Taejunomics

            政治、経済、社会、哲学、芸術、文学、スポーツ、マイクロファイナンス、教育などなど、徒然なるままに書き綴ります。 ※お初の方はカテゴリー欄の「Taejunomicsについて」、をご覧ください。
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捨て猫物語3.
 よわったな。


 
 ここは、子猫に最初に出会った、上野のガード下。
 
 
 猫が好きな人は、猫のどこが好きなのだろう。
 生物は基本的に何でも好きな僕が、猫を好きな理由は、その自由気ままさにある。 主人がいなくても独立不羈の精神でひょうひょうと生きていく様をみながら、憧れに近い感情を覚えることさえある。

 元気になれば、挨拶もせずに颯爽と出て行くのだろうと思っていた。

 
 予想は裏切られた。
 離れようとしない。
 

 猫を連れて、そのまま家に帰ってきた。
 


 この猫が自分で勝手に出て行くまでは、育てよう。
 そう決めた。


 3週間くらいだろうか。
 よくも親にばれなかったものだ。

 昼間は、高校の生徒会室の本棚の中に隠していた。 先生、ごめんなさい。
 クラスメートの多くは知っているので、一緒になって、面倒を見ていた。
 
 名前をつけた。 
 キキ。 ジジだったらそのまんまなのでという、安直な発想。 
 相変わらず、皆はギルンと呼び続ける。


 その後、ついに親に発覚。
 ここまで至った経緯を話しながら、嘆願する。 
 
 一時的には、ここに住ましてもいいという話になった。

 爾来、キキは、うちの居候となる。
 春が来る頃には母となり、僕は大学の寮に入り、彼女たちは祖母の家に引っ越すことになった。
捨て猫物語2
 (前回を見ていない人は、まず、捨て猫物語1を見てください。)

 よかった、誰もいない。
 家に着いたときの第一の感想。

 早速毛布を持ってきて、くるませる。 
 そして、獣医さんに言われたとおり、缶詰のキャットフードを、まず自分で噛んでやわらかくして、スポイドで吸い取る。 それを、子猫の口に入れる。 もう、キイキイという声しか出なくなっている。 半分無理やりに押し込む。 食べなきゃ良くなりようがないんだから、食べてくれ、と願いながら。 暖かくしたミルクも同様に飲ませる。

 2時間ほどが過ぎると、もう6時。 合宿所は家から自転車でいける距離だったのだけれど、もうすでに遅刻。 子猫は、相変わらずぐったりしている。

 マフラーで身体をくるんであげて、再び、エナメルバックに入れる。 リュックサックには自分に必要な道具を詰めて、出発。


 着いたら、友人に怒られた。一番信頼できる友人の一人(この時も)。
 「勝手な行動するな、それに、遅刻するなんて。」
 言葉もなかった。

 会議や先生のお話などがあったのだけれど、全て上の空。 

 
 用が終わると早速、かばんの中を見る。 まだ息はしている。 けど、相変わらず生気がない。 「今日が峠だね」といっていた獣医さんの言葉が頭をよぎって、泣きそうになる。

 遅刻した僕を怒った友人に打ち明ける。

 「手伝ってくれ」、と。








 



 

 ここは、宿所の車椅子用トイレの中。 冷たい蛍光灯の光が、僕と友人と子猫をなぞるように照らす。 青白い光が、死神の鎌にも感じられた。
 他に、音が漏れないで人の目に触れない場所を探せなかったのだ。

 交代で、様子をみながら餌をあげる。


 猫が安らかな寝息を立てる頃、もうお日様は次の日を知らせようとしていた。 

 一安心。
 マフラーにくるませ、かばんの中に入れて、みんなが寝ている大部屋に移動して、遅いけれど眠りに着く。

 一時間くらいして、起きる。 みんなの騒ぎ声が聞こえたから。

 
 飛び跳ねてる。
 ところかまわず引っ掻いてる。
 キイキイという弱々しい声でなく、ニャーと子猫らしい活発な鳴き声をあげながら。


 かばんの中には、猫のフン。 くさかったからかばんの中を抜け出したのだろう。 さすがに、怒る気にもなれない。 

  
 その、騒ぎの中、僕がこの猫を連れてきたという事を知ったみんなが、この猫に名前をつけようとした。

 それは、「ギルン」。

 ???と、思う人が多いかもしれないが、何を隠そう、これは、僕の父の名前。 断固拒否。

 そんな笑い話をみんなとしながら、喜びを分かち合う。
 
 





