Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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使命
ある人が自分の人生に何らかの使命を感じるとき、自らのバックグラウンドを無視することはできない。生い立ちや経験に根ざさない使命感は、浮ついたセリフが散りばめられた映画みたいでどことなく空虚だ。

僕は、仕事とNPOの活動両方について、自分なりに使命を感じている。でも、今日は在日コリアンとして感じている使命にしぼって書き残しておこうと思う。

韓国の済州島からやってきた祖母は、ときどき戦後間もないころのことを話してくれる。朝鮮人だというだけで小さな子どもにまで馬鹿にされ、いじめられてきたことや、とてつもなく貧しかったこと。僕の親の世代であっても、コリアンが日本の財閥系の会社に入ることは不可能だった。僕も親によくこう言われていた。「お前は朝鮮人だから、周りの人と同じくらい勉強ができるだけじゃだめだ。とびきりできないと、やっていくことはできないんだよ。」

親の世代の人々には、海外で仕事についたり、起業したり、もしくは資格を取得して独立して仕事をする人が少なくなかった。パッと見ると華々しいけれど、この選択の背景には、そうせざるを得なかった事情がある。普通に勉強して、普通の学校に入って、普通の就職をして、普通の家庭を築く、というような普通の人生(普通、という言葉は多義的なのであまり好きではないのだけれど)を歩くことそのものが困難だったのだ。リスクをとって挑戦して、豊かになった人はすごい金持ちになった。一方で、挑戦に失敗した人はいまもとても貧しく暮らしている。本当に貧しい人は、コリアンとして生きていくことすら難しかった。

言いようのない悲しみのことをコリアンはハンと呼ぶ。漢字にすると「恨」なのだが、決して恨みではない。途方にくれ、悲しみのうちに静かに涙するような感情のことだ。住む家を追われて、川岸に座り込み途方に暮れながら、涙ながらにホウセンカの歌を唄うのが、僕にとってのハンの心象風景だ。

僕は、どうしても、先祖のハンの記憶を頭から消すことができない。祖父母や親の世代の人々が子どもたちに望んでいるのは、コリアンを読み書き話すことができて、コリアンの名を名乗ってそれでいて世間にも恥ずかしくないように立派に生きることなのだと思う。決して報復を望んでいるわけではないはずだ。自己紹介をするときに、在日コリアン三世で朝鮮学校に大学まで通いました、と話す背景にはそういう意識がある気がする。

使命感は逆境にある人を強くしてくれるが、幾許かの危うさをもたらす場合もある。使命ばかりが頭を占領してしまうと、しなやかさが失われてしまう。しなやかでなくなり、創造性が阻害されると、色々なところで、事がうまく運ばなくなる可能性が高まる。ピンチの時や、重大な意思決定に直面したときに、自分の使命を思い出せるくらいがちょうどよいと思う。

8月15日と1月1日は祖父のお墓参りをして、今の自分の状況を報告する。僕が子どものころに亡くなった祖父は、今の僕をみて、喜んでいてくれるのだろうか、もっとちゃんとしなきゃダメだと叱咤してくれているのだろうか。そんなことをいつも考える。

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学問のすすめ
最近、結構な量の、それぞれ違った分野の情報を処理することが増えて、ふと考えたこと。

一つ一つの分野についてそれぞれ情報を集めて、色々な人の意見を聞いて、それをまとめて一つの結論を形成していく、というプロセスには一定の意味はあると思いますが、限界を感じてきました。3ヶ月ごとに一つの分野を深彫りしていっても、世の中は広くて、また新しいものに出くわすたびに、(多少の土地勘は生まれるとしても)、また勉強を始めることになる。効率がよい学びではないのかもしれません。

こういうときに感じるのが、学問の大切さ。ここでの学問とは、何らかの世界観を与えてくれる体系だったものの考え方、といった程度の意味です。

何かの学問を修めた人間は、その修めた学問の世界観で、世間のあらゆることについて一定の知見を持てるようです。一緒にファイナンスの勉強会をしている野口さんはその典型だと感じます。バガボンドの宮本武蔵は剣の世界観で世の中を説明できる。立派なお坊さんは、仏教の世界観で世の中を説明できる。どんなときも規律をもって情報を整理することができる能力は、今後さらに重要性を増していくのだと思います。


知の根無し草、といったら言い過ぎですが、学問をしていないともたらされる答えが場当たり的になってしまう。それに、とんでもない筋違いをしていても見過ごしてしまう可能性が高まる。投資において一番大切なことのひとつのは大局観であることを考えると、ますますこわくなります。


今のところ、自分が(基本的にどんな論文でも理解できるという意味で)ある程度きちんと修めたと思っているのはファイナンス理論ですが、一つだと心許ないので、隣接分野の学問をまた修めたいと思っています。今取り組んでいるのは産業組織論で、別に学位などはなくてもよいので(あったほうが遥かによいので、大学院もまた行こうかと思っているのですが)、毎朝2時間ずつ勉強にあてて、直面する問題をそのフレームワークで考える訓練をしています。

