Taejunomics

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人ノート④キリスト:愛の人。
 さて、前回のブッダに続き、第4回人ノートは、ジーザス・クライストです。 キリストですね。 ジーザス、ヨシュア、イエス、全て、彼をさす名前です。

 彼の教えは、いまだに多くの人の心の中に生き続けています。 その理由を考えてみることは、とても重要だと感じています。 例の如く、基本的に、自分が学ぶべきと感じたこと、感銘を受けた事を中心に書いていくので、教理の正しさや事実の正しさを保障するものではありません。


 1.略歴
 2.思想-愛と神
 3.行い
 4.山上の垂訓
 5.結びに



 1.略歴
 もともと読書は好きで聖書は読んでいたのですが、僕の知識に具体的にキリスト的なものが入ってきたのを明確に感じたのは、結構遅い時期です。 きっかけは、映画「パッション」。 この凄惨というか、ものすごい迫力をもつ映画に引き込まれた僕は、彼の生涯に強く興味を持つようになります。
 
 
 世界一の有名人である彼について、知られていることは大体以下の通りのようです。
  
 父ヨセフ、母マリアの間に、ガリラヤのナザレに生まれます。 そのため、彼はナザレのイエスと呼ばれます。

 ヨハネから洗礼を受けた彼は、その後独立して伝道を開始します。
 彼は、人は、律法(ユダヤ教の教え。タルムードに記されている。)ではなく、神の意志に従うべきだと主張します。 神の精神性を説いた彼は、物質的なものに過ぎない神殿を批判し、ユダヤ当局から秩序に対する攻撃者としてマークされます。
 やがて捕らえられた彼は、鞭打ち刑を受けた後、十字架刑に処されます。
 
 キリストの最後の1日については、映画「パッション」に詳しいので、そちらをご覧ください。



 2.思想-愛と神
 
 彼の思想の根本は愛にあるのだと思います。 そして、彼にとって、愛と神はほとんど同義だったのではないかと、僕は感じています。

 ・弱者愛
 彼の愛の根本はここにあるようです。
 彼がなぜ律法を批判するに及んだのでしょう。 最初の問題意識は旧約聖書に対する疑問にあったようです。
 彼は、多くの貧しい、虐げられた人々を見ていました。 そして、「神は、貧しさのゆえに、守りたくてもおきてを守れないこれらの人々を本当に罰しうるのか?」と考えます。 答えは、否、でした。
 例えば、有名なエピソードが一つあげられます。
 町で、不倫をした女が裁かれようとしていました。 彼女に対する処置を問われたキリストは、次のように答えたのです。
「あなたたちのうち、罪のないものがまず石でこの女を打ちなさい。」


 ・隣人愛
 隣人とは、彼にとっては、かかわりのある全ての人をさす言葉でした。 彼は、人はみな係わり合いを持っている事を知っていたのです。 この考えは、ブッダに非常に近いものを感じます。
 そのように隣人を愛することによって、憎しみ合いを逃れることが可能であると彼は考えたのだと、僕は感じています。  有名な、片方の頬を叩かれたときにもう片方を向けよ、という話も憎しみに対する最大の対抗策としての隣人愛を説いたものなのではないか、と考えられます。
 

 ・神の国
 彼にとっての神の国とは、真の愛を見出した人々の間に達成される世界に他ならない、と僕は感じています。 例えば、ルカ記において、こう語られています:
 「神の国は見える形では来ない。 「ここにある」「そこにある」といえるものでもない。 実に神の国は、あなた方の間にあるのだ。」 
 


 3.行い

 ・無私
 「人は神と富とに兼ね仕えることは出来ない。」と考えた彼は、無私の生活をしました。 だからといって、極端な禁欲主義と言うわけでもなく、宴などに参加し、人々と共に楽しんでいます。
 神に仕えながらも、その神というのは弱者愛、民衆に対する愛と同義だったため、このようなバランスを持つことが出来たのだと僕は感じています。 現代でも感じることですが、真に原則的な人、信念を強く持っている人ほど、些事にこだわらないのですよね。