 けれど。

 僕はまだこのとき、自分がひとつの命を背負ったのだということを、自覚していなかった。 


 (つづき、書いたほうがいいんでしょうか?)
捨て猫物語。
 mati.jpg

初夏とは思えないほど、陽射しの強い日だった。
 うだるような暑さの中、サッカーの練習を終えた僕は、上野を歩いていた。 何故かは、よく、覚えていない。
 
 上野に行った時にいつも歩くガード下に、子猫がいた。 生まれて2,3ヶ月くらいだろうか。 白い身体に茶と黒のまだら模様。 瞳に虚ろな光をたたえ、長い間降らなかった雨のせいか、いつもより薄汚れた排水溝の上にうずくまっていた。 

 猫は人間より暑いのだろうなあ、と、気楽に考えながら、僕はその場を通り過ぎる。

 2時間くらいして、また、そのガード下を通った。

 猫は相変わらず、まんじりともしないでいた。 埃とも泥ともつかない薄黒いものがこびりついている排水溝の上に。

 
 何かおかしい、という感じを受けた僕は、その猫に近づいた。 逃げられるかと思ったが、逃げもしなかった。
 相変わらず、瞳にこもっているのは、鈍い光。 よく見たら、白い毛の付け根の部分には、濃茶の小さな斑点がいっぱいついている。 風邪をひいているのか、鼻水と目やにが顔いっぱい。 缶詰を買ってきて鼻先で開けてみても、顔を向けようともしない。
 
 周りを見渡しても、親猫らしき姿は見当たらなかった。 
 

 捨てられたのかな。
 
 その場に打ち捨てていくのは、あまりにも忍びなかった。 エナメルバックに入っていたサッカーの練習着を手元のビニール袋に全部移し変えて、代わりに、猫が入った。 いつもは重かったエナメルバックが、とても軽くて、持っていた袋がもっと重たかった。 

 僕の住んでいるところには、ペットは住めない。 だから、親には内緒。
 家に置いていけるわけも無いので、翌日は学校にも連れて行った。 授業中は、学校の時計台の下に隠しておいて、休み時間ごとに様子を見に行っていた。 相変わらず、何も食べようとしない。

 クラスの友達に打ち明けて、昼休みに、学校の近くの獣医に行く。

 獣医さんは、開口一番、
 「ああ、これは大分やられてるね。 ほっといたら死んでるところだったよ。」
 
 やっぱり、捨てられたんだ。
 
 「この、毛の根元に、こげ茶の斑点あるでしょ? これ、何か分かる? 全部、ノミの糞なんだよ。 ノミが猫の血を吸って、それを糞にして出すから、こんな黒い斑点がつくんだ。 ほら、よく、見てごらん。」

 といって、毛を掻き分ける獣医さん。

 見ると、信じられないほどの大量のノミがうごめいていた。 背中の辺りは、隙間も無いくらい、びっしりノミで埋まっている。 全身に粟がたつのを覚えた。
 
 「風邪か何かで弱っていたところに、こうやってノミがついちゃって、もう、大分抵抗力が弱まってるねえ。」

 「先生、助かるんですか?」

 「うーん。 難しい問題だね。 ところで、これは、捨て猫?」

 「多分、いえ、、 そうです。 捨て猫です。」

 「まず、こんな質問をするのは悪いんだけれど、いくらかけられる?」

 「かけられる?」

 「おかね。 しっかりと治療をするんなら、色々とお金が必要なんだ。 ノミを取ったり、その後の抗生物質をあげたり。」
 
 「いくらでも。」

 「そうか。 わかりました。 じゃあ、とりあえず、この、ノミを全部殺さないとね。」

 といって、獣医さんは、助手から薬液を受け取り、子猫の全身にかけた。 力ない鳴き声をあげる。 獣医さんは、手際よく、ノミを全部取っていった。
 
 「はい。おしまい。 だけど、さっきも言ったように、大分弱っているから、まだ全然安心は出来ない。 今日が峠だろうね。 まず、この薬を上げて。 つぎに、猫に食べ物をあげるように。 なるべくやわらかいものを。 自分で噛み砕いてからあげるといいよ。」

 「それでも食べなかったら?」

 「このスポイドをあげよう。 これにいったん餌を吸い込ませて、猫の口に入れてあげるといい。 嫌がっても、無理にでもあげないといけないよ。」  
 
 
 治療代をまけてくれた獣医さんに見送られながら、僕と友人二人は病院を後にした。 

 しかし、よりによって、その日は、生徒会の合宿の日。 夜から、郊外にある区営の宿で、キャンプやら会議やらをする事になっている。 僕は、生徒会長。 休むわけにはいかなかった。

