Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
20代最後の日
20代も今日で最後。9月11日のテロの余韻が冷めないままに20歳の誕生日を迎え、コーラの1.5リットルボトルを3本飲まされた手荒い誕生祝いから、もうちょうど10年が経つことになる。あまりにも陳腐な表現かもしれないけれど、光陰矢の如しと感じずにいられない。


丁度よい区切りでもあるので、この10年間を少しレビューしてみたい。

20歳の頃の僕は朝鮮大学校の二年生で、早稲田の古本屋街まで行っては古典ばかり買ってきて、それをずっと読んでいた。バイトもほとんどしなかった。お金もほとんどないくせに「自分の一時間は1万円以上の価値があるから、それに見合うもの(お金と学び)が無い限りバイトはしない」と決めていた(そのせいで親や当時働いていた弟に大分お世話になった)。

その頃に読みふけった古典の内容を覚えているかというと怪しいのだけれど、本で書かれている内容より、本に残された天才たちの思考の足跡を一緒にたどることから得られたことが多かったと思う。本の主要な内容は、今やWikipediaをみれば10分で分かる。でも、著者の思考の足跡をたどるのは、かなり長い時間を費やさないとなかなか難しい。そして、この思考の訓練こそが、古典を通じて僕が得たことなのだと思う。ちょっとやそっとのことじゃ陳腐化しない、重厚な思考の訓練。残念なのは、そういった訓練を積んだからといって、僕の思考は大して重厚にならなかったことだ。


21歳の頃は、進路について考える機会がたくさんあった。朝鮮で2ヶ月間講習を受けたり、人権系の国際NGOでインターンをしたり。色々なものを見て、自分が大好きな人権を実践する人々とともに過ごしてみて、実力の必要を感じた。色々考えた結果、自分が生きる方向はビジネスだと考えるようになった。人権とそれに関連した近現代の思想の勉強だけはしながら、経済学とか経営学の本を読み始めるようになった。

大学の軽音部の部長にもなり、歌もいくつか作った。僕の作ったいくつかの歌は、10年経った今でも、朝鮮学校で歌い継がれている。この頃に出会った軽音のOBの先輩は、僕に新しい音楽の世界を見せてくれた。この時期から、よく聞く音楽がMR. BIGからJohn Scofieldに変わった。軽音部では毎年CDを作っていたのだけれど、この編集の経験は本当に貴重なものになった。音楽の編集は全ての音を聞く訓練を必要とするからだ。音楽の編集をした後は、色々な楽曲における各パートのバランスを楽しめるようになった。

大学4年生の夏、生徒会の備品であるデジカメを借りパクしたことがある。それが担当の先生に知られて、本当にひどく叱られたけれど、他の人には黙っていてくれた。あの気遣いがなかったら今の僕は無かったと思う。こういった自分が過去に犯してきた悪いことを思い出す度に、どうも僕は人に何かを説く資格はないように思えてくる。


22歳の頃、生徒会で活動していた。どうやったら考える人が増えるのだろうかと一生懸命に考えていた。思えば大分高望みをしていたものだった。

この時期に、海外に留学しようと考えた。英語の勉強をして、TOEFLとGMATを受けた。今になって考えると、ビジネススクールを当時受けたのは、結構なロングショットだった気がする。大学卒業間際に、進路のことについて生まれて初めて父に反抗した。父の望む生き方をしていないのは兄弟四人のうち僕一人なのだけれど、自分の信じたことを貫くという点では父に最も似ているのは僕だと兄は言う。

この時期から自分は今就いているようなPEの仕事をするのだと常に話していた。大学の先生は、たった2人を除いて雲をつかむような話、無理だからやめろと言った。信じてくれた先生は二人だけで、僕のいた学部の先生ではなかった。二人とも素晴らしい学者の先生だった。あの二人がいなかったら僕はいないと思う。

卒業論文は、「右と左の憲法学的考察」。なぜ権利をRightと呼ぶのか、という疑問に対する答えを探そうとするものだった。指導教授以外は、これは法律の論文ではないと言った。でも、指導教授だった星野安三郎先生はすごくこのアイディアを気に入ってくれた。


23歳、MBA受験でHBSとCBSを受けて、面接まで行ったけど結果はダメという通知を受けた。もう一度チャレンジするべきか、どうするべきか考えた。いくつかのお手伝いのような仕事はしていたものの、この時期はほぼニートに近く、なかなかきつい時期だった。でも、この時期があったからこそ、人生順風満帆である人には決して経験することができない貴重な経験ができたと思う。ずっと、朝起きて大崎のスタバで本を読んで、品川図書館で本を読んで、10km走って、という生活を続けていた。

