Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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みちのくの私立学校にて
友人Jを訪ねて、彼の職場である岩手の私立学校にいってきた。被災地の学校の多くで同様のことが起こっているかもしれないと思い、あったこと、感じたことを書いておく。予め断っておくけれど、決してこのエントリーは誰かを断罪しようとするような内容のものではない。(また、特定されにくいように、固有名詞等は少し変えてある)

Jが教師として働いている学校は山奥にある。元々は最寄りの駅から車で15分くらい山道を走ると着くのだが、震災で道が寸断されてしまい遠回りをすることになったため、所要時間は30分になった。鹿や猪は当然のこと、時には熊まで出没する山深い場所。学生数は非常に少なく30人程度。

建物の被害は甚大で、校舎は使えなくなった。他に方法はないので、遠方に家がある学生用に使っていた寮(今は学生数減少により空室が増えた)を教室がわりにして授業を行なっている。クーラーもなく狭い部屋なのでとても暑いが、最近は近くにスズメバチがたくさん出るため、窓は開けられない。こういった状態だから、教師も学生もTシャツにハーフパンツという服装で授業をしている。


そんな様子を語ってくれた後、Jは「ちょっと話したいことがある」という。彼が寝泊りしている寮の一室で話し合う。

Jが思い悩んでいるのは、学校への寄付に関することだった。この学校は、復旧のためにお金が必要な状況にある。

震災後、真っ先にやってきたのは、この学校を陰で支えてきた無名の人々だった。
「震災があった直後にやってきて、10万、20万という家にあったお金をそっと置いていってくれた人たちがいた。街中大混乱で、銀行は当然動いていない、ガソリンもものすごく貴重だったあのときに、わざわざこんな山奥まで。自分がいたら迷惑だし、その分食べ物の気を遣ったらいけないと、その人達はお金だけを渡したらすぐに帰っていった。そのお金のお蔭で、俺達は街に買出しにいって、長い列に並びながら食べ物を買ってくることができた。」

その次から、状況が少しずついびつになっていく。
「もう少ししたら、色々な組織や団体の人々がやってきた。物をもってきてそれを撮影して、自分たちの広報誌に載せていった。」

僕はその「贈り物」の山をみた。いったい、一年で何食カップラーメンを食べろというのだろうか、というほどに同じようなレトルト食品ばかり。この時期になっても同じようにカップラーメンが届くという。

「カップ麺だけには全く困らないよ」と冗談をいいながら、Jは話を続ける。

J「その次には大金を持ってきた宗教団体が、我が物顔で授業参観を要求してきた。テジュン、さっき見たろ。いま、子どもたちがどんな環境で勉強しているかを。あんな暑い部屋で、多感な時期をいつもと全く違う環境で勉強している子どもたちは、いきなりやってくる授業参観をどう思うんだろう。」

僕「でも、授業参観は年に数回はあるものだし、少しくらいならうまく説明をすればよいのじゃないかな。」

J「でもな、その「授業参観」は、もう4月に入ってから今まで10回以上やってるんだ。同じような事情で。」

僕「子どもの心のことを考えると、それは本当に避けたほうがいいと思う。『自分はかわいそうな子どもなんだ』と思うことほど、子どもの心の成長に悪影響を及ぼすことはないから。」

J「テジュン、俺は教育者だ。それくらいはわかってるよ。」

なけなしの10万円、20万円を出してくれた人々は、自分たちが前面に出ようなどとは全く思わず、さっとお金だけ渡して去っていった。でも、その次にやってきた人々は、現地の事情を全く理解しないままの贈り物を届け、それを自分たちの団体・組織の「成果」としてPRに使っていった。そして、多額の寄付を出した宗教団体の「授業参観」の日のために、学生は制服、教員はクールビズを着用する決まりになったという。あんなに暑い部屋の中で。

J「俺がお前にどう思うか聞きたいのは、30万円しか持っていない中で10万円を出してくれた人に対してはさっと挨拶をする程度なのに、何十億円も持っている中で1000万円を寄付してくれた人には丁重に対応するのはおかしくないかというところだ。俺は分からなくなってきた。」

僕「俺は変だと思うよ。バランスは難しいところだけれど。寄付を受ける側としては、お金の大きさももちろん重要だけど、その人の気持ちのほうも同じくらい大切に考える必要があるんじゃないかな。これって、一回きりの問題じゃなくて、継続的なことだから。
それに、寄付をする側についていうと、相手のことを慮るのは本当に重要なことだと思う。あと、寄付者たちは、できれば継続的にくるべきだと思うよ。」

J「問題は、これはもう学校として決まってしまっているということだ。その宗教団体はやってきて、授業参観と学校視察をする。これはもう決定事項だ。で、彼らは多分もう来ない。『ああ、良いことをした』で終わりだ。さて、俺はどうすればいいと思う?」

僕「そういう『大人の事情』にはうんざりするし、子どもに長く隠し通すのは無理だと思う。中高生はすぐに気づくと思うし、小学生だって年をとったらあのときの事を思い出して、状況を理解すると思うよ。
そんな状況で、今お前がするべきことは、自分の信じることを子どもに話すことなんじゃないかな。『最後の授業』ってドーデの書いた作品があったろ?『あのときは他に方法を見出すのが難しかったのかもな』ということを、子どもも大人になったら理解してくれると思うよ。でも、そういう事情のもとで、教師がどういう態度でいたのかは、印象にのこるんじゃないかな。ほら、俺らが覚えている先生、影響を受けた先生って、だいたいこういう状況で組織の都合とは離れたところで、自分の信じることを語ってくれただろ?」


こういった話は、寄付を受けている多くの学校や、児童養護施設の内部で話されていることなのだと思う。

お金は本当に必要とされている。でも、僕の友人のように「俺らは物乞いじゃない」と思っている人がほとんどだし、過度の学校・施設見学は、子どもの心を傷つける可能性があることを、教師や職員はとても気にかけている。

では、お金だけを出したら終わりでいいかというと、それはそれで問題がある。深刻な問題であればあるほど、その問題はひろく人々に知られる必要がある。人々は知らないことには動きようがないからだ。


子どもの心と、問題解決のための情報公開のバランスは非常に難しいところだ。正しい答えはないのだろうけれど、二つだけ思うところがある。

ひとつ、寄付をする側は、相手の事情に対して配慮する必要があるということだ。いくらなんでも、一学期に10回の「授業参観」は異常だといわざるをえない。もうひとつ、相手の顔が見えるような関係を始めるのであれば、それは決して一回で終わらせず、継続したほうがよいということだ。無理をする必要はないので、半年に一回程度来るだけでもいい。こういったバランスが大切なのだと思う。




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