Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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人間の学びに関するメモ
こういったものは、ほとんど英語ブログに寄せているのだけれど、久々に日本語でも書いてみる。人間の学びに関するいくつかのメモだ。


1.人間は追体験によって多くを学ぶ。

人間の学びは、経験と追体験から得られる。もちろん経験が重要なパートを占めるわけだが、人間の学びの多くは追体験から得られる。ここでの追体験というのは比較的広い意味で用いられていて、物語を聞かせてもらうことから始まり、自動車の運転まで様々だ。

人間の学習が経験だけに依らない一つの理由は、経験だけで学ぶことのコストが時に非常に高いからだ。例えば、飛行機の運転を経験だけで学ぼうとしたら、習熟するまでに事故死してしまう可能性が高い。

ナポレオンは歴史を非常に熱心に学んでいた。そのため、彼は指揮官として戦場に立ったとき、ほとんどの状況をパターン認識して的確な指示をだすことができたという。これも一つの追体験を通じた学びの効果を示す事例だろう。


2.人間の学習にはサイクルがあり、それは動機と認識能力(言語能力)に依存する。

学びのサイクルをモデル化すると、それは、情報を受け入れ、覚え、実施し、モチベートされるプロセスから成ると考えられている。抽象化されたモデルを通じた学びはイノベーションのドライバーでもある。

特に動機づけのパートが、このプロセスの回転率を高め、学びを早める要因 になるが、動機づけには三種類がある。経験から得られるもの、追体験から得られるもの、自分自身から得られるもの。最初の二つは外的要因によるものだが、最後の一つは個人が自分に対して設定する基準に依存している。その基準の水準は、親が高い規律を自らに課し、それを重視し、甘やかさず、他人との過度の比較を行わない場合に高くなる。すなわち、簡単に自己満足せず、前に前進し続ける人を育てたければ、親がそういう人間になるしかないというわけだ。

また、このプロセスは人間の認識能力に依存しており、その認識能力は言語に大きく依存する。言語なしには、情報を取得し、再構築し、また評価することは難しい。全ての経験や追体験から得られた情報は、認識能力が無いとすべて通り過ぎてしまう。


3.人間の成長は、本人と外的環境の相互作用によって決定される。

人間の学習は外的環境によって完全に決まるものではない。人間の行動そのものが外的環境を変えうるものであり、相互決定主義が人間の成長における外的環境の影響を記述するのに最も妥当であると考えられている。人間は環境の完全な奴隷ではなく、それそのものを能動的に変えていく可能性に対して開かれている。


Reference:
Albert Bandura,"Social Learning Theory, Prentice Hall; 1st edition (1976/11/1)
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数え方
今日は泳いだのだけど、その途中でふと気付いたことがあった。往復回数の数え方だ。

例えば、片道50mのプールで3キロ泳ごうとしたら、プールを30往復することになる。ただ泳いでいると自分がどれだけ泳いだのかを忘れてしまうので、今何キロ泳いだのかを、往復回数で数えることになる。

このとき、どうやって往復回数を数えるだろうか。二つの数え方がある。一つは、1、2、3と泳いだ分を数える方法、もう一つは30、29、28と、残り泳ぐべき分を数える方法だ。

この数え方一つに、根本的なものの見方考え方の違いがあるかもしれない。泳いだ分を数える方法では、視点は過去にこれまでやってきたことにある。終わった時には、この例なら、30回という数が残って終わる。多少の達成感もあるのかもしれない。

一方で、残っている往復回数を数える方法においては、視点は未来にある。達成するべきものだけが目の前に見えていて、達成されたときに、回数はゼロになる。少し大袈裟かもしれないが、修行を終えたお坊さんが、全てを終えた後の心が空であると表現するのに似ている。