機会に恵まれ、演劇にも出た。たまたま役が空くことになり、準主役のセリフたくさん、アクションたくさんの役をもらった。演劇から得たこともすごく多かった。役者は、自意識から解き放たれていないといけない。自我から解放されていない限り、役者は人を感動させることはできない。3ヶ月間、素人の僕はしごきにしごかれた。このときに初めて、自分に根強く残っている自意識を意識しはじめたのだと今になって思う。この演劇は、新宿二丁目の小劇場でやったのだけれど、公演期間の1週間、色々な世界があるのだと思い知った。それと、この演劇では、舞台美術(舞台装置でもある)を一人で作らせてもらえた。これもすごくいい経験だった。


24歳になった。職歴なしにMBA受験をもう一度するのはやめようと思い、仕事を見つけるか、どうするか考えた。この時期にお世話になった人が色々と気遣いをしてくれたのだけれど、途中で、そのお世話はもう受けないと決めてそれを伝えた。この時に得た自立心はすごく大切だったのだと後から思う。ニートの時に、「何があっても死にはしないし、最悪でも健康な体さえあればなんとかなる」と腹が固まったから、色々なことがクリアになってきた。

ニートをいきなり雇ってくれる、かつPEへの足がかりになるような会社はそうはないので、とりあえずは国内の大学院に行こうと決めた。時期はもう12月になっていて、ファイナンスの勉強ができるのは早稲田だけだったから、書類を準備して面接をして運良く受かった。

早稲田は社会人大学院だったので、9時5時でバイトを探すことにした。たまたまモルガン・スタンレーのアルバイトがあったので、それを受けに行った。そこで面接をしていた人(後の上司)が僕を相当買ってくれたので、そこで働くことにした。


25歳になった。半年間はバイトと大学院を続けていたのだけれど、11月には正社員になって、本格的な仕事と大学院の両立が始まった。当時正社員になれたのは幸運だった。景気がイケイケだったから、人を雇う余裕はたくさんあった。もしあと一年遅かったら、僕のキャリアは大分変わっていたものになったかもしれない。

中途採用で入ったので、新卒で外資系投資銀行に入った子達のように大切に育てられたわけではなかった。NY研修とかは行ったことがないし、いわゆる生え抜きゆえのエリート教育とかとは無縁だったから、羨ましいなあと思いつつ、仕事ができる人の姿から学んだ。自分のいた部署はフロントではなく、ひたすら財務モデルを作る部門だったのだが、傍若無人なフロントの人々が目についた。自分は決してこうはならないと心に決めた。これまたよい経験だった。

僕がいた職場は本当にフェアなところだった。仕事をしっかりと続けていたら、認めてくれる人がたくさんいた。だから、部署とは離れたところで、色々な仕事を任されて、かなり自由な会社生活をすることができた。仕事は充実していた。


26歳になった。大学院は卒業。仕事と両立させながら成績優秀者での表彰を目指したけれど、ダメだったので、ものすごく悔しかった。今になって振り返ってみると、そして今もそうなのだけれど、僕はものすごく成績にムラがあることに気づいた。面白い授業でないと、いい成績がとれない。好きな事だけを学ぶ必要があると身にしみて感じた。

大学院で一番楽しいと思った授業は、池田昌幸先生の金融経済学の授業だった。特に心を動かされたのは、CAPMだった。あの単純な数式に、この上なく美しい世界観が込められていた。この分野は本当に一生懸命勉強していて、この分野の論文はどんなものでも理解できるようになったし、ちょっとした本が書けるくらいになった。

パートタイムのNPOであるLiving in Peaceの活動を始めたのもこの時期だった。当初LIPは「開発勉強会」という名前の硬派な勉強会だった。素人だらけの開発勉強会で、経験のある人は、たまに来てもすぐに去っていった。LIPというNPOが、特定のスキルを持っている弁護士とか会計士を特別扱いしないのは、このときの経験に基づいているのだと思う。

この時期にはリーマンショックがやってきた。会社が本当に潰れるかと思った。毎日不安になってGoogle FinanceでMSの株価を見ていたのだけれど、ふとした時に、いつの間にか会社に寄りかかっている自分の存在に気付き愕然とした。もうこんなことは無いように、と心に決めた。


27歳はひとつの節目の年。生まれて初めてのひとり暮らしを始めた。この時は、北千束にあるガラス張りのデザイナーズマンションに住んでいた。夏は涼しくてよいのだが、冬は暖房をつけても寒かった。電気代がもったいないので、暖房をつけるのを諦めて家の中でも厚着をして過ごした。四季の厳しさを感じることができる家で、駅前には美味しいイタリアンとスーパーとクリーニング屋があり、騒音は少なく、駒沢公園まで走っていける距離。今でもあそこに住みたくなる。