 学校は、授業が終わったらすぐに早退させてもらった。 合宿を行う宿には、自分一人で時間内には合流しますから、という約束を生徒会の友人や先生たちにして。 そして、カバンの中には、ノミがとれてちょっとは楽になったのか、耳を欹てたらやっと聞こえるくらいの微かな寝息をたてる、ちいさないのち。
備忘言。
 昨日の記事http://stjofonekorea.blog6.fc2.com/blog-entry-258.htmlに対して、コメントがあった。


朝高の悪習は終わってないよ。

運動会の後にヤキくらった後輩もいたし。

悪習の根は深いから、そう簡単に無くならないよ。

その後も代々と続いたそうな。
 


 6年前の事なのにもかかわらず、僕の胸にまずやってきた感情は、驚きと悲しみだった。 

 僕が無くせたのは、「僕の目に見えること」だったのだろうか。 今は、前より少しは、キング牧師やガンジーが運動中に感じた苦悩を理解できるようになった気がする。
 「僕の目には見えないこと」は、どうだったのだろう? 僕の目には映っていないので、分からない。 幸い、このブログは、かなりの数の後輩が見てくれているので、その人たちが書き込みをしてくれることを願っている。

 それでも、僕は、卒業式に僕に起こった出来事や、卒業後に会った後輩たちの話を通じて、一緒に泣き笑った友達と共に、母校に新しい、けれど、目には見えない、「何か」を残すことが出来たと思っているし、それを誇りに思っていくとは感じている。 それは、変らないと思う。
 


 僕には理想がある。 それを叶えるために、働き、学んでいる。 その理想は、僕が高校時代に追い求めたそれと、根っこの部分では全く同じものだ。
 少年の夢は見るのが重要だけど、青年の夢は叶えるのが重要だと思う。 理想をかなえるための具体的な手段や時間割も作っている。
 僕の理想を聞いた人の反応は様々だ。 クレイジーだという人もいるし、ちょっとひきながら「まあ、がんばれよ」という人もいるし、心から応援してくれる人もいる。 たまにお会いしている、怪物のような人に、「君なら可能性はあるね」と言われた時は本当にうれしかった。

 そんな僕にとって、本当にありがたいコメントだった。 事実、世の中の負の部分を無くすことというのは、並大抵の容易さではない。 1000人くらいの学生が通う学校でさえもそうなのだから、社会であれば、比べ物にならないほどに難しいものだと思う。

 志遠とは、本当によく言ったものだと感じる。 大学生だった頃にも、特に1,2年生の頃に、僕は何度打ちひしがれた事か。 けれど、そんなときに、僕の周りには支えてくれた友人や恩師や家族がいた。 彼・彼女らには本当に感謝してもしきれない。 恥ずかしくて、ありがとうなんて言えたことはあまり無いけれど。 久しぶりに、懐かしい顔が僕の記憶をよぎっていった。
 
 本当に、色々な大切なことを思い出させてくれたコメントだったので、こうやって新しくエントリーを書いた。

 人は過去を変えることは出来ない。 けれど、過去の意味は変えられるんだと思う。
 

 コメントをくれたaraganさん、ありがとうございました。
6年前の同じ日に。
 机を整理していたら懐かしい写真がひらりと僕の前に落ちてきた。
 そういえば、あさっては母校の高校の運動会。
 あれから、もう、6年が経つ。 けれど、思い出は色あせることを知らない。
 
 20051008204900.jpg

 僕のいた高校は、20世紀末なのにもかかわらず、少なからぬ生徒がアイロンパーマ(アイパー)をかけていた。 校則も、「パンチパーマと長髪は禁止するが、アイパーは許容する」という、とてもユニークなものだった。
 運動会を盛り上げるために、高3の間でいつのまにかアイパー旋風が起こった。 僕は生徒会長。 やらないわけにはいかなかった。 髪の毛に焼きごてをあてる経験は、もう一生しないのだろうな。 アイパーをかけた日の帰り、電車にのるや、多くの人々が僕の席の周りから離れていくのを見て、その威力に驚いたのは今でも覚えている。
 
 
 アイパーをかけて臨んだ高校最後の運動会。
 僕のいた学校では、運動会は年中の最大行事の一つで、全校生徒がその成功のために熱を上げた。 僕たちにとって大切だったのは、「何をするか」よりも、「誰とするか、誰のためにするか、どのようにするか」だった。 かけがえの無い友達とともに、今まで育ててくれた父母に元気をあげるために、一致団結の心地よさを感じながら、僕たちは運動会に臨んでいた。 

