Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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高校中退と底辺校
Twitterでやりとりをしていたので、それと関連してのエントリー。

現在年間の高校中退者数は10万人を超えていると云われています。その多くは、いわゆる底辺校に集中しています。この底辺校にまつわるエピソードは、例えば以下のようなものです。
・入試にドラえもんの絵を書いたら合格した(もちろん、試験問題は「ドラえもんを描け」ではありません)
・九九が出来ない
・百までの数が数えられない
・小学三年生までの漢字が読めない
・入学式だけ来てその後学校に来ない生徒がいる
・教師も問題が出ないことだけに躍起になり、非常に厳しい校則を設ける
・問題生徒は辞めさせるように学校が仕向けている
・家庭はめちゃくちゃ。親が帰ってこない、男を作って出て行く、などはざら
・性生活もぶっ飛んでいる場合が少なくない
・入浴や洗顔などの習慣がない
・歯を磨いたことがない


学力で通う学校がある程度決まる状況においては、上記のような人々とすれ違ったことがない人もいるかもしれません。でもこのエピソードは全て事実に基づくものです。

子どもたちが抱える最大の問題は自己肯定感です。自分が世の中に存在してよい理由をこれまでの人生を通じて感じることが一度もなかった子どもたちは、頑張ろうとする気力を持ち合わせていません。この自己肯定感は、どうしても親や共同体に依存することになり、生まれによってかなり左右されてしまうのが現状です。


自己肯定感を持てない子どもたちはあっさりと高校を中退する場合が少なくありません。そして、その後は恐ろしい生活が待っています。

高校入学時にはアルバイトを出来るものの、高校中退をすると、それすら出来なくなります。なぜなら、高校中退者の労働力としての競争相手がアジアからの出稼ぎ労働者や主婦などになり競争が激しくなるのみならず、中退の事実が雇用者に非常にネガティブな影響を与えるためです。

中退後、子どもたちは非常に危険な仕事に着くか、風俗やその他の仕事に流れていきます。先が見えないので希望も持てない。こういった絶望が社会に蓄積されていくと、きっとどこかで爆発が起こると僕は思います。絶望を抱えた人々が子どもを産み、その子がまた絶望の中で育つという連鎖は想像するだけで恐ろしくなります。

少しでも多い人が、この現状をシェアしてくれることを祈ってやみません。問題解決のためのアクションは、すべて現状認識から。


(この分野でオススメの本は、「ドキュメント高校中退」です。)





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イノベーターの条件
イノベーションを起こす人に必要なものは、強い想いとしぶとさなのだと感じることが最近多いです。

誰に聞いたか忘れてしまいましたが、ある癌を治した人の話は、僕に強い印象を残しています。

Aさんは、日本で最高の医療技術を誇る国立がんセンターに行きました。
受けた宣告は、生存確率ゼロ。
それを聞いたAさんは国立がんセンターを出ていきました。
病院の先生は、「ここでダメって言うのであれば、どこでも結論は同じだ」と言います。

その相手に対してAさんが話したことはこうです。

「でも、あんたは治せないんだろう。俺は治せると思ってくれる人のところに行くよ。」




僕たちが人生の多くの場面で直面している問題は、これに似ている気がしてなりません。

何か新しいものをつくろうとするとき、例えばマイクロファイナンス機関の調査を現地訪問なしにできるシステムをつくろうとするとき、皆が口を揃えて難しいと言う。それは非常に論理的です。僕もよく分かる。でも、それは、言うなれば上の生存確率ゼロ宣言に似ています。ロジカルだけど、誰にも希望をもたらさない。


現状を正当化するためのアイディアはいくらでも思いつきます。でも、難しいけれど価値のあるのは、現状を変革するためのアイディアだと思います。僕は、冷静に死の宣告をする医者ではなく、患者を治すために出来ることを必死に探す医者になりたいと思います。誰もが、もし自分の子どもが患者であれば、同じことをするのではないでしょうか。無理だと諦めるのは、患者が亡くなってからでも遅くないはずです。

少なくない調査や研究は、単なる学術的興味に基づく自己満足ではなく、他人の幸せと、もしかしたら生命がかかっているものです。そういう研究にもし携わるのなら、僕は簡単に降参したくない。そんな時、トーマス・エジソンの言葉は大きな勇気を与えてくれる気がします。