残念ながら、僕のこれまでの数え方は前者だった。そこには、もちろん未来を向いてはいるものの、若干ながら過去に達成したものに目を向けてしまう自分の傾向が見て取れた。

これは、単に泳ぎにおける回数の数え方という問題に限定することは出来ない。日頃の何気ない所作の中にこそ、その人の本質があるという考え方に立てば、これは無視できない傾向だ。似たような問題としては、無くなってしまったものを数えるのか、残っているものを数えるのか、というものもあると思う。

心のあり方と行動は相互に影響しあうので、まずは、ものの数え方から変えてみようと思う。
相互理解について
人は他人を完全に理解することはできない。それは、僕達が使っている言葉や言葉遣いがあまりに多義的だからだ。

例えば、僕達が「ほら、あれだよ」というときに、その言葉が差す対象と、「あれ」という言葉の間にはどうしようもない曖昧さが生じている。言葉遣いも多義的だ。太陽は東から昇る、というが、これは本当の意味的には正しくない使い方だ。本当は、地球が太陽の周りを回っていて、太陽が東から昇っているように見えるだけだ。ただ、便宜的な理由もあり、さまざまな言葉遣いが多義的な用いられかたをされている。

このように、人間のコミュニケーションは、不十分な言語を使って行わざるをえない。だから、人が他人を完全に理解することはできない。


ここで「他人を完全に理解できない」としたのは、他人を100%理解することはできないという意味であって、努力によって理解を例えば90%にまで出来る可能性はあるのだろう。ただし、よりよい相互理解を可能にするためには、より多くの時間を過ごし、同じ文脈を得られるような努力が必要で、それは多くの人とできるようなものではない。特に、経験が違う人々の間では、理解が深まる可能性はかなり低く、話しても理解してもらえない、ということは往々にしてある。このように、言葉の限界上、相互理解は構造的に難しい(特に経験が異なる場合には)ということは貴重なインプリケーションの一つのように思う。

もう一つ、発想の転換的なインプリケーションもある。それは、人は他人から完全に理解されなくても生きてきたし、生きていけるということだ。僕達はよく、「誰かから理解されたい」、とか「何で理解してもらえないのか」と気を揉む。もちろん、誰かからある程度理解されるのはうれしいことかもしれないけれど、それに多くを費やすには人生は短すぎるので、近くにいる大切な人とは相互理解の努力をしつつ、あとは自分の内なる声に従ってやろうと思うことを行うのが良いように思う。
規律の力
あるベストプラクティス企業がある。その会社の人とお話をする機会があって、とても感動したことがあった。

「この会社の本当の成功の秘密を知っていますか?」
「うーん、分からないです。優秀なチームがいるからですか?」
「違います。この会社は、今まで一度たりとも、取引先からお金その他をおごってもらったことがないんです。お茶の一杯でもです。」

この企業はかなり旧態依然とした業界にあって、案件をとってきたり、物品を購入するときには、よく「袖の下」がまかり通る。そんな中で、お茶の一杯すらも決しておごってもらわずに、ここまでやってきたという。恩を売られることがないから、すべての取引が真剣勝負になる。取引相手も本気で商談をしてくれて、それでいてこの本気のやりとりに心意気を感じてくれるという。


この、取引先からおごってもらわない、という規律は、楠木建先生の「ストーリーとしての競争戦略」でいうところの「キラーパス」に値するものなのだろう。これは取引における健全な競争のみならず、社内の厳しい倫理基準を保つことにつながっているのだと思う。そして、すでに「貸し借りの世界」にはまってしまっている同業他社には決して真似できないという点において、ものすごい競争優位の源泉にもなっている。

僕はこういう、人や組織が自身に課した規律や原理原則が好きだ(自分がそうでない故の憧れなのかもしれない)。こういう規律を自分に課したとしても、それを守るのは容易でない。サーカスの綱渡りではないけれど、よほど毎日気をつけていないと、ついつい人は易きに流れて、抜けられることのない貸し借りの世界にはまってしまう。そうすると、正しいことをすることが難しくなる。

