Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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人ノート⑤:西郷隆盛:天を貫く至誠の人。
 さて、人ノートもいよいよ第5回を迎えました。
 
 かねてからtakaさんのご要望があった西郷隆盛が、今回の主人公です。

 
0.同時代人の評する西郷隆盛
1.略歴
2.思想-敬天愛人
3.人となり
4.政治における西郷隆盛
5.結びに


0.同時代人の評する西郷隆盛

 坂本竜馬曰く:
 「西郷は馬鹿だ。馬鹿ならば大馬鹿者だ。」
 「大きく撞けば大きく鳴り、小さく撞けば小さく鳴る。」 


 中岡慎太郎曰く:
 「この人学識あり、胆略あり、常に寡言にして、思慮勇断に長じ、たまたま一言を発せば、確然人の肺腑を貫く。」 

 勝海舟曰く:
 「西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。 俺の一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。 俺だって事に処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠は、俺をしてあい欺くことが出来なかった。」 

 
 多分、この通りの人だったのでしょう。 この三人がお世辞を言うなどとは夢にも思えませんから。

 直接会っていた同時代の人たちがここまで語り残しているのですから、僕にはもう西郷隆盛について評する部分はあまりないように感じます。 いつもどおり、この人ノートでは、僕が彼から学ぶべきと感じた事を中心に話を進めていきます。
 
 彼について特筆すべき点の一つは、エピソードの多さです。 三つのエピソードさえあればその人の性質がわかるといったのはニーチェですが、西郷隆盛について考える上で、言葉以上にエピソードが語るところが大きいと思うので、エピソードをいつも以上に織り込んでいこうと思います。
 


1.略歴
 西郷隆盛は、1827年、鹿児島に生まれました。 子供の頃の西郷は、動作ののろい、間抜けな少年として見られていたようです。
 
西郷の少年時代に関して、あるエピソードがあります。 正確ではないのですが。

 西郷少年は、桶を担いで歩いていました。
 それを驚かそうとした友だちが、往来に急に飛び出し、西郷を驚かせようとしました。
 西郷少年は、その友達を前にして、ゆっくりと桶を下ろし、そして、さも驚いたような顔をして、また何事もなかったかのように桶を担ぎ、その場をすたすたと歩き去っていったそうです。
 
 相当肝っ玉の据わっていた少年だったようですね。

 そんな西郷は、当時の藩主の中でもとびきりの名君であった島津斉彬に取り立てられます。 そして、西郷は斉彬から大きな薫陶を受け、育っていきます。 西郷の生涯を見ていると、最後の瞬間まで、斉彬への忠義に彩られているように僕は感じます。

 斉彬の死後、薩摩藩と幕府との軋轢の間で、彼は二度の島流しに処され、その時独学をします。 そして63年に復帰し、68年には、有名な勝との会見、江戸城無血明け渡しの主役を担います。
 その後、73年、征韓論争のさなか周囲を説得し、朝鮮への外交使節の首席大使に任命されますが、それが取り消しになるや下野します。 77年には、周囲の士族に半ば祭り上げられ、西南戦争において賊軍の総大将という立場になります。 敗色濃厚となった西南戦争の終局において、彼は部下に首を刎ねさせ、その生涯を絶ちました。
 


2.思想-敬天愛人

 西郷隆盛の思想が敬天愛人と呼ばれるものであったことは、とても有名な話です。 彼の言葉を借りて、その意味を探ってみましょう。

 「天はあらゆる人を同一に愛する。 ゆえに我々も、自分を愛するように人を愛さねばならない。」

 何かに似ていませんか? そう、キリストに似ているんですね。 西郷は陽明学を学びましたが、キリスト教は学んでいないはずで、この言葉は自らの思想から語られたものなのでしょう。 人をひきつける原理と言うのは、共通の何かがあるようです。

 西郷がどのように人間を愛したか、エピソードを一つ。

 
 後の桐野利秋となる中村半次郎が、西郷の私学への入門をしようと彼のもとを訪れました。 半次郎はそのときものすごい極貧状態にあったので、贈物を準備することは出来ませんでした。 しょうがないので、彼は、自分が作った芋を持っていくことにしました。
 半次郎は西郷に会い、挨拶をしたのち、芋を取り出し、「貧しいおいどんの土産でごわす。」と言ったそうです。
 それを傍でみていた門下生は、どっと吹き出します。

