Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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走る理由
9月17~19日にかけて開催される佐渡のエコ・ジャーニーに向けて、最近は走りこんでいる。名前はかわいいけれど、48時間かけて206キロを走るという、結構過酷なレース。

24時間連続耐久レースのチャンピオンによると1週間かけてその距離を走れたら完走できるらしいので、8月の下旬と9月の第一週は6日で210キロずつ走る(一日は休息)。今はバングラデシュにいてトレーニングを中断しているのだけれど、ここでは体幹関係の筋トレをして、戻ってから最後のスパートをかける予定。


なぜ走るのか、という質問をよく受ける。約束したから、というのが大きな理由の一つでもあるのだけれど、もう一つは自分と向き合う期間をつくりたかったからだ。

「自分と向き合う」という意味が分かりにくいかもしれないので、実例を。

この前、仕事を早めに切り上げて42km走った。会社から皇居まで1キロ強で、あとは皇居を8周。前日までの走りこみで足は疲れ気味だし、気温は夕方になっても32度。

3周目、ちょうど桜田門を通ったあたりで右膝の外側が痛くなってきた。そうすると、途中でトレーニングを切り上げることを正当化する理由がどんどん思い浮かぶ。

「長い間悩まされてきたランナー膝が、無理したらまた再発するんじゃないか。そうしたら元も子もない。」、「今日は休んで、明日またたくさん走ればよいじゃないか。」、「オーバートレーニングはよくない。こんなに暑いし、無理すると脱水症状になる。」、「『今日は42km走る』って言っちゃったけど、膝が痛いって言い訳すれば、優しいことばの一つでも誰かがかけてくれるかもしれない。」、などなど。


これが、僕が向き合わないといけない弱い自分だ。普通に生活をしていると、なかなか顔を出してくれないけど、土壇場になって顔を出して、色々なものをだめにしてしまう弱い自分。

平常時に強そうに振舞ったりするのは誰でもできる。盛り上がっているときに英雄ぶるのも、すごく簡単だ。でも、本当に鉄の意志を持っていられる人間は相当に稀で、たいていの人は苦しい状況に立たされたらすぐに崩れてしまう。ヘーゲルが一目みたときに「絶対精神が歩いている」と評したナポレオン(彼は、最後の最後まで王者としての誇りを失うことはなかったという)のような人間は、ひとつの時代に一人いるかいないかだ。


自分を偽らず自然体でいたい、もし可能ならより強い意志の力を身につけたいのなら、弱い自分を定期的に直視せざるを得ない機会を設けて、可能であればそれを乗り越えていく必要があると僕は思う。それを続けたら、自分かわいさを少しは乗り越えられるのではないか。

長時間走ることは、自分と向き合ういい訓練だ。なぜなら、僕みたいにもともとマラソンを走ったこともない人間にとっては、このトレーニングは結構きつい状況まで自分を追い込む機会になるからだ。このトレーニングがランニングである必要はないけど、何らかの長い時間を必要とする訓練のほうが良い気がしている。仕事その他の場面で直面する困難の多くは、長い時間をかけて人を苦しめるものだからだ。瞬間的にやせ我慢をして強がるのは比較的簡単だ。


「そのような訓練は仕事を通じて行えるのではないか」、という人もいるかもしれない。稲盛和夫さんは、仕事を一生懸命に行うことが何よりの修行であると話している。それも正しい気がする一方で、意志の強さを鍛えるのに肉体的にきついことをすることには、やはり意味があるのかもしれない。一つは、肉体的につらい状況というのは、精神的に相当なストレスがかかるものであるということ。もう一つは、歩く・走るなどの訓練は、サボりようがないこと(仕事用の資料であれば、サボったことがばれにくいかもしれないが、ある距離を移動する、という課題であれば結果は一目瞭然となるかもしれない)。修行僧たちが、肉体的に負荷のかかる行をしているのには、なんらかの理由がある気がする。

東京に戻ってからの最後の三週間はラストスパート。頑張ります。

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過ちを認めること
Twitterでもブログでも、僕は自分の意見に同調する人の発言より、反対する人の発言に対するレスポンス率のほうが高くなるように努めている。誰かが自分に賛同してくれるのはうれしいことだけど、賛同よりも批判のほうに学ぶべきところは多い可能性が高いからだ。

批判のうち、的外れといわれるものもあるのは事実だと思う。「こんな人相手にするだけ無駄」と周りから言われることもある。でも、批判のうち0.1%でも相手から学ぶべきことがあるのであれば、それに耳を傾けて自分を磨くほうが良いのだと思う。人間が成長するには自己否定が必要で、ある程度まで自分の意見にちゃんと固執しつつ、自らに誤りがあると気づいたらそれは素直に謝って直すべきだ。自省と自己否定しない精神は成長しない。だからニーチェはこう言った。

「脱皮できない蛇は滅びる。意見を脱皮していくことを妨げられた精神も同じことである。それは精神であることをやめる。」

影響力のある人になればなるほどこれは難しくなる構造があると思う。ある時までは批判に耳を傾けているだけでよいけれど、そのうちに批判すらも人々が控えるようになるからだ。その状況になると、沈黙にすら耳を傾けて自省する力が必要になる。目に見えて耳に聞こえる批判にすら向き合えない人には決して辿りつけない境地だろうと思う。