また、このように、正しい認識に立って設定する規律や原理原則にのみ従うことが、人間にとって本当の自由なのだと思う。やりたい放題に生きることは、動物の本能に支配されているわけで、動物が自由たりえないと同様にその人も自由たりえない。人間が、人間としてのみ立てることのできる道徳律に自分を従えることは、かなり大変で、僕はよく失敗ばかりするけれど、いつかはそうなれるようにありたいなと思う。


文章力
僕自身に対する警鐘も含めて。

最近、全体的に日本語を書く力が落ちていると思うのは気のせいだろうか。具体的にいうと、あるアイディアをまとまった分量の文章にして説明する能力が社会全体で落ちている気がする。ここ1,2年という時間軸の話ではなくて、この数十年の時代毎に書かれてきた文章を見比べながら漠然と感じていることだ。

尤もらしい理由はある。まず、多くの会社は提案において文章ではなくパワーポイントのスライドを用いることになり、文章を書く機会が減った。ウェブ上でまとまった考えを書くメディアであったブログも、TwitterやFacebookに代替され、ユーザー数を落としている。情報通信手段の発達によって、電話やメールなどで誰かに思考を中断させられることも増え、じっくりと物事を考える時間が減った。こういった事情が、全体としての日本語能力を下げることにつながっているのかもしれない。


人間の思惟能力と言語能力は相互に依存しているといわれる。もしそれが事実なら、文章力の低下は思考力の低下を招くということになる。僕が観察している限りでは、たしかに考えの深みと文章力は相互に関連しているようにみえる。

文章力は日々の訓練の賜物なので、毎日何かしらのアウトプットを行うことは文章力の涵養のために重要だと思う。慶応大学の石倉洋子先生やマネックスグループの松本大社長は、世界中を飛び回って超多忙であるにもかかわらず、毎日ブログを日本語・英語両方で書いている。このような規律だったやり方が、今だからこそ必要なのかもしれない。
「働きながら、社会を変える」のその後の報告
働きながら、社会を変える。」を買ってくださった方々にご報告。

巻末にあるように、この本の印税ー源泉税は全て児童養護施設に寄付することになっていたのけど、今日、第一弾として54万円を児童養護施設「筑波愛児園」に寄付した。これから何回増刷を重ねられるかなあ。

この本を書くために、筑波愛児園の小林先生をはじめとして、多くの先生方と子ども達には本当にお世話になった。お礼としてはまだ足りないのだけれど、とりあえず第一弾として形の残る恩返しができてすごくうれしい。


ただ、まだまだ僕達の活動は途上もよいところ。児童養護施設向けの寄付のプログラム「チャンスメーカー」は、開始から一年強で、240人以上の方に参加して頂き、月間寄付金額は40万円を超えた。これで、一つの施設の課題解決には貢献出来るのだけれど、まだまだ全国に580以上ある児童養護施設全体の課題解決には遠い。

今年は、この寄付プログラムを初めて1年少しが経ち、色々なものを一新して日本にこれまでないような素晴らしい寄付の仕組みを作ろうと思います。これからも応援よろしくお願いします!


(お知らせ)
本で紹介していた寄付プログラム「チャンスメーカー」には、こちらから申し込めます。(ウェブサイトは今度新しくなります)
http://www.living-in-peace.org/donation/

このチャンスメーカーの説明会も行なっています。今度の開催日は2月19日(日)15:10~です。LIPメンバーで持ち回りでプレゼンをしているんですが、今回のプレゼンターは僕です。
http://www.living-in-peace.org/Study/
定かならぬもの
最近、このブログをどうしたものかと考えていたのだけれど、やっと運用方針を決めることができた。