「ほとんどすべての人間は、もうこれ以上アイデアを考えるのは不可能だというところまで行き着き、そこでやる気をなくしてしまう。 いよいよこれからだというのに。 」



強い想いをもち、それを立証するためにしぶとくあり続けることが、稀有なイノベーションをするための必要条件なのだと、最近つくづく思います。

日本では本当に機会の平等が担保されているか
堀さんのブログのご意見の一部に意見があるので記事にしました。

堀さんはこう説かれています。

”機会の平等は、僕は、基本的には、日本においてはかなり担保されている、と思っている。義務教育が行われており、奨学金が支給されているので、随分と平準化されていると思うからだ。
(中略)
努力をしていない弱者に、手を差し伸べる必要は無いと思う。また、努力をしない人々を優遇するような施策は、貧欲と怠け癖を引き起こし、日本を滅ぼす結果となろう。”




形式的な意味での機会の平等については、仰る通りだと思います。アルバイトと奨学金で高校、大学と卒業した友人は、僕の周りにも沢山います。そして、ある程度の大学を出れば、貧困家庭に生まれてもそれを脱することができるというのは事実です。僕自身、家は貧しかったけれど、学問のおかげで今の職業に就いている。

ただし、実質的な意味での機会の平等は、担保されていないと感じます。ここで「実質的」というのは、こどもの自立心や克己心など内面の問題を念頭においています。

自立心や困難に打ち克つ力は、自己肯定感に依存すると云われています。その自己肯定感は、決して自分自身で得られるものではなく、親や周囲の大人から認められることを通じて得ていく場合がほとんどです。特に都市部のようにコミュニティがほとんど機能していない状況で、かつ、親がろくでもないと、こどもは自分がなぜ世の中にいるのか、確認できる機会をほとんど持つことができません。

その最たる例が、児童養護施設にいる3万人の子どもたち。子どもたちが施設に入るまでの物語ひとつひとつを聞くと、身の毛のよだつ思いがします。親から大切にされることなく、コミュニティのたすけもなく育つ子どもたちは、自分の存在意義を見いだせない場合がほとんど。同じような問題は、日本のいわゆる底辺校でも起こっています。「ドキュメント高校中退」という本は、この恐ろしい実態を描いています。

この子どもたちが、他の普通の家庭に育った子どもたちと同じスタートラインに立たされ、同じレースをさせられるとしても、日本では機会の平等がある程度担保されているといえるのでしょうか。生まれた境遇ゆえに人生に意義を見出せず中退していく高校生に、「努力をしていない弱者に、手をさしのべる必要はないと思う」というのは、妥当なことなのでしょうか。僕は否と思います。


貧しさから抜け出すために必要なのはインセンティヴだということは正しい。インセンティヴを無視した援助は失敗するというのは、国際社会がこの半世紀で学んだ最大の教訓の一つだと思います。堀さんの挙げた生活保護の例は、インセンティヴの構造を考えずに行う政策がいかに多くの失敗を産むかを示す好例だと思います。


機会の平等を考える際にも、同じように自立心の観点から考える必要があると僕は考えます。日本における形式的な機会の平等は素晴らしいことだと思います。僕は、それに加え、こどもたちが等しく自分の存在意義や夢を与えてくれる大人に出会う場をつくることや、虐待を受けた子どもたちの心をケアするための制度(例えば、ヨーロッパでは里親のシステムがかなりよく出来ている)設計などが、実質的な意味での機会の平等の達成には必要だと思います。

「こどもたちが等しく自分の存在意義や夢を与えてくれる大人に出会う場」なんていうと大げさですが、これは、昔はコミュニティがその役割を果たしていたと思います。親が良くなくても、近所のおじさんおばさんや、面倒を見てくれる友達の親がいた(ちなみに僕は保育園の頃に誘拐されそうになったことがあったのですが、近所のおばちゃんのお蔭で助かりました)。人間がそもそも社会的な存在である以上、コミュニティを再生させるというのは多くの側面から非常に重要だと改めて思います。

自分自身、翻って考えてみるとここまでこれたのは、親、母方のおばさん(彼女のおかげで僕は緑星囲碁学園に9年間通えた)、学校で出会った恩師たちのお蔭でした。こういう出会いが、偶然に左右されず、誰にも等しく与えられるようになることを切に祈っています。

僕が理事長をしているNPO、Living in Peaceの教育プロジェクトの合言葉は「すべてのこどもに、夢をくれる大人との出会いを」です。出会いと成功体験をキーワードにした、こどもの自己肯定感を高めるためのプログラムを目下準備中です。一緒に平日の夜中と週末を使って活動してくれる仲間はいつでも大歓迎です。見学もOKなので、気軽にご連絡ください。


