Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
20代最後の日
20代も今日で最後。9月11日のテロの余韻が冷めないままに20歳の誕生日を迎え、コーラの1.5リットルボトルを3本飲まされた手荒い誕生祝いから、もうちょうど10年が経つことになる。あまりにも陳腐な表現かもしれないけれど、光陰矢の如しと感じずにいられない。


丁度よい区切りでもあるので、この10年間を少しレビューしてみたい。

20歳の頃の僕は朝鮮大学校の二年生で、早稲田の古本屋街まで行っては古典ばかり買ってきて、それをずっと読んでいた。バイトもほとんどしなかった。お金もほとんどないくせに「自分の一時間は1万円以上の価値があるから、それに見合うもの(お金と学び)が無い限りバイトはしない」と決めていた(そのせいで親や当時働いていた弟に大分お世話になった)。

その頃に読みふけった古典の内容を覚えているかというと怪しいのだけれど、本で書かれている内容より、本に残された天才たちの思考の足跡を一緒にたどることから得られたことが多かったと思う。本の主要な内容は、今やWikipediaをみれば10分で分かる。でも、著者の思考の足跡をたどるのは、かなり長い時間を費やさないとなかなか難しい。そして、この思考の訓練こそが、古典を通じて僕が得たことなのだと思う。ちょっとやそっとのことじゃ陳腐化しない、重厚な思考の訓練。残念なのは、そういった訓練を積んだからといって、僕の思考は大して重厚にならなかったことだ。


21歳の頃は、進路について考える機会がたくさんあった。朝鮮で2ヶ月間講習を受けたり、人権系の国際NGOでインターンをしたり。色々なものを見て、自分が大好きな人権を実践する人々とともに過ごしてみて、実力の必要を感じた。色々考えた結果、自分が生きる方向はビジネスだと考えるようになった。人権とそれに関連した近現代の思想の勉強だけはしながら、経済学とか経営学の本を読み始めるようになった。

大学の軽音部の部長にもなり、歌もいくつか作った。僕の作ったいくつかの歌は、10年経った今でも、朝鮮学校で歌い継がれている。この頃に出会った軽音のOBの先輩は、僕に新しい音楽の世界を見せてくれた。この時期から、よく聞く音楽がMR. BIGからJohn Scofieldに変わった。軽音部では毎年CDを作っていたのだけれど、この編集の経験は本当に貴重なものになった。音楽の編集は全ての音を聞く訓練を必要とするからだ。音楽の編集をした後は、色々な楽曲における各パートのバランスを楽しめるようになった。

大学4年生の夏、生徒会の備品であるデジカメを借りパクしたことがある。それが担当の先生に知られて、本当にひどく叱られたけれど、他の人には黙っていてくれた。あの気遣いがなかったら今の僕は無かったと思う。こういった自分が過去に犯してきた悪いことを思い出す度に、どうも僕は人に何かを説く資格はないように思えてくる。


22歳の頃、生徒会で活動していた。どうやったら考える人が増えるのだろうかと一生懸命に考えていた。思えば大分高望みをしていたものだった。

この時期に、海外に留学しようと考えた。英語の勉強をして、TOEFLとGMATを受けた。今になって考えると、ビジネススクールを当時受けたのは、結構なロングショットだった気がする。大学卒業間際に、進路のことについて生まれて初めて父に反抗した。父の望む生き方をしていないのは兄弟四人のうち僕一人なのだけれど、自分の信じたことを貫くという点では父に最も似ているのは僕だと兄は言う。

この時期から自分は今就いているようなPEの仕事をするのだと常に話していた。大学の先生は、たった2人を除いて雲をつかむような話、無理だからやめろと言った。信じてくれた先生は二人だけで、僕のいた学部の先生ではなかった。二人とも素晴らしい学者の先生だった。あの二人がいなかったら僕はいないと思う。