 そのとき、温厚な西郷の顔は見る見るうちに変わり、門下生が初めて聞くような怒号をあげます。
 
 「半次郎どんは何の贈もなかとじゃによって、自分で耕してつくったから芋ばおい(俺)に捧げるというちょる。 こいは、半次郎どんの丹精をおいにくれるこつじゃ。 こい以上の贈物はごわさん。 その誠をしらず、ものの高で人間を律するようなヤツばらは、おいの門下ではなかとじゃ。」
 
 そして、半次郎のほうを向くと、「西郷、ありがたく頂戴つかまつる。」と深々と頭を下げたそうです。
 

 人を評価するにその至誠をもってして、人を自分の如く愛する。 
 こんな人がいる企業であれば、絶対に素晴らしい企業になるのでしょうね。
 


3.人となり

 西郷の人となりは、その敬天愛人の思想に裏づけされていると思います。
 中でも、特筆すべき2点についてあげようと思います。


1)無私
 彼は、軍服は一般兵と同じ服を着、普段は薩摩がすりに木綿の帯、大きな下駄姿で、どこにでも行ったそうです、たとえ宮中の宴会などであってもです。 住居もみすぼらしいものでしたが、彼は平然としていました。 贈られた土地などについても、なんら興味を持ちませんでした。
 唯一の例外は犬でした。 山を駆け巡り猟をすることが好きだった彼は、犬の贈物だけは、ありがたくもらっていたそうです。

 この質素さも、彼が抱いていた敬天愛人の思想、天と共に進む人間は終局には富むのだという考えに基づいているのだと思います。 彼はこう語っています。

 「徳に励む者には、財は求めなくても生じる。 したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。 古の成人は、民を恵み与える事を得と見て、民から取る事を損と見た。 今はまるで反対だ。」

 「賢者は施すために節約をする。 自分の困苦を気にせず、人の困苦を気にする。 こうして財は、泉から水が湧き出すように自分のもとに流れ込む。 恵みが降り注ぎ、人々はその恩沢に浴する。これは皆、賢者が徳と財との正しい関係を知り、結果でなく原因を求めるからである。」

 
 また彼は、生涯に一度も、自分の権威を振りかざしたりしたことが無かったようです。 自宅の家人を一度として叱り付けた事もありませんでした。 
 ある日、宮中での宴会に例の服装で参加した西郷は、途中で席を外し帰ろうとしました。 門で彼は呼び止められます。 そりゃあそうです。 下駄に薩摩がすりに木綿の帯をしめた大男が、いきなり宮中に現れたのですから。
 門衛が西郷に「何者だ」、と問います。 西郷は「陸軍大将、西郷隆盛」と答えます。 門衛は信じません。
 
 雨が降っていた日でした。 確認のために人が来るまで、西郷は何の恨みごとも言わず、雨の中に立ち尽くしていたそうです。 

 
 西郷の生涯を見ていると、そのすべてが、世間一般の「栄誉」に対して全く無頓着だった事がわかります。 彼にとっての栄誉はそんなこの世の物質的なものにはなく、天にあったのでしょうね。



2)沈着冷静
 彼は動じません。 
 凡人が見たら、「この人はただのでくの坊なのではないか」と思ってしまうほど、彼は動じません。 坂本竜馬が表現した、「大きな鐘」そのものです。

 二つのエピソードがあります。

 伏見での戦いの最中、前線の部隊から伝令があったそうです。
 「救援がこなかったら、我が隊は全滅します。」
 
彼は、こう答えます。

 「君たちが全滅したら、次の部隊を送ろう。」

 敵は、撃退されたそうです。


 西南戦争の終盤、圧倒的な優位を占める官軍が、西郷の陣の周りを取り囲みます。
 その時、西郷は、悠々と囲碁を打っていたそうです。


 これは、彼がただ単にぬぼーっとしていたということではないと僕は思います。

 彼には、自分が天と共に歩んでいるという確信があったのでしょう。 だから、ちょっとやそっとのことでは動じない。 多くの場合、強い信念を持っている人は、危機に瀕しても驚くほど落ち着き払っている事が思い出されます。