当時一緒にいた人との関わりで、誰もが知っている企業の経営者の方々に会う機会が沢山あった。みな素晴らしい人々で、気遣いも最高で、経営者とはこういう人々なのかと感動した。この頃にトライアスロンを始めた。でも、当時一緒にいた人と離れた途端、その後も関係を続けてくれたのは、大勢の知り合いの中でたった一人だった。一緒に遊んだり、一緒に食事をしたり、色々な気遣いをしてもらったといっても、その人とのつながりは、自分という人間を見てくれてのことなのか、よく理解する必要があることを学んだ。それ以来、これまで以上に大勢の人が集まる場所に行くのが億劫になった。それよりも、一対一で、コツコツと人と関係を作っていくことが好きになった。人づきあいの基準は、その人がどんな力を持っているかよりも、僕が仮にスケープゴートになって刑務所に入ったときにも僕の無実を主張してくれるかどうか、になった。

それと、この年には、人生で初めて、悔やんでも悔やみ切れないことをした。人生で一番泣いて、一番後悔した。一生背負わないといけない十字架を負って、それ以来、僕は一人でご飯を食べる時に肉を食べていない。

それと、LIPを通じて日本で初めてのマイクロファイナンスファンドを作ったのもこの時期だった。いろいろな紆余曲折を経て、2009年の9月に日本初のマイクロファイナンスファンドを、どの証券会社よりも早くNPOが作ることができた。

それと、27歳の時には、人生で初めての本を書いた。「15歳からのファイナンス理論入門」。韓国、台湾、中国で出版された。

トライアスロンのロングディスタンス(3.8キロ泳ぎ、190キロ自転車をこぎ、42キロを走る)を、肋骨が折れるというトラブルに見まわれながらも完走した。


28歳。プロモーションもして、大きな仕事も一段落がついたところで、いよいよPEに行こうかと思った。当時の友人が、今の勤め先のパートナーと知り合いで、一緒に食事をした後に、投資チームメンバー全員と面接をして、オファーレターが出た。迷わずサインをした決め手は社長面接だった。

PEに移った最初の時期はなかなか大変だった。今まで一次方程式を解いていたのが、十次方程式を解くようになったようなものだった。周りのメンバーを見ていて「なんて賢い人々だ」と驚かされる毎日だった。助けられたのは、4年間必死にやっていたモデルや資料作りのスキル。これを足がかりにして、自分の居場所を作ることができるようになった気がする。

転職をきっかけに、会社のプログラムもあり、表参道のランドマーク的なマンションに住んでみた。夜中に家に帰ったら、警備員さんが「おかえりなさい慎さん」と言うのを聞いて、ちょっとやり過ぎだと思い引越しを決意した。結局この家には半年くらいしか住まなかったのだけれど、この家にいたときは、場所が便利というのもあって、大勢の人がひっきりなしに遊びに来た。プライベートに関しては、色んなことが起こりすぎていた。何に取り憑かれていたのか分からないけれど、本当にこの時期の自分はおかしかったな、と今になっても思う。でも、これはこれで必要な時期だったのかもしれない。


そして29歳。色々な変化があった時期。

仕事はようやく感覚がつかめてきた。落ち込む出来事もあったのだけれど、一年前よりは良い感じだ。手持ちのスキルも少しばかり増えてきた気がする。プライベートも安定している。

20代最後のチャレンジは佐渡での208kmマラソンだったのだけれど、これも無事に完走することができた。完走することを通じて学んだことが沢山あったが、一番の収穫は、このレースを通じてようやく自意識の枠から解き放たれることができるようになったことだ。

自意識の枠を取り払わないといけないと演劇を通じて気付かされてから大分時間がたった。「バガボンド」に出てくる柳生石舟斎の心境にどうやったら辿りつけるだろうかと、この期間に相当に苦心してきたのだけれど、208kmをかなり苦しい状況で走り抜けることを通じて、「あ、自分って本当にちっぽけだ」と気づき、他人に生かされている自分を思い知って、気がついたら、ふっとその自意識から抜け出すことができるようになった。

この感覚が身について以来、本当に楽になった。バリアに守られているみたいに、人から馬鹿にされたり挑発されても、心が動揺しなくなった。変にかざる必要もなく、ダメなものはダメ、知らないものは知らない、自分が間違っていたら間違っていた、とこれまで以上に素直になれるようになった。肩の力もふっと抜けた。自分がどう見られているかにフォーカスしない分、結果にフォーカスできるようになった。20代最後の最後でこの精神状態に入ることができて、すごくうれしい。


あと3時間で20代もおしまい。30代の10年間はどんなに楽しいものになるだろう。

スポンサーサイト
「第六回佐渡島一周エコ・ジャーニーウルトラ遠足206km」の顛末3
完走した後に感想を聞かれたときに、思わず「運が良かったし、周りに助けられた」と口から出てきた。その時は、「運がいいだけじゃ、208kmも走れないよ」と言われたのだけれど、あれから数日経ってもやっぱりこの感想は変わることが無さそうだ。

正直なところを言うと、特に初日目は、完走した後には「やりゃできる」とか「要は気合」とか威勢のいいことを言ってやろうと思っていた。そう思ってたから、神様に懲らしめられたのかもしれないけれど、初日目を走り終えてあのキツイ状態から110キロ以上を走り切れたのは、どうも自分の力のように思えなくなった。