卒業論文は、「右と左の憲法学的考察」。なぜ権利をRightと呼ぶのか、という疑問に対する答えを探そうとするものだった。指導教授以外は、これは法律の論文ではないと言った。でも、指導教授だった星野安三郎先生はすごくこのアイディアを気に入ってくれた。


23歳、MBA受験でHBSとCBSを受けて、面接まで行ったけど結果はダメという通知を受けた。もう一度チャレンジするべきか、どうするべきか考えた。いくつかのお手伝いのような仕事はしていたものの、この時期はほぼニートに近く、なかなかきつい時期だった。でも、この時期があったからこそ、人生順風満帆である人には決して経験することができない貴重な経験ができたと思う。ずっと、朝起きて大崎のスタバで本を読んで、品川図書館で本を読んで、10km走って、という生活を続けていた。

機会に恵まれ、演劇にも出た。たまたま役が空くことになり、準主役のセリフたくさん、アクションたくさんの役をもらった。演劇から得たこともすごく多かった。役者は、自意識から解き放たれていないといけない。自我から解放されていない限り、役者は人を感動させることはできない。3ヶ月間、素人の僕はしごきにしごかれた。このときに初めて、自分に根強く残っている自意識を意識しはじめたのだと今になって思う。この演劇は、新宿二丁目の小劇場でやったのだけれど、公演期間の1週間、色々な世界があるのだと思い知った。それと、この演劇では、舞台美術(舞台装置でもある)を一人で作らせてもらえた。これもすごくいい経験だった。


24歳になった。職歴なしにMBA受験をもう一度するのはやめようと思い、仕事を見つけるか、どうするか考えた。この時期にお世話になった人が色々と気遣いをしてくれたのだけれど、途中で、そのお世話はもう受けないと決めてそれを伝えた。この時に得た自立心はすごく大切だったのだと後から思う。ニートの時に、「何があっても死にはしないし、最悪でも健康な体さえあればなんとかなる」と腹が固まったから、色々なことがクリアになってきた。

ニートをいきなり雇ってくれる、かつPEへの足がかりになるような会社はそうはないので、とりあえずは国内の大学院に行こうと決めた。時期はもう12月になっていて、ファイナンスの勉強ができるのは早稲田だけだったから、書類を準備して面接をして運良く受かった。

早稲田は社会人大学院だったので、9時5時でバイトを探すことにした。たまたまモルガン・スタンレーのアルバイトがあったので、それを受けに行った。そこで面接をしていた人(後の上司)が僕を相当買ってくれたので、そこで働くことにした。


25歳になった。半年間はバイトと大学院を続けていたのだけれど、11月には正社員になって、本格的な仕事と大学院の両立が始まった。当時正社員になれたのは幸運だった。景気がイケイケだったから、人を雇う余裕はたくさんあった。もしあと一年遅かったら、僕のキャリアは大分変わっていたものになったかもしれない。

中途採用で入ったので、新卒で外資系投資銀行に入った子達のように大切に育てられたわけではなかった。NY研修とかは行ったことがないし、いわゆる生え抜きゆえのエリート教育とかとは無縁だったから、羨ましいなあと思いつつ、仕事ができる人の姿から学んだ。自分のいた部署はフロントではなく、ひたすら財務モデルを作る部門だったのだが、傍若無人なフロントの人々が目についた。自分は決してこうはならないと心に決めた。これまたよい経験だった。

僕がいた職場は本当にフェアなところだった。仕事をしっかりと続けていたら、認めてくれる人がたくさんいた。だから、部署とは離れたところで、色々な仕事を任されて、かなり自由な会社生活をすることができた。仕事は充実していた。


26歳になった。大学院は卒業。仕事と両立させながら成績優秀者での表彰を目指したけれど、ダメだったので、ものすごく悔しかった。今になって振り返ってみると、そして今もそうなのだけれど、僕はものすごく成績にムラがあることに気づいた。面白い授業でないと、いい成績がとれない。好きな事だけを学ぶ必要があると身にしみて感じた。

