Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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努力と環境
僕は夏野さんや竹中さんが普段話していることについて同意すること・尊敬するところが多いと思っている。だけど、それは決して彼らの全ての言論に同意することを意味はしない。

先日のTwitterで夏野剛さんがこう書いていた。

「@tnatsu: 僕は富裕層でもないが、お金に困ってない人に共通することが一つだけある。自分の現状を人のせいにしない。この件で絡んでくるやつのほとんどが、社会のせい、政治のせい、人のせい。自分の力不足なんだよ。」



竹中平蔵さんは、東洋経済オンラインで次のように述べている(だいたい、こういう取材記事は時々脚色されるものだけど、ご本人がレビューしたと仮定する)。

「私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。」



【追記@2012/12/09 14時03分:FBやTwitter、コメント欄で指摘頂いたように、確かに引用した文面だけで「自己責任論」と言い切るのは無理があると思いました。よって、以下は一般に流布している言説への反対意見としてお読みください】


こういう自己責任論っぽいものはいつの時代にも人気があるし、フェアに見えるかもしれない。でも、僕はこういった主張には同意できない。

というのも、この手の主張においては、(1)結果は環境でなく努力にある程度結びついている、(2)努力するしないの意思決定は個人の自由意志に委ねられている、といった前提があるように思えるが、その前提の正しさは疑わしいからだ。

特に僕が同意できないのは、努力できるかどうかは環境と切り離されているかのような考え方だ。努力できる強い心は親をはじめとした多くの人との出会い、環境が作る。たまたまそれに恵まれている人は、自分の今の地位は自分の努力で勝ち取ったものだと思っているけれど、多分、人が築きあげた地位のうち、自己決定の賜物による部分なんてあまりないんだろう。

子どもの貧困を目の当たりにしたり、「働きながら社会を変える」を書くために児童養護施設に関する調べ物をしているうちに、その確信は強くなっている。たぶん、努力できるかどうか、ということそのものが、かなりの程度、客観的要因に左右されている。そして、そういった強い心が育てられる環境に生まれるかは、(家が裕福であるか否かにかかわらず)残念ながら今のところは完全に運次第で、この意味における機会の不平等は多分解消されにくいのだろう。自分の苦境を環境のせいにしないのは難しいし、努力しないで貧しくなる自由なんて実際のところはあまりないと僕は思う。

自分の自由意志を完全に否定するわけではない。でも、それは相当に限定されたもので、僕たちは周りの環境によって左右される生き物であることを理解してはどうか。実際に、心理学の分野では随分前から主張されていることで(例えば、Albert Banduraの “Social Learning Theory”)、脳科学でも同様らしい(池谷裕二さんの本で論文が紹介されていた)。

そうすると、マザーテレサが「私は神の手の中にある鉛筆のように感じる」と言ったことや、西郷隆盛の「天道を為す」という言葉は、より心にストンと落ちてくるのだろう。
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