Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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歴史認識を可能な限り近づけるために。
 歴史認識は共有できるのだろうか?

 完全には、おそらく不可能だと思う。 しかし、認識をすり合わせるための努力はするべきだし、ある程度までの共有は可能だと、僕は考えている。 

 そのために、どうすればいいか。 具体的な方法を考えてみる。

 
 東アジア各国の歴史資料の共有化。

 が、ぱっと思いつく第一歩だと考える。 これも、言うは易し、行うは難しなのだが・・・

 以前に、京都大学の水野教授がその歴史資料の共有化について書いていたものを読んだことがある。 とても共感できたことを覚えている。

 以下では:
 1.歴史資料で何が分かるの?
 2.今のところ、どれくらい公表されているの?
 3.東アジアで歴史資料の共有が必要な特別な理由ってあるの?
 4.むすびにかえて
 
 について、書いていこうと思う。 

  1.歴史資料で何が分かるの?

 ほとんどの政府は、昔の政策や法令その他に関する情報を文書として保存している。 
 もちろん、歴史小説のように、まとまった絵巻物のようにまとめているわけではない。 けれど、それを一つ一つ見ることによって、過去の状況を可能な限りリアルに把握することが可能となる。 これを一つ一つ紡いでいくのが、歴史家の役目の一つであって、さながら、ワンピースのニコ・ロビンを思わせる。

 

 2.今のところ、どれくらい公表されているの?


 日本で言うと、一定程度の公表はされている。 
 特に、大韓民国政府からの要求されたものについては、戦時動員された労働者や兵士の名簿を提供してきた。
 
 また、94年村山内閣時の「平和友好交流計画」に従い、2001年にはアジア歴史資料センターが開設され、ネット上で公開されている資料を見ることが出来る。
 ここです:http://www.jacar.go.jp/

 他のアジアの国々でも最近、歴史資料の開示活動が活発である。 たとえば、お隣では、光州事件、済州島4.3事件、金大中拉致事件などについて真相の究明がすすめられている。
  
 ただ、各国ともに、いまだ公表していない資料が多く存在するのは事実のようである。 個人情報の観点から開示が難しい資料も多く存在するらしく、どこまで開示すべきかについては議論がある。

 日本でも、上記のセンターを設立する際に、センター設立検討のための有識者会議の提言において、今まで未公開であった資料についても開示するべきとの提言がされたが、99年の閣議決定ではセンターでは今まで公表されてきた資料のみを開示することに決定がなされた。 よって、未公開資料は、いまだ公表されていない。





 3.東アジアで歴史資料の共有が必要な特別な理由ってあるの?
 

 特別な理由があると思う。 それは、植民地という当時の状況の固有性に起因する。
 植民地時代の情報の:
 ・記録をした当事者
 ・情報そのものの内容
 において、日本とその他の東アジアの旧植民地国家の間には、隔たりがあるのだ。

 当時植民地であった諸国における歴史の記録の作業は、当然ながら、日本当局によってなされた。 特に、独立運動等の資料は、それを持っているだけで治安維持法その他法規の対象となりえたため、民間人でそれを保存する人はほとんどいなかったと思われる。  
 
 歴史の記録の当事者の問題のみではない。 当時の状況を浮き彫りにさせるために、当時とられた政策や法令、独立運動についての資料はとても重要なものなのである。 そして、その資料は、日本政府以外の政府が保存している可能性は低い。 

 45.8.15日直後に朝鮮総督府や特高警察が資料を大量に焼却したとされているが、ある程度は残っているのではないかと思われる。 
 
 もし、それら資料が残っているのであれば、それらを開示し共有することによって、現在の閉塞感あふれる状況をいくらか打開できるのではないかと思う。

 当然、個人情報の問題など、全てを開示するのは難しいだろうが、一定の制限事項をつけつつ開示するのは、可能だと僕は考えている。



 4.むすびにかえて

 ふと、以前出演した演劇での事を思い出した。 「コンテクストのすり合わせ」である。 演劇におけるコンテクストのすりあわせとは、脚本その他演劇全般に対する解釈を、皆の間で一致させる作業である。 演出家、平田オリザの著書参照。

 多分、俳優と演出家は、演劇をあげるという目標を持っていなければ、コンテクストのすり合わせなどは行わないと思う。 個々人の解釈があって、それで、なんの問題は生じない。 たとえば、日常会話で、ボケるタイミングについて感覚が違うとしても、イッキさせられるジョッキの数は増やすかもしれないが、大事には至らない。  
 しかし、演劇を挙げるとなると、話は別となる。 皆がある程度まで同じ解釈をすることなしに公演を挙げると、チグハグで見てられない演劇が出来上がるであろう。 片方がボケているのに、片方が超真剣。 まあ、それはそれで、狙えば面白くなるのかもしれないが。

 多くの場合、人は、ともに一つの目標を共有するからこそ、複数の解釈を持ちうる対象(脚本など)に対して、解釈を近づけていこうと努力をする。
 ちょっと考えてみると、偶然かもしれないが、敗戦後の西ドイツと西欧諸国には、共有するべき目標があったと思う。 西欧諸国は、一方で唯一超大国として台頭してきたアメリカに、他方では東側社会主義諸国に、対抗しなければいけなかった。
 
 東アジアの諸国、そこに住む人々に、共有する目的はないのだろうか? ある、と僕は信じて疑わない。
Comment
≪この記事へのコメント≫
朝鮮半島が統一を迎えるときに南北でどれほどの「イッキ」コールとジョッキの残骸が出るのか、問題は山積み。
だけど、自分を痛め、相手のコールに合わせん事には場は盛り上がりませんなー。
在日がその場で第三者的な「はぶ」状態にならないようにがんばらなければ存在意義が問われてきますね。

でも、こんなスタンスで「ウリ」が、がんばろうなんて考えている在外koreanって在日くらいだろうな。
2005/10/19(水) 08:36:04 | URL | gyu #-[ 編集]
GYU先生

 毎回、貴重なコメントありがとうございます。


>在日がその場で第三者的な「はぶ」状態にならないようにがんばらなければ存在意義が問われてきますね。

 全く同感です。 実現可能なレベルで、実効性が高い仕事としたとき、僕たちに何が出来るか、色々と考えています。
2005/10/19(水) 22:25:02 | URL | Taejunomics管理人 #-[ 編集]
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