Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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村上春樹ワールドと海辺のカフカ。
 ちょっとありえないくらい色々と立て込んでいるのですが、凝り性の僕としてはある程度納得の行くまで止らないのです。 2、3週間前から突如はじまった村上春樹ブーム。 あっという間に、長編3つを読んでしまいました。

 今度は、海辺のカフカ。 それにしても、近5年のうちに出版された小説を読むのは、生まれて初めてですね^^; 人生で読める本は限られているので、時代の変化に耐えられた本しか読まないというのが、知的貧乏性の僕のポリシーだったのです。

 閑話休題。

 さすがに3つも立て続けに読んでいると、少しずつ法則性が見えてきます。 僕なりの推理で、彼がどのように物語を作り、また海辺のカフカではそれがどのようにされているか、備忘録代わりに考えておきます。

 
 1.比喩(メタファー)による物語の再生性
 2.海辺のカフカにおける主要人物のメタファー

 
 1.比喩(メタファー)による物語の再生性

 これが、彼の独特の文体を説明するキーワードになっているのではないでしょうか。 「比喩による物語の再生性」、というのは僕が勝手につけたのですが、それはこういうことです:

 ある物語があるとする。 その物語の中であった出来事を、様々な象徴的なものに変換する(例:「いきなり言われもない汚名を着せられる」→『朝起きたら虫になっていた』)。 その変換後、また物語を記述する。
 そのとき、その変換された後の文章も、物語として機能する。
 逆もまたしかり。 もともと象徴化された物語を、現実の出来事として読み解くことは可能である。 


 村上春樹の織り成す不思議な世界は、この比喩による変換によって作られているのではないかと、僕は考えています。 ここまでの文学レベルにしないまでも、こういった変換作業は、マインドマップなどを道具立てとして用いれば、さほど骨の折れる作業ではないのかもしれません。

 ちなみに、こういった、比喩による物語変換を行ったのは、彼が初めてではないと思います。 少なくない人々が、ある物事に何らかの象徴的意味を与えてきたと思います。 ゲーテやドストエフスキーから、カミュやカフカまで。

 例えば、ドストエフスキーの、「カラマーゾフの兄弟」。 ここでは、激情家の長男のドミートリは従来のロシア、知識人である次男のイワンは近代主義が輸入されていた今のロシア、信心篤いアレクセイはドストエフスキーが望む未来のロシアとして象徴付けられていました。


 ちなみに、象徴化された物語を再生するとき、著者も思いもしなかった解釈が付与されることが少なくありません。 これは、ちょっと文脈は違いますが、ピカソが己の作品を解釈しようとする評論家達に似たような事を話しています。 わけのわからない部分を入れておいて、読者の想像を楽しんでいる作家もいるらしいです。


 ※全く筋違いの話ですが、この切り口を思い立った際、計量経済学とかでよく出てくる、「正規分布の再生性」を思い出した僕は、いよいよオタクになりつつあるのかもしれません。




 2.海辺のカフカにおける主要人物のメタファー

 さて、上で述べた変換のロジックにしたがって、象徴化された「海辺のカフカ」を、現実のお話として、再生しています。

 ※多分、小説を読んでいないと全く意味がわからないと思います

 
 どうやら、物語において、影が薄くなる(もう一人の自分がどこかに置き去りにされている)ということは、時代の断絶などを象徴しているようです。 その他の事等も含め、主要四人物について考察してみます。
 ・ナカタさん
 ・佐伯さん
 ・田村カフカ
 ・ジョニー・ウォーカー


 ナカタさんは、戦時を生きた世代を代表しているようです。 戦後の日本が、戦前のそれと全く断絶されてしまっている現在の状況を象徴しているのかもしれません。 彼にとってのもう一人の自分がいなくなってしまったのは、戦争が終結する頃でした。
 実際、この国における戦前と戦後の間の断絶は、高橋哲哉や徐京植さんらがよく語っている内容でもあります。 断絶とは、具体的にどういうことかと言うと、戦前までの日本と、戦後(占領終了後)の日本は、まるで全く違う国になってしまったかのように姿を変えてしまった事を指しています。 ライフスタイルや、価値観をはじめとしたものの見方考え方など、全てのものががらりと変わってしまったんですね。 この事は、過去の事を全く覚えていないナカタさんの姿によって象徴されていると思います。

 
 佐伯さんは、団塊の世代を代表しているようです。 そして、過去にとらわれ、それへの懐古や憧れを捨てられれず、それにしがみついてしまう状態を象徴しているのかもしれません。 確かに、団塊の世代の方には、「昔は良かった」的な懐古主義が感じられることがあると、僕は思います。 
 過去と断絶されてしまったホシノさんは、全く記憶をなくしてしまい、過去にとらえられてしまった佐伯さんにおいては、本人は歳をとりつつも、その思い出の象徴である15歳の自分はあちらの世界に存在し続けています。 
 
 
 そして、主人公のカフカ少年は、現代を代表していて、アイデンティティの不安定さを象徴しているのかもしれません。 事実、彼は、帰るところがない(寄添う価値がない)と語り、時にはあちらの世界に住んでしまおう(何かへの回帰)とすることもあります。

 
 主人公の父であるジョニー・ウォーカーは、憎悪の連鎖やそれに代表された戦争を象徴しているのかもしれません。 彼の笛(憎しみの連鎖)は、生きものの殺すことにより作られていきます。 はじめは小さなもの、しかし、それはどんどん大きなものになっていく。 まるで、小さな紛争が、大戦争へと発展するように。

 彼は、猫を殺して笛を作っていました。 そして、その「笛を作ることは、プログラムされていて自分にはとめることが出来ない」と、ジョニー・ウォーカーは語ります。 これは、人間が残虐性や止らない破壊衝動などを本来的に持っているものと読み替えることが出来ます。 そして、ジョニー・ウォーカーが佐伯さんと同世代である事を考えると、今の政治状況などへも比喩の拡大をすることが出来るかもしれません。

 ジョニー・ウォーカーは、ナカタさんによってしか殺されませんでした。 主人公には、殺したくても、殺すことが出来ませんでした。 「君には資格がないのだ」と、ジョニー・ウォーカーは話します。
 これは何故か、考えてみると、次のことが仮説として浮かび上がります。 ホシノさんは、殺される猫をその場で見ている(残虐な戦争を実際に見ている)のです。 しかし、戦争を知らずに育ってきた現代の僕たちには、そのような憎しみの連鎖を憎みつつも、それについて止めを刺す資格がないのですね。 戦争を知らない僕たちが「戦争はやめよう」と説いてもそれが空虚に響くのを、僕たちは知っています。
 

 と、まあ、その四人とその他様々な人々が織り成す物語を、このようにして読み替えていくと、色々な風に解釈が出来るんですね。 これはこれで面白いのですが、僕はあまり好きではないかもしれません。

 

 著者は特に、戦争、大学闘争、かつら、猫、音楽などに、かなりの執着を持っているようなので、そこらへんを主要な何かとしてみると、もっとすっきりするかもしれませんね。

 取り急ぎ、備忘録がわりまでにて。


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2008/06/03(火) 16:03:08 | | #[ 編集]
面白く読ませていただきました。各世代の象徴という視点からは見ていませんでした。新しい視点、ありがとう。あと、細かいことですか、ホシノさんとナカタさんが混同されている箇所が見受けられます。修正しておいた方が良いのでは?
2012/07/22(日) 02:02:08 | URL | 権兵衛 #-[ 編集]
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