこそ、世界経済の守護神と呼ばれる働きを出来たんだと感じていたりする。

 例えば、彼は、インフレ率を市場の裁量に任せつつちょこちょこっとFRBが介入するような感じで調整していったのだが、沿いつつずらすこの調整法は、まさにジャズ的な調整法。 


 若い頃に打ち込んだものは、その人の貴重なベースになると僕は感じている。 たとえ、勉強でなくても。 いや、勉強でないからこそかもしれない。
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。