大学院で一番楽しいと思った授業は、池田昌幸先生の金融経済学の授業だった。特に心を動かされたのは、CAPMだった。あの単純な数式に、この上なく美しい世界観が込められていた。この分野は本当に一生懸命勉強していて、この分野の論文はどんなものでも理解できるようになったし、ちょっとした本が書けるくらいになった。

パートタイムのNPOであるLiving in Peaceの活動を始めたのもこの時期だった。当初LIPは「開発勉強会」という名前の硬派な勉強会だった。素人だらけの開発勉強会で、経験のある人は、たまに来てもすぐに去っていった。LIPというNPOが、特定のスキルを持っている弁護士とか会計士を特別扱いしないのは、このときの経験に基づいているのだと思う。

この時期にはリーマンショックがやってきた。会社が本当に潰れるかと思った。毎日不安になってGoogle FinanceでMSの株価を見ていたのだけれど、ふとした時に、いつの間にか会社に寄りかかっている自分の存在に気付き愕然とした。もうこんなことは無いように、と心に決めた。


27歳はひとつの節目の年。生まれて初めてのひとり暮らしを始めた。この時は、北千束にあるガラス張りのデザイナーズマンションに住んでいた。夏は涼しくてよいのだが、冬は暖房をつけても寒かった。電気代がもったいないので、暖房をつけるのを諦めて家の中でも厚着をして過ごした。四季の厳しさを感じることができる家で、駅前には美味しいイタリアンとスーパーとクリーニング屋があり、騒音は少なく、駒沢公園まで走っていける距離。今でもあそこに住みたくなる。

当時一緒にいた人との関わりで、誰もが知っている企業の経営者の方々に会う機会が沢山あった。みな素晴らしい人々で、気遣いも最高で、経営者とはこういう人々なのかと感動した。この頃にトライアスロンを始めた。でも、当時一緒にいた人と離れた途端、その後も関係を続けてくれたのは、大勢の知り合いの中でたった一人だった。一緒に遊んだり、一緒に食事をしたり、色々な気遣いをしてもらったといっても、その人とのつながりは、自分という人間を見てくれてのことなのか、よく理解する必要があることを学んだ。それ以来、これまで以上に大勢の人が集まる場所に行くのが億劫になった。それよりも、一対一で、コツコツと人と関係を作っていくことが好きになった。人づきあいの基準は、その人がどんな力を持っているかよりも、僕が仮にスケープゴートになって刑務所に入ったときにも僕の無実を主張してくれるかどうか、になった。

それと、この年には、人生で初めて、悔やんでも悔やみ切れないことをした。人生で一番泣いて、一番後悔した。一生背負わないといけない十字架を負って、それ以来、僕は一人でご飯を食べる時に肉を食べていない。

それと、LIPを通じて日本で初めてのマイクロファイナンスファンドを作ったのもこの時期だった。いろいろな紆余曲折を経て、2009年の9月に日本初のマイクロファイナンスファンドを、どの証券会社よりも早くNPOが作ることができた。

それと、27歳の時には、人生で初めての本を書いた。「15歳からのファイナンス理論入門」。韓国、台湾、中国で出版された。

トライアスロンのロングディスタンス(3.8キロ泳ぎ、190キロ自転車をこぎ、42キロを走る)を、肋骨が折れるというトラブルに見まわれながらも完走した。


28歳。プロモーションもして、大きな仕事も一段落がついたところで、いよいよPEに行こうかと思った。当時の友人が、今の勤め先のパートナーと知り合いで、一緒に食事をした後に、投資チームメンバー全員と面接をして、オファーレターが出た。迷わずサインをした決め手は社長面接だった。

PEに移った最初の時期はなかなか大変だった。今まで一次方程式を解いていたのが、十次方程式を解くようになったようなものだった。周りのメンバーを見ていて「なんて賢い人々だ」と驚かされる毎日だった。助けられたのは、4年間必死にやっていたモデルや資料作りのスキル。これを足がかりにして、自分の居場所を作ることができるようになった気がする。