個人の努力とか意志とかはすごく大切だと思うのだけれど、物事がうまくいくかどうかは、それ以外の多くの事に依存していると思う。天気だったり、周りの人々の助けだったり、色々。運命のいたずらに文句を言わず、人の優しさに感謝することの大切さを身にしみて学ぶことが出来た。一度覚えたら忘れないのが、自分の身体を通じて学ぶことのよいところだ。

あと、強さについての考えも少し変わった気がする。どんなときも自分を穏やかな気持ちで見つめられること、どんな大変な状況でも余裕をもてることが強さなのかもしれないと思った。まだうまく言葉にはできないのだけれど、強さと荒々しさは全く別物だという考えが強くなった。


大会後は身体の調子は当然良くなく、足が象のようにはなっていたのだけれど、精神的には20代最高の状態にある。なんというか、これまでよりずっと肩の力が抜けて、自意識からずいぶん距離を置くことができている。この状態で10月1日から30代を迎えられるのがすごくうれしい。


318320_10150309365693941_545578940_7912566_1219904266_n.jpg
次の挑戦を何にするかはまだ決まっていないのだけれど、年齢的に考えるとラストチャンスの格闘技なのかなと思ったりしている。もともと僕の家系は遺伝的に格闘技向きのはずでもあるので、やってみないのはもったいない。

このレースを完走することで出走資格を得たスパルタスロン(スパルタの戦士が走ったと言われる250kmの道のりを36時間で走る)やエベレスト登山は、40代になっても十分にできそうなのでその時までにとっておこう。
「第六回佐渡島一周エコ・ジャーニーウルトラ遠足206km」の顛末2
7月18日(日曜日)

熱のせいで悪夢をみていたら、誰かが僕を揺り起こす。 @makwn だ。僕が時間になっても起きてこないので、仮眠部屋にまで来てくれた。

まだ3時50分で真っ暗。周りにはまだ眠っている人もいるし、僕ももう少し眠りたかったけれど、なんとか起きる。

仮眠所を出たのは4時10分くらい。夜道は危ないと聞いていたので、同じ時間に出発しようとする二人組がいたのでついていく。

後になって振り返ってみると、この時間に出発していなかったら、僕はゴールできなかったと思う。タイムがどう、というより、様々な理由によって。

ひとつめの理由。僕が出発した頃に部屋でまで眠っていた人の大半はリタイアした人だった。大抵の人は仮眠所でもほとんど眠らず、眠っても1時間程度だけですぐ出発するようだ。あの時間に出ていなかったら、誰にも追いつけないまま僕のレースは終わっていたかもしれない。

ふたつめの理由。このたまたま一緒に道を出たKさんは、僕と走るペースが同じで、とても用意周到な人だった。Kさんの持っていたテーピングやサプリに僕は相当に助けられることになる。

みっつめの理由。仮眠所を出て1時間くらいして見た、佐渡の朝焼け。夜明け昨日までの雨がきれいに空のチリを落としてくれたからか、今までで見た朝焼けの中でも最も美しい朝焼けだった。オレンジ色の光が、町と山を優しく包んでいき、見渡すかぎり全ての風景が染まっていった。


その光のなかで、なぜだか分からないのだけれど力がみなぎってきた。この時でまだ残り距離は105km以上あったのだけど、なぜか行けそうな気がしてきた。


二日目も、前日と同様に坂は必ず歩き、平地のみを走る。

残り100km地点で水ぶくれが破れた。ここで、Kさんにウルトラランナーの水ぶくれ治療法を教わる。曰く、水ぶくれに3ミリくらいの穴を空け、そこに軟膏を流し込み、水ぶくれの中にまんべんなく行き渡らせる。
絆創膏
最初はとてもしみるのだけど、1時間も経つと痛みが完全になくなった。

残り90キロ地点で右すねの筋肉が痛くなる。シンスプリントと同じ痛み。とはいえ休むことはできないし、ここですねをかばってフォームを崩すと全てがダメになるので我慢して走る。

5時間ほど走り歩いて、二日目の第三エイド到着。この時点ですねはかなり損傷。このエイドでリタイアした方にコールドスプレーを分けてもらう。

すねはとても痛いのだけど、休んだら終わってしまうので、走り始める。昨日が嘘のような快晴で、日差しが黒いシャツとタイツに照りつける(黒じゃなきゃよかったと少し後悔)。

同じ海岸線沿いをずっと走る。画像 033ここで残り72km。昨日渡しておいて取るのを忘れていたサプリを取り、全く不要になった(と勘違いしていた)レインコートを預け、ランニング再開。


右すねを無意識にかばっていたのか、今度は右足首が痛くなる。動かすだけでズキズキする。でも休みようがないし、死ぬ痛みではなさそうだから、フォームに気をつけて走り続ける。

