Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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学問のすすめ
最近、結構な量の、それぞれ違った分野の情報を処理することが増えて、ふと考えたこと。

一つ一つの分野についてそれぞれ情報を集めて、色々な人の意見を聞いて、それをまとめて一つの結論を形成していく、というプロセスには一定の意味はあると思いますが、限界を感じてきました。3ヶ月ごとに一つの分野を深彫りしていっても、世の中は広くて、また新しいものに出くわすたびに、(多少の土地勘は生まれるとしても)、また勉強を始めることになる。効率がよい学びではないのかもしれません。

こういうときに感じるのが、学問の大切さ。ここでの学問とは、何らかの世界観を与えてくれる体系だったものの考え方、といった程度の意味です。

何かの学問を修めた人間は、その修めた学問の世界観で、世間のあらゆることについて一定の知見を持てるようです。一緒にファイナンスの勉強会をしている野口さんはその典型だと感じます。バガボンドの宮本武蔵は剣の世界観で世の中を説明できる。立派なお坊さんは、仏教の世界観で世の中を説明できる。どんなときも規律をもって情報を整理することができる能力は、今後さらに重要性を増していくのだと思います。


知の根無し草、といったら言い過ぎですが、学問をしていないともたらされる答えが場当たり的になってしまう。それに、とんでもない筋違いをしていても見過ごしてしまう可能性が高まる。投資において一番大切なことのひとつのは大局観であることを考えると、ますますこわくなります。


今のところ、自分が(基本的にどんな論文でも理解できるという意味で)ある程度きちんと修めたと思っているのはファイナンス理論ですが、一つだと心許ないので、隣接分野の学問をまた修めたいと思っています。今取り組んでいるのは産業組織論で、別に学位などはなくてもよいので(あったほうが遥かによいので、大学院もまた行こうかと思っているのですが)、毎朝2時間ずつ勉強にあてて、直面する問題をそのフレームワークで考える訓練をしています。

ちなみに、ファイナンスにおける根本的な概念は、リスクとリターンです。不確実性が存在する世界においては、リターンは何らかのリスクと対になっていると考えます。1年前に書いた本では、このリスクとリターンのコンセプトでどこまで世の中の事象を説明できるのか、挑戦してみました。

15歳からのファイナンス理論入門

幸いに4カ国で出版され、この本のお蔭で、また次のファイナンス本を書くことになりそうです。今度のフレームワークは、TiroleのThe Theory of Corporate Financeに登場する理論で、情報の非対称性にともなう資金調達の困難と、それを「人と人のつながり」がどのように緩和するのかを書こうと思っています。

自然体
先週は衝撃の出会いがありました。会って30秒会話しただけでその人が飛び切りの人間だということは感じたのですが、後になって、多くの人が彼を本物の天才と呼んでいることを知りました。

僕が彼を飛び切りの人間と感じたことには明確な理由があります。彼からは、世の中の殆どの人が有しているであろう、けちな損得勘定や虚栄心その他に代表される自意識が全く感じられなかったのです。天衣無縫という言葉がしっくりきます。ズケズケと言いたいことを言う。でも相手に対する批判にも湿り気が全然ない。相手からどう思われているかというのを必要以上に意識していない(ように見える)。

真に創造的な仕事をするにおいて、このように損得勘定や自意識から解放されることは本当に大切なことだと思います。こうしたら相手に借りを作れる、とか、自分が他人からどう思われているか、とか、相手は何を持っているか、とか、相手はどんな地位の人かとかは、自由な発想を妨げる以外のなにものでもありません。

子どもの頃は、多くの人々がとらわれのない心でものを考えることができるのに、社会生活をするうちに、どんどんつまらない人間に焼き直されてしまう。肩の力もどんどん入っていく。自己を解放できないので、創造力やエネルギーはとても小さなものになってしまう。