 ・謙遜
 彼の心には、常に愛の化身としての神があったため、当然、思い高ぶる事をしませんでした。 「誰でも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる。」と彼は説いています。
 現代においても同じことが言えそうです。 志が明確な人ほど、その志に照らして自分を省みるため、思い高ぶることがありません。 常に自分の不足を考え、それを改善しようとつとめています。


 ・神にのみ仕えた人に対する、人々の反応
 イエスは、愛(神)にのみ仕え、そのために生きる事を人々に説きました。 しかし、当時の人々の中に、この事を受け入れられる事は少なかったようです。
 イエスは、「人はパンのみにより生きるのではない。 神の口から出るもろもろの言葉による。」と説きました。 多くの貧しく虐げられた人々は、愛よりもパンを欲しました。 解放されるのなら、剣を持ち敵を打ち倒すことを望みました。

 しかし、イエスは、それをしていません。 例えば、悪魔との対決が描かれている場面で、彼は、
 ・石をパンに変えること(人々の物質的な飢えを満たすこと)も、
 ・神を試すこと(愛を何かと比較にかけること)も、 
 ・悪魔にしたがうことによって世界を得ること(よこしまな手段による権力奪取)も、

 拒否しています。

 当初は救世主と呼ばれた彼が、人々に対し、具体的な救いをもたらさないため、少なくない人々が彼を見限っていったそうです。 そのため、イエスはこの上なく惨めな死に方をすることになります。 彼がそれを意図したのか、そうでないのかは、僕にはわかりません。


 4.山上の垂訓

 そんな彼の思想が集大成されているのは、彼の説教の一つ、「山上の垂訓」と呼ばれているものです。 takaさんや47thさんのみならず、ガンジーもこの説教を大いに賞賛しています。 僕もこの説教に大いに共感しています。
 いくつかの点を抜粋して、それらに僕が感じた事を付記して行こうと思います。

 
 心の貧しい者は幸いです。 天の御国はその人のものだからです。
 悲しむものは幸いです。 その人は慰められるからです。
 柔和な者は幸いです。 その人は地を相続するからです。
 義に飢え渇いているものは幸いです。 その人は満ち足りるからです。
 憐れみ深いものは幸いです。 その人は憐れみを受けるからです。
 心の清いものは幸いです。 その人は神を見るからです。


 冒頭の文句です。 これらは、当時、人々の間で、無価値と考えられていた価値観に対する強い肯定の表明です。 ちなみに、「心の貧しい」というのは、純心な、という意味で使われています。 良い意味で、トリックスター的ですね。
 

 ・・・
 喜びなさい。 喜び踊りなさい。 天においてあなた方の報いは大きいのだから。
 あなた方より前に来た預言者達も、そのように迫害されました。
 ・・・
 私が来たのは、律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
 廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。


 僕が冒頭で紹介した、旧約聖書に対する彼の考えが如実に現れています。 彼は、旧約聖書の神を否定はしていないのです。 ただ、その意図が達成されていないことを主張したのですね。
 こういった意見申し立ての形は、とても参考になります。

 
  ・・・
 「姦淫してはならない。」と言われたのを、あなた方は聞いています。
 しかし、私はあなた方に言います。 誰でも情欲を抱いて女を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯したのです。


 罪はどこにあるのかについて説いています。 愛という精神的なものを最高の価値に据えた彼にとって、罪は、究極的には、行いそのものより、精神のあり方にあるのだと主張したのですね。 ドキッとくる文句です。
 

 
 
  ・・・
 人に見せるために人前で善行しないように気をつけなさい。
 そうでないと、天におられるあなた方の父から、報いが受けられません。
 ・・・彼らはすでに、自分の報いを受け取っているのです。

 
 これも、ドキッとする言葉です。 陰徳の重要性は、中国の多くの思想家も述べているところです。 そのような思いやりがあるからこそ、人の世は成り立っているのですよね。
 現代においては、あまりにもあまりにもあまりにも軽視されている事です。 見えるもの、それこそが善行である、という考え方から、逃れられないものでしょうか。。
 
 
  ・・・
 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。
 そこでは虫と錆で、きずものになり、また盗人が穴を開けて盗みます。
 自分の宝は、天にたくわえなさい。


