Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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懐疑と学問と意思決定。
 酔っ払い気味です。 が、頭は回っている(はず)という事をアピールするためにも記事を書いてみます。




 またF.Nakajimaさんへの返信記事です。


 
1.デカルトの「疑え」
2.ファイナンス理論と懐疑
3.懐疑と事実認識の態度について考えてみる
4.結び 



1.デカルトの「疑え」

 「すべてのものを疑え」といったのは哲学者デカルトです。 ちなみに彼は相当なねぼすけだったようで、学生時代からの癖でいつも昼ごろまで寝ていたそうです。 ルネ・デカルトの死因は、デンマーク王室に招聘された際に、毎日の早起きを強制されたことによるストレスだったといわれるほど。

 
 デカルトのこの言葉は、物を疑ってかかるそのことよりも、認識の方法としての疑念の重要性を説いているものです(本来の懐疑論とは違うのかもしれません)。 より具体的には、あらゆるものを疑ってかかるうちに、疑い得ない自己にたどり着き、そこから演繹的に認識を行うという方法を、デカルトは説きました。 たしか、彼の主著、方法序説にそんなことが書いていたはずです。 あれ、省察だったっけ。。 5年くらい昔に読んだ本なので記憶があやふやです。。 

 


2.ファイナンス理論と懐疑

 さて、このデカルト的な認識方法に基づいてファイナンス理論を考えて見ます。


 疑い得ないものといえば、「事象は不確かである」という事くらいでしょうか。。

 こういう不確かなものを扱うファイナンス理論は、それゆえ、確率的なものの考え方を不確実性に対する道具として用います。 たとえば、「100%こうであるに違いない」とは言えないので、「95%の確かさでこうなる」と話す事になります。 この確かさの幅を、信頼区間と言います。  投資の決定などの具体的な話で言えば、サンプルを集めて、そのサンプルから判断します。
 
 「~%の確かさで」と主張するとしても、その幅はかなり保守的です。 少なくとも95%、場合によっては99%以上の確かさを、判断材料について必要とします。 これは、ある意味、懐疑論的な考え方がベースにあるのではないかと思います。




3.懐疑と事実認識の態度について考えてみる

 
 このようなファイナンス理論的な姿勢は、僕が以前のエントリーで書いた、

 >「確たる証拠」がないといけないと思うのです。 そうしないと、世の中が大変なことになってしまうと思うんです。



 と、矛盾するかと言うと、必ずしもそうでないと思います。
 なぜなら、両者ともに、事実の認識について懐疑的であるべきだ、という根本的なアイディアにおいて通底しているからです。

 ファイナンス理論では、「~%の確かさで」事実を判断しますが、これは、そうする他に無いからするわけですね。 

 一方、亀田選手の件その他の社会事象については、僕は、事実の確かさをかなりの信頼度で保証するものとして「確たる証拠」を求めます。 これも、基本的な考え方は、「証拠と結論との因果関係については用心深くあるべきだ」という点にあります。
 
 上記のように、具体的な方法は違っていても、事実認定に対する態度としては同じものがあると思います。

 僕は、それこそが、知のあり方だと思っています。 確率論の話で言えば、みんながみんな信頼区間60%程度のことについて事実と認定していたら、やっぱり世の中は大変な事になってしまうと思うんです。


4.むすび

 と言うわけで(どういうわけで?)、ある程度の、事実認識における用心深さは重要であると僕は考えていて、その意味においては、懐疑論的な立場に対して賛同します。 2ちゃんねる的な言論をそこらじゅうで見かけるようになった現在の状況には、かなり危惧しています。 

 
 しかし、懐疑という方法によってしばしば起こりがちな「前に進めなくなる」ようなことは避けたいと思っています。 現実世界に生きていて、前に進まざる得ない人間は、ある程度妥協をせざるを得ない。 その妥協の仕方、という点において、数がものを言う世界では統計と論理は貴重な道具でしょう。 数で語りえない世界においては、論理だけでもがある程度まではその役割を果たすと思います。
 

 それでも、かさねがさね書いていますが、事実の認識においては懐疑的であるべきという態度は、特に、その認識が特定の人々に対して不利となる場合において、常に取るべきもので、それが基本なのだと思っています。


 ・・・ほろ酔いです。
 二日酔いにならないといいのですが。。
 
Comment
≪この記事へのコメント≫
懐疑論再び
ちょっと頭の体操ですが、少し意地悪な質問をします。

>確率的なものの考え方を不確実性に対する道具として用います。 たとえば、「100%こうであるに違いない」とは言えないので、「95%の確かさでこうなる」と話す事になります。 この確かさの幅を、信頼区間と言います。  投資の決定などの具体的な話で言えば、サンプルを集めて、そのサンプルから判断します。

ふっと、ここで思うんですがね。私は統計学を取っていないのでサンプルからどのくらい信頼性の高い数値を導き出せるかよく知らないのですが、少なくとも100%ではないことは確かでしょう。

>ファイナンス理論では、「~%の確かさで」事実を判断しますが、これは、そうする他に無いからするわけですね。 

ということは、ある投資案件に対する「x%の信頼性」とリスク判断する元になっている「ファイナンス理論」に確実性は「どのくらい」あるのか? という問題になってくると思うのです。

かなり意地悪な野郎だと思われるかもしれませんがw、ちょっと考えてみてください。

2006/08/17(木) 20:10:27 | URL | F.Nakajima #-[ 編集]
 返信遅れて、申し訳ございません。

 >ふっと、ここで思うんですがね。私は統計学を取っていないのでサンプルからどのくらい信頼性の高い数値を導き出せるかよく知らないのですが、少なくとも100%ではないことは確かでしょう。


 はい、仰るとおりです。 だいたい、99%から95%の正しさで判断してしまいます。

 

 ファイナンス理論に関しては、理論の精緻さは、学者の間では問われるのですが、実務では問われないことが少なくありません。

 答えになっていないかもしれませんが、実証分析でもって、その理論の確かさと、同時に意思決定を下しているんですよね。
2006/08/21(月) 21:10:05 | URL | Taejun #-[ 編集]
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