そうこうしているうちに、小木港に到着。トライアスロンのレースでは、バイク最後の山場の小木坂がある場所。幸いにも薬局があったので、コールドスプレーと栄養ドリンクを購入。腰も痛くなってきたので、腰にコールドスプレーを塗ってもらう(これがまた後で失敗と気づく)。

小木を通り過ぎ、激しいアップダウンの坂道を越えて宿根木へ。昔ながらの美しい家が立ち並ぶ場所。カメラを持っていなかったのが悔やまれる。

さらに走り、午後5時頃に最終エイドに到着。ここまでは予定通り。残り48キロだから、時速4キロで歩いても間にあう。

最終エイドを過ぎるとあまりお店も無いし、もう暗くなるので、多めにご飯を食べる。そして、Kさんからテーピングを借りて足首を固定。このテーピングがものすごい効果を発揮してくれた。足首の痛みがかなり和らいで、すごく楽になる。

最終エイドを出発して少しすると、もう景色は暗くなる。このあたりは一番人通りも少なく寂しい海岸線。ヘッドライトを付けて走り続ける。

ここから10kmくらい進んでの井坪で、またまた痛恨の道間違い。15分くらい真っ暗な道で途方にくれる。しょうがないので、元に来た場所まで戻ると、そこに地元のおじいさんが。地図を見せて、ここに行きたいんですというと、車を出してくれて、道案内をしてくれた。(当然車には乗らず後から走ってついていく)


この井坪を超えたら、今度は5キロくらいの長い海水浴場通り。電気が通っていないので真っ暗。

5kmくらいこの道を進み、山道を1.4km登り、やっと大通りに合流。ここでまた休憩。

休憩中はなかなか大変だった。腰にエアーサロンパスを吹きつけたせいで、座っていると寒くて震えてくる。歯がガチガチなる。レインコートはさっき預けてしまったので、寒くて困る。

やっと車が出る大通りに出たので、多分@makwnと@amiableがどこかで待ってくれているだろうという気がしてきた。一緒に走っているKさんは半信半疑だったけど、「いや、ぜったいあの二人はどこかにいます」と僕。

果たして、大通りに出てから5kmくらい走ったところに、二人の乗っている車があった。待ち疲れたのか、二人とも眠っていた。起きてもらって、充電に預けていた携帯電話とレインコートを手にする。走りながらずっとTwitter中継をしていたので、途中で6時間くらい中継が途切れて多くの人が心配してくれていた。

ここで残り32km。時間はまだまだある。

ここから先はまた長いアップダウンの繰り返し。それが終わると、最後の海岸線沿いの長い通り道。トライアスロンの自転車では、この通りは常に強い向かい風が吹いて大変なのだけれど、今日も強い向かい風が吹き続けていた。それをひたすら走り、ついに佐和田に到着。残り16キロ。

もう足もかなり痛い。テーピングをしているとはいえ、痛み出してからもう70kmは走っているのだから当然だ。でも、まだ走ることは出来るので、歩くことと交互にジョギングを続ける。


レース前に手渡された20数枚の地図も残り2枚になっていた。

最後の1枚を覗いていみると、ゴールまでの距離が208kmと書いてある。

・・・なんと、佐渡206kmエコジャーニーというタイトルであるにもかかわらず、このレースは208kmのレースだった。道の間違いを含めると僕は215kmも走ることになる。道を間違えていなければ今頃は残り7キロくらいだったのに、とか思いつつも、詮ない悩みと、歩を進める。

残り10キロ。足はもう大変な状態だけど、まだ大丈夫。ここでとんでもない故障にあうのだけはいやなので、慎重に足を進める。佐和田を超え、相川に向かうまでの最後の道に向かう。またここでも激しいアップダウン。残り3km地点まで、このアップダウンはずっと続く。

残り2km地点で、ゴールが遠目に見えてきた。残り1km地点では、@amiableが待っていてくれた。ゴールでは、@makwnがカメラを持って待ち構えていた。


そして、無事にゴール。

314571_10150309364418941_545578940_7912548_1763498369_n.jpg時間は46時間30分(正確なタイムを覚えていない)。元々は42時間ゴール予定だったが、最後の足の痛みで大分遅れてしまった。とはいえ、時間内に着いて本当に良かった。


ゴール後にKさんとお疲れ様でした、と握手。出発地点でもあっためおと旅館で早速お風呂に入りすっきりしてから、ビールを飲んでまったりする。ソファーに寝転んでいたら、いつの間にか眠りについていた。

(続く)
「第六回佐渡島一周エコ・ジャーニーウルトラ遠足206km」の顛末1
9月17日の午前6時にスタートし、19日の午前6時までに佐渡一周206kmを走るという「佐渡島一周エコ・ジャーニーウルトラ遠足206km」の存在を知ったのはちょうどこのレースが開催されていた一年前。それまではウルトラマラソンのことは全く知らなかったのだけど、やり甲斐のありそうな大会なので、20代最後のチャレンジとして今年の目標の一つに加えていた。