 ここでも、無私の行いの重要さを説いているのだと思われます。
 「人がこの世に残せるのは徳行のみだ」と説いた、上杉鷹山と同じものを感じられます。
 

  ・・・
 裁いてはいけません。 裁かれないためです。
 あなたが裁くとおりに、あなたがたも裁かれ、あなた方が量るとおりに、あなた方も量られるからです。


 ここで、彼は独善的な決め付けや中傷を批判しているのだと僕は感じています。
 事実、他人を中傷する人間は、逆に中傷されるものですよね。 僕たちが住む社会においても。 言うのなら、本人の前で言えばよいのに。 他者に対する愛があれば、それも可能となるのでしょうね。



  ・・・
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
 ・・・あなた方は悪いものではあっても、自分の子供には良いものを与える事を知っているのです。 とすれば、天におられるあなた方の父が、どうして求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
 そこで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。


 この言葉もすごく好きです。
 何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもする。 それこそ、多くの場合相手に対する正しい行いになるのでしょうね。 もちろん、人によって価値観が違うのなら、多少のいざこざは起きるのでしょうが、そのような心持を持って他者に当たっている人が、いざこざを起こすとはとても考えられません。
 また、このように人々が行うことによって、言い換えると、お互いが援けあうことによって、人々は、自分個人に対する煩いから解放されて、イエスの言う「神の国」が達成されるのだ、僕は感じています。





 5.結びに

 キリスト教が女性差別の一つの典型だ、という話は、確かにロジカルなのですが、このノートの趣旨に従い、ここでは置いておきましょう。
 
 彼の主張が、なぜ人々の間で今も生き続けているのか。
 一言で、彼の生涯は、人々に対する愛という明瞭で力強いメッセージに満ちているからに他ならない、と僕は感じています。
 
 人々に対する愛というのは、人がある限り、永遠の主題なのではないでしょうか。 そのアイディアを体現したキリストの生涯から、多くの事を学ぶことが出来そうです。 一方で、キリスト教を信仰しながら、戦争をする人たちは、いったい全体、何をどう考えているのか、不思議でなりません。


 最後に、愛についての彼の言葉を引用して、人ノート第四回、キリスト-愛の人、を終えたいと思います。 小説「氷点」の主題にもなっている箇所ですね。



 cross.jpg


 「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」と言われたのを、あなた方は聞いています。
 しかし、私はあなた方に言います。 自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。
 …自分を愛してくれるものを愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
Comment
≪この記事へのコメント≫
<キリスト教を信仰しながら、戦争をする人たち
聖書にある言葉を成就させたいのでしょう。
ヨハネの黙示録とかね・・・旧約の約束の地という
言葉に反応して、近現代にイスラエルは出来ました。
一神教は、色々な意味で危険が多すぎます。
2006/06/06(火) 00:05:33 | URL | IRIAS #-[ 編集]
 I-RIASさん、こんばんは。
 一神教や宗教そのものよりも、それを受け入れて行いを為す個々人の中にこそ、問題の所在があるのではないのかな、と感じています。
2006/06/07(水) 00:30:37 | URL | Taejun #-[ 編集]
拝読してつくづく自分の行動原理や
信仰心というものはキリスト教からも
多くの影響を受けているのだと改めて
思いました。
(とはいえ快楽主義者の自分には
合わない部分もありますが^^)

自分は特定の信仰は持ちませんが、
母方は皆プロテスタントですし、
中学・高校はカトリック系だったもので
そのせいでしょうね。
日ごろは聖書に立ち返って考えることは
ありませんが、いい機会をいただきました。
感謝です。

自分の行動原理や信仰心の構成要素を
分析してみようなんてアイデアが湧きました。
キリスト教:仏教:神道:その他=
3:2:1:4
ってな感じですかね。
その他が多すぎるか・・・
2006/06/07(水) 22:28:08 | URL | taka #-[ 編集]
 takaさん、返信遅れ申し訳ございません。
 何かのお役に立てたのなら、とても嬉しいです。 


 >自分の行動原理や信仰心の構成要素を
分析してみようなんてアイデアが湧きました。

 僕の場合は、、、
 うーん、雑多すぎて比率が出てきません^^;

2006/06/09(金) 00:09:27 | URL | Taejun #-[ 編集]
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