Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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カクゴ。
 人ノートの勉強(そういえば最近更新してませんね…)や歴史の本を読みながら感じること。


 胆、というのが今年のテーマの一つなのですが、この究極は、「事を為すために、いざと言うときには命を投げ出す覚悟ができているか」にあるのだと思います。
 



 もちろん、命を粗末にするわけではありません。 むしろ、僕が感じていることは、その対極にあります。 何かを起こすために自分の命は必要だし、何よりも大切なものです。 だけど問題は、事が究極に差し迫ってきたときに、それを惜しまず投げ出す気概があるかどうかという点にあるのだと思うんです。


 世の中のあり方を大きく変えた出来事の裏には、必ずこういった、本当に胆の据わった人たちがいたと思います。 自分と他人の命をどこまでも大切にしながら、しかし、それをもっと大切と考えるもののために投げ出すことが出来る人たちが。 そういう人たちが、一人、また一人と増えていくことにより、それが果てしないエネルギーになって、世の中は動いてきたのだと感じています。
 
 もちろん、「みなが何かに命を賭して打ち込むべきだ」というつもりはありません。 大切なものの定義はその人によって違うだろうし、命がなによりも大切だという事も、ひとつの価値判断なのだと思います。

 ただ、本当に大事業をしようと思っている人であれば、上の様な覚悟を持っていなければいけないのだと思います。 現代社会でそういう場に出くわすかどうかは別としてです。 死をすでに身近にあるものとして享受しつつ、生きることに感謝して日々を一生懸命に生きる。 本当に至難の事なんだろうな、とは思いますが、もしそういう人がいるのであれば、その人の肝は、尋常ではないほどに据わっているのだと思います。

 ちなみに、今まで人ノートを書いた人たちを振り返ってみると、みな、見事なまでに自分の事業にまさしく命がけで挑んでいるのですよね。 ガンジーは断食で死にかけました。 キリストは、文字通り、愛のために死にました。 周恩来は、失脚→獄死を覚悟で文革期に自分の同志たちを守りました。 などなど。 彼・彼女らは、事に際して命を賭けることができる覚悟をしているからこそ、多少の事では漣ひとつたたない、強い精神力・肝を培うことが出来たのだと最近感じます。
 

 自分にどんなことが起ころうとも動じないために、そういうイメージトレーニングを積む事には、意味があるのかもしれませんね。 何よりもまず、それだけの情熱を注ぐ対象をもたない人は、それを探すことからはじめないといけないのですけれど^^; 

Comment
≪この記事へのコメント≫
リ スボッ英雄になりましょう。
2007/03/01(木) 09:35:16 | URL | 敬柱 #-[ 編集]
すまんが、私はそうは思わない。それは悪しき精神主義だと思う。

「戦争の目的は、自らが祖国のために死ぬことではない。相手の奴を、そいつの国のために死なせてやることだ。」
パットン将軍がノルマンディー上陸作戦前に兵士達に行なった演説の中の一節です。

何か日本社会で勘違いする人が多いですが、「命」と「目的」を秤にかけて価値を比べてはいけませんよ。その二つはどちらも等価交換できない代物なんですから。
2007/03/02(金) 22:23:17 | URL | F.Nakajima #-[ 編集]
敬柱くん、その心意気やよし。 いっぱい勉強してね。


F.Nakajimaさん、もちろん天秤にかけられるべき性質のものではないのですが、それでもどっちが優位に来るかに関しての価値判断は、人によって行っているのだと思います。 全ての人がそうだとは思いませんが、ある種類の目的を持つ人々は、不可避的にそのような場合に遭遇し、そのときに特定の行動をとるということは、明示的にではないにせよ、何らかの価値判断を行った結果なのだと思います。
 って、なんか噛み合っていないかもしれません。。 その場合はまたコメントいただけると幸いです。
2007/03/03(土) 00:38:59 | URL | Taejun #-[ 編集]
そうですねえ。ちょっと噛み合ってませんね。

>そのときに特定の行動をとるということは、明示的にではないにせよ、何らかの価値判断を行った結果なのだと思います。
ここは「メタ倫理学」と呼ばれる最新の哲学分野の問題なのですが、ここで(主義を採るか生命を採るか)という普通の生活環境では(少なくとも現在の先進国の社会環境では)主義を採るべきではない、とは思います。
私がここまでニヒリズムに偏るのも、ネオコンだとかイスラム原理主義とかがその話を持ち出すと非常に厄介な話になるんです。つまり命を投げ出すくらいの価値のある主義って一体何だ。という道徳哲学上厄介な問題を引き出すんです。
主義の価値は計れますか?しかも命を秤にかけてそれに釣り合うと思えるくらいに?
2007/03/03(土) 01:22:17 | URL | F.Nakajima #-[ 編集]
 コメント有難うございます。
 私は学が浅く、長丁場になりそうなので、ゆっくり意見交換していければと思います。 まず、私の理解では

・この議論は、メタ倫理学と言う哲学の範疇に属する


・そもそも命を投げ出すくらいの価値がある主義と言うものがあるのか分からない。 よって、
・普通の生活環境において生活する人々は、主義と生命を秤にかけるべきではないし、どちらかを採るかと言う場合には主義を採るべきではない。
・ここまでこだわるのも、そういった議論がテロ行為などの際に顕著に見出されるためだ。

 

 もしそういうことであれば、まず僕がお伺いしたいのは、以下の通りです。 お時間があるときにでもお答えいただければ幸いです:

 1)前提において、主義の存在が倫理学的に厄介なものであるとしても必ずしも厄介なことは主義の棄却を意味しない。 それをどのように棄却することができるのか。
 
 2)文脈において、上のコメントでは、主義と生命は秤にかけられないと仰ったのに対し、下のコメントでは、「どちらかを採るか」という問題定義をされています。 僕としては、秤にかけることと、どちらを採るか、というものは、二者択一的な状況が現出するという意味において、同値であると考えるのですが、どうなのでしょうか。

 3)主義が命に先んじる現象が、世に多くの混乱をきたす事件(例えばテロリズム)において顕著として、それが、僕がしたような考え方をする事を問題とする根拠足りうるのか。 たりうるのであれば、それにはどのような仮定と論理が介在するのか。

 
 お手数ですが、一つ一つでも、お時間があるときに答えていただけるとありがたく思います。 ^^;


2007/03/03(土) 23:30:43 | URL | Taejun #-[ 編集]
すいませーん。トラックバックをかけたつもりがうまくいきません。こっちで一応雑談めいたものを書いたのでご一読いただく。
2007/03/09(金) 23:05:00 | URL | F.Nakajima #-[ 編集]
返信遅れてすみません。。
トラックバックがうまくされていないようなので、記事のURLだけでも教えていただけますか?
2007/03/11(日) 00:51:14 | URL | Taejun #-[ 編集]
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