心のわだかまりを排して自己を解放するためには傍若無人になってもいいと考えているわけではありません。他人に対して敬意を払うことと、おべんちゃら精神や事なかれ主義に代表される人付き合いの仕方を排することは両立すると思います。どんな人にも等しく敬意を払い、相手の意見がおかしいと思ったら、その敬意を持ったままにしっかりと物申す、という姿勢を保つことは可能だと思います。

相手に対する敬意と自然体を保ち続ける。そう書くのはたやすいのですが、いい塩梅になるには、これからも道は長そうです。でも、コツコツと毎日自省を繰り返しながら、いつかその境地に辿りつけるようになれたらいいな、と思います。吉川英治の描いた宮本武蔵みたいに。 

そして、努力の末に本当に自然体になれたら、こんな「自然体」なんてタイトルでブログを書くこともなくなることでしょう。

イノベーターの条件
イノベーションを起こす人に必要なものは、強い想いとしぶとさなのだと感じることが最近多いです。

誰に聞いたか忘れてしまいましたが、ある癌を治した人の話は、僕に強い印象を残しています。

Aさんは、日本で最高の医療技術を誇る国立がんセンターに行きました。
受けた宣告は、生存確率ゼロ。
それを聞いたAさんは国立がんセンターを出ていきました。
病院の先生は、「ここでダメって言うのであれば、どこでも結論は同じだ」と言います。

その相手に対してAさんが話したことはこうです。

「でも、あんたは治せないんだろう。俺は治せると思ってくれる人のところに行くよ。」




僕たちが人生の多くの場面で直面している問題は、これに似ている気がしてなりません。

何か新しいものをつくろうとするとき、例えばマイクロファイナンス機関の調査を現地訪問なしにできるシステムをつくろうとするとき、皆が口を揃えて難しいと言う。それは非常に論理的です。僕もよく分かる。でも、それは、言うなれば上の生存確率ゼロ宣言に似ています。ロジカルだけど、誰にも希望をもたらさない。


現状を正当化するためのアイディアはいくらでも思いつきます。でも、難しいけれど価値のあるのは、現状を変革するためのアイディアだと思います。僕は、冷静に死の宣告をする医者ではなく、患者を治すために出来ることを必死に探す医者になりたいと思います。誰もが、もし自分の子どもが患者であれば、同じことをするのではないでしょうか。無理だと諦めるのは、患者が亡くなってからでも遅くないはずです。

少なくない調査や研究は、単なる学術的興味に基づく自己満足ではなく、他人の幸せと、もしかしたら生命がかかっているものです。そういう研究にもし携わるのなら、僕は簡単に降参したくない。そんな時、トーマス・エジソンの言葉は大きな勇気を与えてくれる気がします。

「ほとんどすべての人間は、もうこれ以上アイデアを考えるのは不可能だというところまで行き着き、そこでやる気をなくしてしまう。 いよいよこれからだというのに。 」



強い想いをもち、それを立証するためにしぶとくあり続けることが、稀有なイノベーションをするための必要条件なのだと、最近つくづく思います。

短絡化する思考?
twitterをはじめてブログのエントリーが減った人は少なくないと思うのですが、それだけだと非常に危ない気がする今日この頃です。

文字を140字に絞るのは悪くないのですが、そればかりをやっていると、いよいよ自らの思考が短絡化していってしまう。 真実というのは微妙なものなので、言葉とロジックを尽くしても一種の後味の悪さが残るものなのに、140字でつぶやき、なんとなく言葉にしていくと、結局言い表さんとしている定かならぬものたちを最後までとらえることができなくなってしまうのではないかと、時々感じるようになりました。

別に事象はtwitterに限ったことではなく、いろんな事がスピードアップしている現代社会では、ペースの遅いタイプの思考をする機会がどんどん失われている気がします。 立ち止まって、数日数週間数か月とじっくり考えてこそわかってくることは必ずあるはずなのに、それを見つにくくなってしまうのは、非常に残念なことだし、もしかしたら社会のバランスを崩すことにもつながりかねないのかもしれません。

