Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
人ノート8:V.E.フランクル-意味の精神科医
 人ノート、第8回は、ヴィクトール・エミール・フランクルです。 

 このブログの記事を読んで、何か思うことがあった方は、「夜と霧」をお読みになる事を強く勧めます。  この記事は、その本に遠く及びません。 

0.はじめに
1.精神の自由
2.意味を見出すことの大切さ
3.決定する自由
4.結びに



0.はじめに
 フランクルは、1905年、ウィーンに生まれます。 ウィーン大学にてアドラーやフロイトら、当時気鋭の精神医学者たちに学び、彼自身も精神科医となります。
 美しい妻をもち、幸せな彼の人生を、ホロコーストが襲います。 凄惨を極める収容所を、全くの幸運から生き延びた彼は、そこで得た経験を元に、ロゴセラピーを創始することになります。
 コーヒーとロッククライミングをことのほか愛した彼は、終生ウィットとユーモアに富んでいた人だったそうです。 1997年、つい10年弱前にこの世を去るまで、その思想を人々に伝え続けました。



1.精神の自由

 アウシュヴィッツに代表される強制収容所。 その内容はここでは詳述しません。 
 強制収容所において、人々を襲ったのは、感情の鈍磨でした。 ドストエフスキーは、自身の収容所での経験を元にした「死の家の記録」で、「人間は何にでも慣れる存在だ。」と述べましたが、フランクルはさらに付け加えています、「しかし、どのように、とは聞かないで欲しい…」と。 2週間もすると、人々は収容所の生活に慣れました。 道端で人が死んでいても、何も感じないようになったそうです。 ただ、己と仲間の生存に関すること以外には、何も感情の働きがなくなってしまいました。 これは、「ショーシャンクの空に」においても共通することですが、収容所と言うものは、被収容者達を、「慣れさせる」場所のようです。 ほとんどの人間が、自己保存のため、本能的に、その型に精神的にはめられていきました。

 しかし、フランクルは、そのような中でも、自分のパンを死にそうな他人に分け与えた人や、打ちひしがれた人に思いやりの言葉をかけた人、病に罹った他人のために自ら犠牲となってつらい労働に志願した人を見ました。 そのような人は、多くの人が語るように、長生きできませんでしたが。
 このような人間の姿を見ながら、彼は強い感銘を受けます。


 「一人の人間が避けられない運命と、それが惹き起こすあらゆる苦しみを甘受するやりかたには、きわめて厳しい状況でも、また人生最後の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性が豊かにひらかれている。 勇敢で、プライドを保ち、無私の精神を持ち続けたか。 あるいは、熾烈を極めた保身のための戦いの中に人間性を忘れ、あの被収容者の心理を地で行く群れの一匹と成り果てたか、苦渋に満ちた状況と厳しい運命がもたらした、己の真価を発揮する機会を活かしたか、あるいは活かさなかったか。 あるいは、『苦悩に値したか』しなかったか。
 この様な問いかけを、人生の実情からは程遠いとか、浮世離れしているとか考えないで欲しい。確かに、このような高みに達することが出来たのは、極少数の限られた人々だった。収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんの僅かな人だけだったのかもしれない。けれども、それがたった一人だけだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだという事を証明して余りある。」

 
 ここまで高尚でなくても、僕たちも、ある意味、色々な運命と対峙しているのだと思います。 今、このときも。 例えば、会社でやっていく必要から、ビジネスライクな人間関係に終始し、義理や人情というものを捨てる事をせまられることがあります。 明日の見えない生活の中で、もうだめだ、と降参し、自堕落になってしまおうとする力が働くこともあります。 忙しい日々の中で、思いやりや心のゆとりを失う圧力も働きます。

 その一つ一つで、精神の勝利を収められるかどうか。 それは、全く、その人にかかっています。 もっと正確に言うと、その人の努力、出会い、愛する人、愛する事業などによって。
 
 また、その精神の勝利は、常に定まっているものではありません。 その時々の決断にかかっています。 途中で折れてしまう人もいるし、後に立ち直って勝利を収める人もいる。 人間とは、そのような移ろいやすい存在である事を、フランクルは見ていました。 だからこそ、人は常に己を振り返る必要があるし、また、いつか人は変わるのだと思いながら人を信じることは素晴らしいのだと、僕は考えます。