これから、このブログでは、自分が心動かされたものについて、なぜ自分がそう思うのかを掘り下げて書くことにしようと思う。

専門家の間で既に知られていることを噛み砕いて書いてみたり、様々な場所に散らばっている情報や海外の情報を紹介したりすることから自分が得られる意義は限定的になっている。何かをちゃんとした形で調べるというのは本業や執筆活動で相応に規律をきかせてやっていることなので、ブログでそういったことを書いても追加的に得られる学びはあまり多くない。ただ、先の事柄を慣れない言語で書くことには意義がまだ残っていると思い、知的関心がある事項のメモはほとんど英語のブログに移行した。


上記のようなことも踏まえ、これからこのブログでは、すでに明らかであること、時間をかければ明らかになることではなくて、もう少しふわっとした、何とも言葉にしにくいものを言葉にする試みの場としたい。それは多分、面白いと感じたことや、感動したこと、憤りを覚えたこと、興味を抱いたこと、といったものになるのだと思う。

期待する効果は三つある。一つは、自分自身を含めた人の心をよりよく理解することが出来るようになることだ。自分自身の内なる思いは、言葉にすることによって、より深く理解できるようになる。それは、紙と鉛筆で書くことを通じて、暗算で出来ることをはるかに上回る計算ができるのに似ている。自分の思いを字に反映させることで、自分との対話を通じたより深い自己理解、ひいては他者理解につながる。多分、数年後にこの類の文章を読み返すのは幾分か恥ずかしくもなるものだけれど、そういった恥ずかしさを乗り越えてでもやる意義はあるのだと思う。

もう一つは、イノベーションのためのネタづくり。多分これからのイノベーションが必要としていることの一つは、「人の心を動かすなにか」だと思う。自分の心を動かした理由をしっかりと言語化して、それをモノづくりの現場において活用することによって、イノベーションが生まれるのではないか。現時点でも、僕達は児童養護施設のための寄付プログラムや、マイクロファイナンス・ファンドの企画をしているので、これはかなり差し迫った課題でもある。

最後は文章能力の向上だ。見えていることを書くことは、書き写しに似ていて、文章能力を伸ばしにくい。一方で、人の心の機微を言葉に落とし込むのは、定かならぬものを少しずつ形にするプロセスを伴い、大きく文章能力を伸ばしてくれる気がする。

ということで、ぼちぼちこのブログを再開しようと思う。

演劇と印象
"The Presentation of Self in Everyday Life"は、演劇のアナロジーを使って、社会関係を分析した本だ。Lakeoff&Johnsonの主張したメタファーの力強さを教えてくれる一冊でもある。

演劇で構築される世界は、服装、演技、舞台、など各要素の完璧な統一により成立する。調和しない要素が一つでもあると(例えばローマ時代の演劇で携帯が鳴ったりすると)世界を崩してしまうため許容されない。この演劇の世界の構築のされ方こそ、社会の本質であると著者のErvin Goffmanは考えた。

一度ある状態が設定されると、人々はそれに従うように協調する。例えば、江戸時代という状態が設定されれば、役者はそれに合わせて自分の演技を作り込む。これは、実社会でも同じ事で、例えば優雅なパーティではドレスコードが厳しく設定される。


この考え方はいくつかの貴重なインプリケーションを与えてくれる。まず、ある人が他人に良い印象を与えたいのであれば、まずするべきことは、場の作り込み(状態設定)であるということだ。例えば、家をきちんと片付けて人を招くことは、状態設定の一つのテクニックだろう。

他にも、演劇では裏舞台を見せない(すなわち、実世界でいえば、私生活を見せない)などの工夫がこらされている。こういった演劇で用いられる世界観構築のための全ての技術というのは、私たちが普段自分の印象をよりよいものにしようと努力する時に用いる技術に他ならないと彼は喝破した。

また、演劇の各要素に要求される全体としての調和は、その時代時代において、人々がその役に対して抱く観念や価値観の総体を反映しているものでもある。なので、ある役がどのように演じられてきたのか、世界がどのように描かれてきたのかを見ることによって、その時代とその社会における価値観の総体を見つけることができるだろう。
さらばカフェイン
常に成果をあげられるようにするために、最近は健康管理に気を遣うことが増えた。