この大会は「自分のことは自分で」という考えが根付いている。普通のウルトラマラソンであれば、5kmから10km進めばエイドステーションがあり、そこでは簡単な補給食以外に、おいしい地元料理だったり、医療道具があったりする。でも、佐渡の場合、エイドステーションは30~40kmに一つのペースで、置かれている食べ物も基本的なものだけ。必要な荷物は全て自分でザックに担いで走ることになる。基本的に100km以上のレースを走ったことがあるランナーしか参加できないので、トライアスロンを完走しただけで参加させてもらえたのは今回僕だけ。


というわけで、レース記録のはじまり。


7月16日(金曜日)

レース直前は仕事がなかなか忙しく寝不足だったが、金曜日に有給休暇をもらい(チームの皆さんに本当に感謝)、ちょっと朝寝坊して佐渡のある新潟に向かう。

新幹線に乗って新潟に着いたときにふと荷物をチェックしていて青ざめる。ゼッケンがない。もしかしてここでチャレンジ終了か、と焦りながら事務局に電話したら「何とかしましょう」とのこと。僕のゼッケン番号は375番だったのだが、ちょうど376番の人が不参加となったので、375をマジックで376に書き換えて、無事にゼッケンが準備された。助かった。

新潟からジェットフォイルに乗って佐渡についたのは17時頃。そこからバスに乗って、会場である「めおと旅館」に着いたのは18時半くらいのこと。会場ではすでに前夜祭が始まっていたので合流。

そこは完全に酒盛りの場だった。僕が想像していたのは、レース前の緊張感たっぷりにご飯を黙々と食べている人々だったので、びっくり。出走者の90数名のほとんどが酔っ払っていばかりで異常な盛り上がりとなっている。ちなみに、ウルトラマラソンの選手の平均年齢は高い。今回の平均年齢は50歳くらい。(ちなみに、ランナーの1割くらいは、レース開始後も走りながらビールを飲んでいた。)

酒盛りが終わったのは9時くらい。お風呂に入ってザックに荷物を詰める。重たいものはなるべく持ちたくないのだけれど、なんだかんだ3kgくらいにはなった。準備が終わったら眠りにつく。緊張でなかなか眠気が来ないし、相部屋となった4人のうち、2人が激しく酔っ払っていたので、眠りに着いたのは10時半頃。


7月17日(土曜日)
起床は夜明け前の午前4時。下の食堂で皆さん黙々とご飯を食べる。僕は食後にお風呂に入って体を起こして、着替えて準備完了。天気は雨。今日は一日中雨が降るようだ。

午前6時、いよいよスタート。皆走り始める。
画像 010
今回は完走だけが目的。完走のためには膝への負担が少ないように歩きに近いフォームで走る必要があるので、ランニングのフォームに移る前に、黙々と1kmくらいは歩く。体が温まってきたところでランニング開始。

佐渡は山でできている島なので、島一周と言ってもアップダウンはかなり激しい。上り坂は筋肉疲労を早め、下り坂は筋肉崩壊を早める。だから、今回は、上り坂も下り坂も全て歩くとはじめから決めていた。

2時間目、早速道を一回間違える。まっすぐ行くべきところを左に行ってしまう。渡された地図を見ながら気を付けないといけない。

4時間走ったところで、30km地点のエイドステーションに到着。ほとんど疲れていないので、食べ物だけは食べて、すぐにエイドを出る。雨が相当に強かったので、靴はぐちゃぐちゃになっている。

少し走って40kmを通過したところで、佐渡の坂道の名物であるZ坂に到着。坂道がZ型になっている坂で、トライアスロンの自転車コースの最初の山場でもある。
画像 019
ここはひたすらに歩く。応援に来てくれた @amiable と合流したので、世間話をしながら歩く。ずっと上り下りが続き、それが終わった次点で45kmを通過。平地になったので @amiable と別れて走り始める。

50km地点で、佐渡の名勝の一つである大野亀に到着。大きな亀の形をした岩のところ。ここもトライアスロンで通った懐かしい場所。
画像 021
仕事の電話をしながら走っていたら、またここで道を間違える。亀岩を通り過ぎたら海岸に向かうための細い下り坂に入っていく必要があったのだけれど、間違えてトライアスロンのコースである国道の上り坂を進んでしまう。誰にも会わないので変だなあ、と思って下の海岸線を見ると、米粒くらいに小さいランナー達が走っている。さすがに50kmを通過したところで数キロも道を間違えるとどっと疲れるが、しょうがないので道を戻る。ここで3キロくらいロス。

急な坂を下りきったところで、今度は海岸線を走る。道路は舗装されていないどころか、ゴツゴツした岩場で、雨ですべりやすくてとても危なっかしい。
画像 023
この岩場を1キロくらい進むと、賽の河原という名所につく。子どもの霊を供養する地蔵が無数に置かれている。後になって、ここにまつわる色々な言い伝えを知った。「積み上げられている石を崩しても次の日にはまた積み上がっている」、「置いてあるものを持ってきたら祟りにあう」など。