4.政治における西郷隆盛

1)仁政主義の理想
 政治においても西郷のスタンスはやはり、敬天愛人にありました。
 彼は、有司専制への反感を抱き、サムライによる政治を実現しようとしました。 当時の官僚の腐敗は、西郷の理想には決して合致しないものであり、彼の理想である、天と共に歩む仁政は、サムライの心を持つ人々が政権を握ることによってのみ可能となると考えたのでしょう。 サムライによる執権は、彼にとって、仁政主義の理想達成のためには、限られた手段の中ではベストだったのでしょう。



2)戦わずして勝つ
 人を愛した彼の戦におけるスタイルは一貫しています。 それは、「戦わずして勝つ」ということです。
 しかも、ただ、懐柔するのではありません。
 それがうまくいくために、自分の戦力を相手にしっかりとみせつけて、そして懐柔するのです。 
 このあたり、彼がただ単の理想主義者でなかった事が伺えます。 話し合いをするためには、ある程度の実力が必要だということを、彼は知っていたのでしょうね。
 
 長州との戦においても、後の江戸城明け渡しにおいても、彼のスタンスは一貫して「戦わずして勝つ」だったと、僕は思います。



3)征韓論
  
 いまだに西郷は征韓論の提唱者の首魁だ、という人が多くいます。 ですが、僕にはどうしても、それが理解できないんですね。 その人たちは、西郷と言う人間について、表面的な理解しかしていないのではないでしょうか。
 
 西郷隆盛は、常に血を嫌い、可能な限り、血を見ないで事が解決するように政治的判断を下してきたように見えます。 あれだけ頑固な彼が、征韓論においてのみ自分の立場を転換する、という事が、容易に想像が出来ないのです。

 そして、そういう視点をもって、征韓論争における彼の主張を見ると、違ったことが見えてきます。

 彼が、無礼をはたらいた(大韓帝国への使節に対し、無礼な扱いがされたのでした)朝鮮を叩かないと正義にもとる、と主張したのは、言葉のあやと言うか口実で、本来の目的は、話をつけるために自分自身が朝鮮へ直に出向く、という事にあったようです。

 事実、彼は朝鮮への使節の大使となる事を熱烈に志望しています。

 当時、ほとんどの政治家が、「もう外交的手段には頼らずに、即座に朝鮮併呑すべし」と考えていた状況において、それに反するような主張をしては、大使になることは不可能だったのでしょう。 本来の意図がどうあれ、目的を達成するためには、上の様な言葉のあやが必要だったのだと思われます。 本来の意図は、僕が思うに、話し合いによる平和的な問題解決にあったのだと思います。 これまでの西郷の行動から考えると、これ以外の事が僕には思いつきません。

 そのような僕の考えを強く支持してくれるのが、おそらくあの時代において西郷の一番の理解者であった勝海舟です。 彼は、西郷の死後にこう語っています。
 
 「西郷隆盛は征韓論に非ず。
 世、君を以って征韓論の張本人となし、十年の乱をもって征韓論の相背馳したるに源由となす。 これ未だ、君の心を識らざるものなり。」



 これは、僕の独善的な解釈なのでしょうか。



5.結びに
 西郷隆盛が見せてくれたことは、人の至誠が何をなすことが出来るか、という事にあります。
 西郷は動きが機敏なわけではなく、頭の回転が速いわけでもなかったように思います。 しかし彼には、誰にも及びもつかないような誠意がありました。 その誠意は、同時代の人々のみならず、その後に生きる人々の心を今もつかんでいます。 世の中を根本から動かすのは、知性などの才覚のみならず、誠意や精神にあるのだと僕は考えています。