とか書きながら、僕自身も最近とても忙しくて(平日合計で10時間くらいしか寝ていないかも)、思考が短絡化している可能性が大いにあります。 意識的に、ギアを落としてみようと思います。





パートタイムNPOの組織運営:その3
三つめは、組織の効率化の話。

パートタイムで組織を作るときは、皆の不要な労働時間を減らし、各人の細切れの労働時間を大きな流れにできる仕組みが必要です。

僕たちもまだ試行錯誤中なのですが、現時点で学んだことは、こういうものです。


1.良いチームを作る
組織の非効率の大きな理由は、情報伝達の非効率に起因します。これは、チームがよくまとまっていれば回避できるものです。相互理解と尊重をし、同じコンセプトを持っている組織であれば、情報伝達の非効率は大きく下がります。

逆に、チームがよくまとまっていないと、メンバーはお互いに対して疑心暗鬼に陥り、不必要な手間や非効率が生じることになります。このような、組織の悪さが人間の防衛本能に働きかける(よって疑心暗鬼が生じる)ことによるコストを、防衛コストと呼びますが、相互を理解・尊重し、事業のコンセプトを共有したチームはこの防衛コストを下げることができます。
(ちなみに、「防衛コスト」の考え方は、結構組織がもめていた時期に、LIPメンバーの一人のコンサルタントの方に教えてもらいました)



2.水平組織を作る
一人の決済範囲が一定量を超えることになるピラミッド組織は、パートタイム組織ではまず機能しません。タスクベースで業務とその権限を割り振るシステムでないと、誰か一人がパンクしてしまいます。

ただし、単にタスク性を引くと、二つの懸念があります。
(1)タスクに張り付いている人が急に忙しくなると回らなくなる
(2)タスクの進捗状況が全体としてよく把握できないので、タスク別に暴走が始まる

これらについては、次のように対応しています。
(1)タスクには、タスクリーダーの元に複数人がつく
(2)タスクの進捗状況を把握する、タスク管理者を設ける。タスク管理者は、5~10くらいのタスクの進捗を管理して、朝のスカイプ会議で報告する。 その報告内容は毎回まとめられ、朝にメールとして送られる



3.技術の活用
今になって考えると、10年前には僕たちのような活動はかなり困難を伴ったのかもしれません。ですが、今はできます。僕たちが普段用いている技術は、たとえばこういうものです。

・メーリングリストで議論のやり取り
・スカイプでのタスク進捗会議
・Google Docsで出欠管理、アンケート
・SkyDriveで書類管理
・Google Calendarで予定管理
・ノートPC持ち歩き(+Emobile)



と、こんなのが、今の僕たちの組織運営の内情です。
まだ、実際に組織として動き始めてからは1年くらいなので、試行錯誤も多く存在しますが、1年で、いろいろと勉強させてもらったんだなー、と思うことしきりです。 

でも、まだまだもっと良い組織を作っていけると思うので、これからも頑張りたいと思います。

パートタイムNPOの組織運営:その1
別にNPOのマネジメントの本を読んだわけでもないのですが、これまでの経験を通じて感じたことは多いので、備忘録代りに。

パートタイムでNPOの組織運営は、ある意味で会社運営よりも難易度が高いと思います。 運営が難しい理由は、主に二つ。

第一に、パートタイムで運営していると、メンバーはその組織に完全に従属しているわけではないので、メンバーに命令することは不可能です。また、それぞれが本業を持ちながら活動をしているので、その持ち時間も常に不確実です。本業が忙しくなって、なかなかパートタイムの活動ができないような場合は、よくあります。

第二に、特に初期においては、NPOの活動を通じて金銭的な報酬を担保するのはかなり難しいです。となると、人の働く動機の一つである金銭的な要求をあまり満たすことができません。