そんな言い伝えを知らずとも、この場所はすごく厳かなオーラを放っていて、写真を撮ろうという気持ちにもならず、願掛けだけをして通りすぎる。


賽の河原を抜けた後に少し走ると第二エイド到着。初日目最後のエイドで、ここから仮眠所までは46キロを走り続ける必要がある。基本的にゆるやかな海岸線沿いを黙々と走る。一緒に走る人もいないので、ひたすらにマイペースで走る。

このあたりでそろそろ足が疲れてきたが、途中でストレッチをしながら走る。

仮眠所まで残り20km地点でもう日没がやってきた。頭にライトをつける。膝の状態がちょっとまずくなってきたので、基本的に歩くことに決めて歩き続ける。

思うとこれが失敗だった。二日目に気づいたのだけれど、走るときに使う筋肉と、歩くときに使う筋肉は違うので、実は交互に走るのが一番筋肉へのダメージの蓄積が小さいらしい。

4時間ひたすら歩き続けるうちに、腰も痛くなってきてキツイなあ、と感じていたところで、仮眠所に到着。

到着時間は10時で、これはほぼ予定通りだが、体調は全く予定通りでなかった。仮眠所についた時は一番きつかった。膝はちょっと上げただけで痛いし、腰も張っている。お風呂に入ってもなかなかダメージは回復しない。冷たい夜の雨に打たれたせいか、喉は痛くて熱がある。

さらに、雨の中走っていたので、足はひどい水ぶくれ。靴が濡れているので、普段鍛えて硬くなった足の裏の皮もふやけてしまい、どうしても水ぶくれができる。厚さ5ミリ、直径4センチくらいの大きなものが数箇所できている。他のベテランランナーの皆さんも同様に水ぶくれに苦しめられていた。リタイアしたおじさんは、「水ぶくれの処置を誤ると菌が入って切断しかねなくなるので本当に注意するように」とアドバイスをくれた。主催者の方は「今回を通じて皆が雨の中の足を知って、また一つ強くなる」と満足そうだった。


ここから残り110キロを走るのかと思うと気が遠くなる。20代最後で一番追い込まれていた瞬間のひとつ。

ここで助けてくれたのが、応援にきてくれた @amiable と @makwn 。二人が交代にマッサージとストレッチをしてくれた。時間として1時間以上。それを終えて、12時半くらいに眠りにつく。3時間だけだったけれど、これ以上ないくらいに汗をかいた。布団をかぶってもいないのに、汗が止まらない。普段から熱があるときによく見る悪夢を見ながらも、音楽を聞きながら3時間睡眠。

僕が眠っている間に @amiable は服と靴をドライヤーで乾かしてくれ、 @makwnは「3時間だけ眠る」と言っていた僕を起こすために徹夜してくれた。


(続く)
レース直前
いよいよ明日はレース本番。現地に向かう新幹線の中。

この期間に靴は2つ履き潰した。練習最後の3日間で135kmを走り、ある程度コンディションは作り込めたと思う。最近仕事がとてもバタバタしているので寝不足だったのだけど、今朝は爆睡(それでエントリー時間に遅刻が確定)、大分疲れもとれた。こんな状況にもかかわらず、レースに送り出してくれたチームのメンバーに心から感謝。

レース当日の佐渡は二日連続降水確率50%以上。そして、予想最高気温が30度・29度と、例年よりもかなり高い。以前、最高気温が28度程度だった時でさえ、選手たち(みんなウルトラマラソン経験者)の半数がリタイアしたという。

少しの不安と緊張もあるのだけれど、楽しみの方が多い。人生において人間に与えられる時間は限られているのだから、自分がたまたま出会ったクールな機会には出来る限り挑戦していきたい。人には限界に挑戦する権利がある。それに加え、自分との闘いの過程に気付かされることは本当に多い。

レースの距離が206kmであり、これに併せて児童養護施設のファンドレイジングもしている。フルマラソンしか走ったことがない僕のチャレンジを応援してくれる方はぜひご協力ください。http://justgiving.jp/c/7140

当日の様子は(力のある限り)Twitter(アカウントは@81TJ)で実況します。雨でiPhoneが壊れないとよいのだけれど。

では、行ってきます!
選ぶ基準
時流に乗って、運が味方すれば、時代の寵児になるかもしれない。でも、全くそういったものに憧れないし、いつか自分がそういう状態になったとしてもただただ当惑するばかりだろう。というのも、歴史に残る業績は、そういった時流とは全く関係のないものだからだ。ガリレオ、コペルニクスなど、そういった例は枚挙に暇がない。僕も、できることであれば、歴史に残る何かができないかと思う。ニートだった6年前 から 同じ事を言っていて、あの時と同じように大崎ゲートシティのスターバックスでいまこのブログを書いている。