 この写真は、入場の行進の時に撮ったもの。 
 けれど、この30分後、僕は医療室に担ぎ込まれることになる。


 
 看護士の先生によると、理由は、「疲労」だった。

 この運動会の期間は、本当にいろいろなことが重なっていた。その疲労だったのだろう。 体育会系バリバリの僕だったから、疲労は、肉体的と言うよりも、精神的な疲労だったと思う。 精神的な疲労は、運動会のみならず、それと並行していた生徒会の活動に起因しているのだった。


 生徒会長だった僕には、一年間をかけてやり遂げたいことがあった。
 それは、先輩が後輩を支配するという悪習を無くすことだった。 僕の一つ上の学年までは、先輩たちは挨拶の強要(それも、言葉でよく説明できないような奇妙な挨拶の仕方)や、食堂での割り込みのみならず、ここではとても書けないような、ひどいことを後輩たちにすることができた。
 たった一人の後輩が反抗すると、同じ中学の出身者すべてが連座でヤキをいれられた。 だから、反抗心を持つ人も、なかなか先輩に反抗することは出来なかった。 高2までの僕も、恥ずかしいけれど、そのうちの一人だった。

 けれど、僕はこれを許すことが出来なかった。 僕は、この歪んだ先輩後輩関係に、かなりの年月をかき乱された人間だったのだから。 中学生の頃などは、先輩を差し置いて試合に出るだけで、僕は次の日にはトイレでヤキをくらっていた。 中学1,2年生の頃のサッカーの練習は、陰険ないじめ以外にあまり覚えていない。 

 僕よりも人望がある人がたくさんいるのに、僕が委員長になるのは本当に嫌だった。 みじめな思いをすることになるだろうと思っていた幼い魂が、当時の僕だった。 けれど、そんな僕が委員長をやろうと決心したのも、この憎むべき悪習を何とか無くしたかったからだった。

 生徒会の友達とともに、僕はそれを始めた。
 僕の年代の友達は本当にすばらしい人々だったと思う。 受けてきたつらいことをまたやり返すよりも、それを自分たちの代で止めることに、少なくない人が賛成してくれた。 問題となっていた悪習のうちのいくつかは、比較的簡単に解決することが出来た。 ただ、それを話し合う全男子生徒の集まりにおいて、集まりを主導するはずの僕ではなく、他の人望のある友達が皆をまとめているのを脇で見ながら、僕は幾度と無くみじめな思いをしたわけだが。

 運動会の練習の真っ最中だった9月の末から10月までが、一番厳しい時期だった。 練習の疲れからか、「これくらいいいじゃないか」と、食堂で割り込む上級生が出てきていた。
 運動会の本番の3日前にも、高三の男子生徒で集まりを開いて、この事を何とかやめようと言う話をした。 このときのことは、まだはっきりと覚えている。
 「俺らは頑張ってるんだ。 これまでも色々と譲歩してきた。 これくらいいいじゃないか!」
 という友達についかっとなってしまった僕は、
 「こんなことって、こんな人間的におかしい事をしていいはずがない!」
 と言ってしまった。 場の空気がとても険悪になり、よもや殴りあいになりそうだったところを、見かねた恩師の先生が間に入って話をしてくれたのが、3日前だった。 それにしても、いまだに、「お前は、言うことは正しいけど、伝え方がうまくない」といわれる僕の進歩の無さに、本当に嫌になる。

 
 疲労は、はっきりとたまっていた。 精神的な疲労が、身体にもきていた。 長時間の眠りから起きた直後の、あの体のだるさが、一日中続いていた。
 
 そんな運動会の前日の夜。 

 僕の学校にはこれまた変な風習が当時まではあった。 運動会が終わった後に、高3の学生たちが池に先生を落とすのである。 一応、「先生たちの汚れた身体をきれいにするために」、という趣旨で、その前日にしっかりと池をきれいにするのだが、その趣旨の信憑性は高くないと思う。  
 新しい校舎とともに池はなくなったのだが、僕たちは代々、池というか、水を溜め込む巨大な風呂のようなものを運動場の片隅に作って、それに先生たちを落とすということをしていた。

 夜、ふと、その人工池を見ると、水がかなりの勢いで漏れていた。
 明日になったら、水は全てなくなってしまうかもしれない。
 肌寒い10月初旬の夜、僕は、生徒会の何人かのみが残っていた静かな運動場の片隅で、30分くらい、その池の漏れをとめる作業をしていた。 若かったなあ。 そして、お決まりのように、次の日には疲れの上に体がとても熱っぽくなっていた。