批判に耳を傾けて省察することは自己の成長にとっても重要だが、他にもこれが重要な理由はある。それは、客観的に状況を見ることができる周囲の人々からは、僕が間違えているにもかかわらず自説に拘ろうとするのが見え見えだからだ。そんな状況で過ちを認めないで自分の殻に閉じこもっていると、大切な人々を失っていくことになる。過ちを指摘されてもそれを認めない人間の友達になりたい人は多くないと思う。また、個人的には、そういう人々がリーダーと目されることには違和感を覚える。


信念というのは、自説を曲げないことに根ざすものではないと思う。しっかりと自分の頭で考えぬいた上で、それでも自説が誤っていたと思ったらそれを認め、自説を改め、よりよい方法で所期の目的実現を目指す。断固として目的を実現しようとするのが信念であって、自説を守りぬくのが信念ではなく単なるわがままにすぎない。「ごめんなさい、私が間違っていました」というのは誰でも苦手だ。だけどそれを乗り越えてでも、達成したいゴールがあるのであれば、自分の過ちを認めて修正することはできるのだと思う。


普段から必要なことは、肩の力を抜くことだ。僕はまだまだ出来なくて苦労しているけれど、自分に打ち克つことの修行は次の孔子の「意なし,必なし、固なし、我なし」に収斂すると西郷隆盛は言った。すなわち、当て推量をしない、無理押ししない、固執しない、我を通さないことだ。なるべくとらわれのない心で、自我から少しばかり離れていることは、すごく大切な訓練だ。普段から心がけていても、不意に誰かに否定的な意見を言われると、「自分かわいさ」がむくむくと出てくるのを、普段から細心の注意を払いながら排除して、なるべく裸のままの自分でいられるようにする。そうすることによって、人間の精神は成長を続けることができる。目標の実現にも、少しばかり近づくことができる。


生来の性分なのか、僕はどうも自分にとらわれてしまいがちなのだけれど、努力し続けたいと思う。そのうち少しはマシになれたらよいのだけれど。
マイクロファイナンス貧困削減投資ファンド
LIP Microfinance Fund for MDGsもすでに3件の投資が行われ、その後のファンドも企画しています。今年中にファンドの投資残高は1億円を超えることになりそうです。現在モニタリングを行っているMFIのパフォーマンスも概ね好調です。

僕達が企画しているマイクロファイナンス貧困削減投資ファンドの最大の特徴は、投資家のお金が直接現地のマイクロファイナンス機関に届けられることです。どこかの外国のファンドを経由したり、国際機関を経由したり、投資金額の一部がマイクロファイナンス以外の用途に使われたりすることなく、手数料を除いたお金のすべてがマイクロファイナンス機関に届けらるファンドは、日本では他にありません。(手数料等については、ミュージックセキュリティーズ社のウェブサイトをご覧ください)スタディーツアーの実施など、直接にマイクロファイナンス機関との信頼関係を構築したうえで投資されるファンドならではの様々な特典もLIPが企画しています。

去年から仕込んでいたベトナムのマイクロファイナンス機関の報告会を今週土曜日に渋谷で14時から行われます。すでに満席近くなってしまっているのですが、空きが3席くらいあるので興味のある方はぜひ。
http://www.living-in-peace.org/Study/

それと、このマイクロファイナンス貧困削減投資ファンドのFacebookページもあります。マイクロファイナンス関連情報をかなりたくさんフィードしているので、もし良かったら「いいね!」をよろしくおねがいします!
http://www.facebook.com/microfinance.fund





((Disclaimer:特定非営利活動法人LIVING IN PEACE(LIP)は特定のファンドの勧誘、募集・売出しの取扱い行為は一切行いません。本ウェブサイトは、第2種金融商品取引業者(関東財務局長(金商)第1791号)であるミュージックセキュリティーズ株式会社(MS社)が提供する『セキュリテ』上で、MS社により運営されています。また、このブログについてのDisclaimerは「Taejunomicsについて」にある通りです)
裁く代わりに声をあげる
ビジネスやその他の場面で、悪どいことをしている人に対して憤慨している人はたくさんいる。そして、その人たちは、自分の手でその人なり会社に制裁を加えたがる。

でも、大抵の場合は自分の手で他人を裁く必要はないと思う。それには2つ理由がある。

第一に、人間が誰かを裁くときに誤謬を犯さないのは結構難しいからだ。他人が間違えていて、自分が正しいということを証明するのは意外と難しいし、特に感情的になっているときに人は間違いを犯しやすい。自分が誤っているのに、自分を正として他人を裁いてしまうと、なかなかバツがわるい。また、個人的には自分がいままでやってきたことを考えると、どうも僕には人を裁く資格が無いように思われる。

第二に、その相手が本当にフェアでないことをしているのであれば、自分自身が手をくださなくても、社会は適切な制裁を与えるからだ。すごく当たり前のことだけど、たいていの場合、世の中ではやったことと見返りの帳尻はあうようになっている。いいことをしていたらいいことが返ってくるし、逆は逆。自分の独占的なポジションを利用してやりたい放題をしていれば、必ず恨みを持つ人や、アンフェアだと感じる人がでてくる。そして、いつか正当な制裁は誰かが下す。僕がやる必要はない。

そして、こういった仕組みがうまく回るためにも、判断に必要な情報がより多くの人に適切に共有されることが必要なのだと思う。裁く必要はないけれど、届けられていない声を届けるため、隠されている事実を明らかにするため、自分の信じることを伝えるために、なるべく誠実なやり方でかつオープンに声をあげ続けることは必要なのだろう。
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