Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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落ちこぼれの努力
IMG_0511.jpgゴールデンウィークに520km走るんだけど、諸々忙しくて全く時間がとれないので、長い距離を走る代わりに、短い距離をなるべく急いで走るようにしてトレーニング時間を圧縮している。こんなので520kmを完走できるかは全く不明。

先日30kmを走ったんだけど、タイムは2時間12分12秒。いままであまりタイムは測ってなかったけど、多分高校生の頃より早くなってる。高校サッカー部時代、補欠だった僕より足が速い人はたくさんいたし、当時はどんなに一生懸命努力しても勝てそうになかった。でも、多分今は同級生の誰よりも長距離は速いと思う。


少し話が変わるけれど、ビジネスの世界とか社会全体で有難いなあと思うのは、こういう黙々とした継続がちゃんと実を結ぶこと。差を生み出す要因において、才能より継続することが占める割合が遥かに大きいので、そもそもの能力が凡庸であっても、とにかく毎日規律をちゃんと立ててやるべきことをきっちりと続けていけば、大抵のことはうまくいし、追いつけないと思う人にも追いつくことができる(もちろんうまくいかないこともあるけれど)。

思い出すのは、ドラゴンボールで、ベジータと闘う前に悟空が言っていた「落ちこぼれだって、必死で努力すりゃエリートを超えることがあるかもよ」という言葉。スポーツとか芸術といった特殊な世界でない限り、これは事実なんだと思う。
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未来が変わる働き方
537829_10151412162776382_139643969_n.jpg5年間、Living in Peaceを通じてパートタイムのメンバーだけで(まだまだだけど)事業を運営するにあたって分かったこと、やっていることについてまとめる機会に恵まれた。

「25歳以下に向けたメッセージ」がメインテーマとなっている、ディスカヴァー21のU25シリーズの5冊目。前に一緒にイベントをした家入一真さんも書いている。


未来が変わる働き方 (U25 SURVIVAL MANUAL SERIES)

書いている内容はこういうもの。
・僕自身の話。なんで片方で投資ファンドをしながらもう片方でNPOをするのか
・何かアクションを始める前に考えておかないといけないこと
・自分自身のタイムマネジメントのしかた(時間が無かったら何もできない)
・仲間のつくりかた(報酬なしでもモチベーション高いチームを作るにはどうするか)
・パートタイムならではの組織の仕組み

こういう「自分語り」の本って、「イタい本」になりがちだし、しかも最近は自分語りをすることそのものが嫌いでもあり、色々と書き方は苦労したんだけれど、LIPのメンバーからは「なんか自慢話に聞こえて嫌だ」という声もたくさん。やったことや思っていることを淡々と書いているだけなのにそう言われるので、「だったらお前が書いてみろ」と言いたくなるが、その言葉をぐっと飲み込む(というのは嘘で一回キレました。ごめんなさい)。

いつものように可能な限り透明な文章になるように書いてみたけれど、正直なところ、この本がどう評価されるのか全く分からない。著者がそんなに弱気でどうするんだ、と言われるかもしれないけれど、僕と同じく引きこもりがちな友人経営者も同じようなことを感じているみたいで、少し安心する。

とはいえ、他に本業を持ちながら会社やNPOもしている人や、組織の運営をより効率的なものにしたいと思っている人、今すぐ(半ば現実逃避で)会社を辞めて新しいことをしようとしている人には、多少は役立つかもしれないと思い、本にしました。どんなに罵詈雑言が飛んできてAmzonのレビュー欄が荒れても、この本が誰かの新しいアクションにつながるのなら、それでいいんだと思う。
体罰の合理性について考える
体罰批判がすごいことになっている。一つの問題が起こると、至る所で問題が告発されるという構図はいつも不思議なのだけど、それはさておき、体罰について考えることを少し書いておきたい。

予め言っておくけれど、僕は決して体罰容認派ではない。けれど、無批判に体罰は絶対に悪いことであるとするのは短絡思考なので、ちょっと丁寧に考えたい。


体罰が絶対的に必要とされている組織がある。それは軍隊だ。

軍隊の組織構造は、多分とても理にかなったものになっているはずだ。というのも、命がかかっている人々は、概ね理にかなった行動様式をとると考えるのが妥当だからだ。

その軍隊で、体罰は当面のところ無くなりそうにない。それはなぜなのだろう。

一つの説明としてあげられるのが、ソマティック・マーカー仮説だ。アントニオ・ダマシオによって提起されたこの仮説においては、体験の積み重ねに基づく無意識のうちの自動選別機能(ソマティック・マーカー)が、人間の判断の精度を上げていると主張する。判断力が体験(インプット)の多さに根付くというのは多くの人が共通して指摘していることだが、ダマシオは脳科学の分野からこれを主張した。


ソマティック・マーカー仮説に基づけば、軍隊で体罰があるのは、集団が命を落とす可能性のある行為を行わないことを身体に叩きこむためだ、といえる。

例えば、個人が命令違反をすることで周りの人々の命が危険にさらされることは避ける必要がある。だからこそ、普段から規律を絶対視して、それに対する違反には苛烈な罰を与える。結果として、兵士たちは戦場でも、ほぼ条件反射的に様々な意思決定を規律通りに行えるようになり、それは集団の生存確率を高めるようになる。

確かめた訳でもないけれど、軍隊では、体罰による暴力と部隊の生存確率の上昇分を秤にかけ、結果として体罰が採用されているのだろう。少なくとも、個人的には理にかなった意志決定であるように見える。


さて、話をそれ以外の組織に移してみよう。

仮に生徒への体罰が生徒の将来における意思決定の精度を上げる可能性があるとして、それは許容されるのだろうか。これは疑わしい。大抵の体罰は何らかの規律に基づいてなされるが(僕は子どものころ、忘れ物をしたのでよく先生に殴られた)、その規律を無批判に守ることが本当に生徒のより良い未来につながるか、分からないからだ。

では、事前に体罰の存在を予め掲げている組織(例えば厳しいことで知られているボクシングジム)に、自らの意思で入った場合にはどうか。ここはかなり議論の余地があるだろう。本人はそれを知っていて入ったのだから。もちろん、他に選択肢がない状況、たとえば「ボクシングで強くなりたいのならこのジムに入らざるをえない」というような状況があるかもしれないが。

会社でも同様だ。本田宗一郎は鉄拳制裁で有名だった。それを知りながらホンダに入った人々が本田宗一郎に殴られることは、どう考えるべきなのだろう。


長く続いてきた習慣にはそれなりの存在意義があったはずだし、それを可能な限りきちんと理解してからものを考えないと、発想が短絡的になる。体罰=ダメ、と思考停止するんじゃなくて、ちゃんと考えてから一つ一つ判断したほうが良いのじゃないか。僕は、人の意思決定の精度を上げるためには身体性はとても大切なものだと思っているから、体罰でないにせよ、身体で覚える教育は何らかの形で維持したほうが良いのではないかと思っている。

それがどういうものになるかは分からない。ただ、人間(特に子ども)は間違いを犯す生き物で、間違った行動を正すためには、何らかの不快な思いをすることは避けられないはずだ。

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