そんなパートタイムのNPOが機能するためには、少なくとも、次の三つの要件が満たされていないといけないと思います。

1.居心地のよいチーム
2.本人の自己実現を尊重
3.参加者の時間を有効活用

結構長いので、まずはその1であるチーム作りについて紹介しようと思います。


1.居心地のよいチーム作り
1.1.仲間選び

基本ですが、仲間は自分と異質な人を集めるべきです。似た者同士があつまることで、組織のリスクは高まります。僕は何かのコンセプトを打ち出したり、事業を前に進めるのは得意ですが、細かい面を詰めるのは得意な方ではありません。だから、それを埋め合わせてくれる仲間が必要。

また、パートタイムだと特に、一人でも嫌な人がいると、組織からは一瞬で人が引いていきます。そういう人が入らないためのチェックは(もちろん常にできるわけではありませんが)、重要だと考えています。たとえば、長い時間付き合っている友達が一人もいない人は、何らかの問題を抱えている場合が多いです。


1.2.ルビコンを渡る
最初のうちは単に弱いつながりで人が集まって創造的な議論をしていくのはよいのですが、それは人の集まりではあってもチームにはなりえないと思います。ひとつの目的を達成するために団結するチームを作るためには、どこかのポイントで、みんながコミットメントを示す必要があります。

マイクロファイナンスのプロジェクトでは、実行委員希望者には、最低三年間続けることを約束してもらっています。ファンドの投資期間は3年なので、それくらいの期間を一緒にするつもりがないと、なかなかチームとしての結束を保てないからです。




1.3.相互理解
意見の対立が人格の対立とならないためには、相互理解が重要です。そのために重要なことの一つは、相手の歴史を理解することだと考えています。

他のメンバーが自分と違う意見を持っているとき、その違いにだけ意識が行ってしまうと、対立は深まってしまいます。しかし、メンバーがこれまで歩いてきた歴史を理解すると、意見の対立を何らかの文脈にのせて考えられるようになります。 これは、意見の対立を乗り越えるためにとても大切なことだと思います。

僕たちは、チームの合宿をたまに行っています。今まで2回行ってきた合宿では、皆が自分のこれまでの歴史を15分~20分くらいで話すようにしています。隠し事は基本的にしないで。 これをすると最初はみんな面喰いますが、結構盛り上がり、相互理解に基づいてチームの結束力は確実に強くなります。


1.4.相互尊重
プロジェクトが難局に差し掛かってくると、意見の対立が激化することになります。そういうときに、お互いを尊重して、前向きな議論を行うように全体を誘導することはとても重要です。

もともと、ウェブの議論というのは、意見の対立には向いていないものだと思います。長ーいメールをかいてやり取りしていると、揚げ足のとりあいは容易で、どんどんムードは険悪になっていきます。 特に自分の思いが強い人は、そうなりがちのようです。

議論が変な方向に行きそうだとおもったら、常にだれかが前向きに考えるように誘導することは、常に気をつけようとしています。


1.5.公開性と透明性
密室の意思決定や、ひそひそ話による論調の形成がされると、メンバーのモチベーションは著しく下がります。そんな組織では働きたくないと思う人が増えると、メンバーはどんどん減ってしまいます。

だから、大変ではあるけれど、僕たちは、全ての意思決定と業務連絡をオープンにするように呼び掛けています。具体的には、仕事の進捗はすべてメーリングリストを通じて行うこと、何か問題があるときにはミーティングで、対立する相手がいるのならその人がいる場で意見を言うことを再三強調しています。


こういった組織作りについての学びをまとめたのが、Living in Peace Code of Conductです。
そこには次のように明記されています。



Leadership Code of Conduct

オープンであること
私たちはオープンな場で議論を行い、本人の前で行わない異議申し立ては禁止します。
私たちは全ての意思決定は公開の場で行うことにより、ポリティクスを排除し、偏った意見形成を行わないこととします。
私たちは意見の表出は建設的な提案として行い、反対意見がある場合は代替案を提示します。