 
 やっと、話が運動会の当日に戻る。

 入場行進を終え、最初の種目となった。 これは、どこの学校でも同じであろう、100m走。
 僕は、3位だった。
 走り終えた人たちが行く場所に座る僕に、友達が、
 「お前、どうしたんだ?」
 と声をかけた。 体育会系バリバリだった当事の僕は、走りはかなり早かったからだ。 
 「別に。 ああ、今日入場行進に気合入れて足上げ過ぎたからだよ。」
 と答える僕。 このときには、相当顔色が悪かったと思う。

 競技参加者みなが走り終えて退場をした後、僕はふらふらと校舎側の日陰にいき、座っていた。 
 からだが動かない、めまいがする。
 気が付いたら、そこに僕は伏していた。

 それを見つけた友達が来て、騒ぎになる。
 僕は、そのまま医療室のベッドに運ばれた。

 
 濡れタオルを顔に当てられ、悔しさから涙を流していた僕のところに、たくさんの友達が見舞い(?)に駆けつけてくれた。 ただただ、自分が不甲斐なかった。

 けれど、僕は立たなければいけなかった。
 運動会のハイライトである集団体操、その中で盛り上がりがクライマックスになる五段の人間の塔。 支える人達を含め、50人くらいで作られるその塔の、最下段の一人が、僕だったのだ。
 
 医療室を出た僕に、恩師の先生が一言。
 「・・・いけるか?」
 「いきます。」
 「わかった。いってこい。」

 そして、集団体操を控え、整列している高三の生徒たちのところへ、僕は向かった。
 僕が医療室にいたことは、みなが知っていたみたいで、僕が行くと、皆が様々な表情を顔に浮かべていた。 スピーカーを手にして、300人の高三の友達の前で、一言。
 「僕たちのためにも、そして、見に来てくれた、僕たちを育ててくれた人のためにも、絶対に、成功させよう。」
 「オーッ!!」と、力強い応えが皆から返ってきた。 僕は、この力強さを、生まれて初めて、目にした。

 準備の5分前、配置に着く前の僕に向かって、生徒会の副会長だった子が一言。
 「だいじょうぶでしょ?」 
 「もちろん。」
 あのときの、彼女の笑顔のさわやかさは、まだ鮮烈に覚えている。
    

 そして、集団体操が始まった。
 どんどん、演目が過ぎていき、ついに、クライマックスの塔の組み立て。
 一回目、失敗。 正直、僕は足手まといだったと思う。 僕の足に力が入らない分、隣の友達に対する負担はすごかったのだろうと思う。

 
 2回目、


 成功。



 その後にも10分間くらいあった演目の事は、正直あまり覚えていない。 
 終わった後、僕は、友達と抱き合いながら、
 「やった、やった、やったんだ!!」と叫んでいた。
 そして、また、医療室のベッドへ。


 寝ている僕を、同校で教師をしている父が医療室に来て、たたき起こす。
 「何やってるんだ。 まだ終わって無いぞ。 立て。 行け。」
 6歳の僕を富士山に登らせ、日本で一番厳しい囲碁の道場へ通わせた、この父のおかげで、僕はどれくらい強い人間になれたのだろう。
 
 
 運動会も終わり、夜の池落としのイベントを、参加はせず、あたたかい服に包まりながら、遠目で僕は見ていた。 心は満足感でいっぱいだった。

 イベントも終わり、最後に高三の皆で集まった。
 僕が、締めの言葉をすることになる。 短い締めの言葉だった。 幾重の服に包まりながら、ふらふらと立ち尽くし語ったこの言葉は、まだ覚えている。

 「僕は、こんなにも弱い人間で、自分ひとりの力じゃ何も出来ないということを、本当に実感している。 でも、僕の周りには僕を支えてくれる友達がいるし、父母がいるし、先生がいる。 だから、僕は、これからもどんなことだってやっていけるだろうと思う。 これからも、力を貸して欲しい。 今日は本当にありがとう。」

 
 跡片付けを終え、生徒会の友達数人と、一番最後に学校を後にした僕たちに、校門で下校の指導をしていた、学校では有名な怖い先生が立っていた。 すこし、びくびくしている僕たちに、彼はこう言った。

 「君達に命令します。
 君たちは、今からこのお金をもって、近くのラーメン屋で、みんなでご飯を食べて、そして、家にまっすぐ帰ること。」

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