Taejunomics

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法化社会のバックグラウンドを考えてみる。
 isologue直近のエントリーを拝読していたのですが、ちょっと考えが異なるので記事を書いてみます。


 1.他宗教での言い換えの可能性
 2.判例法と成文法の違いかも

 1.他宗教での言い換えの可能性

 磯崎さんは、西洋において法化社会が成立する一つの理由は、キリスト教的な精神にあると仰っているようです。 その主な部分と感じたところを引用します:

 

キリスト教は欧米を中心に世界人口のかなりのシェアを占めていますが、こうして見てみると、その思想のバックグラウンドの一つは、「法を形式面だけで論じたり、重箱の隅をつついたりしてはいけない。」ということでありましょう。福音書自体、既存の法令解釈の硬直化に異を唱える一人の男が、それによって恨みをかって、適正とは言えない裁判プロセスを経て十字架にかけられるというお話ですし、イエスが死をかけて示したことは「本質を考えた法令解釈をすべきだ」ということだと言っても過言ではないかと思います。

一方で、イエスは「法律は無視していい」とは言ってませんし、むしろまったくその逆で、


わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらのもっとも小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。(マタイ5.17~5.19)


と、あくまで「コンプラ最重視」のスタンスを打ち出してます。

ということで、こうした宗教的素養が知識人の教養の基礎になっている社会では、「コンプライアンス」と「法令解釈の柔軟性」を両立する力が働く可能性が高いように思われます。




 これはしかし、キリスト教以外の宗教に言い換えても、同じ風に言うことが出来るのじゃないのかな、と僕は思うのです。 そして、もしその言いかえが可能なら、問題は、宗教の性質によるよりも、宗教の浸透度にあるといえるかもしれません。
 
 日本における宗教の浸透度と欧米のそれがどの程度異なっているのかは、感覚的には良く分からないのですが、日本においても色々な宗教があり、それらも、隣人愛をその根本的な考え方の一つとしたキリスト教と同様に、本質をとらえつつ柔軟な教理解釈をしようとしていると思います。

 釈尊が歩いた生涯も、既存の教理に対する態度としてはキリストととても類似していますし、論語においても教条主義的な感じよりもむしろ、仁を中心原理とした幅のある解釈を認めていると思います。 神道はあまり詳しくないので良く分からないのですが、宗教と言うのは概ね、その創設者の理念においては、既存の教理の解釈における柔軟性を持っていると僕は感じます。 

 その創始者達の本質を軸にした教理解釈の柔軟性と、その後の布教者たちにおける解釈の硬質性は、宗教をとわず、時代を問わず共通のものだったと感じています。 



 2.判例法と成文法の違いかも

 僕は法律からすぐにドロップアウトしたので、法化社会、というのが具体的にどういうものなのかは分かりません。 ですが、本質をとらえた上での解釈の柔軟性をその特徴とするのであれば、それを育んだ土台としては、英米法が判例法の体系であることが挙げられると思います。

 すでにある法律を文字通り解釈してその適用可能性の有無により事を決めるというやり方と、判例を積み重ねていくことによって、少しずつコモンセンスに近づこうとしているやり方の間の違いが顕著に現れているのだと僕は感じています。

 たとえば、ドイツなどでの法の運用はどうなっているのでしょうね。 僕はよく分からないのですが、誰かご存知の方がいれば、教えていただけると幸いです。

 
 

 と、思い付きからのエントリーでした。

 

 ※全くの傍論ですが、『キリスト教的な文明が広く浸透したのは、それが暴力において他より優れていたからに他ならない』という内容の事を、ハンティントンがその著書「文明の衝突」において書いています。 僕はそれにもある程度の根拠があるのではないかな、と思います。

Comment
≪この記事へのコメント≫
この問題、思想的背景に宗教を求めるのは、ちょっとなあ。と思わざるを得ません。

まず、イスラムからいきましょう。
イスラム法は一つの条文について法令解釈は一つのみです。そして判例変更も認めません。一旦判例が出たら未来永劫その解釈です。
次に仏教ですが、かなり問題があるんですよね。実はブッダ死後の原始仏教については戒律がきちんと定められていて、判例集もあるんです。それを読む上では。。。条文優先主義ととられてもしょうがない面があります。で、仏教の宗派が分裂したのは戒律の解釈をめぐってという説が一時期非常に有力だったんですが、今では真相は藪の中です。

最後に儒教ですが、これもかなり問題が。。。
漢代以降、表向きは儒教が精神的に重要視されているんですが、実は中国の法律は「法家」思想なんです。これに儒教的な「人治思想」も入り混じっているので中国の法律は少々ややこしいことになるんですが、やはり条文解釈主義だといわざるをえません。
2007/02/27(火) 22:44:31 | URL | F.Nakajima #-[ 編集]
コメント有難うございます。 さすが。 勉強になります。

「キリスト教がバックグラウンドとはいえないのでは?」という事にポイントがあるのですが、それは幾分か主張できたかなぁ、と感じてはいます。 これからもよろしくお願いします。
2007/02/27(火) 23:30:39 | URL | Taejun #-[ 編集]
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