Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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審判
旅先で文庫本を買って、カフカの審判を読んだ。

主人公であるKは、罪状も知らぬまま被告とされ、裁判所にも行かぬまま1年間の審判のプロセスに巻き込まれ、最後には非常に唐突な審判を下される。物語の始まりから終わりまでが不条理に満ちている世界。この不条理について批判をし、反対を続けていた主人公も、最後の審判が下るときには、この不条理の世界に己の身を委ねてしまう。罪状も、裁判所による判決も知らないまま死を迎えることになるK。


カフカの作品の多くは、世の中にある不条理を非常に鮮明なかたちで浮き彫りにする。多くの人々が、全くの不条理を現実のものとして受け入れざるを得ないことがある。不条理には定義として条理がないし、その被害者にとっては全くもって災難にしかすぎないけれど、それに従わざるを得ないものは世の中にたくさんある。その一つは自然災害なのかもしれない。程度の差はあれど、仕事においても不条理の一つや二つはあると思う。

それにしてもカフカの描き出す不条理はレベルが違う。それは壮大な建築物のように、主人公に対しては全くの不条理であるにもかかわらず、内的には完全な論理が貫徹している。

 
また、カフカは、この不条理に対しての態度は、結局のところ個人の自由意志にかかっているという立場をとっているように見える。岩波文庫版の第九章では、主人公と僧の間のやりとりを通じて、カフカの描く裁判のシステムの比喩として、「掟の門」に入ろうとするものの門番に最後まで入門を許されずに死んでいく男の物語が示され(この門は、この男のためだけに存在する門である)、その物語に対する僧(=著者)の解釈が示される。

掟の門に入ろうとする男と、その男を入れない門番。一見すると、主従関係は門番にあるようにみえる。しかし、僧は、門番はただ己の義務に対して忠実であるに過ぎず、決してその権力に頼って男を従わせようとはしていないという意見を説く。逆に主の立場にあるのは男のほうで、男は立ち去ろうとすれば立ち去ることもできるし、それにより、門番をその義務から解放することができる(なぜなら、この掟の門は、この男のためだけに存在する門だから)。もちろん、この男は単にその場から立ち去ればよいのかもしれないけれど、物語の主人公であるKがその自由を発揮したところで、結局は裁判という権力機構に絡め取られてしまうので、状況は多少異なっている。それでも、最後に残された自由をどうするかはKの判断に委ねられていた。


もう少し実際的な問題に置き換えると、上の物語は次のようにいえるかもしれない。

ある男が何かの事件で、官僚機構や大企業を相手にしているとする。一見彼に反対しているように見える官僚や会社員は、決して彼が憎いわけでも、彼を従えたいわけでもなく、単にその内在の論理に対して忠実であるだけなのだ。だからこそ、彼にとっては、目の前にいる官僚や会社員は不気味で不条理なものに見える。そして、彼がどういう態度をとっても、相手となる官僚機構や大企業は冷徹にその論理を貫徹させ、時には彼に危害を加える場合もある。しかし、そのような場合にあっても、最後の自由は彼自身に残されており、それを発揮する限り、物語の主人公のKのように「犬のようだ!」と嘆きながら死にゆくことはないのだろう。

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