Taejunomics

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裸になれること
西水美恵子さんが、ちょっと前に「リーダーは裸になれないといけない」と話していた。最近になって、この意味がもう少し深く汲み取れるようになった気がする。

ここでいう「裸になる」というのは相手が自分のことをどう見ているのか気にせず、自分がコンプレックスを感じていることも含めて、ありのままをさらけだすことなのだろう。人間は生まれた時点では裸で、服を着るのは相手の目を意識してのことだろうから。


でも、この境地に至るのはなかなか難しい。

自分の例をあげよう。僕は今のオフィスが皇居に近いこともあって、よく夜に職場から皇居に走りにいくのだけれど、そこでついつい周りの人と張りあって飛ばしてしまう。ここでよく考えるべきだ。僕はなぜ誰かが隣に走っていたら、いつも以上のパフォーマンスを出せて、誰も周りにいなかったら、もっとゆっくり走ってしまうのだろう。横に誰かが走っているからスピードを出せるのは、誰かが先を走っているから、もしくは誰かが見ているからではないだろうか。そういうことで考えると、マラソンで誰かの声援があるエリアでは早く走れるのにも何か共通の根があるような気がする。

少なくない人は、「自分が誰であるか」以上に、「自分が他人からどのように見られているか」を気にしてしまう。このことにはいくつかの弊害があるように思える。

まず、そういう人の成長には限界がある。周りに誰かがいたら頑張れるけれど、一人になったらそうなれないのかもしれない。先を走る人がいたらそれに追いつくために頑張れるけれど、全員を追い越したらそこで成長がストップしてしまうかもしれない。

そして、もっと重たい弊害は、人の心を動かしにくくなることにあるのではないか。他人の目を気にするナルシズムやコンプレックスは、多くの人、特に部下や同僚には多分簡単に見破られてしまう。自己陶酔や見え透いたコンプレックス隠しは見ていてもあまり気持ちのよいものではないし、そういう性質がある人は、他人の心を根底から動かすことは難しいかもしれない。冒頭の話に戻ると、だから西水さんは「リーダーは裸になれないといけない」と言ったのではないだろうか。


人間は、自分が他人からどのように見られているのかを気にしなくなってはじめて、「自分との闘い」を本格的に始められるのかもしれない。自分との闘いは、自分の価値観や目標にしたがって自分自身を律することができるかどうかの闘いだと思う。そして、この闘いでは、他人からの評価を気にする人が自分を駆り立てるエネルギー源として用いる「他人からのプレッシャー」を放棄しないといけない。自分との闘いにおいてエネルギー源となるのは志や想いだろう。

普段から、人前で宣言することによって僕は自分自身を追い込んで努力をしてきた。こういった「ピア・プレッシャー」を利用した努力があったお蔭で今の僕がいるのは事実だけれど、いつかこれも乗り越えなければいけないのだと思う。


Comment
≪この記事へのコメント≫
「裸」のこと
慎君

正解で~す!(笑)
でも、ひとつだけ。。。
本物の信念と情熱が原点にあれば、「自分との闘い」ではなく、楽しい学習の道が始まる。
そう思います。

2011/05/06(金) 03:42:46 | URL | 西水美恵子 #-[ 編集]
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