Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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LTCM破綻を原理的に考えてみる:LTCMの破綻その③
  後孔明といった言葉があるそうですね。
 「事が起こった後なら、誰にでも孔明になれる。」

 全くその通りで、僕がLTCMの破綻の原理的な理由について書くのも、後になったからこそ言える内容のものだと思っています。 

 ですが、それが将来、何かのためになるのであれば、こういった考察は無駄ではないと思っています。 哲学者ヘーゲルは「歴史哲学講義」で、民衆が過去から学んだと言うことは一度も無いと喝破していますが、それに抗いたいと思います。

 前置きが長くなってしまいました。
 3)LTCM破綻の原理的要因 について、考えていきます。

 ※前回のエントリーはこちらになります。 



 LTCMに対して、原理的に2つの疑問挙げられそうです。 これは、金融のみならず、すべての事柄に通じうる疑問だと思っています。

 第一点:正規分布じゃなくて、べき分布なのかも?
 第二点:過去に起こらなかったことは、将来にも起こらないのか?(帰納の不可避的な「飛躍」)

 
 
 以下、述べていこうと思います。
 
 

 ・証券価格は本当に正規分布に従うのか? 
 前回のエントリーで挙げた、崖から石を落とす例をもって、引き続き考えていきます。
 真下に落ちる可能性が一番高く、真下より300m以上離れたところに落ちる確率は0.01%以下、とします。
 この場合、確率的に言えば、500mはなれたところに落ちるなんて事は、ほとんどありえないわけです。
 ですが、LTCMが破綻したきっかけとなった、ロシアの国際の暴落においては、その「ありえない」が起こったのです。

 もしかしたら、正規分布していなかったんじゃないか? という疑問が浮かぶわけです。

 
 ここで、非常に重要な示唆を与えてくれる分布の形があります。

 それは、べき分布。

 べき分布の形は、対数正規分布に非常に似ているのですが、異なる点として、その裾野の長さが上げられます。 裾野が長いということは、さっきの石が500m1000m2000mはなれたところに落ちる可能性が、正規分布よりはかなり高いことを意味します。
 この裾野の長さのことを、ロングテールと呼んだりしていますが、この性質は、現在ネットの世界で起こっているさまざまな事柄を説明してくれています。

 たとえば、書籍販売サイト、アマゾンの売り上げ。 
 普通、書店で売上ベスト10の書籍の販売数の合計は、それ以下の書籍のそれを上回ります。
 しかし、アマゾンでは、全く逆のことが起こっています。 ランキング下位の書籍の売り上げの全部をあわせると、ランキング上位の書籍の売り上げを上回っているのです。

 こういったことから、べき分布は最近注目を(多分一部で)集めています。
 
 物理学の観点からも、証券の収益率は、対数正規分布でなく、べき分布に従っているのだ、という主張があげられています。
 
 それが正しいのかどうか、僕には分かりませんが、少なくとも確かなのは、証券の収益率が裾野の長いべき分布に従うと彼らが考えていたのなら、あのような破綻が起こらなかったということです。



 ・過去になかったから、将来にもないのか? (「帰納の飛躍」)

 次に、この点ですね。
 おそらく、LTCMの頭脳達は、過去の膨大なデータを集めて、すべての証券は「適正価格」に戻るという「確証」を得ていたのだと思います。
 このやり方は、科学の世界では「正しい」方法論だと考えられています。 僕も、概ね正しい、と思っています。

 不確実な世界に住んでいる僕達が、ある真理(と主張する議論)について、大上段から述べるということは不可能に近く(一部政治家はしますが)、できることは、一つ一つの事例を集めて、その真理にたどり着くことなんですよね。
 このように真理へといたる方法のことを帰納といいますが、帰納はその性質上、避けられない問題を持っています。

 それは、飛躍、という問題です。 

 帰納法においては、「99.999999・・・・%正しい」、というまでが関の山で、決してそれは100%には出来ないのです。
 言い換えると、データをいくら積み重ねたからと言って、それが100%正しいなんて、絶対にいえないんです。

 ですが、そんなことを言っていたら、何も主張できなくなってしまう。
 だから、僕達は、その99.9999%正しいだろうことを、正しいこととして主張するのです。

 しかし、この帰納の限界を常に認識することはとても大切だと思うんです。
 「絶対に正しいことなんてあるわけない」、と常に自らに言い聞かし、データがいかに「自分達が見たい真理」を自明のことのように示していたとしても。 そうしていれば、LTCMの破綻は、少なくともあそこまでのものにならなかったのではないか、と、僕は感じています。

 
 確率論の古典と言われる本があります。
 John Maynard Keynes, Treatise on Probability, 1920です。 これは邦訳はされていないのですが、ケインズは以下のように述べています。

 In the case, however, of most scientific arguments, which would commonly be called inductive, the probability that we are right, when we make predictions on the basis of past experience, depends not so much on the number of past experiences upon which we rely, as on the degree in which the circumstances of these experiences resemble the known circumstances in which the prediction is to take effect.
 
 この文章を直訳する能力は僕には無いので^^;、彼が話していることを意味はそのままに訳してみます。

 帰納法と呼ばれる科学的主張において、
 「われわれが正しい」と言う確率を、過去の経験に基づいて主張するとき、

 その確率は、
 過去の経験の数(すなわちデータの量)よりも
 その過去の経験における「状態」が、これから私達が予測する時点における「状態」にどれだけ似ているのか、
 ということに依存する。

 まあ、こういった内容です。 not so much on ... as onの翻訳、難しい。。

 膨大なデータそのものが、何らかのものを示唆するからと言って、今にもそれを当てはめられるのかと言うと、決してそうではない、とケインズは言っているんですね。 ちなみに、現代人であれば、鈴木敏文氏もまったく同様のことを話しています。 セブンイレブンでアルバイトを一生懸命すると、こういう考え方が身につきます。

 全く違う文脈ですが、ガンジーも同様の事を話しています。 彼は、非暴力平和への「過去に人類は非暴力平和を経験したことがない」という批判に対し、こう言い返しています。 
 「過去に無かったからといって将来にも無いと考えるのは、人間の尊厳に対する不信です。」

 
 データは重視する。 だけど、それにとらわれない。
 そういった視点を持つことは、とても重要だと思います。
 
 専門家になればなるほど、こういう意識が薄れがちなので、本当に用心しなければいけないと思います。 自己批判の精神って、本当に大切ですよね。

 
 またまたどたばたと書いてしまいました。。 でも、仕事に行かねば。。
 
 間違いがあれば訂正してくださると助かります。
 コメントも大歓迎です(このごろコメントが少なくてへこんでます)。 

 ではでは。
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