高校無償化と朝鮮学校
朝鮮学校の高校無償化外しについて、個人的なまとめをかねて書いておきます。

人間にバイアスはつきものですが、可能な限りそれを廃し、ファクトだけで詰めているつもりです。朝鮮問題について、事実と普遍性を基に信じることを書くと、ある時は同じ境遇の人から裏切り者といわれ、ある時は逆の立場の人からスパイと非難されることがあります。正直言ってしんどいし、黙っていた方が楽なのですが、僕は自分の信ずることをいつも話せるようにしたいと思っています。尊敬するサイードが終生そうだったように。


経緯
新政権発足後、外国人学校も含め高校無償化する方向で調整がされ、予算の試算もされていた。その後、拉致問題担当相が朝鮮学校を外すことを文科相に要請される。そして、鳩山首相も除外する方向で考えている、と報道される。その後、各種メディア、政党の間で諸説起こる。


拉致問題との関係
拉致問題の未解決を論拠にした場合はまた違うことになりますが、関係はないと首相らが話しているので、ここでは考慮しないことにします。


教育内容を確認出来ないから助成から外すべきか
教科書や教師の授業プランを開示したり、公開授業である程度は分かるのではないかと思います。



そもそも外国人学校を入れるのは憲法違反では
国に対し、助成を受けている者としての説明責任を果たすのであれば、憲法違反とは言えないのではないかと理解しています。最近ネットで見かけた議論を踏まえて書きます。 長くなるので、順を追っていきます。


1.条約と憲法では憲法が優先する

まず、日本は民族的マイノリティが自らの文化を継承する権利が否定されないことを、自由権規約(第27条)や子どもの権利条約(第30条)を批准しています。これを根拠にしている議論が結構あるようですが、条約と憲法がある場合、日本では憲法が優先するという説が受け入れられています。(安全保障や、降伏などについてはまた別の議論あり) よって、条約の批准は努力規定にこそなれ、強制力は持っていないと理解するべきだと考えます。


2.憲法に定める権利規定の主語が「国民」であっても外国人は権利主体に含まれる、というのが通説

憲法14条は法の下の平等、26条は教育を受ける権利を説いていますが、この主語は「すべて国民は」です。国民とは何か、というと、日本人の全体として捉える全国民主体説と、有権者の総体説があります。どちらにせよ、外国人は含まれていません。

ただ、上記は単に国民とは何か、という議論で、権利主体に外国人が含まれるかという点については別の議論があります。

外国人を憲法第三章の権利主体として認めるべきか、という論点については、従来は否定説が有力だったものの、現在は判例・通説ともに肯定説となっています。これは、権利の性質上明らかに日本国民にのみ適用されるべきものを除き、外国人に対しても日本国民と同等の権利を認める、というものです。 

ちなみに、憲法制定過程で使われていたのは英語で、英語版憲法において権利の主体として使われている単語はPeopleです。


3.助成が行われた場合、政府に対し一定の義務を負う。それは企業が債権者に負うものに似ている

ネットで出回っている議論が、この助成活動は89条に違反する、というものです。

憲法89条にはこうあります。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」 その趣旨は、政教分離、教育等の私的事業の自主性の確保、公費濫用防止などが考えられています。

僕の調べたところによると、私学への助成は憲法89条違反とはならないようです。89条にある「公の支配」についての多数説は、憲法14条、23条、25条、26条などを総合的にみて公の支配がなされているか考える必要がある、というものです。私立学校への助成については、私立学校振興助成法などの監督の程度で公の支配の要件を満たしているため合憲と解釈されています。

この私立学校振興助成法に明記されている所轄庁の権限は次のようなものです。
・会計の調査権限
・過剰入学についての是正命令
・予算が助成の目的に対して不適当な場合の是正命令
・役員が法令の規定に基づく所轄庁の処分・寄附行為に違反した場合の、役員解職勧告

これらは当然のことで、公費が投入された場合に、それがちゃんと使われているのかを監督する、というものです。なので、もし政府が外国人学校に対して助成をすると一旦決めるのであれば、それはそれでアリなのではないかと思います。

判断の是非は有権者が決めることだと思います。憲法14条や26条にあるのは、「権利を否定されない」というものであって、学ぶ権利を積極的に支援する根拠になるかどうかは、僕は分かりません。



朝鮮学校ってどんなところ?
このあたりはほとんど分からない人がいると思うので、気楽に質問ください。可能な限り答えます。



この手のことを書くといつも、匿名性ゆえの残念なコメントがくるので、自分の本名とメールアドレスを記入の上でコメント・質問してください。見落としている点についての指摘も歓迎します。


主な参考文献
・辻村みよ子、憲法、日本評論社
・野中俊彦ほか、憲法、有斐閣

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