Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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人ノート9:上杉鷹山-改革者。
 人ノート、第9回は、上杉鷹山です。 

0.はじめに
1.民本主義
2.自己修養
3.理のある改革(当たり前の改革路線?)
4.結びに






0.はじめに
 上杉鷹山は、米沢藩の名君として知られています。 弱冠17歳で藩主となった彼は、どん底の財政状態にあった藩を見事復旧させ、米沢藩を日本でも屈指の、人々が豊かに暮らす藩にする礎を築きました。
 信義と愛と知恵を基盤とした彼の政治手法への信奉者は多く、ケネディ大統領が一番尊敬する日本人として彼の名を挙げたのは有名な逸話です。
 (彼がどんな人かあまり知らない人は、童門冬二という人の小説をお読みください。)


 さて、例によって、僕が彼の生涯から学ぶべきと感じたものを述べていくことにします。



1.民本主義
 とでも言うのでしょうか。 彼は、「民を慈しむ心さえ汝にあるならば、才能の不足を心配する必要は無い」と考えていました。 自分の身体と同じように民をいたわることを念頭においてきた彼でした。
 彼は、世の流れは民が作るものと信じていました。 だから、何よりも民を信じ、味方につけるために全力を尽くしました。 彼が窮地に立ったとき、彼を支えてくれたのは民衆でした。 若い藩主鷹山をあなどっていた重役たちの抵抗が激しかった改革の最もつらい日々、彼の改革を支持したのは農民たちだったそうです。
 
 彼は、何らかの、特に波紋を生じうる処分を行う時には、必ずまず民を見方につけてから行っていました。 たとえば、最後まで抵抗した重役七人の追放(うち二人は切腹処分)を言い渡す時には、民は完全に彼の味方だったので、そのような大処分をしても、大きな問題は生じなかったそうです。

 また、名君の常として、能力さえあれば、身分に関係なく人材を登用しました。 


 民衆の支持を得る、というのは、一歩間違えると大衆迎合的になりかねないのですが、しかし、人々の支持を得るというのは、何かしらの事業を成功裏に進めることの必要条件なのかな、と思います。 特に日本や東アジアの国では。 大衆迎合的と、人々に愛されること分かれ道は、その改革者に志があり言動に筋が通っているか否かにあるのではないかな、と個人的には感じています。

 彼がいかに無私の精神で人々に勤めようとしたか、よく分かる文があります。 彼が次の藩主に送った、「伝国の辞」です。 内容は、以下の三つでした。

一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

 右三条御遺念有るまじく候事

 今となっては、そりゃそうだ、と思われるかもしれませんが、当時、士農工商が厳格に布かれていた江戸時代において、このことは、もしかしたら気が狂っていると思われかねないほど、先進的だったと思います。 
 


 
2.自己修養
 僕が人ノートに書く人たちはみなそうなのですが、彼もまた、自己修養を欠かしませんでした。 彼は、藩主になるときに、次のような内容の誓文を神社に納めたそうです。
 ・文武の修練は、定めに従い怠り無く励むこと
 ・民の父母となるを第一の勤めとすること
 ・次の言葉を忘れないこと、「贅沢なければ危険なし」、「施して浪費するなかれ」
 ・現行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼を許さぬこと

 彼は、自らの欠点や弱さを知っていました。 だから、それらを常に意識し続け、それを打破するために、日ごろからの修養を忘れませんでした。 また、部下からの忠言は常に虚心坦懐に耳にしたそうです。

 また、当時重度の財政難にあった米沢藩の事情もあってか、彼は、とても質素な暮らしをしていたそうです。 米沢藩では、重役ほど貧乏だったとも言われています(さすがにこれは字義通り受け取れそうにはありませんが)。 「無用の費えを去るは聖王の道にして天下の大利なり」と墨子は話しましたが、彼は自らの弱さを知っていたので、勤めて質素にしたのだと思います。 物欲にはきりがありませんから。

 色々と自己修養について考えるのですが、リーダーとして世に名を残した人たちは、必ずといっていいほど、自分に厳しくするように勤めていました。 その理由はいくつか考えれるのですが:
 ・それが果たす効果:自分に打克ってこそ、世のことにも打克つことができる、自分が率先してこそ人々を従わせることができる 
 ・精神的性向:もともと、人々のために尽くそうと考えているリーダーは自分に甘くすることが性分として許せない、理想が高いため必然に自分に対する要求も高くなる
 ・自己コンプライアンスシステムの構築:自省の習性を己に染み込ませることにより道を外れることを避けることができる

 といった側面から考えると色々なインプリケーションがあるのかもしれません。



3.理のある改革(当たり前の改革路線?)
 
 彼は、当たり前の改革を為そうとした、現実主義者だったと思います。
 徳と民衆の生活向上のためにやったことは、教育システムと経済における改革でした。

 彼は、興譲館という学校を設立しました。 ここでは、諸学から良いものは全て取り入れ、教養と徳を高めることを第一の目的として教育が行われました。 能力のあるものは、皆ここで学び、卒業後、藩政の重鎮となったそうです。 ちなみに、この学校は今もあるそうですね。

 彼は、道徳を重視し、徳に基づいた改革を考えていましたが、同時に「衣食足りて礼節を知る」ということを分かっていました。 なので、どんな時も、民衆の生活基盤の確立を、徳の涵養とともに重視しました。

 財政状況は、先進的な学者の意見を取り入れ、大胆な方法で改善させました。 といっても、基本は単純で、無駄をなくすことと、公平な分配がその基本でした。 もちろん、そういう当たり前のことをする、というのが、封建制においてどれだけ難しいのかは、推して知るべきでしょう。

 世の中の改革を見ていると常にそうだと思うのですが、改革において重要なことは、設計図の精緻さではないような気がします。 ある程度の知識がある人であれば、理にかなった改革路線は考えられることでしょう。 そして、その改革路線は、多くの場合、人々の目には「当たり前」とも映るものなのですよね。



4.結びに

 上で述べたように、改革は、多くの場合、当たり前のことだったりします。 しかし、難しいことは、その「当たり前のことを最後までやりぬくこと」。 たいていの人は、困難を前にして途中で挫折してしまいます。 

 そんなことを考えていると、何かをなすために必要なのは、ある程度の知性と、残りは、鋼鉄の意志、そしてそれの土台となる志なのだと思えてきます。 それらは、鷹山の自己修養を見れば分かるように、日々の研鑽によってのみ身についていくものなのだと思います。 彼は最後の最後まで清い初志を貫き、改革をやり遂げました。
 僕には彼が特別な人には思えません、ただ、人々に対する深い愛情を持ち、己の弱さを自覚し修養につとめた人だったのだと思います。 誰だって、心さえあれば、出来るのでしょうね。 彼の名言、「為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは、人の為さぬなりけり」には、この考えが集約されていると思います。
 皆さんも、はじめから無理だと考えていないで、理想を捨てずに出来るところまでやってみてはいかがでしょうか^^? なせばなりますよ、もしかしたら。 

 いつも同じ終わり方で恐縮なのですが、僕が一番好きな彼の言葉を引用して、人ノート9:上杉鷹山-改革者、を終えようと思います。 この言葉は、改革者が誘惑に負けそうになったとき、肝に銘じておくべき言葉だと思います。

 「どんなに時がかかろうと、反対があろうと、私は清い政治を貫く。 米沢を再び濁った沼にしてはならぬ。 汚れ役が根回しをすれば、確かに仕事の進みは早かろう。 が、私はそういう姑息で拙速な道はとらぬ。 私の改革は、どれほど道が遠かろうと、清い方法で歩く。」Uesugi-Yozan_statue.jpg

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