Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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裁く代わりに声をあげる
ビジネスやその他の場面で、悪どいことをしている人に対して憤慨している人はたくさんいる。そして、その人たちは、自分の手でその人なり会社に制裁を加えたがる。

でも、大抵の場合は自分の手で他人を裁く必要はないと思う。それには2つ理由がある。

第一に、人間が誰かを裁くときに誤謬を犯さないのは結構難しいからだ。他人が間違えていて、自分が正しいということを証明するのは意外と難しいし、特に感情的になっているときに人は間違いを犯しやすい。自分が誤っているのに、自分を正として他人を裁いてしまうと、なかなかバツがわるい。また、個人的には自分がいままでやってきたことを考えると、どうも僕には人を裁く資格が無いように思われる。

第二に、その相手が本当にフェアでないことをしているのであれば、自分自身が手をくださなくても、社会は適切な制裁を与えるからだ。すごく当たり前のことだけど、たいていの場合、世の中ではやったことと見返りの帳尻はあうようになっている。いいことをしていたらいいことが返ってくるし、逆は逆。自分の独占的なポジションを利用してやりたい放題をしていれば、必ず恨みを持つ人や、アンフェアだと感じる人がでてくる。そして、いつか正当な制裁は誰かが下す。僕がやる必要はない。

そして、こういった仕組みがうまく回るためにも、判断に必要な情報がより多くの人に適切に共有されることが必要なのだと思う。裁く必要はないけれど、届けられていない声を届けるため、隠されている事実を明らかにするため、自分の信じることを伝えるために、なるべく誠実なやり方でかつオープンに声をあげ続けることは必要なのだろう。
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