2.意味を見出すことの大切さ

 どのような人が精神の勝利を収めたのでしょう。 
 
 「もともと精神的な生活を営んでいた、感受性の強い人々がその感じやすさとは裏腹に、収容所生活と言う困難な外的環境に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことが間々あったのだ。 そうした人々は、おぞましい世界から遠ざかり、精神の自由の国、豊かな内面へと立ち戻る道が開けていた。繊細な被収容者のほうが、粗野な人々よりも収容所生活によく耐えたという逆説は、ここおからしか説明できない。」

 フランクルは、そのような人々は、皆、己の人生に意味を見出していた、と喝破します。
 自分の人生に意味を見出そうとする努力は、人間の内なる根源的な動力とフランクルは考えました。 人々は、人生に意味を見出すと、その生からおりられなくなるんですね。どのような、苛烈な状況にあっても。
 そのことは、収容所において証明されたと、彼は考えます。 人生には意味があるのだと知っていることほど、最悪の条件にあってすら人間を立派に耐えさせるものは他には無かったと彼は述懐しています。 愛する人、愛する事業を持っていた人は、最後の最後まで、耐え抜けました。 反対に、人生に意味を見出せなかった人は、たちどころに崩れていってしまったそうです。 「もう人生に意味を感じられない」という被収容者に対しては、どのような言葉すらも、「意味」を持ちませんでした。
 
 なぜ、生きることの意味を見出せたら、人は、耐え抜けたのでしょう。 彼の言葉を見てみましょう。

 「私達にとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きる意味であって、『生きること』の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。
 ・・・
 この苦しみは果たして意味を持っているのだろうか。 もしそのことに意味がないのならば、生き残ることにも結局意味がないことになるのではないか。 なぜなら、人生の意味がそのような偶然の事柄にかかっているのなら、それを免れようが免れまいが、そのような人生は結局のところ全く生きるに価しないのではないだろうか。」

 
 これは、すごく大切な示唆だと思います。 人は、多くの場合、最も良い時期にだけ、自分の生のすばらしさについて謳歌してしまいがちです。 そして、逆境にあるときは、「今の状況は特別で、自分の真価が試されていないだけだ」と考えてしまう。
 しかし、そのような考え方は、やっぱり独りよがりで、本当に自分の人生を愛する人は、逆境にあっても己の人生を愛し、それに立ち向かおうとするのだと思います。 もちろん困難な状況にあり続けることが良いわけがありませんが、そのような状況にも真剣に対峙してこそ、その人の内的な成長がもたらされ、人生が実りあるものになるのだと思うんですよね。 だから、僕は、変ですが、逆境は逆境で人生の楽しい時期と同様の気持ちで迎えようと心がけています。 、、、そして、多くの友人は、僕をマゾと呼ぶ。



3.決定する自由

 その意味を、人々は、どのような状況においてさえも見出すことが出来ます。 これこそ、何にも代えがたい人間の素晴らしさなのだと、フランクルは説きます。
 
 人間は、自己決定的な存在で、決定することによって、自己を乗り越える存在なのだと、フランクルは考えました。 結局、最後に決断するのはその人で、深く思い悩んだ末の決断によって、人は何にでもなれるのだと思うんですよね。
 これは、僕が尊敬する人においても、僕自身にも覚えがあることです。 
 思えば、偉大な人々は、皆、決断をしています。 キリストは、捕らえられる直前に、神に向かって自分が本当に耐えられるのか苦悩します。 そして、彼は決断したのです。  仏陀は、自らの思想が人々に伝えられるか思い悩み、自分と幾名のみで法悦の世界に入ればよいのではないかと思い悩みますが、やはり、人々を救済せねばならぬと決断しました。 キング牧師もそうですね。 彼は、運動の途中、家が焼かれたときに、もうやめても良いのではないかと考えたそうです。 しかし、続けることを決断した。 多くの革命家も同様です。
 みんな、最初から覚悟が出来ている人なんていないと思います。 フランクルも、そのような人間は偽善者だと話しています。 みな、思い悩み、しかし、愛するもののために、決断する。

 個人的な経験で、今だから言えること。 僕自身、今までの人生で、小さいながらも決断をしてきたと思いますが(この記事を参照)、善い行いに関しても、今になって思うと、「正義感から」というよりは、より究極的には、「えいやっ」と決断して、もう後には引けないぞ、と思いつめて物事に打ち込んできた記憶があります。 また、そんな自分が、盗みやひどい嘘といった、「正義感からは」ありえない行動をとったこともあった。 ロジックでは全く説明がつきません。
 