多様性を尊重すること
私たちは組織発展の不可欠な要素として多様性が必要であることを深く認識し、多様な属性をもつ人の参加や多様な貢献の仕方を受け入れ、推進します。


前向きであること
私たちは出来ないことについて後ろ向きの言動を行わず、出来ることで最善のことを考え、実行します。
私たちは明るく・元気よく・楽しく、をモットーに行動します。


大志を持つこと
私たちは高い志を持ち、その実現に向けて地道な努力も厭わずに取り組みます。
私たちは初心を忘れることなく、原理原則にぶれることのない行動を取ります。


謙虚であること
私たちは相手を思いやり、敬う気持ちを持って他者と接します。
私たちは常に内省に努めることで、自分を客観視します。
私たちは好奇心を持って自らに不足する知識や経験の吸収に努めます。
私たちは自分の行動に誤りがあり、またはそれを指摘された場合には素直にそれを認め、速やかに訂正します。


仕事に責任を持つこと
私たちはLIPにおける自身の役割・仕事について責任感を持ち、最後までやり遂げます。


本業/学業を大切にすること
私たちは、本業/学業に重く価値をおき、そこにおいて秀でることができるよう最大限の努力をします。
私たちは、LIPの活動によって本業/学業を犠牲にしません。

歴史哲学講義―2/2
(つづき。ちなみにこの記事は、先週末にストックしておいたものです。)

2.3.自由の実現体たる国家

世界史とは、ヘーゲルによれば、有限である認識しか持ちえない人間と、絶対的なものである一般理念との、無限なつながりによって構築されているものです。

限界を有する人間がもつ自己意識と、絶対的な一般理念の間の統一が国家です。この統一にこそ、共同体の真理が存在するとヘーゲルは考えました。

国家に存在するさまざまな規範や制度は、人々の有している共通精神を体現します。個々人は自らの認識の限界上、自らに存する共通精神を自己の中で認識することができませんが、国家を通じてそれを認識できるようになるとヘーゲルは考えました。「精神の現実性とは、人間の本質である理性的なものを対象として知ることであり、理性的なものが、客観的な、形のある存在として目の前にあることです。そのときはじめて人間は共同体を意識し、人とつながり、法と道徳にかなった国家生活を送ることになります。」

個人は共通精神の体現者である国家を通じて自由を所有し享受することになるのであり、国家は神の理念が地上に姿を現したものだとヘーゲルは考えたようです。だからと言って、彼が国家に対して無条件の称賛をしているわけではないようです。本書では、次のようなヘーゲルの言葉を見ることができます。

「個人や国家や世界支配の欠点を見つけることは、その真の内実を認識することよりも簡単です。」

これは組織や国家の性格を考える上で非常に重要な視点だと思います。組織は何らかの形で個人の権利を侵害する場合があります。これは非常に深刻な問題であり、解決をするべきものです。しかし、だからといって、組織の存在の意義や理念が存しないとは決して言えないのだと思います。



3.世界史の歩み

ここまで述べてきたように、ヘーゲルは世界の歩みを精神の自己克服の過程であると考えました。この克服は、自己否定を繰り返すものです。 自分を対象化し、自分のありかたを思考する精神が、一方で自分の限定されたありかたを破壊するとともに、他方で、精神の一般理念をとらえ、その原理に新たな定義を与えること、それが歴史の発展の過程です。

その段階として、最初には、自然のままに埋没した状態の精神があり、それが徐々に自由を限定的な形で認識し、ついには、普遍的な意味での自由を認識するに至ります。

本書は、このヘーゲルの歴史認識に基づき、精神の少年期である東洋、青年期であるギリシャ、壮年期であるローマ、老年期であるゲルマンと分けて記述を展開していきます。 

このあたりの記述においては、サイードの言うところの「オリエンタリズム」がかなり前面に出ている感があります。ヘーゲルは本書において、人間は時代を超えることができないと説いていますが、まさに本人がそれを示す形となっています。ヘーゲルほどの天才でさえこうなのですから、ある過去の人物を現代におけるものさしを用いて断ずることは、いかに容易なことでしょうか。