あの時から今まで、学びの全ては、それらが時代の試練に耐えられるかどうかが基準だった。本を読むときには、新刊本にはほとんど目もくれず、数十年以上生き延びている本を手にとった。聴く音楽も、レッスンを受けているドラムも、だいたいの楽曲は60年代、70年代のR&B。自分の「ものを見る目」が鍛えられない間はそうやって読むもの、聴くもの、見るものを選別してきた。自分の師と勝手に仰ぐ人々のほとんどは還暦以上の人々だ。


自分の活動についても、その活動の結果が目の前の問題解決とともに、社会の構造的な変化をもたらすものになるかどうかで、始めるかどうかを決めることが多い。バイアウトファンドにいるのも、複数企業の成長に同時に貢献することで、産業の構造的な変化をもたらすことが出来るかもしれないからだ(ちなみに、このことは今の勤め先のGuiding Principleだ)。


Living in Peaceの活動は、機会の平等を通じた貧困削減は当然のことながら、これまでは誰もできなかったパートタイム事業のあり方を革新することが 目的になっている。

多分、昔も本業を持ちながら、副業で色々なことをしている人は多かったと思う。バリバリのビジネスパーソンでありながらミュージシャンである人は友人にたくさんいる。

けれど、パートタイムで組織を作って事業をするというモデルはまだ日本にはあまりなかった。多分それは、情報伝達の効率が一因になっている。手紙と有料電話しかなかった時代には、同じ場所に集まらないと仕事にならなかった。手紙や電話でのコミュニケーションと、面と向かってのコミュニケーションには情報の伝達量に格段の差があったからだ。

でも、今は違う。インターネットを通じて無料でテレビ電話ができて、会議通話もできる。文書や写真も簡単に共有できるし、グーグルドキュメントを使えば、みんなが同時にひとつの文書を修正することもできる。インターネットが発達すればするほど、ある組織のメンバーの全員が同じ場所にいる必要性は下がっていく。

今はみんなの持っている細切れの時間をうまく集めたら、パートタイムのメンバーだけでも立派な事業を作ることができる。今でさえそうなのだから、将来にはもっといろんなことができるようになるはずだ。
今度9月25日にはプロボノフェアがある。LIPの活動は普通のフルタイム組織と変わらない事業なので、近年「プロボノ」という言葉が持つイメージ「ちょっと専門性を使ってお手伝い」といったものとはかけ離れている。さりとて、「パートタイム事業」と言ってもどうもイメージがピンと来ないのでこのようなタイトルとした。7つの団体が参加し、酒井穣さんを基調講演者として迎え入れてイベントを行う。イベント詳細はこちらに記載されている。
http://www.living-in-peace.org/_common/img/pdf/20110925_probono.pdf


ここまで少し意気込んで書いてみたものの、LIPが理想状態からはまだまだ遠いことは間違いない。 活動開始からそろそろ4年なのだけど、いま3回目の試練を迎えている感じがするように思われる。これを抜けると、いよいよ新しいステージに立てる気がする。正念場だ。


ランニングの直前準備
本業がいい感じに盛り上がってきていて、ちょっとバタバタしているなか、佐渡206kmマラソンの最終準備中。

直前になって色々と新事実が発覚し、ショックなことがいくつか判明。

一つ目は荷物。基本的に持参しないといけない。仮眠所に先に荷物を届けておけるものだと思っていたので、精神的に結構きつかった。それと、基本的にみなリュックサックを背負って走るらしい。

ということで焦ってランニング用のリュックサックを購入し、これにパソコンと飲み物を詰めて走ることに。初日はかなり膝への負担が大きくて大変かなと思ったけど、今日は平均4キロくらいの荷物(飲み物を飲むと軽くなる)を背負って、48キロ走ることができたので、何とかなりそうな気がしている。

最近はこのリュックのおかげでラン通勤。会社まで走って着替えて仕事して、着替えてトレーニングして、走って帰る。電車賃がかからない生活。


二つ目は大会参加者層。大会参加者の中で42kmしか走ったことがないのは僕だけであること(ちなみに、この42kmはトライアスロンで190キロ自転車漕いだあとの42kmではある)。同年代は二人しかいないのだが、二人とも異常にタイムが早いので、一緒にのらりくらり走ってはくれないだろう。


三つ目はエイドステーションの少なさ。なんと、休憩所は30~40kmに一つしかない。だから、食料や飲み物を色々と詰める必要があって、荷物もかなり重くなりそう。


有り難いこともいくつか。

足が太いので、長距離を走るとももが擦れていたかったのだが、ワコールのランニング用下着を買ったらこれが見事に解決したこと。日本の下着メーカー、すごい。

このレース、色々あって応援なしで一人で走ることになり、正直かなり心細かったんだけど、友人が応援にきてくれることに。すごく心強い。


もう最終調整の時期で、あとトレーニングできるのも10日のみ(最後の一週間は休養)。悔いがないように最後まで頑張ります。
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。