 そういう事を思うと、人間というのは、常に善と悪(この定義自体難しいですが)の間でたゆたいながら、決断をする存在なのだと思います。 悪人がいきなり善人になりうる(これを、フランクルは見てきました)。  たゆたいながらも、己が願う方へ向いていこうと努力する姿こそ、人間らしいのかもしれませんね。



4.結びに

 フランクルの「夜と霧」を読んだときの衝撃を、僕はいまだに忘れられません。 大学四年生のときの夏休み、偶然本屋で見かけたこの本を買って、3時間であっという間に読みきってしまいました。 立川駅のスターバックスで、涙を必死に隠していた自分の姿が今も思い浮かびます。
 
 彼の本から、僕は、人間の精神の偉大さを見せてもらえた気がします。 時に弱く、ときに何よりも強い人間精神の偉大さを。 
 
 現代社会では、多くの場合、人生の意味などと言うものは軽視されがちです。 事実、こういう事を説く人間は、よく馬鹿にされます(例:Taejun)。 けれど、僕はこういった精神な寄り処こそが人間を人間たらしめているものであって、それを失ってしまっているから、人は自分の寄り処を他に探すようになり、画一主義、拝物主義が跋扈してしまっているのだと思います。
 そんな事を、ただ言っても空虚。 なので僕は将来、自分で投資するときに、このような意味を見出すことこそ、その企業のパフォーマンスが上がるという事を見せようと思っています。 


 人間は、いつだって、決断を通じて変わることが出来ると思います。 それを僕に信じさせてくれたフランクルの、「夜と霧」の背表紙にも書かれている言葉をもって、人ノート第8回、フランクル-意味の精神科医を終えようと思います。 長文をお読みいただき、ありがとうございました。


frankl.jpg


 「人間とは、何かを常に決定する存在だ。 人間とは、ガス室を発明した存在だ。 しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。」




-主な参考文献(将来のために書くことにしました)
 ・夜と霧
 ・意味への意志
Comment
≪この記事へのコメント≫
人ノ-ト、今回もありがとう。
いつも楽しみに読ませてもらってます。
「夜と霧」は後期の試験が終わったら読んでみます。お恥ずかしながら知らなかったんだけど、この本は大ベストセラ-なんだね~
2006/10/23(月) 12:31:15 | URL | 天王洲のMM #-[ 編集]
天王洲のMMさん、光栄です^^ それと、すごく嬉しいです。 多分、このシリーズが、このブログでは一番気合を入れているものの一つなので。
夜と霧は、是非読んでみてください。 

これからもよろしくお願いします。
2006/10/24(火) 00:23:29 | URL | Taejun #-[ 編集]
沖縄に住んでいます。僕もフランクルの本に感動を覚えた一人ですが、

あなたのように若い感性でそれを受け止めていたかどうかは疑問です。とても感動しました。ありがとうございます。
2008/01/29(火) 11:45:38 | URL | ゆうき #-[ 編集]
ゆうきさん、コメント残してくださってありがとうございました。

 本当は、この「人ノート」が一番力を入れているものなんです。 このカテゴリーのもの、読んでくださると幸いです。

 これからもよろしくお願いします!
2008/01/30(水) 23:10:49 | URL | Taejun #-[ 編集]
すごい
よくここまで書きましたね。びっくりです。驚きです。嬉しいです。いいサイトにたどりつきました。
2012/03/10(土) 22:52:08 | URL | なす #JalddpaA[ 編集]
真の意味 ー 真如
フランクルの「夜と霧」とご自身の立場を紹介くださいまして、ありがとうございます。

この本について聞いたことはありましたが読んではおりませんでした。 早速、 図書館から借り出して読むべきですが、 まずWeb検索をしました。 そして、 つぎのフランクル先生のインタビューのビデオを見つけました(http://www.youtube.com/watch?v=9EIxGrIc_6g&feature=relmfu)。

フランクル先生が強調されている精神の自由、 生と死の受け止めかた、 真の意味というは、 ことはよくわかります。 これらの考え方は、 仏教の教えと共通しています。

ただし、 私はボンクラですので、 こうした仏教の教えは50才を過ぎてから学びました。 大学4年生のときに、 こうした考えに出会われた人とは大違いです。

他の記事も読ませてもらいます。
2012/04/02(月) 14:06:58 | URL | とんちゃん #e9d07VAA[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する
 
Trackback
この記事のトラックバックURL
≪この記事へのトラックバック≫
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。