一つは睡眠だ。今年に入ってから、8割くらいの日は午前になる前に寝る。代わりに朝早く起きて仕事をするようにした。睡眠時間もほぼ必ず6時間以上をキープ。飲み会も中座してでも10時くらいには出る。


もう一つは、カフェインをとらないことで、今日のブログのメインテーマ。

高校生の頃から、朝7時からの朝練に参加する前には缶コーヒーを飲みながら学校に行っていたので、コーヒーを習慣的に飲み始めてもう15年が経つことになる。気付いてみたら飲む量も増え、多い時は一日1リットルは飲んでいたと思う。

そんな自分はカフェイン依存症でないかと思うようになった。試しに、カフェインをずっと取らないでいると、24時間後には気持ち悪くなったり、身体がだるくて仕事にならなかったり、といった状態になることに気がついた。これはまずい、ということで、本格的にカフェインなしの生活を始めてみた。

そろそろ1週間。始めてから最初の5日がいちばんきついらしいので、もう峠は超えたか(それにしても、今週は大事な仕事も結構あったので大変だった・・・)。コーヒーを飲むとしてもディカフェ。紅茶や烏龍茶・緑茶も飲まない。結果、水を飲むことが増えた。友達が、カモミール、コーン茶、ルイボスティーはカフェインなしと聞いたので今度買ってみようと思う。


一度に全てとはいかないものの、今年は色々なものを削ぎ落していこうと思う。
個別メール禁止
党派活動が生じる組織のパフォーマンスは低い。組織の中の共同体主義がしっかり成立していて、ソーシャル・キャピタルが強固な組織は高いパフォーマンスを発揮する。これは、Robert PutnamがBowling AloneやMaking Democracy Workでアメリカやイタリアの事例をもとに示したことでもある。

では、どうやったら党派活動を押さえることができるのか、というのが問題だが、この答えは、殊に現代社会ではあまり難しくない気がする。業務内容に関する情報交換はその団体のメーリングリストのみで行うように徹底して、個別メールを禁止すればいい。


党派活動を行おうとする個人は、人の集まりが生じたらほぼ間違いなく現れる。意識していても、していなくても。情報が一部の人間の間だけで共有されるときに党派活動が生じる。

例えば、気の合う人、日々やりとりしている人々だけでまず意見形成をしようとして、その人たちだけでメールループを作ると、それが党派活動の温床になる。ここから色々なボタンの掛け違いがはじまる。そうやって特定の人々が自分を除け者にして意見形成をしていることを快く思わず、また別のグループをつくる。そして、そのうちに派閥が出来て、対立して、分裂する。

そもそも、ボタンを掛け違えるまえに、どうすれば良いかというと、個別メールを禁止すればよい。デートの誘いとか感謝状とかの私信は別だけど、そのグループの通常業務に関するやりとりについては、一切個別メールを禁止する。そうすると、情報の流れを特定の個人がコントロールすることがとても難しくなって、党派活動の生じる可能性が大きく下がる。それが、組織の運営を通じて、僕達が身をもって学んだことだ。


上のような建付にするとメールで溢れかえってコストになるという人がいるかもしれない。それは確かにコストだが、党派活動が一度始まると、それを収めるためにかかるコストのほうが莫大になる。

また、事業が大きくなると、こういったやりとりが現実的でないという人もいるかもしれない。そのときには、部門レベル・全社レベルでメーリングリストを作り、ルールを徹底させる。


他にも活かせる重要なインプリケーションは、情報の流れをどのようにデザインするかで、組織の在り方は大分変わってくるということだ。しかも、これは最初のボタンの掛け違いが生じたら挽回は非常に困難だ。最初にしっかりと原則をたてて、それにこだわることが重要だろう。

なお、情報のデザインは経営陣にしかできない。経営陣が意識しない限り、問題は生じる。
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