 今の世の中では、人を判断するのに、誠意のようなわけのわからないものには頼らずに、知識や実績など、目に見えるものに頼りがちです。 もちろんそれも一つの方法ではあるのですが、人間の本当の価値と言うのはどこにあるのか、という事を、もう一度考えるべきではないでしょうか。 西郷隆盛の生涯は、そんな示唆を与えてくれるように思えます。

 それでは最後に、西郷隆盛が語っていた言葉を紹介して、人ノート5、西郷隆盛―至誠の人、を終えたいと思います。


 「天の道を行うものは、天下こぞってそしっても屈しない。 その名を天下こぞって褒めても奢らない。
  
 天を相手にせよ。 人を相手にするな。 全てを天のためになせ。 人をとがめず、ただ自分の誠の不足を省みよ。」

Comment
≪この記事へのコメント≫
ありがとうございます!感動です。
新たな発見もあり、納得もあり、です。
貴重な学び直しの機会を得ました。

組織論やリーダーシップ論において偉人説は
過去の遺物であることは知っていますが、
やはり偉大な人から学ぶことは豊富にありますね。

征韓論についての考察は興味深く読みました。
補完する知識がないのがはがゆいのですが。
鹿児島の市井の人々はその彼の至誠を
信じ、征韓論や政府側の姿勢を意に介さな
かったようです。その反動として大久保への
反感を醸成したと言う風に認識しています。
一般市民の感情が的を得ている場合もある、
ということかもしれません。

ちなみに鹿児島県人は基本的に上野の
西郷さんが嫌いです。実物の写真はあまり
残っていないようですが、鹿児島の西郷さん
はきりっとしているので、認識の違いが
出てますね。確か奥さんも上野の西郷像を
「似てない」と一蹴したと聞いています。
2006/07/04(火) 06:52:59 | URL | taka #-[ 編集]
コメント有難うございます。
何かの参考になったのなら幸いです。



 >鹿児島の市井の人々はその彼の至誠を
信じ、征韓論や政府側の姿勢を意に介さな
かったようです。その反動として大久保への
反感を醸成したと言う風に認識しています。
一般市民の感情が的を得ている場合もある、
ということかもしれません。

ちなみに鹿児島県人は基本的に上野の
西郷さんが嫌いです。実物の写真はあまり
残っていないようですが、鹿児島の西郷さん
はきりっとしているので、認識の違いが
出てますね。確か奥さんも上野の西郷像を
「似てない」と一蹴したと聞いています。


 とても参考になりました。 有難うございます。

 調べ物をしている途中に、鹿児島の老年代の人たちは特に、今も西郷隆盛を尊敬している人がとても多いことも知りました。
 時代を経ても、人の心の中に根付くことは、素晴らしいことですよね。

 
2006/07/04(火) 23:01:58 | URL | Taejun #-[ 編集]
>世の中を根本から動かすのは、知性などの才覚のみならず、誠意や精神にあるのだと僕は考えています。
同感です。
誰かが言っていました。
「最近、身体を鍛える人や脳を鍛える人は多くなったが、人格を鍛える人は少ない。勇敢で正義感に富み、度量が広く、欲望に負けず、親切で、何があっても動揺せず、損得にこだわらない太っ腹な人間を目指す者はおろか、関心を払う人さえほとんどいない。」と。
人ノート⑤を読む限り同感することがとても多く、西郷隆盛に少し興味を抱きました。
ありがとうございました。
2006/07/07(金) 14:34:23 | URL | ゆな #-[ 編集]
 ゆな、コメント有難う。
 
 その言葉、全く同感します。
 人間にとって一番大切なものは、知識だとか財産だとかじゃなくて、徳だとか誠意だとか、そういうことにあるのだと思うんだよね。 知識とかは、その人の徳を高めるための飾り物にすぎないのであって。

 そんなものが価値あるものになる世の中になればいいよね。
2006/07/08(土) 20:49:20 | URL | Taejun #-[ 編集]
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中田選手の姿が印象的だったとWCブラジル戦の後書きましたが、今日は中田選手引退の報を聞いてあの時書かなかったことと、いつも勉強させていただいているTaejunomicsさんで西郷隆盛を取り上げてもらったので、「人
2006/07/04(火) 07:17:55 | ヘルス・コミュニケーション日記
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