Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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伝習録
(書きためておいた読書メモより)


西郷隆盛の愛読書。
伝習録 (中公クラシックス)伝習録 (中公クラシックス)
(2005/09)
王 陽明




王陽明が弟子や他の人々と話した内容をまとめたもの。大部だが、基本的な原理は同じで、それが相手に応じて若干の説明のつけ足しが行われているもの。基本原理は以下の通り:

人間の心は元来は善なるものであり、是非の判断力をもっている(この心の本体を良知という)。この心が真に命じるままに生きるためには、私欲を離れなければいけない。この私欲を離れた心のことを天理と呼ぶ。天理に従って生きることこそ、聖賢の道である。すべての認識と行動は一致するものであり、一致しないということは分かっていないということ。

1.天理:私欲に覆われていない心のこと(すなわち、王陽明は性善説の立場にたっている)(p13)
・天理に対して純然に行動することが肝要(p16) 聖人の聖たるゆえんは、要するにその心が天理に純一で人欲の雑入がないということに尽きる。(P105)才能が聖人の聖人たる要因なのではない(P107)
・自分に打ち克つためには、私欲を一切とりはらうことが大切。少しでも残してはいけない。(P81)
・悪念が生じたときにそれを自覚して防ぐのは志による。志は、天の聡明。(P88) ただ天下の至誠おそが、よく聡明叡智であることができる。(P378)
・私欲をとりはらうことにより、心は天地と一つとなり、他者の痛みをわがことのように感じられるようになる。(P267)


2.良知:心の本体で、それは常に清明である。が、時として察知されずにいる(P212)
・良知は心の本体であり、いわゆる『性善』の性であり、「未発の中」であり、「寂然として不動」の体であり、「廓然として大いなる公」である。(P216) また、良知は是非を判断できる心である。(P382)
・良知は道に他ならない(P234) 良知こそ、人の則るべき規準となる(P312)
・この、良知を発揮することを、到知という。その到知へといたるためには、次の3つが行われるべき(P260)
 ①格物:心、意、知にあることを格(ただ)すこと。②正心:ことにある心をただすこと。③誠意:ことについての意を誠にすること。
 (これらの意味は正直分からないが、常に自己省察し、私欲を取り払うための行と考えておけば間違いはないように思われる)


3.知行合一:知ることと行うことは一つのことである(P18)
・聖人の言を信じることは重要だが、大切なのは自己のうちに体現すること(P23)
・俗世においても人は修行をすることができる。(P320)
・何らかの思念を抱くことも、知行合一における行にふくまれる(P326) 


4.その他
・体面に気を遣いすぎると、心がおろそかになる。
・怒るときには、自らが怒りに溺れてしまわないように注意しないといけない。そうしないと、怒りが心とかい離してしまう(P334)
・実を上回る名は恥じるべきものである。死んだあと、それは取り返しのつかないことになる。(P116)
・学びは、自らの解悟によってなされてこそ、一を悟って万事に通じるようになる。(P393)




感想

読んでいて、西郷隆盛と二宮尊徳を思い出した。二人とも陽明学の影響を受けていたのだろう。

というか、この時代の人々は、本当に言っていることがぶれない。常に同じ事を、十数年にわたって話し続けるというのは、並大抵のことではないように思える。

思念することも行いと考える知行合一の考え方は、キリストの教えにとてもよく似ている。



著者が生きていたら質問したいこと

完全に私欲を取り払える人間は、一万人に1人いれば素晴らしいといえるようなもの。それができない人々はどうすればよいのだろうか。 この問いに対して王陽明は、私は真に聖人となりたいという志を持った人間のみに説いている、と答えるかもしれないけれど。

思いのレベルで私欲をとりはらうには、いったいどうすればよいのだろう。日々の精進?


心に残った箇所

P18:「そもそも知っているという以上、それは必ず行いにあらわれるものだ。知っていながら行わないというのは、要するに知らないということだ。」→P20:「であるのに、現今の人は知と行とを二つに分け、まずはじめに知るということがなければ、行うことができないなどと考える。そして自身も、当面は講習討論によって知をみがき、真に知りえたのちはじめて行いをみがくことにしようという。そしてとどのつまりは、死ぬまで何も行わず、また死ぬまで何も知らぬままに終る。」

P81:「『己れに克つ』というからには、(私欲を)からりと掃い除き去り、微塵だにとり残さないようにするのでなくては駄目だ。ほんの少しでもとり残すと、諸々の悪がつぎつぎにそこにひきよせられてくる」→P330:「かりに、或る念慮において、善を好み悪をにくむことがわかていたとしても、しかしいつか気づかぬうちに、そこにあれこれと雑りこんでくるものがある。わずかでも雑るものがあれば、それはもはや、善を好むこと、好き色を好むような、また、悪をにくむこと、悪臭をにくむような、そういう心ではなくなる。善をほんとうに好むことができるというのは、善念でないものがないということがある。・・・だから、聖人の学とは、ただ一なる誠、これに尽きるのである。」

P120:「変わることができないのではなく、ただ変わろうとはしないだけのことだ」


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