Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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誓いをたてることの意義
少し前から、年末年始にかけてその年の振り返りと新年の抱負を、色々な人に送ることにしている。

1年365日に特別の優劣はないはずなのだが、めぐる季節に基づいた人々の生活・慣習のリズムはずっと存在しているわけだし、1年を周期として物事を考えることに一定の意味合いはあるのだと思う。そして、時間軸が長いことに関する思考は忙しい時期にはしにくいので、1年のうちで最もゆったりと過ごせる年末年始に計画を立てることにも、一定の合理性を認めることは可能だろう。

さて、上述の理由から年初に計画を立てたとして、それを人前で宣言することに意味があるのか、より具体的に言えば、そのような「誓いをたてること」に何か肯定的な側面があるのか、ということを考えたい。

誓いを口にすることに否定的な意見もある。ある研究によると、目指していることを口に出すと、脳があたかもそれを達成したかのように感じ、その実現のための努力が減ってしまうということがあるらしい(参考:Wang & Aamodt, “Welcome to Your Brain”)。また、誓約をたてることで、何らかの柔軟性が失われ、結果として非効率的になってしまう可能性も否定できない。


しかし、個人的には何かを人前で宣言することにはメリットがあると思う。

上杉鷹山は米沢藩の藩主になる前に神前で誓約をしたし、ガンジーも誓いを立てることの価値を認めている。常人よりも強靭な精神力を持つと考えられる彼らが誓いを立てた理由は、人間の弱さ、自分の弱さを認めているからだ。だからこそ、敢えて自分が逃れようのない状況を作り、自身を目的成就に駆り立てる。お世話になっている人や仲の良い友人たちに目標を宣言することで、自分自身を律することができるようになる。もちろん、超人的な精神力を持っている人だったら、そういう誓約すら不要かもしれないが、僕も含めて多くの人はそうではないだろう。

次に、誓いによって柔軟性が低下するという意見について。これについても、認識において仮説が果たす役割について考えることで、誓約することの価値を認めることはできるのではないだろうか。誓約とは、一種の仮説であると考えることができる。具体的にいうと、「誓約している事項が正しいものである」という仮説だ。僕の2012年目標の例でいうと、「Googleの選んだ名著100冊を読むことは、他の時間の使い方と比較しても良いことだ」と僕は考えているわけだ。

仮説の効能のひとつは、それを持つことで、大量の情報を、優先順位づけをして取得できるようになることだ。特に仮説も持たずにただただ日々を流れるままにしていることと、何らかの仮説を持って日々を過ごすのでは、気付きの量が違う。場合によっては仮説(すなわち、誓約事項)は棄却されてもよい、すなわち、「やってみたけど、意味が無いことがわかった」となってもよい。だけど、それがそもそも無いことと有ることの間には、雲泥の差が生じる。


そういったことを鑑みると、やはり僕は何らかの誓いを人前でたてることに一定の意義を認めているし、それを続けている。多くの人にも試し てみてほしいと思う。
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