Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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知識人とは何か。
知識人とは何か (平凡社ライブラリー)知識人とは何か (平凡社ライブラリー)
(1998/03)
エドワード・W. サイード

サイードは、パレスチナ出身のアメリカ在住者で、2003年に亡くなるまで一貫して自らの信ずることを、原理原則を持って説き続けてきた数少ない知識人の一人です。

そのサイードの精神の自叙伝ともいえる、「知識人とは何か」は、大学時代に何回も読んだ本です。その時には、幾許かの憧れと共にこれを読んでいた記憶があります。

今になって読むと、こみあげてくるのは反省の念です。


ここでいう知識人とは、大学教授やジャーナリストなどを指すものではなく、より広い意味を持っています。本書でサイードが知識人について次のように定義します。

「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」

この表現は多分に象徴的な感があるので、感想と説明を交えながら書くことにします。
亡命者であり周辺的存在であることは、いいかえると、その社会で支配的になっている価値観やものの考え方から距離を置くことを意味します。このような姿勢を持つことにより、紋切り型の議論に対して常に疑問を持ち続けることが可能となります。また、ものを考えるにおいて距離を置くことは、生じている事象を、より広い視座から見据えることも可能にしてくれます。

知識人が信じるべきは原理原則であって、決して一つの組織であったり、思想であったりしてはならないとサイードは説きます。「いかなる種類の政治的な神であれ、わたしはこの神に改宗・転向したり、この神を崇拝することには断固反対である。転向も崇拝も共に、知識人の行動にふさわしくないと考える。」そして、歴史をみると分かるように、特定の組織や思想に対する盲信が社会全体を覆う時、必ずと言っていいほど、悲劇が引き起こされてきました。

世の中を見ると、他国や他の組織の誤った行為に対しては手厳しい批判をすることができるのに、それが自国や自らが属する組織の問題となると批判をやめてしまう、という事が散見されます。本書においてサイードはこの人々に手厳しい批判を加えています。自国や自分の組織が誤った行いをしていることを批判する知識人がいなくなることは、その国家や組織を、非常に危険な状況に追いやることになります。だからこそ、言論と表現の自由は、断固守られないといけない砦であると、サイードは説きます。


アマチュアである、ということは、サイード本人の言葉によれば、「専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求すること」を意味します。

専門職にあるということは、それによって生きる糧を得ることを意味し、それゆえに、さまざまな権力の手先となる圧力にさらされることになります。大学教授、研究所員、芸術家、コンサルタント、などなど、多くの人がこの圧力にさらされています。

だからこそ、アマチュアであることが大切なのです。サイードは、アマチュアとしての精神を維持するということは、世俗的なものの側に立ち、貧しき人々、特権を持たぬ人々、声なき人々、代表されない人々、権力なき人々の側に立って考え、その人々を代弁することだと主張します。事実、サイードは、それが自分を大きな批判と危険にさらす事を知りながら、在米パレスチナ人として、イスラエルで行われている不正を、その声が届くことのないパレスチナ人を代弁して告発し続けてきました。アメリカでパレスチナ人の立場を擁護することで糧を得るプロフェッショナルはいませんが、サイードはアマチュアとしてこの問題にいつも関与し、自らが信じる事を主張し続けてきたわけです。


権力に対して真実を語る事は非常にしんどいものです。

時に、権力は煽動された人々である場合があります。多数派によって虐げられている弱者を代弁して語る時、裏切り者扱いされることも多いかもしれません。ですが、「知識人は、集団的愚行が大手をふってまかりとおるときには、断固これに反対の声をあげるべきであって、それにともなう犠牲を恐れてはいけない」のです。原理原則に忠実になって(それは批判的精神を失わないことに通じると思います)、真実を暴露することを、知識人は忘れてはいけないのだと思います。

最近は、メディアやネットの言論に世論が操作され、それが恐ろしいまでのうねりになることが少なくない気がします。それに対して異議申し立てを恐れることなくし続けることができる人間になりたいと思っています。


この本を読んで、記事を書きながら思い出したのが、47thさんのブログ。「正義のコスト」や、ブログが終わるころに書いていたアマチュア的な姿勢や、アクセスを意識しない姿勢は、サイードが考える知識人と近い所にあったと思います。

知識人には程遠いかもしれませんが、このブログを書くことが、サイードの説くような知識人へとなっていく訓練の場になればと思います。 


最後に、この本には書かれていなかったけれど、僕が付け足したいことを二つ。

ひとつは、どんな事を説くときも、相手に対する敬意を常に忘れないこと。周恩来やガンジーを偉大な人にしたのは、批判精神とともに、相手に対する決して忘れられることのない敬意にあったのだと思います。

もうひとつは、説くだけでなく、それを実行できるようになること。そのための力と精神をしっかりと身につけたいと思います。


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思えばニューヨークを去るときにふぉーりん・あとにーの憂鬱を慌ただしく閉鎖してから、早くも2年数ヶ月が過ぎ去りました。 何で今更ブログを再開したのかについては、いろいろと考えるところもあるのですが、きっかけという意味でいえば、ブログを通じて知遇を得たTeajunさ
2009/03/08(日) 19:50:43 | 47thの備忘録
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