Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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まごころを、君に
いつもそうありたいと願っているけれど、なかなかできないこと。それは、まごころを人に届けるというもの。
 
「誰かのため」と、口で言うのは簡単だけど、本当に私心や打算なしにそれを行うのは難しい。こういうことをしたら、誰かが誉めてくれるのじゃないか、とか、誰かが何かをしてくれるのじゃないか、とか、そういったことを期待しながら人とつきあったり、社会にとって良いとされることをしたりする場合が、僕には多かった気がする。


人を愛したり、誰かのために尽くすというのは、そもそもの定義として、見返りを求めないもののはずだ。

もちろん、他人のために何かをして、それが他人からも返ってくることは素晴らしいことだ。人生の最高の喜びのひとつだと思う。100の苦労も、1のお返しで報われることだってある。

ただ、どんなにそれが素晴らしくて美しいことだとしても、それは結果としてそうなるのであって、事前に期待するものであってはいけないのだと思う。何かの結果が「やってくるもの」と考えることと「期待するもの」と考えることの違いは小さくないと思う。

それに、下心や打算がどこかにあったりすると、決定的な瞬間にそれが出てくる。恋人や助けている相手に「私はこんなにしてあげているのに」という言葉が、口をついて出てきたりする。これは滅びの呪文のようなもので、口にしたら最後、他人のためと称して行う活動の正当性が完全に瓦解してしまう。

 
まごころや愛を本来の姿から遠ざけてしまっているのは、自意識や我(が)のようなものだと思う。自分可愛さ、といってもいいかもしれない。それを乗り越えるのは本当に大変なことだと思う。

自分可愛さを乗り越えられるようなるにはどうしたらいいだろう。僕が現時点で分かっていることは、人は認識によっては変わりにくいけれど、行動によって大きく変わりうるということだ。まごころをもって人に接しようと思うのではなくて、実際にそれを行動にうつしてみる。そして、毎日自分を振り返って、その行動に間違いがなかったかを考えて、少しずつ行動を修正していく。毎日毎日、地道にひとつずつ。

自分のまごころを問い続ける、という点からみても、恥も外聞もその他諸々の周りの声も一切考えずに、本気で誰かを好きになることは素晴らしいことだと思う。 ただひたすらに、その人のことを考えて行動して、そこに下心や打算がないかをいつも問い続ける。ありがたいことに、恋愛においては多くの場合、こういった下心や打算はすごく分かりやすいかたちで現れるので、自分の行動を振り返って、改める機会を得やすい。

僕を含めた多くの人にとって、人を本気で愛するのは怖いことだと思う。自分の心をなげうって何かをするとき、自分の生身の心臓を相手の手のひらに差し出すような感覚をおぼえることが僕にはある(僕が未熟なだけかもしれない)。誰かを愛した結果、とても悲しい結末が待っているかもしれない。でも、結果として想いが成就しなかったとしても、悲しみや苦しみも人生の貴重な一部だし、それを抱きしめて、また立ち上がって人は誰かをより深く、より強く愛することが出来るようになるのだと思う。

まだまだ至らないことばかりだけど、いつか曇りない、澄みきった心で誰かにまごころを届けられるようになりたい。

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