転職をきっかけに、会社のプログラムもあり、表参道のランドマーク的なマンションに住んでみた。夜中に家に帰ったら、警備員さんが「おかえりなさい慎さん」と言うのを聞いて、ちょっとやり過ぎだと思い引越しを決意した。結局この家には半年くらいしか住まなかったのだけれど、この家にいたときは、場所が便利というのもあって、大勢の人がひっきりなしに遊びに来た。プライベートに関しては、色んなことが起こりすぎていた。何に取り憑かれていたのか分からないけれど、本当にこの時期の自分はおかしかったな、と今になっても思う。でも、これはこれで必要な時期だったのかもしれない。


そして29歳。色々な変化があった時期。

仕事はようやく感覚がつかめてきた。落ち込む出来事もあったのだけれど、一年前よりは良い感じだ。手持ちのスキルも少しばかり増えてきた気がする。プライベートも安定している。

20代最後のチャレンジは佐渡での208kmマラソンだったのだけれど、これも無事に完走することができた。完走することを通じて学んだことが沢山あったが、一番の収穫は、このレースを通じてようやく自意識の枠から解き放たれることができるようになったことだ。

自意識の枠を取り払わないといけないと演劇を通じて気付かされてから大分時間がたった。「バガボンド」に出てくる柳生石舟斎の心境にどうやったら辿りつけるだろうかと、この期間に相当に苦心してきたのだけれど、208kmをかなり苦しい状況で走り抜けることを通じて、「あ、自分って本当にちっぽけだ」と気づき、他人に生かされている自分を思い知って、気がついたら、ふっとその自意識から抜け出すことができるようになった。

この感覚が身について以来、本当に楽になった。バリアに守られているみたいに、人から馬鹿にされたり挑発されても、心が動揺しなくなった。変にかざる必要もなく、ダメなものはダメ、知らないものは知らない、自分が間違っていたら間違っていた、とこれまで以上に素直になれるようになった。肩の力もふっと抜けた。自分がどう見られているかにフォーカスしない分、結果にフォーカスできるようになった。20代最後の最後でこの精神状態に入ることができて、すごくうれしい。


あと3時間で20代もおしまい。30代の10年間はどんなに楽しいものになるだろう。

Comment
≪この記事へのコメント≫
あと三時間。
青山にいた頃は本当に狂ったような遊びようだったね笑

20代最後の挑戦に立ち会えて嬉しかったよ。
あと三時間!
2011/09/30(金) 21:11:29 | URL | amiable1129 #-[ 編集]
本当にそうだよね。

最後の挑戦に付き合ってくれてありがとう。こんど感謝会しよう。メールへのレスよろしゅう。
2011/09/30(金) 21:24:19 | URL | Taejun #-[ 編集]
so many dots here.

and highly interesting.

日本語も・・透明感のある名文ですね。3回読みました。
2011/09/30(金) 21:49:52 | URL | kazuma #-[ 編集]
充実した20代でしたね。普通の人が一生かけてもなしえない事を既に達成していますね(って比較するのは失礼ですが…)。30代も更なるご活躍を祈念しています。
しかし、この振り返りを拝見していると、知り合ってから長くなりました…。引き続きよろしくです。
2011/10/01(土) 00:04:06 | URL | まさのー #-[ 編集]
かずまさん
有難うございます! こんどまたゆっくりお話できたらいいですね!
(日本語は誤字脱字だらけでごめんなさい。)

まさのーさん
そうなんですよね。もうお会いしてから6年になるというのがびっくりです。。! 大学院で、一番はじめにお話ししてくれたのがまさのーさんだったんです。
これからもどうぞ宜しくお願いします!
2011/10/02(日) 17:27:34 | URL | Taejun #-[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/10/03(月) 16:27:49 | | #[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/10/04(火) 14:41:46 | | #[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する
 
Trackback
この記事のトラックバックURL
≪この記事へのトラックバック≫
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。