ちなみに、ファイナンスにおける根本的な概念は、リスクとリターンです。不確実性が存在する世界においては、リターンは何らかのリスクと対になっていると考えます。1年前に書いた本では、このリスクとリターンのコンセプトでどこまで世の中の事象を説明できるのか、挑戦してみました。

15歳からのファイナンス理論入門

幸いに4カ国で出版され、この本のお蔭で、また次のファイナンス本を書くことになりそうです。今度のフレームワークは、TiroleのThe Theory of Corporate Financeに登場する理論で、情報の非対称性にともなう資金調達の困難と、それを「人と人のつながり」がどのように緩和するのかを書こうと思っています。

学校や児童養護施設のガバナンスの難しさを考えてみた
組織の問題行動とガバナンス不在には関係があるようだ。ガバナンスはどんな組織にも必要で、学校や児童養護施設もそれにもれない。しかし、そのガバナンスには構造的な難しさがある気がする。

ガバナンスの要諦は、その組織が、便益を受ける人のために活動をしているのか、チェックする仕組みを作ることにある。

(念のためだけど、僕は人間の善意を信じているし、実際に今までに多くの人の善意で生かされてきた。でも、組織の設計において人間の善意をあてにしたり前提に置いたりするのはナイーブだと思う。仕組みの設計というのは、どんな人間がその組織の中にいてもきちんと組織が機能するように作るべきものだと思う。)

通常株式会社であれば、コーポレート・ガバナンスは、会社が株主の利益のために運営されているかをチェックする仕組みとなる。それは株主や、潜在的な株主を通じてチェックされる。ガバナンスが不適切であり、株主の利益を考えずに事業を行う会社に対しては、訴訟や株の売却を通じた時価総額の低下等により、時には手厳しい規律付けをされることになる。

株式会社のガバナンスは株主を中心にして考えられる。なぜ社員や債権者でなく株主になのかというと、会社がうまくいかなかった時に最も経済的に被害を受けるのは株主であり、最悪の場合に一番損をする人が意思決定に影響を与えたほうが組織のうまくいく可能性は高いからだ。


学校や児童養護施設には、ガバナンスの観点から難しい問題が三つある。いわゆる社会的事業を行う組織やいくつかの政府組織にガバナンスをしっかりときかせることの難しさも、ここからある程度説明できるのかもしれない。

第一に、便益を第一に受ける人間が組織行動をチェックすることの難しさがある。
学校や児童養護施設の事業から便益を受けるのは子どもたちだ。でも、子どもたちには十分な判断能力のない場合があり、学校や児童養護施設の行動をチェックするのは困難だ。
普通の学校の場合、子どもの利益を一番に考えるのは親であり、親が子どもの代わりに学校の行動をチェックすることになる。PTAがその一つだ。その場合でも、親と子どもの利害は完全に一致しない場合があるし、親の望む学校づくりが子どものためになるのか分からない場合がある。
児童養護施設の場合は、子どもに親がいない場合が多く、学校の場合よりも問題はずっと難しくなる。

第二に、子どもの成長が定量的に評価しにくいことがある。
会社の場合は、株価を通じて会社のパフォーマンスを評価することができる。しかし、子どもの成長というのは定量的に評価するのが難しいものだ。
とはいえ、子どもの育ちに関連するいくつかの重要な指標はあるはずで、それらを導入するのは有意義だと思う。例えば、企業の社会貢献度数を計測する様々な方法はこれまでに考えられてきたし、まだ完全ではないものの一定の成果をあげつつある。同じことは、児童養護施設の評価についてもいえるのかもしれない。

第三に、組織の外に発信される情報が少ないことがある。
外部との交流を積極的に行わない児童養護施設が多いことには一定の理由がある。第一に子どものプライバシーの問題がある。虐待等が理由で親から引き離された子どもの住んでいる場所が親に知られると、親が施設に乗り込んで騒ぎになる場合がある。それはやっと落ち着いてきた子どもの心理にまた混乱と動揺をもたらす場合があり、避けないといけない。また、児童養護施設は子どもにとっての家であり、その家に外部の人が勝手に上がりこむことは異常なことでもある。
しかし、外部との交流が少なく、地域や社会に対して提供される情報が限られていると、外部の人々による組織行動のチェックはききにくくなる。とんでもない人が施設長になった場合に、その暴走を止めることが難しくなる。

ある重大な事件が生じた理由を、特別な性質を持った個人に帰するのは簡単なことだ。でも、それはあまり生産的でないし、正しくない場合が多い。ナチスドイツの台頭をヒトラー個人のせいにすることができるだろうか。事件が生じた後にするべきことは、それが生じた客観的な理由を可能な限り深彫りして考えることだと思う。そうすれば、事件が繰り返されないように、可能な限りの取り組みをすることができる。

第一の点はどうしようもない。出来ることは第二と第三の点で、適切で具体的な評価指標を考えること、可能な範囲内での公開性を保たせることには、今まで以上に力を入れてもよいのではないだろうか。


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