感想

国家の一部の側面をとりあげてそれを批判するのは簡単だとヘーゲルが話したように、そこに内在するオリエンタリズムを理由に本書を批判するのは容易です。しかし、本書から得られる洞察は非常に重要だと思います。

僕が本書から学んだ一番のことは、時代精神を意識するということです。 ある時代にはその根底を流れる精神が存在し、それは決して過去と断絶されているものではなく、自己否定を繰り返しながら連続しているものです。 ちょっとした出来事などでは変わらない時代の魂である時代精神について考え、そこから得られた知見に基づいてさまざまな事象に対する考察を行うことは、世相を理解するにおいて非常に重要なことであると改めて思いました。 

さらにヘーゲルの考察を敷衍すると、私たちの活動が真に歴史に残る意味のある事業となるかどうかは、自らの活動が時代精神を反映しているのかにかかっているのでしょう。ヘーゲルが話したように、情熱とともに活動する人々は自らが時代精神を代表していることを認識していませんし、出来ないのかもしれません。 それでも、自らの人生を賭けて行う活動を選ぶ時には、この時代精神を意識しようと思います。
歴史哲学講義―1/2
歴史哲学講義歴史哲学講義 (上) (岩波文庫)


ヘーゲルの実際の講義録を本にしたものとされる本書は、ヘーゲルの直接の著作ではなく、ヘーゲルの弟子たちによるものと言われています。講義録ということもあり、ヘーゲルの本の中では比較的分かりやすい分類に入る本書ですが、分かりやすさゆえに生じる誤解も少なくないそうです。

本書は200ページ弱の序論があり、本書のエッセンスはここにあるようです。その後は各国の歴史をヘーゲルの歴史観に基づき述べるという方針をとっています。


1.世界史の区切り方

ヘーゲルによると、世界史とされるものには、三種類があります。

第一が、単に事実そのままの歴史。あったことを、淡々と記述する歴史です。しかし、この方法によって事実のすべてを見渡すということは不可能です。さらに、「上にたってはじめて、ものごとを公平に満遍なく見渡せるのだから、下の小さい窓口から見上げているだけでは事実の全体はとらえることはできない」、とヘーゲルはコメントします。

第二が、反省を加えた歴史というものです。これには、通史や、実用的な歴史(歴史から何らかの教訓を見出そうとするもの)、批判を主眼とした歴史、個別的な分野を扱った歴史が含まれます。これら歴史の共通点は、単なる事実を記述するのではなく、その記述において著者の何らかの考えが反省されるという点にあります。

ヘーゲルのこれら歴史に対する批判、特に実用的な歴史に対する批判には瞠目する価値があります。それぞれの時代は、その時代に特有な、発展し続ける精神の体現でしかなく、一般精神が過去よりも発展した現代と過去を比較しても、それは全く違ったものの比較でしかなく、有用なものとはなりえない、とヘーゲルは喝破します。

「君主や政治家や民衆に向かって、歴史の経験に学ぶべきだ、と説く人はよくいますが、経験と歴史が教えてくれるのは、民衆や政府が歴史から何かを学ぶといったことは一度たりともなく、歴史から引き出された教訓に従って行動したことなどまったくない、ということです。
・・・ギリシャやローマをひきあいに出すという、史上にくりかえされ、フランス革命の際にもよく見られた試みほど、無意味なものはない。古代のギリシャ・ローマと近代人とはその性格がまったく異なるのです。」

そして、第三が、哲学的な歴史であり、本書の主眼となるものです。ヘーゲルは、歴史を考察する際には、その外面的な特徴を見るのでは十分でなく、ある事件や行為の内側にあってそれらを導く歴史の魂というものを考察しなければいけないと考えました。この魂とは、ヘーゲルによれば理性です。 ヘーゲルは、世界史とは自由を本質とする精神の絶え間ない自己実現の過程であると考えました。



