Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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知識人について。
 知識人とはなにか。 自分の大学1年生から2年生の間にかけてはもっとも重大な関心事であった。 かなりの時間を、これについて思い悩むことに費やしたと思う。

 考えの整理が出来ていないので支離滅裂になるかもしれないが、読んでくれたら幸いである。 さらに提言をしてくれたらこの上ない。 おそらく、この日記は日記なのにもかかわらず幾度か書き直されることになりそうである。



 現在、自分は、知識人は「世界に既に存在するがあらわされていないものを、自らの方法によって表現する人」だと思っている。

 「既にあるが言語化されていないもの」というのが重要で、知識人は新しい原理を作り出すものでは決して無いと思う。 社会科学で言うのならば、人々がたちが感じていたり、感じていなかったのだとしても、社会において貫徹されている原理や原則などを見つけ出し、それを表現するのが知識人の役割だと思う。 


 
 ここから端折る。--------------------------
 
 なぜ、このような当然のことを言うのかというと、近頃、言語や数式のみを土台として、論理のみの理論を作り上げる「知識人」たちが少なくないからである。特に、学問分野の性質上、社会科学に多い。 現実とかけ離れていても、言語的・数式的な正しさだけをもって、「自分の理論が正しくて、現実がそれと一致していないだけなのだ」と主張する人たちがかなりいる。  
 自分は、この様な理論を理論とは認めたくない。 現状に対する妥当性が存在しないからではない。 
 一定の時代において現状に対する妥当性を持たない理論はいつも存在した。 ガリレオ、メアリ・ウィルストンクラフトの言ったことを当時の人たちの多くはは納得しなかった。 しかし、その時代において妥当性を持たなかったとしても、彼・彼女の理論は自分たちが直面している現実にしっかりと立脚していた。
 

 論理のみの上に成り立つ理論を認めたくないのは、かなり個人的な価値観に立脚している。 
 自分は、生きている人間が作り出す理論というものは、生きている人間に対して救いなり、または利便なりをもたらすものであるべきだと思っている。 
 これは、かなり時代遅れといわれがちな価値観であるのは承知である。 しかし、考えてみてほしい。

 絶望にある人がいたとする。 本当に逃れようのない絶望である。 その人に対してなんと声をかけるか。
 「残念ですが、知恵の結論からすると、あなたは絶望するしかありません。」
 「なんとか絶望を逃れる手段があるはずです。私が考えます。」 

 自分は後者を選ぶ。 それが、生きている人間のとるべき選択であると思う。 矛盾をはらむ現状の解決のために論理を組み立てる人間に、自分はなりたいと思う。 たとえその論理が、多少の欠陥を抱えてしまうのだとしても、そちらを選ぶのだろう。 
 マルクスしかり、ケインズしかり、サルトルしかり、歴史において魅力のある理論というものは、後者の立場をとってきたものだと思う。 学問的な正しさと魅力と言うものが一致するとは必ずしもいえないのかもしれないが。


端折り終了。-----------------------------


 上で述べたことから分かるように、自分は知識人といったとき、表現活動をする人間たちを全て念頭においている。 芸術家たちも彼女・彼らの方法で現実にある事柄を表現するのならば、知識人なのだと思う。 だから自分は、関心事項である音楽についても、端折りで述べたような理由で、軽音楽などをその形式のみをもって蔑む人々を嫌悪する。  



 知識人が上で述べたようなはたらきをする人たちならば、知識人の役割とは、その表現活動によって、人々に何かを気付かせることにあると思う。 その何かは、現在行われている愚行について思いとどまることであったり、くらしを豊かにする方法であったり、異なった視点であったり色々であると思う。



 予想通り、収拾がつかなくなりそうなので、ちょっとずつ書き足していくことにする。 とりあえず、しめる。

 自分の術語法の範囲内であるのならば、自分は知識人になりたいと思っているし、そのために現在は学問をしている。 学問のみが知識人へといたる唯一の道ではないと痛いほど知っているが、当面は学問が必要だと思うからである。 学問は厳しいものである。 現実が烈日の厳しさであるのならば、学問は秋霜の厳しさであるとおもう。 目的意識をしっかりと持って乗り切っていきたい。



 There is no royal road to science. But only those who do not dread the fatiguing climb of its steep path have a chance to get its luminous summit.
学問に王道はありません。しかし、その急峻な坂道を疲労困憊し登ることを恐れぬものだけが、その輝かしい頂点にたどり着く望みを持つのです。 
                        カール・マルクス
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