Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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「虐げられた人々」。
 この週末は、考えるきっかけとなった出来事があまりにもかさなってしまったので、エントリーを書けていませんでした。 東大でtakaさん紹介の講演会に参加(というか顔を出しただけ)したり、小説に強い感銘を受けたり、学校の同級生と温泉に行って話をしたり、勉強用の本を買いに行って右往左往したり、軽音サークルの後輩の演奏を見たり、朝鮮学校に行って老人たちから昔話を聞いたりと。


 さて、今日のメインは、感銘を受けた小説についての感想文。

 読んだ本は、47thさんが学生のころ好んで読んでいたという
 
 「虐げられた人々」、ドストエフスキー


 1.かんたんな作品紹介
 2.貧困についてのインプリケーション
 3.真理と表現者の姿勢についてのインプリケーション
 

 1.かんたんな作品紹介 
 ドストエフスキーの初期から中期くらいの作品のようで、後半の作品群において顕著に見られる、取り出したての心臓のように生々しい人間描写の萌芽を見せつつも、全体的にはヒューマニズムを基調とした作品となっています。

 ドストエフスキーの作品を数行で解説するのはとても困難なのですが、あえて書くと、

 途方も無く無邪気でそれによって時に人々を傷つけてしまうアリョーシャと、思いやりと感傷の性質が強いナターシャの悲恋を軸にしながら、悪魔的な性質をもつ公爵をはじめとする人々(に具現化された当時のロシア社会)によって虐げられている人々の姿を描くことによって、世のあり方を問うている作品だと思います。

 


2.貧困についてのインプリケーション

 最近の関心からか、貧困について考えずにはいられませんでした。
 物質的に豊かであるからといって、人は必ずしも幸せにはなれないのに、貧困によって生じる悲劇の数は果てしないものであるというのは、揺るがしがたい事実だと思います。 

 今の日本の状況から考えると、さらに、貧困について、分けて考える必要を感じます。 絶対的貧困と、相対的貧困に。
 まだ言葉の意味をはっきりと定義できていないのですが、日本で起こっている貧困の問題が相対的貧困の要素を多く含んでいるのに対し、途上国のそれは、絶対的貧困なのだと、考えています。

 不思議なことに、世界的に見れば豊かであっても、局地的には相対的に貧しくて、それによって、貧困から生じる負の諸問題が生じる場合が少なくないようです。 たとえば、「貧しさ」への自覚からくる苛立ちとそれによる家族内での喧嘩(ドストエフスキーがよく描く情景の一つです)において、「貧しさへの自覚」は、先進国においては、「相対的な貧しさへの自覚」の場合が少なくないと思います。 
 

 このことを考えていると、それぞれの貧困についての打開策についても考えが及びます。
 
 絶対的な貧困については、物質的な解決が最重要課題で、それはなんとかなる日が来ると僕は信じています。 経済学者ジェフリー・サックスの話すことは不可能でないと思います。  ほとんどの人が、その日の食料には困らず、凍死する恐れを抱かず、蚊がもたらすマラリヤによって死ぬ恐れを抱かずに生活できる世の中は、きっと来るはずです。


 ですが、その後に到来するのは、相対的貧困の問題で、これは、より一層解決が難しい問題だと思います。 少なくとも、二つの方面におけるチャレンジが必要となります。
 一つは、政策的な挑戦。 富の配分における公平性を高めつつ、だからといって、悪平等にならないようにすること。 それによって、人々の努力に対するインセンティヴを下げないこと。
 そして、上のこととも関連するのですが、精神的な挑戦。 心の問題が重要になってきて、「我唯足ることを知る」という言葉で表されるような精神的状態を、人々が持たないといけないと思うんです。 
  
 
 ここまで考えてくると、幸せというのは不幸せがあるからこそ存在していて、すべての人が幸せを感じられることは、本当に難しいのだろうな、と考え込んでしまいます。
 




3.真理と表現者の姿勢についてのインプリケーション
 
 僕が好きな漫画の一つに「ARMS」というのがあるのですが、登場人物の一人である天才科学者の言葉が思い出されます。 彼は、その地位にもかかわらずスラム街のアパートに住んでいます。 彼言うよう、「ここに真理があるからだ。」。 きれいな邸宅では見られないもの、人間の悲しみや憂い、その中で生きる人々の醜さや美しさが、スラムの路地裏や屋根裏部屋ではみられるから、彼はずっとそこに住んでいるのでした。

 ドストエフスキーの作品においては、人間心理のどろどろとした部分が抉り出され、それらが鮮明に描写されています。 そして、それと同時に、著者の限りない人間愛も。 
 きれいなものだけを見せて(もしくは見て)、理想を説くことだけではどうしても不十分なのだと僕は思います。 現実に、僕たちは時にきれいだけど時にどろどろした世の中で生きているのですから。  そして、そのような暗い部分に直面してもなお前を見据えていけるような想いや、冷然たる現実に対しても冷めることをしらない情熱こそ本物で、そのような心持を保つためには、日頃から生の現実を直視する努力をしなければいけないのだと思います。

 この姿勢は、表現者にとって、とても重要だと感じます。 作品に生命が宿るかどうかというのは、ひとつは、このような精神的態度を持っているか否かにかかっているのではないのかなあ、と思うことしきりです。 僕は、ドストエフスキーの作品からは、生命の迸りを感じます。

 のみならず、学問をする人々にとっても必須ですね。 砂上の楼閣のような議論を建ててしまわないためにも。


 夏には、もう一つドストエフスキーを読もうかなあ、と思っています。 主な長編のうちで唯一読んでいない「悪霊」を。 世の中で最も醜い人を描いたとされる本作品(最も美しい人を描いたのは「白痴」です)、背表紙に書かれている文からして禍々しかったので、いまだに読めていなかったのですが、チャレンジしてみようと思います。
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