2.歴史における理性とはなにか

2.1.精神の定義
ヘーゲルによれば、精神とは内部に中心をもち、自由を本質としています。彼は、歴史とは、精神が本来の自己を次第に正確に知っていく過程を叙述するものだと考えました。たとえば、東洋人(おそらく中国の古代史の時代を指しています)はひとりが自由だと知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人々が自由だと知り、ゲルマン人はすべての人間が人間それ自体として自由だと知っているとして、ヘーゲルは、時代の変遷とともに自由の概念がより本来あるべきものに近づいてきたと考えました。


2.2.自由を実現する手段
ここで、多くの場所で(しばしば文脈を無視され)紹介されるヘーゲルの名言が登場します。

「一個人が、現に自分がもち、またもちうるかもしれぬ全ての関心や目的を無視して、自分に内在する意思の血潮のすべてをある対象にそそぎこみ、この目的にむかってすべての欲望と力を集中させるとき、個人の全重量の込められたこの関心を情熱と名付けることができますが、そう名づけたとき、世の大事業は情熱なくしては成就されない、といわねばなりません。(下線は著者による傍点部)」

世界史を貫徹する精神の目的である自由は何によって達成されてきたのか、という問いに対するヘーゲルの答えは、「人々の情熱」でした。ある事業に全精力を傾けて没入し完遂していく人々は、自らが理性の導きによって行為していることを意識はしません。しかし理性は貫徹されている。このような、人々の目に見えぬ導きの糸として理性が存在するとヘーゲルは考えました。

この理念が貫徹される世界史において、大きく時代をドライブするのが偉人です。ヘーゲルによれば、「歴史上の偉人とは、自分のめざす特殊な目的が、世界精神の意思に合致するような実体的内容をもつ人のことです。偉人が英雄とよばれるのは、その目的や使命を、現存体制によって正当化されるような、安定した秩序のある事態の動きから汲み取るばかりでなく、内容が隠されて目に見える形をとらないような源泉からも汲みとってくる場合にかぎられます。」言い換えると、人々にとって認識されつつも体現されてこなかった理念を言語化し、それを貫徹し、時代の精神を、次の時代のものへと変革する人のことを、偉人と呼ぶのだとヘーゲルは考えました。

人々が偉人に共感し従っていくのは、偉人個人の性質がそうさせるのではなく、偉人の体現する一般理念が、とりもなおさず民衆自身から生み出されたものだからでしょう。人は自分の中から生み出されたものには従うものです。

このようにして、ある時代において、人々の中から生まれた理念は変革者の行動を通じて、既存の体制を打ち壊していくことになります。つまり、人は自分たちが生み出した理念によって、自分たちが過去に生み出した理念の対現物を打ち壊していくのです。 世界史とはこのような絶え間ない自己の克服の過程であり、ここにこそ、精神を有する人間とそれを有しない動植物との違いがあります。

(つづく)
デンノッホ
新司法試験制度はかなり残酷な制度となっています。5年のうちで三回受験し、合格できなかった人は、もう一度ロースクールに入り直さないと受験すらできないというもの。新聞によると、数百人が受験資格を無くしてしまったそうです。

そもそもこんな制度がある理由について、理解に苦しみます。
しかし、世の中には不条理なことが満ち溢れています。 突如として自分に訪れる不幸や必死にやっても実らない努力を、多くの人が経験したことがあるのではないでしょうか。 僕自身の経験で言うと、周りの人の突然の死や、誰よりも練習したのにレギュラーになれなかった高校サッカー、大学卒業後何もせずに過ごさなければならなかった2年間がそれに当たるのかもしれません。 
 
深く打ちのめされた時には、立ち上がるのはつらいかもしれません。それでも人間は生きていかないといけないし、その苦い経験から何かを汲み取っていかないといけないのでしょう。 人間としての深さは、こういった不条理の中で悩み生き抜いてきた経験から得られるものなのだと個人的には信じています。 この深さは、人生うまくいってばかりの人にはなかなか身に付かない貴重な財産になると思います。 それに、生きている限り、そして努力を続けている限り、かならずその帳尻は合う日が来るはずです。
意志力革命
意志力革命Will.jpg

