Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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過ちを認めること
Twitterでもブログでも、僕は自分の意見に同調する人の発言より、反対する人の発言に対するレスポンス率のほうが高くなるように努めている。誰かが自分に賛同してくれるのはうれしいことだけど、賛同よりも批判のほうに学ぶべきところは多い可能性が高いからだ。

批判のうち、的外れといわれるものもあるのは事実だと思う。「こんな人相手にするだけ無駄」と周りから言われることもある。でも、批判のうち0.1%でも相手から学ぶべきことがあるのであれば、それに耳を傾けて自分を磨くほうが良いのだと思う。人間が成長するには自己否定が必要で、ある程度まで自分の意見にちゃんと固執しつつ、自らに誤りがあると気づいたらそれは素直に謝って直すべきだ。自省と自己否定しない精神は成長しない。だからニーチェはこう言った。

「脱皮できない蛇は滅びる。意見を脱皮していくことを妨げられた精神も同じことである。それは精神であることをやめる。」

影響力のある人になればなるほどこれは難しくなる構造があると思う。ある時までは批判に耳を傾けているだけでよいけれど、そのうちに批判すらも人々が控えるようになるからだ。その状況になると、沈黙にすら耳を傾けて自省する力が必要になる。目に見えて耳に聞こえる批判にすら向き合えない人には決して辿りつけない境地だろうと思う。


批判に耳を傾けて省察することは自己の成長にとっても重要だが、他にもこれが重要な理由はある。それは、客観的に状況を見ることができる周囲の人々からは、僕が間違えているにもかかわらず自説に拘ろうとするのが見え見えだからだ。そんな状況で過ちを認めないで自分の殻に閉じこもっていると、大切な人々を失っていくことになる。過ちを指摘されてもそれを認めない人間の友達になりたい人は多くないと思う。また、個人的には、そういう人々がリーダーと目されることには違和感を覚える。


信念というのは、自説を曲げないことに根ざすものではないと思う。しっかりと自分の頭で考えぬいた上で、それでも自説が誤っていたと思ったらそれを認め、自説を改め、よりよい方法で所期の目的実現を目指す。断固として目的を実現しようとするのが信念であって、自説を守りぬくのが信念ではなく単なるわがままにすぎない。「ごめんなさい、私が間違っていました」というのは誰でも苦手だ。だけどそれを乗り越えてでも、達成したいゴールがあるのであれば、自分の過ちを認めて修正することはできるのだと思う。


普段から必要なことは、肩の力を抜くことだ。僕はまだまだ出来なくて苦労しているけれど、自分に打ち克つことの修行は次の孔子の「意なし,必なし、固なし、我なし」に収斂すると西郷隆盛は言った。すなわち、当て推量をしない、無理押ししない、固執しない、我を通さないことだ。なるべくとらわれのない心で、自我から少しばかり離れていることは、すごく大切な訓練だ。普段から心がけていても、不意に誰かに否定的な意見を言われると、「自分かわいさ」がむくむくと出てくるのを、普段から細心の注意を払いながら排除して、なるべく裸のままの自分でいられるようにする。そうすることによって、人間の精神は成長を続けることができる。目標の実現にも、少しばかり近づくことができる。


生来の性分なのか、僕はどうも自分にとらわれてしまいがちなのだけれど、努力し続けたいと思う。そのうち少しはマシになれたらよいのだけれど。
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