Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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経済学の方法としての、「合理的人間」。
 日本は、格上のクロアチア相手に頑張ったと思います。
 
 僕は、高校時代から川口選手のファンです。
 スパイクもグローブも川口モデルでした。

 フィールド上でも彼はかっこいいのですが、それ以上に、サッカーに打ち込む彼のひたむきな姿から、多くのものを学んでいた気がします。
 例えば、食事一つとっても、彼の節制振りは半端じゃない。 他の代表選手が気にせず揚げ物を食べる中、彼はただ一人その衣までとって食べていたり。 練習も人一倍一生懸命やっていた彼には、尊敬の念を抱いていました。 しかも、川口は昔から、こういう逆境において力を出すんですよね。 それもまたかっちょいい。

 と、個人的に川口ファンでもあるのですが、僕はクロアチアというチームが同じくらい好きなんです。

 98年のワールドカップでのシュケルのインタビュー、「祖国の人々に力をあげるために勝ちたい」という台詞にしびれました。 
 
 で、是非ともクロアチアには優勝してもらいたいと思っていまして。


 と、なんとなく複雑な気分で試合を見ていました。

 結果は引き分け。 これまた複雑ですね。。


 さて、閑話休題。

 例のマーケットメカニズムのレポートを書かないといけないのですが、そのネタ探しに購入したのが本書。

 20060619002647.jpg


 こういった、心理学、特に認知心理学を経済事象を説明するために利用するのはとても重要なことだと感じています。 事実、最近のノーベル経済学賞は、これと関連した分野における受賞がとても多いんですね。

 多くのインプリケーションを得られるという点では、とても感謝しているのですが、どうしても変だなあ、と感じる点が。


 昔の経済学者たちには哲学者が多かったことは、作者と同様、多くの人々が知る事実です。 アダムスミスの著書には、道徳感情論、というものもあります。

 そこまで書いておいて、なぜ、今までの経済学では人間を「合理的で利己的な存在」と見なしてきた理由を、書いていないんでしょうか?



1. 経済学の方法としての抽象化
2. 抽象化の必要性
3. 行動経済学についての個人的見解



1.経済学の方法としての抽象化
 哲学者や心理学者でもある経済学者たちが、人間を「合理的で利己的な存在」と見なしたのは、哲学で言う「抽象化」の作用によります。 
 
 抽象、というと、「あいまいな」と同じように扱われますが、全く違うものです。
 
 抽象、というのは、雑多なものが溢れている事象から、ある(多くの場合根本的な)事象を抽出することを言うんです。 ちなみに、このときに雑多なものを排除する事を、捨象といいます。

 自然科学と違って、社会科学では、純粋な研究対象を取り出すのは難しい。 だから、抽象の力を用いて、昔の経済学者たちは研究していたんです、少なくとも、100年以上前の経済学者たちは。 ちょっと長いのですが、マルクスの経済学批判の「経済学の方法」という部分の一節を引用します。 (ちなみに、ここでの抽象化は、人間性に関する抽象化とは違います。)
 
 「・・・そこで、もし私が人口から始めるとすれば、それは全体の混沌とした表象なのであり、一層立ち入って規定することによって、私は分析的にだんだんとより単純な概念に達するであろう。 つまり私は、表象された具体的なものからますます希薄なabstracta(abstractは「抽象する」、という意味、abstractaは、『抽象したもの』と言う程度の意味です。訳者は「一般的なもの」と訳しています。)に進んでいき、ついには、もっとも単純な諸規定に到達してしまうのであろう。 そこから、今度は再び後方への旅が始められるはずで、ついに私は、再び人口に到達するであろう。 しかしそれは、今度は、全体の混沌とした表象としての人口ではなくて、多くの規定と関連とを持つ豊富な総体としての人口である。」
 


2.抽象化の必要性
 上のような抽象化を経済における人間行動の本質的な部分を抜き出したら、「合理的で利己的」ということになった。 僕は個人的にそういう結論は好きじゃありませんし、この結論によって見落としてしまう部分もあるのですが、それは抽象化においては避けがたい事なんですよね。 
 

 うまいかどうかわかりませんが、たとえ話を。 

 あなたは、人ごみの中で周囲を観察しようとしています。

 人ごみの中にいたからと言って、その人々の全体的な流れはわかりません。
 でも、一度ヘリコプターに乗って、上からみたら、基本的な全体の流れがわかるようになります(抽象化)。
 ヘリコプターから降りて、再度人ごみに入ったら、今度は、その人ごみの流れが、より明確に見えるようになります。 人ごみの中にいるだけでは、一生わかりそうにない事柄が。 



 もちろん、全体的な流れに反する人たちはいます。 けれど、現実の世の中で、そんな人たちをひとりひとり観察していたら、その間に、人生の日が暮れてしまいます。 限りある人間知性をもって事物を観察するためには、抽象化は必要で、避けがたいものなのだと僕は考えています。


 それと、こういう抽象化をしないと、体系的な学問は作れないんです。 体系的な学問のほとんどは、基本概念の根本的な部分でこの抽象化を行っているからこそ、出来上がっているんですよね。 確かに、経済学の場合、その抽象化がかなり強い気はしますが。


 
3.行動経済学についての個人的な見解
 ですから、行動経済学が今までの経済学に与える良い効果を基本的に肯定しつつも、そのことが惹起しうる問題点と言うのも、考えるべきだと思います。 新たな側面が見えてくるのは素晴らしいことなのですが、重要なのは、それも含めて、よりよい知見や行動の原理を得られることにあるのだと、僕は考えます。


 現実を記述するだけなら、ちょっと研究すれば、誰にでも出来ます。

 重要なのは、もっと微妙なところ、真理(と思われるもの)と現実とのギャップの間に立っている事を意識しながら、事象を観察し、そのダイナミズムを考えることにあるのだと思います。 

 それこそ、学問のあるべき姿なのだと、アナログな僕は考えているのですが、どうなんでしょう。


 再度言いますが、行動経済学という分野が示してくれるインプリケーションはとても貴重なもので、経済学の発展に大いに貢献することでしょう。 もちろん、僕の木曜締切のレポートのネタとしても、活躍してくれそうです^^

 と、まとまりのない文になりましたが、こんなところで。

Comment
≪この記事へのコメント≫
ウェブ進化論
>上のような抽象化を経済における人間行動の本質的な部分を抜き出したら、「合理的で利己的」ということになった。

taejunさん。これは個人的な質問なので別に答えなくてよいのですが、今ベストセラーになっている梅田望夫「ウェブ進化論」をお読みになったことがおありでしょうか?

梅田氏がこの本で今話題のWeb2.0について述べているのですが、最も私が興味をそそられるのが梅田氏が、
「人々は善だ。」(P121)「不特定大多数無限大を信頼する」(P223)など、経済学者の通常概念と違って、人間社会を「合理的で連帯感のある社会」とみなし、そのテーゼの上にWeb2.0が形成されると論じていることです。

できれば今後のエントリーでこのことについて論じていただければ幸いです。
2006/06/19(月) 22:14:37 | URL | F.Nakajima #-[ 編集]
コメントありがとうございます。

ウェブ進化論については読もうと思いつつ読めていないのですが、以前WEB2.0の勉強会に参加したこともあり、その基本的なアイディアについては理解していると思っています。
以前、記事も書いています。
http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-entry-305.html

正直、あの根本概念は、少々危険だと思っています。 「大衆の叡智」と言うと、聞こえはいいし、僕はそういうものを信じたくも思うのですが。。
2006/06/20(火) 11:42:29 | URL | Taejun #-[ 編集]
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