壱岐在住のドクターから勧められた一冊。

良い本でした。

まずすごいのが、20世紀を代表する経営学者の一人である共著者スマントラ・ゴシャールの経歴。波乱万丈と呼ぶにふさわしいです。インドの貧しい家庭に生まれながらも、苦学し、奨学金を得てアメリカへ留学、ハーバードとMITで同時に博士号を取得するという偉業をなしたのちに、ヨーロッパのトップビジネススクールであるフランスのINSEADで教鞭をとり、膨大な業績を積み上げていくものの、自らの業績の価値に疑問を抱き、アカデミアを二年間去ります。二年間のカジノへの入り浸りから脱し、再び大学に戻るものの、それから数年後の2004年に脳溢血で死亡。享年55歳。

本書は、ゴシャールが死の直前に残した書物です。
カジノで過ごした日々、ゴシャールは、ルーレットゲームのみに打ち込みました。なぜなら、ルーレットに介在するのは意志の力だけだったからです。

本書のエッセンスは、この意志の力の大切さです。何があっても本来の目的を達成しようという強靭な意志の力をもってこそ、人は忙中でも大切なものを見失わず、目的を達成することができると、ゴシャールらは主張します。(ただ忙しくしているだけで、結局何も成し遂げていない人が、世にはなんと多いことか)

意志の力は、決意の力、覚悟の力、ともいえます。ルビコン川を渡ったシーザーのように、後戻りのできないコミットメントをした後にこそ、モチベーションは意志へと変わります。ルビコン川を渡った人間には、迷いがありません。頭の中にただあるのは、何があってもそれを成し遂げなければならない、という強い決意。人間、一定段階までは、さまざまな選択肢を模索することは非常に重要だと思いますが、それだけではいつまでも何も成し遂げることはできません。重要なのは、一歩踏み込むこと。

また、意志の力は、自らの向かうべき先を確認するための省察の時間を、人々に持たせるようになります。事実、多くの偉業を成し遂げた人々は、多忙の中でも、瞑想の時間を持っています。本書の例は経営の現場によっていますが、そうでなくても、西郷隆盛、ガンジー、マザー・テレサなど、皆自分だけの静かな時間を常に大切にして、己の志向を確認していました。意志の力がなく、エネルギーだけ有している人は、結局、ただ精力的に活動するだけで、それは短期的には人々の耳目を集めるかもしれませんが、何かの偉業を残すことはできず、数十年たてば忘れ去られてしまうことでしょう。

ここまでが、第一部の内容。本書の第二部では、組織が意志の力を有する人々で占められるために必要なことについても述べています。第一に、個人に選択の自由があること。上述のように、意志の力は、人が自らコミットメントを選択することにより発揮されます。組織の中で個人のとれる裁量が過度に制限されていると、人は意志の力を有しえません。

第二・第三に、これらコミットメントを示し、目的を達成しようとする人々をサポートする組織プロセスと、組織文化があることです。たとえば、個々人が裁量を有し意志の力を発揮しつつも、会社としてのパフォーマンスを向上させるためには、組織内に行動規範が共有されていることは非常に重要です。というのも、個々人の意志の方向性に違いがありすぎると、会社組織は破たんしてしまうからです。

どちらかというと、第二部より第一部の内容が強く頭に残りました。それは、僕がいつも強く感じていることとぴったり一致しているからだと思います。

一番大切なのは、大志を持ち、それを実現するために決して折れることのない強い信念を持つことだと僕は信じています。技術や戦略も大切ですが、それは二次的なもの。いまLiving in Peaceで行っているプロジェクトの最初の時期を振り返ってみてもそうでした。一番大切なのは、やり抜こうとする意志の力。

Just do it!




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