Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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まじりっけなし。
 西郷隆盛も読んでいた、伝習録を読んでいて改めて気づかされたことが一つ。
 
 それは、人間の「混じりけのなさ」が、人の格とかなりの関係がありそうだということ。

 

 伝習録にはこうあります(現代語訳):

 「聖人の聖たるゆえんは、要するにその心が天理(私欲にとらわれない心)に純一で人欲の雑入がないということに尽きる。
 ・・・
 後世の人は、聖になる根本が天理に純一になることにあるのを知らず、それどころか、もっぱら知識や才能の上に聖人を求め、果てには聖人は全知全能であるから、自分も聖人なみの豊かな知識や才能をもって全てに精通しなければ駄目だ、などと思い込み、そのため、天理について功夫につとめようとせず、いたずらに勢力の限りを尽くして、書物上に研鑽し、文物制度の考察にふけり、あるいは古の事跡を追いかけたりする。」


 
 王陽明は、人間の心から雑念や私欲を取り払ったものこそが最上の心のあり方だと考え、その心境に至るための、日々の私欲を捨てるための努力を説きました。

 僕たちは聖人ではなく、日々煩悩が頭の中に渦巻いている俗人です。 そんな僕たちでも、混じりけのない心持ちの人々を見聞きすると清冽な感動を覚えるのは事実のように思えます。 ちょっと前までには、この、「まじりけのなさ」、という説明が思いつかなかったのですが、伝習録のおかげで、うまい説明がつくようになりました。

 僕が西郷隆盛の生涯から得る感動の多くは、その混じりけのなさ、全くの私心がない誠意によっているのかもしれません。 ああ、そういえば、キリストも、心の貧しいもの(余計な考えをしない人々のことと理解しています)は幸いである、と言っていましたね。


 少しずつ、こんな境地に至れば良いのですが。
 煩悩多き僕ですが、毎日、少しずつ努力あるのみですね。

 

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